Tomorrow is another 第十話 日常

第十話 日常

『人はどうして生き続けているんだと思う?』
『生そのものが、生物として存在している証左だ。生きるために命を繋ぐのは、生物の範疇である人にも当然当てはまる』
『しかし、私はそれを解答とは思えない。人の人たる本分は、理性で本能を制御する一点に尽きる。本能とは、言わば衝動だ。そして人は時として、理性から死を求めることがある。絶望、悲しみ、痛み、体と心が辛いと訴える現実からの逃避。レミングスの集団死のような、本能的なものではない。意思の力で自らを殺せるほどに、我々の理性は本能を凌駕しているということだ』
『人が生き続けていることも、死という未知の経験に対する不安、失われる日常に対する恐怖など、理性の判断によるものと言える』
『死を求めないためにはどうすればいいか。本能を鍛えるのも悪くはないが、人として生を受けた以上、人の人たる本分を果たすべきだろう。自分を強く持ち、決して希望を見失わない強い心。立ち向かうことで負う傷を怖がらない強い意思。理性を鍛えろ、刀のように。熱して叩け、何度でも』

『まだだ。生を全うするには、お前の心はまだまだ脆弱な存在だ』

「だったら、どうすれば強く鍛えられるんですか、師匠」
 呟いたところで、答えてくれる人間はどこにもいない。
 クソ親父をぶん殴りたいがためだけに通い続けたあの古ぼけた道場は、俺が離れるのを見計らっていたかのように解体され、俺が再び訪れた時には『売地』という立て看板と更地のみであり、師匠の行方もわからなくなっていた。
 恩人にきちんと挨拶しなかったという後悔は、師匠のことを思い起こすたびに繰り返されている。
 師匠は、稽古中に無闇やたらと人生訓を垂れ流すのが趣味のような人だった。聞いた当時は理解不能だった言葉の羅列も、今ではほとんどを理解しているつもりだし、俺の行動に大きな影響を残している。もしも俺が真っ当な人間に見えるというのなら、それだけ師匠の言葉に含蓄があるということだろう。
 俺は俺自身がろくでもない人間だと知っている。師匠との出会いがなかったら、既に前科持ちになっていてもおかしくない。これは確信だ。
 俺を一言で表すなら、独善的という文字がピッタリだ。俺という人間は、自分さえ気持ちよければ、すすんで他人を害せるのだ。
 そんな俺でも、越えてはならない一線というのを持っていた。過去形だ。もはや越えてしまっている。
 性欲に流されてしまった。
 放浪大図書館での、あの非現実かつ非常識な体験の数々の中で、俺は俺が許さないと決めた一線をあっさりと踏みにじったのだ。偽進吾に命令された、なんてのは理由にならない。
 胸糞悪い。誰よりも俺が許せない。
 俺は誓ったんだ。俺の全てに賭けて誓約した。彼女以外の女に手を出さない。出したら俺という人間はお終いだ、と。
 だったらもう俺は終わったのだろうか?
 そんなものは決まっている。
 終わった。
 実感はない。よくわからない、というのが的を射ている。昨日の今日で突然強姦魔に変貌するわけもない。そんなことになるのなら、きっちりケジメつけるためにも俺自身の手で俺を抹殺してくれる。
 ……いや。師匠に『自殺は戦うことから逃げた卑怯者のすることだ。何よりお前を助けてくれた恩人達への最大級の冒涜でもあると知れ』とか言われたな。他でもない師匠に後ろ足で砂をかけるわけにもいかない。
 終わってもなお続いていくのが人生か。二十歳に届かない歳でロスタイム突入とは生き急いでいるというしかないな。あの失敗をノーカンにできるほど厚顔無恥でもないからしょうがない。
 今後続いていく人生が例え惰性の日々であろうとも、これ以上の自己嫌悪を重ねないようにしなければ。
 強くなりたい。
 これほど強く願うのは久しぶりだ。
 比較対照は誰にもない。ただ俺が俺を許せるほどに、俺が清々しく生きていけるほどに、意思を、心を、理性を――強く、硬く、鋭く持ち得たい。
 理想に近づくためには鍛えるのが一番なのだが――
「――心の訓練ってどうやればいいんだ?」
 …………。
 …………。
 …………。
 うん、分からない。
 そりゃそうだ。これまで分からなかったことが都合よく閃いたりするはずもない。
 やれやれ。もうこれ以上ベッドの中でうだうだ悩んでいても埒があかないな。
 時計を見てかれこれ一時間が経過していることを確認すると、いい加減に起きないと、と布団の中からはい出た。
 最良なんて贅沢は言わない。せめて底辺に触れない生活を送りたいもんだ。
 後頭部を数回軽く小突いて、鬱屈した気分を追い出して気持ちを切り替える。
 悩みを抱えていつまでもウジウジするのは、不幸な自分に酔うという遊びの一種だろう。そんな暇があったら、悩みと戦い現状を改善するために動くべきだ。
 たった一晩のうちに起きた、時間にしたら一ヶ月にもおよぶいくつもの体験を一つ一つ思い返し、それらと戦うことを改めて決意する。
「あ」
 思い出した。さかのぼっていった体験の一番最後。そういえば先月……もとい昨日の夜、春と喧嘩別れしたあげく、強姦魔とか言われたな。
 放浪大図書館を含めたアレやソレがあまりにインパクト強すぎて、今の今まですっかり頭の中から飛んでいた。
 うっわ……、めっちゃヘコむ。辛いったらないぞ。
 今みたいな色々抱えているときに、これまでどんなときでも味方になってくれていた桃口姉妹の双方から嫌われているのは何より重い。
 こんな気分で春とは会いたくない。学校で春と顔を合わせたらどうなるんだ。気まずいことこの上ない。むしろトドメを刺されそうで嫌だ。
 それで俺が更にヘコんでいるところを誰かに見られたりしたら……。
 想像したくもない。
「…………さて」
 俺は静かに毛布かぶって枕に頭を預けた。
 忘れよう。
 なにもかも。

