(32)気の荒い女神達
暖かな日差しが射し込む豪華な個室の病室で怜はベッドに腰を掛けていた。
1ヶ月あまり過ごしていた入院着やパジャマ姿ではなく、今はコットンシャツにジーンズの格好になっている。
つい先ほど主治医の回診があり、ようやく退院の許可が下りたのだった。
年の瀬の慌ただしいなか、連日入れ替わり見舞いに来てくれていた同僚の刑事達や友人達も、年が明け間もないこの時期には夫々のイベントが有るようで、さすがに足は遠のいていた。
おかげで暇を持て余していた怜は、今日の午後一の回診を心待ちにしていたのだ。
そして半ば恫喝するようにして、強引に退院をもぎ取ったのだった。
怜は身の回りのものを鞄に詰め込みながら、なんとなく入院のきっかけとなった事故のことを考えていた。
(あの時、私はバイクで走っていた・・・絶好調のエンジンと確かなタイヤのグリップ、だけど・・・そう、突然タイヤがバーストしたんだった。私はどうすることも出来ずバイクから放り出された。道路に叩きつけられた時の痛みや、腱の切れるショックまではっきりと覚えている。でも・・・どうして、その前後の記憶が無いんだろう・・・)
主治医は事も無げに、『よくあること』で片付けている。
確かに頭を打った後遺症で、その前後の記憶が曖昧になるということは話しには良く聞く。
しかしそれがいざ自分に起こってみると、どうにもふに落ちない気分なのだった。
怜は身支度の手を休め、自分の腕を前に伸ばし、その腕に刻まれた手術痕をじっと見詰めた。
しかし健康そうに日焼けしているその腕の傷はもう殆ど目立たなくなっていた。
無論、痛みなど全然無かった。
ただどういう訳かその傷を見ると怜は不思議に誇らしい気分になるのだった。
自分でもその情動は理解できないのだが、気が付けばその傷に視線を向け微笑んでいるのだった。
(なんでだろうなぁ?自分でも惚れ惚れするくらい見事な受身でもとれたのかしら・・・)
コンコンッ
怜がボンヤリとそんなことを考えていると、突然扉を叩くノックの音がした。
「あ、はい。どうぞ」
怜は低い落ち着いた声でそう応えていた。
おそらく退院の手続きを持ってきたのだろう・・・怜はそう思った。
しかし扉が開き、真っ先に目に跳び込んで来たのは、看護婦の白衣ではなく両手で捧げ持った“鉢植え”の“チューリップ”だった。
なんの前触れも無く、怜の胸は一瞬のうちに高鳴った。
しかし続いて現れたその持ち主を確認した途端、怜の目は真ん丸に見開かれたのだった。
「諒子・・・・」
それは紛れも無く石田諒子だった。
しかし、それでいて怜の知っている諒子とはどこか違っていた。
目を見張るほどの美女なのに、いつも真面目で融通が利かなそうな雰囲気を纏っていた諒子が、今はちょっと皮肉そうな笑みを浮べて部屋に足を踏み入れてきたのだった。
そういえばストレートだった髪が、ナチュラル・ウェーブに変わっている。
「あら、意外と元気そうじゃない。せっかく病室に根付くように鉢植えを持ってきたのに」
ベッドサイドのテーブルにそのチューリップをドンと置くと、そう言って諒子はニッと笑ったのだった。
しかし怜はそんな諒子の皮肉に反応している場合ではなかった。
怜は今この瞬間、諒子の顔を見るまで、諒子の一件をすっかり忘れてしまっていたのだった。
怜は自分の余りの失態に顔色を失った。
「諒子っ、わ、私、ゴメン!申し訳無いっ。貴女との約束・・・私ったら」
怜が珍しく唇を震わせていると、諒子はゆっくりとかぶりを振った。
「大丈夫よ、怜。心配しないで。全て片付いたわ」
そう言って優しく微笑んだのだった。
「片付いた?どういうこと・・・。京子さんは?黒岩のガキはどうしたっ」
真剣な表情で問い掛ける怜に、諒子は傍の椅子を引き寄せそこに掛けるとゆっくりと語りだしたのだった。
