第三節
それはいつの日だったか、正確には記憶していません。
目に染みるぐらいに空は赤かったです。夜の色がだんだんと迫ってくる、夕暮れの屋上。
季節がいつだったのかも憶えていませんが、暖かかった気がします。
とにかく家に帰りたくなかった、そんな日でした。
ただ一人になりたかったのです。それなのに、そいつは僕の事などお構いなしに、隣に腰掛けて空を見上げていました。
僕らはお互いに口を開きません。なにせ、そいつを追いやりたかった僕は無視を決め込んでいましたし、そいつは良く解らない、しいて言えば掴み所のない男でした。
「……何の用ですか」
いつ終わるともしれない根比べに僕はとうとう音を上げました。
「ん~、俺の情報によると川上さんまでおまえの事好きらしいぞ。いやいや、オメデトウ、よかったね」
声をかけなければ良かったと、後悔した思い出があります。
そいつはニヤニヤとした笑みをつくり、言葉を続けました。
「いや~、モテモテでうらやましいねぇ、勘九朗ちゃんは、ホンと。で、その幸せ者の君が何でそんなに落ちこんでんの?」
口を閉ざし、黙り込みます。意味もなく、見返りもなく、他人に自分の気持ちをさらけ出すほど僕は愚かではないのです。
「…………。つまんねぇ」
そいつはポツリと呟きました。そして、立ち上がり、屋上の柵の方へと歩き出します。
「じゃあさ、逆に俺の悩みを聞いてみ。そうだなぁ、……おまえは、世界の全てを手に入れるにはどうしたらいいと思う?」
夕焼けを背負い、そいつは振り向きました。
そのシーンだけは鮮明にいまだ脳に焼き付いています。
なぜなら、いつもの軽薄な表情は消え、茶色がかったそいつの瞳はいままで見た事もないほど真剣でしたから。
「なあ、どうしたらいい?」
気配に圧倒され、適当な言葉は思いつきませんでした。いえ、僕にはもとより答える気などありません。そいつが何を言おうと僕には関係ないのです。
そいつは遠くを見るよう目を細めました。
「…………関係ない、か。うん、正解だ。かしこい、かしこい。さすが、勘九朗。おめでとう。パフ、パフ」
この時、心底この男を理解するのは不可能だということを実感しました。本当に、早く目の前から消えてくれないでしょうか。
「おいおい、なんだよその冷めた反応。せっかく、俺の悩みを打ち明けたのにぃ」
「……それのどこが悩みですか」
「俺の高尚な考えがわからんとは、ああ、不幸よのう……。って、本当にわかんねぇか?」
答えず雲を目で追っていると、わざとらしい舌打ちが聞こえてきました。
「つまりだなぁ、おまえの悩みも俺と一緒ってこと。俺から見ればな~んの意味もない。誰が何をどう考えてたって、他人にはちっぽけな事なんだよ。それこそ、運命の輪から見れば蚊のまつげほどの価値すらない。ゴミのようなもんなんだよ、人の思いなんて、な」
ゴミと等価な人の思い。それだけには共感できます。なにせ、僕にとっては簡単に作りかえられるものですから。
「どうせその程度のものなら、深く考えてないで、さっさと捨てちまった方が良いだろう。難しい悩みならなおさらそう思うね、俺は」
見ると、そいつの顔はいつものにやけに完全に戻っていました。
一体どこまで本気で、どこまで冗談なのか。本当に良く解らない男です。
呆れかえって、ため息が出ます。
「そんな事を言うためだけに、僕に付きまとっていたのですか」
「その通り。ナイスなアドバイスだろ。どうしようもならない事は、どうしようもならない。どんなに頑張ろうと、たとえ命を捨てる覚悟があっても、運命は決して変わってくれない……ってのが世の常だからな」
僕はもうため息すらでません。
これは、とても遠い日の、とてもとてもくだらない話。