 そんなわけにもいかなかった。
 俺としては今日くらい学校をサボっても自分を許せる気分なのだが、案外俺の自意識は強かった。もう一人の俺が「学校へ行け」と急かす声に落ち着かなくなり、しぶしぶベッドから立ち上がる。
 時間が時間なので、日課のジョギングはパスし、朝食の準備にとりかかろうか。
 手っ取り早い料理としてベーコンエッグを作ろうと冷蔵庫を開けたのだが、ベーコンがない。それどころか何もない。大きな鍋と食パンが目立ったところで、あとはスポーツドリンクのペットボトルとビールが数缶あるだけだ。チルド室にはほとんどスポーツドリンクで、申し訳程度に玉ねぎとピーマンが一個ずつ入っているだけで、開けるだけ無意味だった。
 冷蔵庫に入っている食材のあまりの少なさに驚いた。こんなはずはない、確か昨日は食材がぎっしりと――とまで考え、思い出す。本来の冷蔵庫内はこんなものだったのだ。道子との一ヶ月蜜月生活がすっかり俺の日常になってしまっている。しばらくこの違和感は消えそうにもないな、と嘆息。
 鍋のフタを開け、中に入っている茶色い液体がハッシュドビーフであることに、懐かしさすら感じた。
「……昨日が遠い」
 遠い眼差しで中空に視線をやるが、それで冷蔵庫の中に食材が湧くわけでもない。さっさと朝食のメニューを考えねば。
 ……と言っても、材料がないのだからパンを焼くくらいしかない。ああ、卵もあるか。
 パンだけじゃあ食卓が寂しいのでオムレツでも作るかな。ハッシュドビーフは晩飯に。俺はかまわないが、朝イチで道子に食べさせることを考えると、重い物は避けたくなるのが人情――
「…………」
 ――食べさせるのは、パウだ。言ってるそばからこれか。先が思いやられるな。
 微かに痛む胸の内に気付かないふりをして、それなりに手際よく調理を済ませる。
 焼けたパンとオムレツをテーブルの上に並べ終えた頃に時刻を確認。まだ7時前である。
 そろそろ、現実に目を向けねばならないだろう。
 僅かな期待を込めて、この時刻まで待った。その期待もあっさり砕かれた今、もはや道は一つしかない。
 俺がパウを起こす。
 襖の前に置いておいた目覚まし時計の根気も耐え電子音もやんで久しい。いや、ほんの10分くらい前だけど気分的にそんな感じなのだ。
「はあ……あああ」
 溜息を伴ってうめく。
 怖かった。
 もし、パウの寝姿を見て欲情してしまったら。
 もし、パウに襲い掛かってしまったら。
 そんなことがない、とは言い切れない。現状において、この世で誰よりも信じられないのは俺自身なのだ。昨日はなんともなかったが、昨日と今日とでは状況がまるで違う。
 いっそ放っておこうとも考えるが、この問題から逃げおおせるには、山奥に篭もって隠遁生活でもするしかない。それは魅力的な案だったが、逃げるというのが俺的に気に入らない。身から出た錆、きっちり背負って打ち勝つべきだ。
 ……自信はまるでないが。
 のろのろとした足取りで、襖の前に立つ。
 せめて最後まであがこう。
 大きく息を吸い、
「パウー! 朝だぞー! 起きろー!」
 喉が張り裂けんばかりの大声を放つ。
 物音一つしない。
「起きろー!」
 …………。
 反応なし。
 いや、分かっていたんだ。パウの寝起きの悪さは知っている。がっかりなんてしてないさ。しないとも!
 幾分肩が落ちているのを自覚しつつ、怖気づく前に問答無用で襖を開け放った。
 パウの寝顔を見た瞬間。
「…………、……ん?」
 しばしパウの寝姿を観察し、首をひねった。
 特に大した感慨は湧かない。せいぜいだらしない顔だなあ、とか涎が垂れかかってるなあ、くらいのものである。
 あまりに普段と変わらない自分に、肩を透かされた気分だ。虚脱感が全身を襲う。
 良かった。少なくとも人間のクズというほど最悪の人間ではなかったようだ。
 ほっとした俺はずかずかと和室に踏み入って、パウの掛け布団をひっぺがした。
「パウ起きろ! もう7時になるぞ!」
 怒鳴る。
「すーっ……すぃー……」
 穏やかな寝息が聞こえてくる。
 さて、どうやって起こしたものだろうか。
 今日は朝から色々考え疲れていて、起こし方まで試行錯誤する気分にはなれなかった。
 ので。
「起きろ」

 ずむ

 腹を踏んでやった。
「う゛ぅー……ふぅ゛ー……」
 あ、寝息が変わった。
「起きろって」

 ずむずむずむ

 連続で踏む。
「う゛ぅぅぅぅぅぅ、ふぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛」
 顔に若干苦悶の色が浮かびはじめた。寝苦しそうだ。
 でもまだ起きない。
「……さすがのこれ以上は危ない気がするんだけどな」
 起きないからやるけど。
 鍛えているのか、足裏から伝わる感触はしっかりと締まったした印象を受ける。
 だからきっと大丈夫だ!
 誰へも向かっていない励ましを胸中で呟き、

 パウに片足で乗ってみた。

「おぷっ」
 パウの体がくの字に折れると同時に、俺はすぐさま降りる。見開かれた目蓋とその表情が怖かったのが一番の理由だった。
 俺が降りると目蓋も閉じた。四肢からも力が抜け、むせながら薄目で周囲を見回している。
「えほっ、けほっ、うう……?」
「おはよう」
「おはよう、ございます……けほっ」
 むくりと体を起こし、腹をさすり始めた。ああ、やっぱり辛かったんだなあ。かわいそうになあ。自業自得だよなあ。
「私の寝ている合間に、なにかしたのレすか……?」
「いや、なにも。起こしていただけだ」
 パウに言わせれば起こし方に問題があるということになるのだろうが、俺の知ったことではない。
「でも、早く起きれて良かったな。次はツイストだったんだぞ」
「はあ……」
 よく分からないままに頷き、
「……拓真さん?」
 何かに気付いたのか、パウが責めるような視線を俺に向けてきた。
 しまった、ヒントを与えてしまったか。
「呼んでも怒鳴っても起きないお前が悪いんだぞ。さあ、さっさと朝飯を食べて学校へ行こうか」
「拓真さん?」
 結局、パウは俺が謝るまで視線による訴えかけを止めなかった。