「死んだ?何それ、あの黒岩の長男のこと?ホントに?」
諒子の説明を聞いた怜が最初に発したのはその言葉だった。
しかし諒子はその問いには答えず、代わりにハンドバッグから新聞の切抜きを取り出した。
怜もそれを無言で受け取り視線を走らせる。
しかし読むにしたがって、怜は唖然とした表情に変わって行った。
「なにこれ・・・。単なる死亡記事じゃない。事件じゃないの?そんな都合よくあの黒岩の息子が死んだって言うのっ」
「事故だったみたいよ。ほら、彼剣道部主将だったじゃない。で、正月に酒を飲んだその勢いで理事長が秘蔵していた真剣を持ち出して練習をしてたらしいんだけど、滑って自分のお腹に突き立ててしまったみたいよ。その日は偶々理事長は東京に行っていたみたいで、誰も屋敷に居なかったらしいわ」
諒子は小さく肩を竦めてそういった。
しかし、その記事を見詰める怜の目は真剣だった。
「そんな・・・おかしいっ!変よ、タイミングが揃いすぎよ。私達の内偵が核心に迫るその直前のタイミングで、中心人物が事故死?出来すぎよっ。まさかとは思うけど・・・あの狸、自分の息子まで・・・」
真剣な怜の表情をじっと見詰めながら、諒子は内心苦笑していた。
(怜ったら。ふふっ、ひと月前とは180度立場が変わったわね。あの時、“きつね”さまの命令で私を罠に嵌めた貴女だったけど、今は私が“きつね”さまのドールよ。貴女は残念ながら『元・ドール』ってわけ)
諒子は怜の見当外れの推論を軽く聞き流していた。
もっとも刑事である怜が騒ぎ立てるのは厄介なので、しっかりと釘をさすのも忘れなかった。
「でも、それは無いと思うわ。私、お葬式に出たけど、あの理事長が、まるで風船が萎んだように小さく見えたもの。本気で悲しんでいたわ。それは確か」
諒子が自信をもってそう断言すると、怜も頷かざるを得ない。
諒子の人を見る目は信頼できるものだと怜は思っているのだ。
強張っていた怜の肩から、ふっと力みが消えた。
「そう・・・かもな」
怜がその言葉を翻さないうちに、諒子は急いで話題を変えた。
「もう、ホント、私も将来ちょっと不安よ。やっとちゃんとした学校に就職できたと思ったのに、この事件でしょ。ウチの理事長が腑抜けになっちゃったら、意外とすぐに廃校って事も考えられるのよ」
諒子は眉を顰めてそういった。
怜はしかし気の無い顔で頷いている。
その顔を見て、諒子は少しだけ悪戯をしたくなった。
長年のライバルを相手にちょっとだけ優越感に浸りたかったのだ。
「でね、実は私、すこしアルバイトを始めたの」
諒子はわざと声をひそめるようにそう言った。
「そう、どんな」
怜はあからさまに気の無い返事を返した。
しかし諒子はニンマリと微笑むとこう言った。
「それがね、今度の事件でちょっと知り合いになった弁護士さんのお手伝いを始めたの」
果して怜の記憶に常木弁護士とのシーンが消されずに残っているかは判らなかったが、諒子にはそんなことどっちでも良かった。
怜に、自分が“きつね”くんの特別な存在になったことを告げるだけで満足だったのだ。
「弁護士・・・?あぁ、あの人ね、常木さん」
怜はそう口にして、脳裏にその若い弁護士の顔を思い浮かべた。
サラサラの髪に白い肌、小柄のその体格はまるで少年のようだった。しかし、それでいて何故かゆっくりと落ち着いて話す声になんともいえない信頼感を感じていたことを怜は思い出した。
「そう・・・」
『良いんじゃない』と言いかけた怜だが、しかし何故かその言葉は出なかった。
その代わりに、いつの間にか胃のあたりに何か熱い塊が生じていることに気がついた。
(何だ?この嫌な感じは。何だろう・・・何だか、苦しい・・・)
怜は俯いたまま無意識に鳩尾のあたりを押えていた。