暗い、暗い、その世界。小さな机が並んでいる、教室。
あまりの息苦さに僕は叫びました。そんなものは見たくない、聞きたくない、望んでなんていないです。
目の前に、それがいます。激しく、まるで、獣のように、タマちゃんを貪っている、僕が。
踊るように重なる体。僕を求めている、タマちゃん。背中へと手を絡める姿は、ひどく、淫らです。
舐め合い。噛み合い。犯し合う、二人。
これは、こんなものはタマちゃんではありません。僕ではないです。
黒い鎖が僕を縛りつけています。体は動かず、瞼を閉じることすらかないませんでした。
(違うだろ、おまえは見たいのさ。あいつはおまえ自身だ。おまえの願望さ。どうして我慢しているんだ。認めちまえばいいのさ。ヤれよ。ヤりたいんだろ――――)
そして、聞こえてきたのは、いつものあの声です。
嫌悪感が噴き出します。僕の感情が爆発しました。
――――消えちまえ。全部、全部、消えちまえ。早くさめろ。早く目覚めろ。
殺してやりたいと思うほど、全てが、嫌いです。
(――――なあ、皇帝)
もう、聞きたくないです。いっそ、耳など千切れればいいと思いました。壊れてしまったほうがどんなに楽でしょう。
――――消えろよ。消えちまえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。
僕は叫びます。世界は歪み、パズルが崩れるよう、消滅していきました。
なにやら、寝過ぎてしまったような、ぼんやりとした目覚めでした。
太陽がもう昇っているのか、部屋の中は明るいです。
起き上がると、額から濡れたタオルが落ちてきます。辺りは雑多なものは何一つないシンプルな空間。そう、ここは僕の部屋です。
意識がはっきりとしません。
僕は布団から出ようとし、勢いよく頭から崩れ落ちました。
体に力が入りません。手足が痺れているような妙な感覚があります。全身が熱っぽく、ひどく重いです。
「勘九朗! 起きたの? 気分はどう? 寝てなくちゃだめ」
物音に気が付いたのか、朱美姉さんが慌てた様子で部屋に入ってきます。
本当に慌てて、僕を布団の中に戻すと、大きく息を吐きました。
「具合はどう? のどとか乾いていない?」
「ね、えさん」
僕の声はかすれていて、自分にも聞き取りにくかったです。
姉さんが僕の額に手をやり、顔をしかめます。
「まだ、高いなぁ。勘九朗、わかる。あなた、ずっと眠っていたのよ」
「…………。仕事、どうしたの?」
尋ねると、姉さんはくすりと笑いました。
「休んじゃった。こんなんじゃお給料へっちゃうよね」
「…………僕なんて、ほうっておいてもかまわないのに」
本当に、僕などどうでもいいと思います。むしろ、心配されたくなんてありませんでした。
姉さんは一瞬、寂しそうな表情を作ります。でも、また、いつもと変わらない微笑みを浮かべ、僕の額に冷たく濡らしたタオルをそっと置いてくれました。
「何かたべたいものある? 何でも言っていいよ。姉さん、うでによりをかけて作るから」
「別に……」
「そっか……。でも、だめだよ勘九朗、食欲がなくてもちゃんと食べなくちゃ。うーん、と、卵がゆ、好きだったよね?」
そう言って、姉さんは部屋から出ていきました。
熱のせいか、思考がうまくまとまりません。それでも状況は何とか理解しています。
学校へ、多くの異性の前に出るより、家にいた方が自分自身を抑えられると思いました。これが結局は、時間稼ぎでしかないことも解っています。それでも、能力に振り回されるよりは何倍もマシです。
ゆっくりと、僕は重い瞼を閉じました。