 昨日よりも随分早く起きたのだが、それでもパウの身支度には時間が足りなかったようだ。
「うう……二日続けてお風呂に入れなかったのレすよ……」
「だったらもっと早く起きれば良かったんだ」
 しょげているパウに、あんまり慰めになっていない言葉をかける。
 余裕をもって家から出た俺たちは、のんびりと駅へ続く道を歩いていた。全力疾走したパウとの限界ギリギリバトルも懐かしく感じられる。二度も経験したいと思えないので一生懐かしいままにしておきたい。
「昨日の晩だって風呂に入っただろ? だったら問題なくないか?」
「朝に体を洗うのが、私の日課なのレすよー」
「へえ」
 我ながら気のない返事だ。
 俺の態度を不審に思ったのか、パウが俺の顔色をうかがい、告げた。
「……なんラか憂鬱な顔をしているのレすね」
「まあなあ」
 事実憂鬱だし。
 一ヶ月も家の中に閉じ込められていたんだ。学校へ行くのがダルいのなんの。気分はまさに夏休み明けのそれである。顔見知りと会ったら、うっかり「久しぶり」なんて口を滑らしそうだ。
 それでも、俺が望んで学生となったのだから、この程度の憂鬱を我慢できない道理はない。一人で家の中に閉じこもっているというのもぞっとしないしな。
「ま、できる我慢はするべきなのさ」
「……そうかもしれないのレすね」
 たまたまパウを見ていたので知れたが、俺の言葉を真剣に考えての返答だった。適当に言っただけなのに、律儀というか、真面目な奴だ。
 短い駅までの道のりは、近づくにつれ通勤通学とおぼしき人々流れが見えてくる。流れの一部と化して駅構内に入り、駅のホームで並ぶ頃には、人ごみに息が詰まっていた。
 電車がけたたましいブレーキ音をたてて停車。ぞろぞろと乗り込んでいく人々で、車内の人口密度は急上昇だ。
「う……」
 桜ヶ丘駅まであと何駅あっただろうか、と考えてしまってうんざりする。
 朝イチの混雑というのは、早めの通学で空いた車内に慣れていた俺にはかなりの苦痛だ。
 こんなものは一区間とも我慢ならない。帰りはそういうものだと最初から諦めているが、朝くらいはゆとりを持ちたいと考えるのは俺の我侭なのか。我侭でもなんでも構わないが、明日からは早く家を出るためパウにも早起きを強制するとしよう。
 ……ん?
 一緒に通学することを前程に考えなくてもいいんじゃないだろうか。自然とそれが当たり前のように感じていたが――

 ――これほど安全な庇護下はない――

 ああ、そうか。そうだったな。
 俺はパウの親父さん、アルバート・ライナバルトの言葉を思い出していた。
 彼女の安全のため、アルバートさんはパウの逗留先を俺の家に選んだんだ。山崎拓真という人間ではなく、山崎紳一郎の子に。
 パウを狙っているのは、おそらくクソオヤジの威光が通じる相手か、それとも――俺に何かあれば麓風会が黙ってはいないということを知っている人物なのだろう。
 前者の理由だとすると、犯人は麓風会にいると考えるのが安直ながら一番可能性がある。あそこの面子はどうしてかクソオヤジを崇拝している節があるからな。山崎紳一郎の息子に危害を加えるようなことは絶対にしないだろう。
 後者の理由では、もう俺の想像では追いつかない。パウに直接聞いた方が早いが、アルバートさんは彼女に余計な気苦労をかけることを嫌っていたようだから控えておこう。そもそも俺になんとかして欲しいと考えていたなら、アルバートさんは俺に犯人の心当たりを伝えているはずだ。俺に期待されているのは、パウを家に置いておくことくらいなのだ。
 だが、俺は期待以上のことをしよう。
 外でもパウと行動を共にすれば、危険はグッと減るはずだ。何もしないより、間違いなくマシになる。
 誰のためでもなく、ただひたすらに俺だけのために。
 俺が後悔しない生き方をするために。
 俺には力がない。それでも俺には出来ることがある。俺自身の力ではないのが悔しいが、微力を尽くせることを喜ぼう。
 放浪大図書館で、あいつが死ぬ様をただ見ていただけのどうしようもない無力感をもう一度得るより万倍マシだ。
 俺はきっと、誰かの役に立つことで自分に価値があると思いたいんだろうな。なんて立派な偽善ぶりだ。一生善人にはなれないんだろうが、善人の生き方というのは俺には疲れる生き方にしか見えないので、なりたいとも思わない。
 俺は悪人で、せいぜい悪人なりの見栄を張っていればいいのさ。

 駅を出てから、パウと並んで歩いているだけで周囲の目、特に桜ノ宮校生から注がれる視線の量が半端ではないこと気付く。面倒臭いことになりそうだったが、どうすることもできない。
 ふとした思考の空白に、あの一ヶ月に経験した場面が蘇る。ガラスの向こう側に映る幸福に満ちた生活。後ろ向きと分かっていても、つい浸ってしまう。
 そんな上の空でパウとの雑談を続けていたため、何度かパウの呼びかけに気付かなかったり、体調を心配させたりしてしまった。
 結局教室の前まで並んで来てしまったのは、前日の俺からしてみれば迂闊にもほどがあると怒鳴りつけたい気分だっただろう。
 だが、そんな小さなことにこだわっていられない。
 何かあったらコロッと意見が変わりそうな気もするが、それもいつもの事だ。失敗を恐れていては新しいことは何も出来やしない、と真面目ぶったことを考える。
「拓真のバカっ!」
 突然、背後からの衝撃に、俺はたたらを踏みながら前につんのめる。
「なんだぁ?」
 それなりに痛む背中に眉をしかめつつ振り向くと、
「あたしは、あたしは拓真がそんなヒトだったなんて知らなかった!」
 そこには、何故か泣きながらハンカチを引き千切らんばかり噛み締め引っ張っている寛一の姿があった。
「あたしに黙って浮気なんてしてっ! 拓真なんて死んじゃえ!」
「って」
 左手でハンカチを握り、右手で拳を振り下ろす。ダダッ子がするようなグーパンチ。ただ力が篭もっているようで結構痛い。
「おい、ちょっとやめ――」
「死んじゃえ! 死んじゃえ! 死ね! 死ね! 死ねコラ! 死ねコラこのクソが!」
「やめろ」