しかしその違和感はまるで治まらなかった。
それどころか、物凄い勢いでどんどん膨れ上がって行っているような感じだった。
怜は身体を強張らせて、その嫌な感覚にじっと耐えていた。
しかしすぐ横に座っている諒子はそんな怜の様子にまるで気付かないように、さっきから得々とアルバイトの話を続けている。
その妙にはしゃいだような話し声が怜の癇に障った。
「・・・でね、怜、私慣れないものだから常木先生のコップをツルッて落しちゃってぇ、パリンってわけ。でもね、常木先生って全然慌てないのね。私がさぁ、も、半分パニクってるのにっ・・・」
「・・・っさいよ・・・」
諒子らしくない上っ調子のそのお喋りは、しかし怜の小さな呟きでブレーキを掛けられた。
「えっ?なに、怜。今何か」
「煩いんだよっ!黙れって言っているんだっ!!」
不意に顔を上げた怜の視線に、百戦錬磨の筈の諒子の背中に悪寒が走った。
まるで触れるものを全て焼き尽くしてしまいそうな熱い激情の炎が両目で燃え盛っていたのだ。
「なっ・・・何・・・よ」
唖然とする諒子の前で、しかし怜は苦しそうに両手で鳩尾を押え歯を食いしばっているのだった。
「れ、怜?貴女・・・どうしたの?どこか痛むの?」
腰を浮かし怜に手を差し伸べようとした諒子だが、しかしその腕は物凄い勢いで打ち払われた。
「触るなぁっ!」
しかし次の瞬間には、怜は両手で腹部を押えたままベッドに倒れこみ獣のような呻き声を上げながら身体を痙攣させたのだ。
その様子はまさに手負いに狼としか言いようが無かった。
(苦しいっ!ああああっ!苦しいよぉっ!何なんだぁ、この、この熱い塊はっ!体が張り裂けそうだっ・・・た、助けて、誰か、助けてぇっ・・・○○○さまっ)
怜の脳裏で一瞬、誰かの名前が浮かびかかった。しかし、その名前はまるで潜水艦のように怜の意識の深部にスッと潜ってしまった。
あとに残ったのは、肩透かしを食ったような徒労感と、果てしない焦燥感だけだった。
そしてそんな焦りの気持ちが、怜の熱い塊を更に成長させていた。
「うううぅぅぅうううっ、ぐぅぅううっ、くうううううううっ!!!」
狂ったようにベッドでのた打ち回り出した怜を諒子は呆然と見ていたが、しかし突然、まるで天啓のように諒子はその訳を悟ったのだった。
「怜・・・貴女・・・私の言葉が届いていたのね。あの人に幽閉された意識の奥の奥、そこで私の本当の言葉の意味を・・・悟ったのね」
戦っているんだ、怜はあの時の私と同じように“きつね”さまの暗示と・・・
諒子は戦慄と供に、その事実に気付いたのだった。
(怜、破るというの?私のご主人様の暗示をっ。無理よ、絶対っ!私だって、あの時京子さんの助けが無ければ・・・、あの必死に訴える瞳を見なければ破れはしなかった。それを貴女なんかに・・・そんなことっ、絶対にできやしないわっ!)
諒子は知らず怜を見詰めていた・・・氷のような冷たい意思を込めて。
そして怜は見上げた・・・気が狂いそうな苦しさの中、絶対の自信を胸に自分を見下している冷たい双眸をっ!
まるで引き寄せあう磁石のように2人の視線は宙で交わったまま微動だにしなかった。
怜の脳裏に初めて対戦した時の諒子が蘇る。
一分の隙もない構え、どんな奇襲も、どんなフェイントも、まるで歯牙にも掛けない圧倒的な力量を誇り、そして怜の全身全霊をかけた一撃を紙一重でかわしきった時の勝利を確信した瞳が、今再び諒子の眼に宿っていた。
怜の背中に怒りの鳥肌が立つ。
そしてその圧倒的な怒りが、信じられない事に、気が狂うほどの苦しみを駆逐し始めたのだ。
(諒子ぉぉおおおおおっ、負けられないっ!貴女にだけはっ、絶対に譲れない、引かないっ、あの人は渡さないっ、渡さないっ、渡さないっ!絶対にだぁぁあああああああああっ!!!)