台所からの暖かな匂いにその時だけは、叶わない願いとも知りながらも、このとても安らかな気分のまま、何もかも忘れてしまいたかったです。
自分の悲鳴に目が覚めました。
額が疼きます。汗が全身にへばりついています。
部屋の中は、暗いです。とてつもなく、肺を失ってしまったかのように、息が苦しかったです。
「か、勘九朗!!」
「どうしたの! 大丈夫?」
静香姉さんも朱美姉さんも、血相を変えて、部屋に入ってきます。
姉さん達を安心させようと思います。しかし、僕の口は声を発せられていません。激しい吐息だけしか姉さん方には届いていません。
「ひ、ひどい。熱がすごく高い。ど、どうしよう」
「あ、姉貴、落ち着けって。こおり! そうだ、こおり!! とにかく、冷やさなくちゃ」
静香姉さんが飛ぶように部屋から出ていきます。本当に、二人とも心配性です。
すぐ近くに朱美姉さんがいます。僕を抱き上げてくれています。
姉さんは顔をクシャクシャにして今にも泣き出しそうです。そんな表情は悲しくて、僕は朱美姉さんの手を強く握り締めました。
「…………なさい」
「なに? 勘九朗、何が言いたいの?」
「ご、……めん。ごめんなさい」
「か、勘九朗。しっかりして。ねえ、勘九朗!!」
沈んでいきます。とても眠たかったです。薄れる意識の中で、僕は、声を上げました。
大丈夫。死んでも僕は、あんな声に負けない、能力になんて呑まれない。だから、心配なんてしなくて、いいんだ。
「こんど、こそ――――」
「勘九朗!!」
――――あの声を殺す、から。
言葉になったのかさえ確かめる暇もなく、僕は落ちていきます。あの声の元へ、と。
目の前で、二人の男女が肌を絡ませあっています。僕と、大野さんです。
憶えていないのを良い事に、この夢ばかり見せられ続けました。だからもう、飽いています。
「“消えろ”」
絵の具を紙にぶちまけたように、様々な色が混ざり合って、よりいっそうの闇が生まれました。
二人の姿は即座に霧散します。
(だいぶ、能力が甦ったかな。これで平気か。ま、及第点スレスレだけど)
あっさりとした、低い男の声が聞こえます。
辺りを見回しても、声の主はおろか、影すら見えません。
まあ、そんな事は関係ない。
「……おまえは、何だよ?」
(ん、もう、正気を保てるようになったのか。大成長じゃないか)
僕は鼻で笑います。考えてみれば、声の正体など何であろうとも、それすら関係ないのです。
ただ、僕は一つの行動を起すだけですから。
(先に言っといてやるが、無駄だぞ。いくら、おまえの願いでも、もう、おいらは消えてやれない)
強く、果てしない力を込めて、言葉を発しました。
脳を突き抜けるような轟音が響きます。世界が歪み、壊れていきます。命令の余波は、僕の脳まで掻き回していきました。
当然のように、まだ、声は聞こえてきます。
(けけ、言ったとおりだろ。運命に逆らうのはやめとけよ。もう、諦めちまえって。そしたらまた、遊べる。こんな風に、な)
闇の中に、タマちゃんが浮かび上がります。ニッコリと微笑んで、自らの衣服を脱いでいきました。
「ねぇ、勘ちゃん。また、楽しい事をしようよ。とっても楽しくて、気持ち良いこと」
「……やめろ」
「やだよ~だ。勘ちゃんがしてくれる気になるまでやめないもん」
クスクスと無邪気な笑い声。まるで、幼い頃のタマちゃんに戻ってしまったようです。彼女は僕の目の前で、嬉しそうに股を開き、性器を弄りはじめます。
「あ、ハア、気持ち良いよ。勘ちゃんが、欲しくて、ああ、こんなに、濡れちゃうん、だよ」
「――――ろ」
「ああ、勘ちゃん、好きだよ。勘ちゃん、勘ちゃん、勘、ちゃ」
「――――えろ! 消えろ! 消えちまえ!!」