 パグッ

 八割程度の力を込めた掌底を寛一の頬に叩き込むと、顎のあたりから小気味良い音が鳴った。
 頬を打たれた寛一の頭は九十度ほど瞬間移動したように見え、それからゆっくりとうつむくと、中腰になって膝についた腕で上体を支えている。視界の外ではパウがおろおろしているが、気にしない。
 速攻でうっとうしいことになったか。ま、隠し通せるとも思ってなかったし、いつか必ず起きることならさっさと終わらせておいてもいい。
 時間にして5秒ほど経過し、ゆっくりと寛一が頭を持ち上げた。
「おはよう、拓真」
「おう。で、朝っぱらからなんだ。返答によっては反対側の頬をイくから覚悟しろ」
 寛一は凛々しくも真っ直ぐに俺を見て。
「パウちゃんと仲良く登校してきた拓真があまりに妬ましかったので憂さ晴ら」

「じゃあな、パウ」
「……はあ」
 納得しかねる様子ながらも、パウは頷く。
 最後まで言わさずに反対側の頬をイかせ、俺は置いてけぼりになっているパウと廊下に倒れ付しているバカを置いて教室のドアを引いた。
「グッッッッドモーニングだ! マイブラザー拓」

 パグッ

「…………何故に殴る」
「悪い! 反射的につい殴っちまった。悪気はないんだ。すまん」
 ドアを開くや否や眼前に現われた進吾に驚いたのと、思念体だかなんだかの偽進吾に対する憤りが一瞬で再燃したのと、寛一のアホのせいでちょっと戦闘スイッチが入っていたという諸々の原因が重なり、反射的に進吾にまで掌底を入れてしまった。
 今のは……咄嗟だったから力加減を間違えたような気がする。冗談の域を越えた一撃だったと思うのだが、進吾にはさしてダメージを与えられなかったようで、平然と立って俺に非難の目を向けている。
「まったく、出会い頭に殴りかからんでもいいではないか」
 鼻を鳴らして足音荒く自分の席に戻ろうとする進吾。あいつって結構打たれ強かったんだな。かなり凄いぞ。それとも俺や奈緒に殴られ慣れて痛みに耐性がついたのか?
 と。
 ぐにゃりと進吾が膝から崩れ落ちた。
「うわあああああっ! 進吾!?」
 焦った。
 やっぱ効いていたか。進吾は体格がいいだけのぼっちゃんだからなあ。
「進吾!」
 慌てて抱き起こそうと駆け寄ると、進吾はガクガク震える右腕で親指をつき立て、苦痛をこらえて無理矢理笑ってみせた。
「ナイス、キック……」
 と、くたりと腕が床に落ちる。
「なんで今のがキックなんだよ? わけわかんねえってー!」
 ぐったりしている進吾の頭を抱えて、俺は思わず絶叫してしまった。
「……朝っぱらから……」
 なんともいえない表情で呟いた奈緒の言葉が、クラスメートの心情を代弁しているようだった。

 予鈴が鳴り、ホームルームの時間がはじまる。
 京極さんは教室に入って席につく生徒を一望した後、二人の頬を青くした生徒に視線をとめた。
「相馬と槙原。お前ら、その顔はどうした?」
 進吾が振り返って後方の席にいる寛一を見、寛一が頷く。
「「山崎くんにいじめられました」」
「ちょっと待て!」
 きっちりハモって報告する二人。
 適当なこと言ってんじゃないぞ、という意味を込めて斜め後ろに位置する寛一を睨みつける。妙な顔で返された。……あいつ、遊んでやがるな?
「山崎ぃー、お前、いじめたのか?」
「うるさいので静めただけです」
「そうかー。二人ともあんまり騒ぐなよー」
「「酷っ!」」
 今のは意図せずハモったな。リアクションがパターン化しているからこういうことが起きるんだ。リアクション芸人として今のはマズいな。芸人じゃないけど。
「冗談はさて置き、今日の連絡事項だが――」
 しかも冗談扱いか。視界の隅で進吾が机に突っ伏したのが見えた。すべては日頃の行いの賜物だな。
「――本日から一週間ほど、放課後の部活動は全面禁止になった」
 教室内がざわめく。理由はすぐに京極さんが説明してくれた。
「昨日、駅前通りで通り魔事件が発生したらしくてな。犯人がまだ捕まっていないということで、生徒の居残りを禁止することが今朝の緊急職員会議で決まったんだ。学校も五時には閉めるから、用事がある奴はとっとと済ましておけよ。寄り道もできればやめとけ。この時期は日が落ちるのも早いしな。……今日の連絡事項はそんなとこだ。じゃ、今日も1日頑張れよ~」
 ひらひらとだらしなく手を振って、京極さんがさっさと教室から出て行った。
 途端に教室内が騒がしくなる。
「通り魔?」「なにそれ」「マジなのかな」「ニュースに出た?」「知ってた?」「知らねえ。初耳」「そういえば、お巡りさんが使う立ち入り禁止の黄色いテープ貼ってあるの見た!」「うっそ、ドコよ?」「駅前通りを横に一本ズレたとこ。パン屋の裏の有料駐車場」「あそこかあ……」「えっ、場所知ってるの?」「どこ?」
「駅前通りに松傘ってパン屋あるじゃん。その裏にある――」
 教室内のあちこちで交わされる話から、自然と情報が耳に入ってくる。に、しても黄色いテープが貼ってあった=通り魔事件の現場、ということにはならないだろ、という突っ込みは野暮なのだろうか。可能性は高いだろうが、それでも五分といったところではないだろうか。ただ、気にはさせられる情報ではある。
 よし、信憑性のある情報源に聞いてみよう。
 女関係のホラ話で自慢するのが常であるため狼少年扱いされて久しいが、こと噂話の真偽を手っ取り早く知りたいなら寛一に効くのが一番なのだ。
「というわけで、どうなってる?」
 空いていた寛一の前の席に座り、訊ねる。
「園山奈緒のスリーサイズか? それは上から゛っ」
「かすった! かすったぞおい今!」
 どこからともなく飛んできた英和辞典が、すかさず寛一の喉を潰す。思わず席を立って物体が飛来した方向を見ると、投擲姿勢を崩さないままでこちらを睨みつけている奈緒の姿があった。なんでこの騒々しい教室内で、これだけ距離があるのに聞こえたんだ? 
「山崎ぃ……覚悟は完了しているのよね?」
 新たな弾丸として国語辞典を握り締めて立ち上がる奈緒。きっと背中には鬼の一文字を背負っている。絶対だ。
「違う! 誤解だ! 寛一が勝手に口走っただけだって!」
 と、寛一を見ると、衝撃で椅子から落ちたまま、ぐったり動かなくなっている。ちっ、これじゃ咄嗟に盾にすることも出来ない。火種を撒いておいてのうのうと気絶するとはなんて身勝手な。
「あんただけは、この手の話題を振らないと信じていたのにね……」
「信じてくれって! 俺じゃない! 俺は無実だ!」
 気付かれないよう気を配りながら体重移動して、いつでも走り出せるよう備える。
「…………」
「本当だって!」
 結局、教師がやってきて一時間目開始を宣言するまで、俺は奈緒の誤解を解くため口滑らかな演説を打つはめになった。