怜の中で拮抗していた“きつね”くんの暗示と怜の意思、しかし皮肉なことにそのバランスを突き崩したのは、他ならぬ諒子の視線だったのだっ!
熱い塊は既に胃に収まりきれないほど膨らみ、食道を駆け上り、遂に喉元までせり上がって来ていた。
既に怜は口を利くことも、息をすることも出来なくなっていた。
喉が破裂しそうだった。
心臓が爆発しそうだった。
しかし、それでも構わないと思った。
諒子に負けるくらいなら、このまま死んでも構わないと思った。
そして、遂に、永遠とも思える程の格闘の末に、遂に怜の口から呻き声が毀れ出たのだった。
「あぁっ!あんぐぅっ!ぐぅぅうううっ、ううっ、・・・う・・・うぅ、くぅううう、うわぁぁぁああああああああああああああああっ!!!!」
その瞬間、窓ガラスがビリビリと振動する程の叫び声あげると、怜は体中を痙攣させ、そのままベッドに突っ伏したのだった。
その様子を諒子は立ち竦んだまま、ただ見詰めている他は無かった。
*
一方、この日“きつね”くんは、久しぶりの自由な休日を満喫していた。
穏やかな日差しが射し込む和室に据えられたコタツに入り、みかんとお茶をゆっくりと味わっていたのだった。
元々暑いのも寒いのも苦手なタイプで、特に冬休みは一日中室内でホケ~っと過ごすのが普通なのだったが、ここ数日はすっかりペースを乱されていた。
あの日、諒子に約束の履行を強行に迫られた“きつね”くんは、何の気の迷いか本当に諒子を買い取ってしまったのだった。
本来であれば一律半額で下取り市場に流すか記憶を改変して元の生活に戻すのだが、思いがけず約束を守る性質なのか、あるいは諒子の中に何かを見出したのか、意外とあっさりと“くらうん”に買取を申し出ていた。
怜の一件があったため“くらうん”も驚いていたが、無論反対する理由もない。
あっさりとそれは認められたのだった。
「じゃあ社員割引ですので、500万でいいですよ」
当り前のようにそう話す“くらうん”との間で、契約は淡々と進められたのだった。
そして、それ以来、諒子は“きつね”くんの自宅に入り浸りの生活を始めていた。
美紀は記憶操作で一旦元の生活に戻らせていたため、諒子を泊まらせる事は余りさせなかったが、それでも朝来てから、夜帰らせるときまで、諒子は“きつね”くんの傍を一時も離れなかった。
朝やって来ると、まだ眠っている“きつね”くんの布団に裸で潜り込み、勝手にパンツを下ろしてクタッとしているペニスをパクッと咥え、目を覚ますまでずっとしゃぶり続けているのだ。
そして目を覚ますころにはすっかり力を取り戻した肉棒に自ら跨り、朝一番の新鮮なミルクを身体の奥深くで味わうまで放さなかったのだった。
その後は自らの身体をスポンジ代わりにして“きつね”くんのシャワーを甲斐甲斐しく手伝い、食事のしたくは勿論裸エプロン、食事中も裸、自分から体の上にトッピングして女体盛りまですることもあった。
ちゃっかりと健志のやり方をマスターして、“きつね”くんに応用しているのだった。
それは傍から見ればまるで絶倫新婚夫婦のような生活ぶりだった。
“きつね”くん自身、セックスは嫌いな方じゃない・・・って言うか、大好きな方なので、こうした諒子の挑発があると確実にそれに応えてしまうのだ。
ま、そん所そこいらに居いる美女ではないので、その相手をするのはそれはそれで楽しいのだが、しかし毎日3発、4発ではさすがに身がもたなくなって来る。
無論、諒子の感度は特別に上げているので“きつね”くんが往くまでに10回や20回は往っているのだが、鍛え上げた底なしの体力はその差を埋めて余りあるものだった。
諒子のリピドーを下げてやれば簡単に解決する事なのだが、意外なところにプライドを持っている“きつね”くんは、それを潔しとしなかった。