目の前が闇に戻ります。徐々に、黒い、汚い、感情が僕の中を溢れ出していくのを自覚できます。どろどろ、どろどろ、と僕を狂わす衝動が理性を溶かしていきます。
あの声は笑っていました。
(おいらはおまえの味方、おまえのことなら何でも知ってる。正直になれ、理性なんて無意味だ。本当は、今のガキを抱きたいんだろ、メチャクチャに犯したくてしょうがないんだろ)
声は欲望を曝け出していきます。
(おまえは皇帝、支配する者。精神、肉体、物体、魂、全部がおまえの支配下にある。好きにすればいいんだ)
確かに、全てを自分のモノにしたいと言う願望があります。僕は、タマちゃんを奪い取りたいと言う欲望を持っています。だからこそ、自分が許せません。
僕は二度と、彼女を傷つけない。傷つけるわけにはいかないのです。
もう一度、世界が歪み始めました。頭が砕けてしまうほどの激痛が襲いかかってきます。
(馬鹿、やめとけ。おまえごと消えちまうぞ)
消える、か。それも望む所です。
(くそ、くそ、くそぉ、くそったれ。わかった、わかったって、お望み通りにしてやる。ああもう、おいらが消えれば良いんだろ、消えれば)
どこかで、大きな歯車が止まりました。遠くに小さな光が生まれます。この闇の出口だと理解しました。
(…………頭に叩き込め、絶対に忘れるな。今、おまえは運命の輪に逆らったんだ)
警告するように額が痛みを訴えてきます。
(きっと、運命の衝突が起こる。おまえがおまえを失う。…………くそ。死ぬのだけはよせよ、絶対に)
声は次第に遠く、消えていきます。光が、僕を包み込むように大きくなっていきます。
これから、どんな目にあおうと、例え僕が死ぬことになっても、彼女さえ無事なら――――
「――――別に……構わない」
自分に向けたのか、あの声に聞かせたかったのか、判断はつきません。
ただ、確実にこれだけは解っています。その言葉を夢に残し、僕は能力の全てを、捨て去ったのです。
鳥の囀りが聞こえてきます。
僕は朝を迎えました。いえ、朝ではないです。もう、昼のようです。
体調は昨日とほとんど変わっていません。だけど、とても清清しい気分です。
僕は起き上がりました。ふらつきながらも、歩き出します。
微かに酒の臭いがしました。ふすまを開けると、居間に充満する酒気が流れ込んできます。
「起きたんだ、勘九朗」
そこに、静香姉さんが一人、座っていました。
辺りはひどい状態です。物が散乱し、まるで、強盗にでも入られたかのようです。予想した通りの様子に僕は呟きます。
「……父さんが、帰ってきてたんだ」
「ああ。……馬鹿だよな。どこを引っくり返したって、お金なんかないのに」
よく見ると、姉さんの頬は赤く腫れていました。でも、僕には何も感じません。こんなことには馴れています。馴れるほど経験しました。
「朱美姉さんは?」
「運がいいことに仕事中。昨日とつぜん休んだから、今日は大忙しだって」
無理やりの表情で笑って、姉さんは僕の額に手をやります。
僕はその手を払いのけました。近くに散乱した花瓶の欠片を拾っていきます。この花は朱美姉さんが仕事場から貰ったものです。きっと、悲しむでしょう。
「病人はそんなことしなくていい」
「……もう、大丈夫だから」
「ばか。そんな真っ赤な顔で大丈夫なわけあるか」
姉さんが、僕を羽交締めにして部屋へと強制的に連れ戻します。僕は噛みつくように言いました。
「大丈夫、全部終わったんだ」
「口答えはなし。姉ちゃんに任しといて、勘九朗はねてるんだ」
僕の体から、一瞬、重力が消えました。薄っぺらの布団の上に背中から落下します。
「病人に対してする事じゃない」
文句を言うと、姉さんは僕を投げた格好のままで、意地悪く微笑みました。