 一時間目終了後。
 先ほどの話の続きをと思い、寛一に話し掛ける。
「よう」
「ん、なんだ?」
「さっきの続きなんだけどな」
 言葉の途中で、横から現れた奈緒が寛一の襟首を掴んで、有無を言わさず強引に立たせた。
「ごめん、山崎。ちょっと寛一貸して」
「ああ、いいぞ」
 表面上は普段通りなのだが、内面に燻った炎のようなものを感じ取った俺は、素直に承諾の意を示す。
「まず俺に断りを入れてくれるのが正しいし個人的にも嬉しいんですが」
 寛一の意思は無視されたまま、連れだって教室から出ていった。
 なにがあるんだ、と寛一の席に座りながら二人が消えた出入り口を眺めていると。
「なんであんたが知ってんのよ!」
 奈緒の絶叫が轟いた。
「ちなみに春の健康診断から3センチ増えたって部屋で飛び跳ねて喜んでいました!」
 奈緒に負けないくらいの大声で、寛一が何かを訴えている。
「なんであんたが知ってんのよ!?」
 絶叫が悲鳴に変わった。
「嫌いな牛乳を毎日飲んで、バストアップの体操を――」
「な・ん・で!(ドスッ)あ・ん・た・が!(ゴキッ)」
 悲鳴が怒声と打撃音の二重奏にレベルアップ。
 おそらく、誰かに聞かれるのが嫌で廊下に連れ出したんだろうが……別の恥を喧伝することになったようだ。
「なあ」
 隣りの席で次の授業で使う教科書を用意していた男子に話し掛ける。
「なにさ」
「寛一は何を聞かれてたんだと思う?」
「あれじゃない? 相馬が園崎さんのスリーサイズを本当に知っているのかって話。朝の続きでしょ」
 それで最初の絶叫に繋がるのか。ということは……なるほど。
 俺が納得していると、その男子が声を潜めて、
「ねえ山崎。後で相馬からスリーサイズ聞いたらさ、俺に教えてくれない?」
 期待に満ちた表情でそんなことを言って来た。俺も声を低くして言い返す。
「……直接聞けばいいだろ」
「ヤだよ。園崎さんにバレたら怖いもん」
「俺だった嫌だ。ああいう時の奈緒って攻撃に一切手を抜かないんだぞ」
 囁きあっている間も、奈緒がサンドバッグ打ちに励んでいる音が壁向こうから届いている。どちらともなく廊下の方に視線を向け、顔を見合わせ怯えた表情になる。
「わかった。覚悟ができたら自分で聞くよ」
「そうしてくれ」
 チャイムが鳴り、奈緒が額にうっすらと汗を浮かべて戻ってきたが。
 授業が始まっても、寛一の席は空いたままだった。