おかげで“きつね”くんは、ホンの数日のウチにすっかり精力を吸い取られてしまっていたのだった。
しかもセックスをしていない時の諒子は途端に教師の顔に戻り、“きつね”くんの食事や運動といった生活態度から、学生としての勉強態度、挨拶や言葉遣いといったマナーに至るまで、あらゆる面を矯正しようとするのだ。
勿論“ご主人様”に対することなので高圧的になることは無いのだが、丁寧で優しい言葉の裏には頑として譲らない鉄の決意が潜んでいる。
元来ものぐさで動くことが嫌いな“きつね”くんが、諒子が来て3日目にはトレーニング・ウェアを着せられジョギングをする羽目に陥っていた。
買い溜めしておいたポテチや炭酸飲料が消え、ゲームが片付けられ、漫画が処分され、散らかり放題だった机の上は見違えるように整頓されていた。
しかし趣味で飾っていたプラモデルを勝手に処分されたことに気付いた時、“きつね”くんは遂にキレてしまった。
掃除をしていた諒子の腕を掴んで引き寄せると、いきなり目の前に掌をかざした。
すっかり催眠調教に慣れきっている諒子はそれだけで簡単にトランス状態になる。
そんな諒子に“きつね”くんは本気モードの声で囁いたのだった。
「諒子・・・きみは僕の声と供に若返っていくんだ。一つづつ・・・いいね。さあ・・・25・・・24・・・」
諒子が長い間掛けて連綿と築いてきた真面目な性格を徹底的に矯正してやるつもりなのだった。
「21・・・20。さあ諒子、君は二十歳だ。僕と同じ歳の大学生だよ」
“きつね”くんは先ずはそこで年齢退行を一時停止し、諒子の様子を見ることにした。
面倒くさいのでシチュエーションは変更なしにした。
“きつね”くんのドールとしての自覚は持ったまま目覚めさせる。
(ふふふっ・・・いくら諒子が真面目でも大学の講義をサボったことくらいあるだろ)
“きつね”くんの目論みは単純だ。
時代を遡り、自分の自堕落な生活に共感を覚える人格の頃を見つけ出し、それを持ったまま今の年齢まで戻らせることだった。
「さあ諒子、今日はつまんない講義はキャンセルして、僕と映画でも見に行こうか」
目覚めた諒子に“きつね”くんは、笑顔で語り掛ける。
すると虚ろだった瞳にサッと表情が戻ってきた。
「あ・・・“きつね”さま。おはようございますっ!嬉しいです、映画に誘ってくれるのですか?」
「そうそう。でも僕は午後から忙しいから、午前中にならね。諒子が講義をサボってくれれば一緒に行けるんだけどぉ」
「判りましたっ!ご一緒します」
諒子はニッコリと笑うと、何の躊躇いも無くそう言ったのだった。
“きつね”くんは内心シメシメと舌を出す。
「ありがとう、諒子。付き合ってくれて。ま、大学の講義なんかテキトーにサボってても問題ないしね」
諒子の肩に手をまわし顔を覗き込んでニッと笑う“きつね”くんに、諒子も笑顔を返して口を開いた。
「大丈夫です。あとで補習を受けますから」
諒子に一点の曇りも無い笑顔でそう言われ、“きつね”くんはコケそうになった。
「補習っすかぁ・・・?いっ、いや、諒子さぁ。そんなの時間の無駄だよ。どうせ詰まらない講義なんだからさっ。それよりも、そんな時間が有るんだったら、もっと僕とエッチしない?」
やはり一筋縄ではいかない諒子に、“きつね”くんは露骨な餌を蒔いた。
その一言で諒子の顔にパッと明りが灯ったような歓喜が表れる。
「しますっ!“きつね”さまといっぱいエッチしますっ」
「じゃ、補習は受けないね?」
再びニンマリと笑顔になり、“きつね”くんは念押しした。
「受けません!も、大学なんか辞めますっ!一生、ご主人様のお世話をしていきますっ」
「へっ?」
諒子の電光石火の決断に“きつね”くんは唖然となった。