「昨晩な、勘九朗の熱がどうしても下がらなかったから、……使ったんだ」
「な、ざや――――」
「……その通り。これ以上、姉ちゃんにお尻を見られたくなかったら、おとなしくねむって、体調を戻すんだ」
姉さんは僕を軽くこづき、出ていきます。もう、僕には従うしかありませんでした。
火が出るほど顔が熱いです。さらに熱が上がってしまったようでした。
結果から言います。
僕は、能力を解き放ちました。いえ、解き放つしかない状態に追いやられたのです。
順を追って説明したいと思います。
あれから体調はなかなか戻りませんでした。
しかし、愚かな僕は違和感も不信感も受けていませんでした。ただの風邪だと思い込んでいました。あの声の最後の警告すらすでに記憶に残っていませんでした。
記憶に残っていたとしてもその時の僕に何か行動が取れたかは疑問です。
なぜなら、運命の衝突、それ自体が、経験をしていないその時の僕には理解できず、対策などたてられなかっただろうと思いますから。
体はマトモに動いてくれないままに数日が過ぎます。まるで、何かに足止めをされているみたいです。いえ、今考えれば実際その通りだったと思います。
そして、終に、その日が来ました。
悲鳴と喧騒、居間には朱美姉さんがいるはずです。
数人の男の声に混じった姉さんの悲鳴。それは、僕に逃げてと叫んでいました。
熱に冒された体を無理やり引き摺って、居間に飛び込みます。
三人の男がいました。どれもこれも下卑た笑みを顔にへばりつかせ、僕を見つめます。
姉さんが一人の男に馬乗りにされ、自由にならない体を必死に揺さぶって、目に涙を溜めて、叫びかけています。
頭が混乱しました。状況を掴めません。
「勘九朗! 逃げて、逃げなさい!!」
突然、腹部に衝撃を受けました。光景が回転します。胃液が込み上げ、吐き出されました。
「何、このガキ? 女が二人って話だったロ」
「いいじゃねぇか、邪魔なら、縛ればいいんだし」
倒れている僕の顔を一人の男が踏みつけます。頬の骨を軋み上がりました。目の前が真っ赤に染まります。
「ち、ちょっとまて、こいついいカオしてる」
「あぁ?」
「おれ、やりたい。こわすのやめて」
ドッと、笑い声が聞こえます。足が取り除かれ、目を上げると、太った男が嬉しそうに僕を見ています。
「あ~あ、クニオに目をつけられるなんて不運だなボーズ。これから、糞がしやすくなるぜ。おめでとう」
ぐるぐる、ぐるぐると耳の中から入る雑音たち。何だか、よくわかりません。
どうして、なぜ、僕、いま、なにを、すれば、いいのか。
その男達を見ていると、なぜだかとても、気分が悪い。害虫が体を這いまわっているように苛立たしい感覚。
姉さんの声が聞こえます。でも、男達に阻まれ姿が見えません。見えるのは、濁った男の目、鼻息荒く僕に覆い被さってきます。
「へぇ、あんた、胸でかいじゃん。誰にもましてんだよ」
「やだぁ、いやぁ、やぁ、やめて、やめてぇ」
悲鳴、笑い、歓び、欲情、音がかけまわって、僕を壊していきます。僕が壊れていきます。
ああ、そう、姉さんを助けなくては。
――――嫌だ。
額から、硬質な音、激痛が走ります。
それはまるで、始まりの鐘が鳴り響くようでした。
「可哀想にねぇ。あんたらは親に売られたんだぜ。恨むんなら親父を恨みなヨ」
そんな事はどうでもいいです。何故か、認識は途切れ途切れで、理性が働きません。
世界が黒く変質します。額の痛みが増します。
しはいして、ころして、おかして、ぜんぶ、こわしてしまえばいい。
――――嫌だ。嫌だ。嫌だ。
僕が広がります。部屋が、男が、姉さんが、音が、空間が、僕の中にあります。