 結局。
 寛一が姿を現したのは、昼休みに入ってからのことだ。
 手土産とばかりに一早く購買で食料を調達してきた寛一は、何食わぬ顔で教室の一角に陣取っている。
「今日も俺は生き残った」
「無駄に死線をくぐろうとするなよ……」
 いつものように登校途中にコンビニで買った調理パンを噛み締めつつ、俺は嘆息混じりに忠告した。寛一がそこはかとなく誇らしげなのは何故だろう。喜び勇んで地雷を踏むような阿呆に、体の頑強さを自慢されたってちっとも羨ましくならないんだがな。
「ふっ……まるで理解できていないようだな」
 進吾は右の人指し指で眼鏡を押し上げるふりをして、過剰な仕草で俺を指差した。
「マイブラザー拓真よ! なんっと嘆かわしいことだ! 時として蛮勇も敵陣を裂く光明となろうことも理解できないようでは、世界制覇も夢のまた夢だぞ!」
「ちょっと寝不足でさ。それで保健室で仮眠してたんだよ」
「奈緒をサボる口実にするなんていい度胸してるな」
「いや、我輩一人にされるととっても寂しいのだが。兎のように死んでしまうやもしれん」
 自分の発言を豪快にスルーされ、幾分肩を落とす進吾。
「兎が寂しいと死ぬっていうのは間違いなんだってさ。個で生活していて縄張り意識が強いから、集団生活に慣れていない兎は群れに突っ込んでもストレスで死ぬこともあるらしいぞ」
「そうか。じゃあ群れるのは体に良くないな。頑張って生きてくれ、一人で」
 一人で、を強調して告げると、落ちた肩を内側に寄せ、弁当箱を持って自分の席に帰っていった。ちょっと冷たいかとも思えるが、勢いだけで分かり難いボケをするから突き放す流れになってしまうのだ。
 あんまり憐れに見えたのか、奈緒が進吾に声をかけている。どうやら自分のグループに入らないか、と誘っているようだ。
 ……進吾が勝ち誇った顔でこっちを見てやがる。あのツラはなんか腹立つな。
 寛一も同じ気持ちだったのか、唇がひん曲がっている。寛一の背中を割り箸で指し、
「どうするよ?」
「後でシメとくか」
「オケ」
 本人の預かり知らぬところで物騒な予定が加わった。シメると言っても二人でちょっとイビるくらいだから問題ない。
 奈緒が関わらない限り、まず酷いことにならないのだ。それは逆に奈緒がどれだけ酷いことをしているかという証明になる。奈緒め、つくづく恐ろしい存在だ。
「ところでさ、朝の話ってなんだったわけ?」
 卵焼きを咀嚼しつつ、寛一がのほほんとした表情で訊いて来た。さすがリアクション芸人、ただのコンビニ弁当なのに格別美味そうな表情で食っているな。将来は旅番組のレポーターになってあんまり美味くもない郷土料理食って「独特な味ですねぇ~」なんてお茶を濁すコメントを量産するといい。
「朝? ……あ」
 そうだ。寛一に聞こうとしていたことをすっかり忘れていた。
「大したことじゃないんだけどな。駅前通り、パン屋裏の駐車場の話だ」
「あれか、朝のホームルームの。飯時の話題じゃないけど、それでも聞くか?」
 やはり情報を仕入れていたか、と返事と二つの意味で頷いた。
「やっぱり通り魔の現場はあそこなのか。って、グロいのか?」
「死人が出てくる話が飯時に合うとも思えねーんだけど」
 確かに。だが、それで好奇心が収まるはずもない。
「いいから話してみてくれ。後悔は聞いた後でする」
「一応言っとくけど、他言無用な。約束できるか?」
 俺を見る寛一の目は笑っていない。口止めしておかなきゃならないような話題なのか?
「わかった」
 寛一は頬杖をついて顔を寄せ、声のトーンをぐっと下げてきた。聞き取るために俺も顔を近づける。男の顔をドアップで見ながら食べるメロンパンは、普段よりもあからさまに不味い。はたから見ると間抜けな光景だろうなあ、とメロンパンを胃に納めつつ耳を傾けた。
「有料駐車場で起きた通り魔事件、被害者は27歳の女性。車に乗るため鍵を開けているところを襲われた。なんでも、血まみれの男が包丁持って近づいてきたもんだから相当慌てたらしい」
「……そんなことが起きるのか? ホラー映画の世界だろ」
「真偽は当人に聞いてくれ。俺は人づてに聞いただけなんだから。で、車に乗り込んだときにはもう車の横にまできて、そいつは包丁やら拳やらで窓をガンガン殴りまくり。パニックになった女性はアクセル踏み込み全開バックやらなんやらで、駐車場の車二台を破損させて逃走。……ってのが、警察署に駆け込んだ女性の話だ」
「へえー……まるで作り話だな」
 普段の寛一が冗談混じりに話していたなら絶対に信じなかっただろう。誰にも聞かれないように声をひそめ、口止めしてくるほどの話なのだから笑い捨てることもできない。
「緊急手配で駆けつけたポリは、駐車場で襲ってきたと思われるそれらしい人物は発見したんだよ。死んでたけど」
 唾を飲み込む。
「結論から言えば、その死体では絶対に女性を襲うことは出来なかった。司法解剖の結果、死因は頭部へ鈍器への一撃、即死だったらしいけど、そいつが死んでから48時間以上経過していたそうだ」
「死体が動いたってことか……?」
「襲われたっていう女性が嘘をついているって可能性もある。というか、その可能性が高い。けど、襲われたという可能性が否定しきれない理由が一つある。その死体が持っていた包丁が、女性が乗っていた車内にあったんだよ――車のリアガラスぶち抜いて、座席も貫いて女性の背中にも半ばまで刺さった状態で」
「投げた包丁が刺さった、ってことか? ……人間技じゃないぞ」
「まあな。まだ調査中だから詳しいことはわからないらしいけど、強い力による一撃をリアガラスに加えたのは間違いないみたいだ。金槌か何かで思い切り叩けば、ひょっとしたら一撃で穴くらい開くかもしれない。で、後部座席から刺せばそれっぽく見えるかもよ」
 ……確かに、そうかもしれない。納得はし難いが。
「警察署に駆け込んで来た女性も、背中が血塗れだったから即病院行き。……で、これからが一番重要なんだけどな」
「これ以上話すと不味いことがあるのか?」
「それがあるんだよ。救急車で運ばれた女なんだけど、病院に到着して救急車から担架で降ろしたタイミングで逃げ出して、今度は彼女に緊急手配がかかったというわけだ。ちなみに、車の座席に残っていた血痕を見る限りじゃ、失血で走れるような体力は残っていなかったはずらしい。けれど女性は警察署に駆け込んで事件の概要をしっかりした口調で話していたし、追いかける救急隊員を振り切るほどの脚力を見せた」
「…………」
 誰が被害者で、誰が加害者なのか。なんとも曖昧な話だ。おまけに意味不明なことが多すぎる。
「あんまり聞きたくないけど……誰から聞いた話だ?」
「兄貴」
「うわあ、最悪だ」
 俄然、今の話に真実味が加わった。
 詳しくは知らないが、寛一の兄は大学生の身で情報屋のようなことをやっているらしい。らしい、というのはあくまで想像でしかないからだ。一度も詮索したことはない。興味はあるが、興味だけで聞いていい事柄ではないと判断してのことだ。暴れまわっていた中学時代には、罠にはめられたり助けてもらったりと色々あったが、過去の話だ。
「順当に考えれば、女が男を殺したってことだろ。他のは全部、殺しを誤魔化すための大掛かりな芝居だろうな」
 寛一の言葉はもっともで、昨日までの俺なら素直に同意していただろう。
 だが、今はできない。
 起こり得ないことは、起こり得るはずがない。逆に、出来ることは必ず出来る。現実に起きたことなのだから、どんなに偶然が絡んでいようが必ず科学的な説明がつくはずだ。
 それでも、俺の頭の中には、説明のつかない可能性が頭から離れてくれない。
 放浪大図書館。
 あそこで起きた数々が、科学的に説明できるのだろうか。放浪大図書館という不思議があって、死体が動くという不思議がないと言い切れるだろうか。
「……もしかしたら、その女はもう死んでいて、死んでいるのに誰かを殺そうとうろついてたりしてな」
 頭を過ぎった想像を、そのまま口に出す。
「ははっ、だったら凄いな。まさしく映画の世界だ」
 まるで信じていない口調で、寛一はにやにや笑っている。
「でもさ、自分に疑いがかかるようなことをわざわざするか?」
 俺の疑問に、寛一は腕を組んで考え込む。
「まあな……、確かにそこは俺もおかしいと思う。だからって、死体が動くなんて結論にはどうやったって結びつかないぞ」
「そんなことは分かってる」
 なんとも、嫌な感じだ。
 不可解な存在が危険を撒き散らしているかもしれない、と考えるだけで落ち着いていられなくなる。
 理不尽。
 俺が子供の頃に受けた苦痛は、まさにその一言で現される。殴る拳が痛むことはないのに、殴られた頬の傷が治っても、痛んだ記憶はなかなか消えないのだ。体験して痛感している。理不尽を与える誰かを、俺は絶対に許せない。
「おい。まさか……また悪い癖が出てきたんじゃないだろうな」
 内心で苛立っていると、寛一が困ったような顔つきで睨んできていた。
「悪い癖?」
「女を捜して捕まえる、とか言い出すってことだよ」
「ああ……」
 それはいい考えだ。自分の手で決着がつけばスッキリできるに違いない。
「しまった、やぶ蛇だったか」
 俺の表情を見て余計なことを口走ったと知り、寛一は舌打ちしてぼやく。
「いや、そんなことはしないって」
 俺はかなり乗り気になっているのを自覚しつつ、首を振って否定した。
 見知らぬ誰かよりも、ささやかな自己満足よりも、俺には助けになってやりたい人間がいたというだけだ。
 だけど、助けたことで自分に価値があることを認めたいということだから、結局は自分のためか。
 そうだ。いつだってそうだ。俺は自覚している。俺は自分のためにしか力を尽くせない。
 それが間違っていても構わない。否定されても気にしない。
 ただ。
 それでも。
 いつかは。
「誰かのために……なあ」
「なんの話だ?」
「いや、なんでもない」
 ふとした瞬間に、心の間隙が暗澹とした気分で満たされてしまう。
 他の誰もが許さなくても、自分が許していればいいと考えていた。だが、自分を許せなくなった時、俺はどうしようもなく、心細く、弱くなることを実感した。
 己のみ、というのがなんと脆いものなのか。
 ああ、ダメだダメだ。踏ん切りはつけたはずだ。自分が許せないのなら、許せるようにすればいい。許せない原因を叩き潰すよう行動に移せ。
 どんなに打ちのめされようと、立ち止まることだけはしない。他人はどうか知らないが、俺は立ち止まってはいけない。
 常に前を向く姿は格好いいじゃないか。
 記憶もおぼろげないつか。そんな誰かの姿を見て、格好いいと感じた。
 それに俺の姿が重なるなら、そんな格好いい俺なら、俺は俺を信じられる。立ち直れると。生きる価値があると。
「よし」
 パンの空き袋をくしゃりと握りつぶし、俺は席を立つ。
「どこか行くのか?」
 寛一が箸を止めて見上げている。
「ああ」
 短く応えて席を離れる。
「よくわかんねーけど、無茶すんなよ」
「よくわかんないなら、そんなこと言うなよ」
 背中越しに言葉を交わし、教室を出た。