「いや・・・辞めるだなんて、そんな真面目な・・・。別にそこまで思いつめなくても」
“きつね”くんが思わず呟いた言葉に、諒子はきっぱりと首を横に振った。
「ダメです。私、一生をご主人様に尽す身ですから、大学なんかで遊んでいる場合では有りませんっ!たった今から、辞めですっ。さっ、ご主人様、ベッドに行きますわよ。たっぷりとこの身体で楽しんでくださいねっ」
諒子はそういって、“きつね”くんの手をグイッと引っ張り、寝室へ誘おうとする。
“きつね”くんはそんな諒子に頭を抱えた。
(くっそ~~っ!ホント、融通がきかねぇなぁっ)
そして溜息を吐くと、再び諒子の目の前に掌をかざしたのだった。
忽ち表情を失う諒子に“きつね”くんは再びカウント・ダウンを始めた。
「19・・・18・・・17・・・」
今度は高校生にしてみた。
「諒子ぉ、学校サボって遊びにいかない?」
「ダメよ、“きつね”くん。ちゃんと勉強しないと一流の催眠術者には成れないわ」
「へ?」
シチュエーションをはしょったので、諒子は“きつね”くんも同じ歳になったと思っているようだった。
「あのね、そっちの勉強は誰よりもやってるよ。そうじゃなくてガッコの勉強っ。ねぇ~、つまんないんだもん。俺と遊びにイコッ」
ニコッと微笑む“きつね”くんに諒子も満面の笑みを浮べる。
「あら、なんだ。じゃあ、“きつね”くんには私が教えて、あ、げ、る。特別よ。私ね、将来、絶対に先生になるの。国語でも、社会でも、あ、体育でも良いわよぉ」
諒子はニッコリと笑いながら“きつね”くんの腕をむんずと掴んだ。
天を仰ぐ“きつね”くん。
掌をサッ
カウントダウンの再開
今度は中学生だっ
「ね、ね、ね、諒・・・」
「しっ!授業中よ。静かにっ」
話し掛ける前に遮られてしまった。
心なしか表情も硬くなっている。
ずぼらどころか、年齢が退行するに従って、生真面目さがアップしていた。
小学生だっ
六年生!
やっぱ、5年生っ
3年生でどうだっ
もうっ、1年生はっ?
…
…
…
“きつね”くんは床に跪き、溜息を吐いてうな垂れていた。
そしてその前には諒子が腰に両手を当て、“きつね”くんを見下ろしながらこう言っていたのだった。
「だめでちゅよっ!おにいちゃんっ!ちゃんと、オカタヅケしてくだちゃいっ」
「すっ・・・筋金入りだ・・・この女」
“きつね”くんは初めて諒子を買い取ったことを後悔したのだった。
そしてその後、ヤケクソになって諒子で赤ちゃんプレイをして遊んでいるとき、ふとあるアイディアが浮かんだのだった。
「そうだっ!毒をもって毒を制すっ」
気持ちよさげな笑顔で指をしゃぶりながら“だぁ~、だぁ”と言っている諒子に紙おむつを宛がう手を止めて、“きつね”くんは手をポンと打ったのだった。
そして早速携帯を取り出すと“くらうん”に連絡をとり、確認をした。
「ね、“くらうん”さんっ。怜ってまだ入院中?」
「怜ですか?ええ、そうですねぇ。でも、たしか明日には退院できる予定の筈ですよ」
いつもの“くらうん”のノンビリした声でその答えを聞くと、“きつね”くんは小さくガッツポーズをしたのだった。
あの2人を掛け合わせれば、“きつね”くんが世話をやかなくっても勝手に盛り上がってくれる。
諒子を少しいじって、何でも良いから怜に自慢でもさせりゃあ、あの怜の事だから忽ち食いついてくるに決まっている。
そうすると諒子も負けず嫌いだから、怜に対抗して・・・
「ふふふっ、まさに頭脳の勝利って訳だよね。今ごろはあの2人火花を散らしている頃だろうなぁ。さすがの諒子も怜が相手では小手先であしらうなんで出来ないしね。とりあえずこれで暫らく、俺の負担も減るしぃ」
“きつね”くんはコタツの中で独り含み笑いをしていた。