――――嫌だ。能力を使うのは、嫌だ。
開放感に、にやり、と笑います。
僕は、どうして、我慢していたのだろう。本能に、抗する意味自体、無意味。
さあ、皇帝の、お出ましだ。
とりあえず、目前の、太った男の鼻を、拳で潰しました。
血が飛び散ります。男は地面をのた打ち回ります。頬を拭うと裾は赤く染まっていました。
「このクソ餓鬼ぃ!!」
仲間の男が突っ込んできます。彼の腕は僕に届く前に、体ごと後方へと飛んでいきました。そう僕が命令したのです。
即座に、小虫を潰すような自然な行動として、全員の動きを止めます。首から下の感覚を遮断しました。もちろん、姉さんだけは無事です。
「な、なんだよ、これ」
僕は、この場にある、全てを支配しています。精神から、神経、心臓、血管の一本一本まで、全部、僕のモノです。
オモチャ達を見下し、僕は立ち上がりました。
――――さあ、どうしてくれようか。
「てめえ、ぶっ殺してやる。何をしや、ぐぁ、……ああうあ!?」
声が耳に障るので、口を開かないようにしました。でも、そいつらは意味のなさない、くぐもった声で叫び続けます。このまま息を止めるのもいいかもしれません。
――――全員、どうやって、死にたい?
殺し合いたいですか、舌を噛みきりますか、それとも、心臓を抉り出してみましょうか。
彼らは、僕に、皇帝である橘 勘九朗に手を上げたのですから、それなりの償いをしてもらわなければなりません。
先程までこの場を仕切っていた彼らの表情が恐怖に染まっています。それは、とても甘美でした。
「か、勘九朗…………」
視界の片隅で、男から這いずり出た朱美姉さんが、途惑うように僕を見つめています。
「やあ、姉さん。大丈夫かい?」
「ち、違う。勘九朗じゃない。………あなたは、だれなの」
訳の解らない事を姉さんは言います。僕は皇帝であり、橘 勘九朗であるに決まっています。
きっと、強姦されかかって、まだ混乱しているのでしょう。
ほとんど半裸の格好で、姉さんは胸を隠しながら逃げるように後ずさりました。腰も立っていません。怯えるその姿は、妙に、僕の目に艶やかに映ります。
突然、ぐるん、と思考が反転しました。全身が熱いです。とけてしまいそうな、快感の衝動が僕の中にあります。
ああ、そうか、姉さんは女だった。
もう男達など視界に入っていません。僕は姉さんへと進み始めました。
――――さあ、楽しいことをしようね。姉さん。
僕は微笑みます。もっと、もっと、愉しくなりそうです。
その行為は、間違いなく、僕の意思で行われていました。
欲望が溢れ出たのです。抵抗なんていう考えも浮かびませんでした。姉さんの中で射精するたびに、快感が体を駆け巡っていきました。
支配され、抵抗できないオモチャの哀願はとても心地良く、僕を狂わせていきます。
思い出すたびに、少しだけ胸が痛みました。
(自らの運命に他の運命が干渉してくる状態、それが運命の衝突だ。衝突は、存在をかけた戦い。闘争本能を際立たせる。相手の運命を平伏させるまで、理性は必要なくなる)
事がすんだ時には、すでに男達の姿はありませんでした。僕が何かをしたのは確かですが、それを思い出すのは億劫でした。
姉さんに体を洗うように命じて、僕は倒れるように布団の中に戻り、眠る事も出来ずに、寝返りをうち続けます。
附着した血や汗を拭う気力すら残っていません。
(衝突した相手が非能力者だったのは、かなり運が良い。運命に逆らわなかったら、確実に衝突しなかった雑魚どもだったしな)
何もかもがどうでも良く思えてきます。未来は暗く、先を考える事すら意味のない事に思えます。
これから、僕はどうすれば良いのでしょうか。
(解らないか?)