「どうぞ、っと」
 ドアをノックすると、中から男の軽快な返事が返って来た。
「失礼します」
 ドアノブを押すと、二つ並べた長机の周囲で4名の男女がそれぞれ弁当とプリントを広げていた。
「えーと君は見たことがあるなあと……ああ! 『ミックス』のマネージャー! いやあ、学祭のステージは盛り上がって良かったよいや本当に。先生には怒られたけど許可出して良かったな、と! うん!」
「会長、落ち着いてください」
 痩身で顔色の悪い眼鏡をかけた男子生徒を、隣りに座っていたぼっちゃん刈りの少年が諌めている。二人は桜ノ宮校生徒会の生徒会長と書記だ。
 俺が訪ねたこの場所は、生徒会室である。
 生徒会室は生徒会役員の仕事場であるが、同時に私物化し憩いの場とするのが桜ノ宮では伝統であるという。室内をちょっと一瞥するだけで、明らかに学校では必要ない、むしろ持ち物検査で没収されるであろう品々が散見できる。ここは桜ノ宮校に対して治外法権を約束されているため、例え恐怖の生徒指導こと小宮山剣であろうと、生徒会室内に対して言及することは不可能らしい。数年前に起きた教師陣による生徒会介入によって、生徒会の学校側への影響力が削られたのだが、それに対するささやかな抵抗の成果だそうだ。
 それらの情報を俺に教えてくれた生徒会副会長といえば、ぽかーんと口を開けっ放しにしたまま俺の顔を凝視していた。
「春」
 呼ばれて我に返ったようで、何か言おうと口をぱくぱくさせた後、ようやく声を出した。
「なんの用ですか」
「お前にちょっと話がある」
「ハルはありませんよ」
「俺があるって言ってるだろ」
 唇を尖らせ、上目づかいで俺を見る春。俺もたいがい怖気づいていたが、春が慌ててくれたおかげで少し心にゆとりが生まれていた。
「なんの話かな、と僕は思うわけなんだけど、どうだろう。いわゆる痴情のもつれ、と言ったなら僕は驚いてしまうね」
「あたしは、彼が昨日告白したんだけど、ハッピーが驚いて逃げちゃって、それで返事を聞きに来たんだと思うかなー」
「急ぎの用があっただけじゃないですか?」
 生徒会役員がそれぞれ好き勝手言っていて、非常にいたたまれない。それは春も同じらしく、そわそわと落ち着かない様子だ。
「とりあえず、外で話すか」
「……はい」
 ためらいながら頷いた春を連れて、俺は昇降口にたどり着いた。話す内容からして、人気がない方がいいと思ったからだ。
 喧騒の隣りにいるような、昼休みから外れてしまったような雰囲気がここにあった。
 春は俺と顔を合わせずらいようだが、それは俺も同じだった。互いに顔を合わせないように壁に並んで寄りかかる。
 二人の距離がいつもより少し開いているのが、ぎこちなさを形にしたようで少し面白い、なんて考えられる自分に少し笑ってしまう。
「とりあえず話っていうのは、昨日のことじゃない」
「……そうなんですか?」
 意外だったようで、声に驚きの感情が含まれている。
「だが、関係はしている」
「…………」
 沈黙が返って来る。
 無言のまま並んでいるのが耐えられず、俺は言葉を続ける。
「お前は……」
 パウを狙っている連中を知っているな? とは口に出せなかった。
 股間から頭頂まで、冷たい塊が脊髄を通った。どうしようもないほど当然と確信するほどに、危険が迫っていると全身が叫びを上げたのだ。
 悪寒や怖気に似て非なるもの。この感覚は知っている。
 初めて刃物を持った相手に襲われたとき。両手の指に納まらない人数が俺に敵意をもって囲んできたとき。背後から奇襲を受けたとき。その直前に決まってこの感覚があった。
 自分でも超能力じみていると飽きれてしまう勘だが、これは近くにある危険を教えてくれるだけで、どう行動すれば回避できるかまではわからないのがほとんどだ。
 この場合は……訊くな、訊いたらマズい、ということだろう。
 俺は胸中で苦笑した。
 俺の勘もそろそろ精度が落ちてきたな。よりにもよって春相手に危険を感じるなんてどうかしている。
「どうかしたですか?」
「いや、なんでもな、」
 不自然な沈黙を誤魔化そうとした言葉は、再び途切れてしまった。
 昇降口の外に投げ出されていた視線が捉えた異様な光景に、俺の意識は全てもっていかれてしまったのだ。
 真正面から、豆粒程度の大きさの何かが向こうに見える塀の影から飛び出し、弾丸のような速度で飛び込んでくるまでの一部始終を視認していた。
 すぐ横に解放されたドアがあるにもかかわらず、そいつはガラスやドアのフレームを紙のように千切り飛ばして直進してくる。
 それが現実であると俺はどうしても認められないまま、そいつは俺の眼前まで近づき。
 直角に吹き飛んでいった。
「拓真ちゃん!」
「……え?」
 俺を叱咤する叫び。分かっている。春の言いたいことは理解している。それなのに答えが導き出せない。子供だましの間違い探しに悩んでしまっている焦りと苛立ちが、空回りしている思考をなおさらに空転させてしまう。
「キキッ!」
 影が獣のような鳴き声を飛ばす。
 実際にそいつの外見はランニングシャツとカーゴパンツを着ているのがせめてもの人間らしさで、全身を黒い剛毛に覆われていた。口は頬までさけているが、狸にも見えなくない。
 廊下を十数メートルほど転がっていく獣の姿を、棒立ちのまま唖然として見送る。
「コウオウ!」
 一喝と共に、春がどこから取り出したのか、左手に持った一枝を獣へと突きつけた。枝全体からは一秒にも満たない間に蕾は膨らみ花が咲き、そして風もないのに廊下の奥へと散っていく。
 花びらの奔流が視界を埋め尽くす。
 まさに花吹雪、と感動している自分がいる。脳の髄が痺れたような感覚を払い落とせないまま、俺は傍観者と化してしまった。そんなはずはない、と理解できているのに。
「カッ! カカカカッ!」
 笑いとも威嚇とも判別しにくい泣き声が近づいてくる。
「シラウメ!」
 続いて右手に構えた枝からは、白い花が咲いては散る。赤い波を追うように、白い波が続く、その隙間。
 黒い塊が見えた。
 たった一跳びで白い波を飛び越え、天井を使った三角跳びをする人間大の動物。
 なにもかもが出鱈目だった。
 奇術のような春の行為。俺を真っ直ぐに見る獣の、真っ黒い、大きな瞳孔。俺に向かって、牙を剥き、爪を伸ばして襲い掛かって――
「――――」
 何かが、頼りない思考の中で明確な存在感を持って現れた。
 一刻一秒を流れていく現実から、頭に残っていた単語をさらう。
 牙。爪。襲い掛かってくる。
 ……敵か。
 敵意を認識した瞬間、思考が綺麗に一新された。
 敵だ。
「……けやがって」
 まとまりのなかった思考が、ただ一点にのみ収束し、静まる。
 拳を握り、左足を前へ半身の姿勢。僅かに膝を曲げ、腰を落としてバネを溜める。異常な存在への恐怖よりも、ひたすらに子供じみた反感から、俺は俺を取り戻す。
 敵意には敵意をもって応える。
 それ以外は考えにない。保身もない。俺の拳が通用するのも怪しいし、化け物狸に爪で引っかかれるなり牙を埋め込まれるなりすれば致命傷になりかねない、と判断しているにも関わらず――
 ――そんなことはどうでも良かった。とにかく迎え撃つその行動さえ起こせればいい。
 腕を伸ばして突き出してくる黒く長い爪。その動作は速く反応するのは難しいが、目で追えるスピードではある。すり足でわずかに位置をずらし、ベストのミートポイントに立ち。
「くらえ――!」
 溜めていたバネを解放。地面を押す力に加えた、渾身の拳をかち上げるように狸面の鼻先に叩き込む!