「さてっ、それじゃ今日は久しぶりにご近所の奥様方と楽しい一時を・・・」
そう呟いた時だった。
不意に玄関の呼び鈴が押されたのだ。
軽い電子音が部屋に響く。
“きつね”くんは訝しげに頭を傾げながら玄関に向った。
「は~いっ。どなたですか~」
そう言って“きつね”くんが無防備に扉を開けた途端、ピキッと音がしそうな程の勢いでその表情が凍りついた。
そこに立っていたのは・・・
「諒子っ・・・さん。に・・・れ、松田刑事!」
少しムスッとした表情の諒子と、軽く微笑みを浮べた怜がそこに立っていたのだった。
しばらくぶりに会う怜は落ち着いた表情をしていた。
しかし、何故か”きつね”くんは嫌な予感を覚えた。
表面的な平静の裏に、マグマのような抑えきれないエネルギーを感じたのだ。
そしてこの感じは、”きつね”くんがつい最近味わったものとそっくりだったのだ。
「こんにちは常木さん。松田怜、只今退院してまいりました。遅くなりましたが入院中の案件、たった今から私が対応しますのでご心配無くっ」
唖然とする“きつね”くんに口を開く隙を与えず、怜はビシッと敬礼してそう言い切ったのだった。
「へ?な・・・なんです?松田さん、あ、あの事件はですね、もう片付いて・・・」
“きつね”くんが目を瞬(しばた)かせながらそう言いかけると、そこで怜がニッと笑いその言葉を遮ったのだった。
そしてその瞳に宿っていたのは、久しぶりに見る野性の狼が獲物を見つけたような光だった。
「常木先生、私が申しましたのは“入院中”の案件のことです、“入院前”のではなく・・・」
あくまでもにこやかな怜だったが、相対する“きつね”くんは、嫌な予感で頬に汗が伝っていた。
「“入院中”・・・ですか?」
「えぇ、入院中に起こった事件のことです。ある男が被害者の女性に酷い悪戯をした事件があったんです。そしてその重要参考人が・・・常木弁護士、貴方なのです」
怜のその言葉に“きつね”くんは目を剥いた。
「ぼっ、僕っすかぁ?僕がいったい何をしたって・・・」
“きつね”くんは言ってしまってから、まるでそれがタブーワードであったかのような気がした。
しかし怜はマタタビを見つけた猫のように目を輝かせてこういったのだった。
「貴方がしたこと・・・。それは、その女性の左手の掌に一生消えない焼印を押したことです」
そして怜は自らの左手を“きつね”くんに向けたのだった。
「この掌に刻まれた刻印っ!“ナンバー2”の刻印っ!ちゃんと責任を取ってもらいますからねっ“きつね”さまっ!!」
怜はそう言うと、“きつね”くんの首に飛びついたのだった。
そして“きつね”くんは絶望の淵に沈んだような声で、弱々しく悲鳴を上げたのだった。
「うっそぉ~~~っ!俺の暗示、もう破っちまったのぉ~っ!1ヶ月もたねぇのかよっ」
「毎日5回も諒子のこと抱いていたんですって?お可愛そうに、それじゃあ、もう、すっかり飽きちゃってますよね?今日からは私が、5回でも10回でもお相手しますからね」
そういうと怜は“きつね”くんの頬にチュっと口づけをしたのだった。
「ちょっと、怜っ!聞き捨てなら無いわねっ、そのセリフ!」
忽ち諒子が柳眉を逆立て怜の腕に手を掛ける。
しかし怜はそんな諒子のことなどお構いなしにトロンとした眼差して“きつね”くんを見詰めると、本格的に口づけを始めたのだった。
「ちょっと怜っ!聞いてるのっ」
完全に無視された諒子は、今度は強引に怜を引っ張り、“きつね”くんから引き剥がしたのだった。
すると途端に火のように燃え盛る強烈な視線が諒子に向けられる。
しかし、諒子もそんな怜を氷のような視線で迎え撃っていた。
「もう代打は要らないんだよっ。私が退院したからにはアンタは用なしっ!とっとと妹の所に帰りなさいよっ」