単純に、頷きます。僕は自らの意思を放棄していました。
(簡単な事さ、好きな事をすれば良い。そうさね……、たとえば、奴隷とか、欲しくないか)
それも良いかもしれません。
どうせ、後戻りは出来ないのです。いえ、それはただのいい訳でしかありません。僕はもっと、もっと、犯したいのです、支配したいのです。
その時、玄関から、男の声が聞こえます。
珍しく、帰ってくるのが早いです。けしかけた男達の様子でも確認しに来たのでしょうか。もしくは、犯された娘達でも見学しに来たのでしょう。
少し、苛立ちます。
(ああ、そうだな。それでどうする? 何をしたい)
運命に逆らえず、父さんはお金の魅力に負けたのです。最も悪いのはその様に運命を変えた僕かもしれません。
それでも、解っていても、許せそうにはないです。
(おまえは、皇帝。全てを支配する者。さあ、存分に愉しめ。おまえにはその力と、権利がある)
ああ、そうさ。僕は皇帝、支配の能力を持っているモノ。
僕はゆっくりと起き上がりました。
父さんには、少し、罰を受けてもらいましょう。
空は蒼く、とても深いです。
ここだけは何も変わっていません。冷たい屋上の風が、容赦なく僕を通りすぎていきます。
柵に寄りかかって、空を見上げます。待ち人はまだきません。思えば、ずっと、この時を待っていたのです。
「授業サボって日向ぼっことは、あいかわらず良い度胸だねぇ」
やけに陽気な声が聞こえます。振り向けば予想通り、茶色がかった瞳と茶髪を持った背が高い男。僕ににやり、と笑いかけ、遠慮なく隣に並びます。
何かを訴える様に額が、ちりちりと疼き始めました。まあ、そんなのは些細なことです。
そいつの登場に、僕は落胆のため息を吐きました。
「うわ、最悪な反応。俺がせっかく来てやったってのに。もしかして、彼女待ちか? 彼女とイチャイチャする気か、ちくしょう」
「……その通りです」
「なにぃ! まじか!!」
そいつは、古城 明は、悔しそうに地団駄を踏みます。明の反応は、もう馴れていました。そんな自分が悲しくなります。
「一体、何の用ですか」
「おお、そうだった。とりあえず、祝辞を言いに来たんだ」
「祝辞?」
「ああ。おめっとさん」
明の表情は変わらずにやけで、感情が読めません。
「おっと、頼むから能力は使うなよ。まだ、用はあるんだ」
「…………何ですか」
「うんと、自己紹介も兼ねた昔話でもしようと思ってね」
「結構です」
わざとらしく何度か喉を鳴らし、ゆっくりと、明は話し始めました。最初から解っていましたが、僕の言う事など聞いていません。
「昔むかし、遠い昔、ある一人の人間が世界の全てを手に入れたいと願いました。そんな事は不可能だということは解りきっているので、世界中の人々がそいつに嘲笑をなげかけます。でも、そいつは諦めることをしらないほどの馬鹿でした。何年も、何十年も、ヨボヨボの老人になるまでそいつは願い続けます。さあ、賢い勘九朗ちゃんは老人が幸せになるためにどうすればいいと思う?」
「…………諦めればいいんです」
「それで、正解。だけども、その老人は諦めきれませんでした。長い年月がさらにすぎ結果、大衆の予想通りに、世界全てを手に入れる事などできずに死んでしまいました。まあ、引き際を理解できなかった“愚者”ってことだな」
くだらない作り話です。明は結局何を言いたいのでしょうか。
「強すぎる信念は運命の輪から嫌われるってことだ。人間の運命は最初から決まっていて修正なんて出来ないからな。何をしても世界は変わらない。…………人間ならの話しだけど」
「…………だから、何ですか」