「いい加減にしたらどうなの?突然押し掛けてっ!ご主人様がビックリしてるじゃない。元ドールはおとなしく引っ込んで居なさいってっ!」
マンションの廊下で突然一触即発の凄まじい“気”が乱れ飛びだした。
気配を察した隣の夫婦がチェーンを掛けたままの扉をそっと開けて、覗き見ている。
それに気付いた“きつね”くんは、肺の中の空気を全部搾りだしてしまう程深い溜息を吐いた。
「身の程をわきまえない牝には、相応しいお仕置きが必要ね」
「あら?私に勝てるつもりなの?病み上がりで身の程知らずはどちらかしら」
「剣を持っていないアンタなんか眠ってても勝てるわ。もっとも、剣を持ってたってどうってこと無いけど」
「あらあら、貴女連戦連敗だってこと忘れたの?ご主人様に都合の悪いことは消してもらったのかしら」
「それはオマエだろっ!アンタの木刀を叩き折ったのが誰だったか、ご主人様に聞いてないのっ」
「しっかり聞いてるわ。ご主人様にチューンアップしてもらったのよね。懸命なことだわ、素じゃ勝てるわけ無いものね」
「ふっ、負けたって認めるんだ。じゃあ、もう一度、味あわせてあげましょうか?」
「いい気にならないでよね。私がその話を聞いて黙ってると思う?BモードにAモード・・・自分だけなんて思わないでよね」
2人の間で会話がポンポンと飛び交い、そしてその度にビリビリする程の緊張が高まっていく。
“きつね”くんですら2人の会話に口を差し挟むのに勇気が要った。
しかし放っておく訳にもいかない。
ズキズキと痛むこめかみを片手で押えて“きつね”くんはおずおずと口を開いた。
「あ・・・あのさぁ、君達・・・」
しかし盛り上がりきっている2人はそんな“きつね”くんの声にも視線さえ向けなかった。
「すみません、ご主人様。この思い上がったドールにちょっとお仕置きをしますので、少しだけお待ち願いますか?」
「ご主人様、この勘違いしている元ドールをもう一度病院に送り返してきますわ」
予想していたとはいえ、この2人のこのリアクションはショックだった。
“きつね”くんはホントに情けない顔つきになり、両手を腰に当ててガクっと俯いた。
こうなっては、もう“最終ワード”以外は効かないんじゃないだろうか・・・“きつね”くんはそう思った。
(うぅっ。で、でもなぁ・・・言いたくないなぁ“最終ワード”だけはなぁ~・・・)
抱えるリスクが大きすぎると思ったのだ。
しかし・・・目の前で現実に起きかかっている惨劇は、夢でも幻でもなかった。
暫らく見詰め合っていた2人がスッと動いたのだ。
両者とも1歩下がる。
そして出来た間合いに、怜は半身で構え、諒子は目の前に手刀をかざした。
次に動いた時が修羅場の始まりである。
もう“きつね”くんに躊躇している時間は無くなっていた。
そして緊張の一瞬に、実に情けな~い言葉が遂に2人に向けられたのだった。
「もうっ!判ったよ、判りましたぁっ!2人とも僕が引き取って、あ、げ、る~~っ!」
その言葉が届いた瞬間、それまでの闘気がまるで嘘のように霧散した。
そして2人の美女は実に晴れやかに笑顔を“きつね”くんに向けたのだった。
そう、まるで花が開くように・・・
そして、まったく同じタイミングで“きつね”くんに駆け寄ると、その両腕に縋り両側の頬にチュっとキスをしたのだった。
身が持つかなぁ・・・
半分泣きそうな表情でそう考えている“きつね”くんは、しかしまったく気付いていなかった。
“きつね”くんの背後で怜と諒子の手が音を立てないように慎重にハイタッチをしていたことに・・・
運命の嵐が通り過ぎた時、予想もしていなかった不思議な、しかし強固なトライアングルが誕生していたのだった。
< 終わり >