「待つことは美徳だぜ。簡単に言えば、弱い奴は諦めろ。でも、運命を超えるほどの力を持っているのなら、……突っ走れってこと。力を持った君はどうするんだろうね」
「……言われるまでもないです」
「先輩からのアドバイスは聞いとくもんだぜ、勘九朗ちゃん」
笑みを浮かべたまま、明は痒そうに額を掻き毟ります。
話は終わりました。ようやく居なくなってくれそうです。
「おっと、忘れてた」
しかし、いきなり振りかえって、明は、握手を求めるよう手を伸ばします。
「万が一もないと思うが、おまえとの衝突がないことを祈ってるぜ」
「……別に、どっちでもいいですよ」
「どっちでも良いっておまえ、俺にとっては死活問題なんだけど……」
いつまでも握手に応えずにいると、諦めたのか大げさなため息が聞こえます。
「クールだねぇ、ホンと」
その呟きを残して、明は校内に戻っていきました。
罪悪感があります。
幼き頃、先生、ミヨちゃん、サっちゃん、そしてタマちゃんを支配し、僕は玩具として扱いました。
いまだ、彼女達の支配はとかれていません。
僕は自分の能力を無くすため、彼女達を否定しました。彼女達を何度も泣かせたと思います。
あんなに嫌がって、抵抗し、それでも、僕は運命に勝てなかった。
結局、何も変えられなかった僕を見て、彼女達はどう思うでしょう。最低だと罵るでしょうか。それとも、愚かだと憐れむでしょうか。
「勘ちゃん、やっぱりここにいたんだ」
胸が痛むほど、彼女はやわらかに微笑んでいました。
ゆっくりと、彼女を包み込むように、僕は自分の世界を広げていきます。床、大気、空、が僕の中にあります。
また、僕は、同じ過ちを犯そうとしているのです。
「…………いいよ、それでも。私は、ずっと、本当にずっと昔から、勘ちゃんのことが好きだったんだよ」
その感情は僕の支配が作り出したモノです。
それでも、偽りだって、かまいません。本当は誰も僕など愛してくれていないのは解っています。
「勘ちゃん、泣いているの?」
彼女がやさしく僕を抱きしめます。甘いシャンプーの香りが彼女の髪からしました。
「別に何も悪くない。勘ちゃんが何をしたって、私が許してあげるから、泣かないで」
耳元で囁かれる声。僕は、彼女だけは傷つけたくはなかった。
――――なぜなら、僕も、君のことが好きだから。
「……勘ちゃん、泣かないで。大好きだから、勘ちゃんのことが大好きだから。私なんかどうなってもいい。ね、泣かないで」
僕は堕ちていきます。獣のように欲望に身を任せます。
先に、どんな運命が待っているかなど僕には解りません。でも、彼女さえいてくれるなら、僕は満足です。
「“ずっと、いつまでも一緒にいよう”、タマちゃん」
こうしなければ愛する事も出来ない。
そう、僕は、橘 勘九朗、支配の能力を持った、皇帝。
はいはい。と、いうわけで、一時終了だ。
最初に言っておこうと思うが、おいらはこの時の自分が一番イケすかねぇ。性格が暗すぎる。生理的に受け付けないタイプだな。まあ、おいらのことなんだけどさ。
こんなに苦しむはめになったのも、能力を解放するのに、初恋なんていう厄介なものまで絡んできちまったからだ。
おいらの欲望は宇宙よりも広く、太陽よりも熱い。普通なら抑えれるようなもんではないと思うがね。まあ、ひとえにおいらの精神力の勝利って訳だな、皮肉にも。
まあ、この事はもういいや。次は、そうだな、おいらの運命をより強固にした相手。やっぱり“戦車”について語らなければならないだろう。
後にも先にも、おいらのこの腹を吹き飛ばしたのはあいつぐらいだ。
ではでは、とりあえず疲れたんで、次の機会にでも話すかね。
元気にしてろよ、じゃあな。
< つづく >