 ガスッ!

 硬い。
 まるで鉄塊を殴っているような手応えを無視し、打ち抜くための力を緩めず篭める。
 気持ちいいほどに決まった一撃は、狸を押し返し、それどころか吹き飛ばし――ていない。
 吹き飛んではいる。
 だが、どうやらそれは毛皮を貫いている複数の白い槍の威力のようだ。
「クカッ! クカカカカカッ!」
 獣が身をよじって両腕を振り回し、白い槍を砕く。砕けたように見えたそれは、散っていく花びらの姿をしていた。
 独力で思い知らせてやれなかったのを残念に思いつつも、俺の意思を見せつけたことで溜飲は下がっていく。
 と、引いていく高揚の代わりのように、殴った右拳が痛み出す。
 顔をしかめるだけで痛みに耐えていると、襟下を引っ張られて無理やりに下を向けさせられた。
「無茶をしないでください! 無茶を! 分かりましたか! 分かってますか!?」
 春が顔を真っ赤にして怒っていた。枝を持ったまま俺を揺さぶってくる。こいつにこんな力があったのか、と驚きつつも、顔にチクチクと刺さる枝から顔を背けようとする。
「ああ、悪い悪い」
「真剣みが足りてません! もっと真面目に――」
 襟を掴んでいた手で俺を突き飛ばし、右腕を掲げる春。再び蕾をつくり花が散るまでをビデオで高速回転させたような勢いで繰り返し、
「おごわっ!」
 溢れ出した白に飲み込まれた。
 目も開けていられない密度で花びらが押し流されていく。そんな中でも断続的に激突音が続いており、なんとか春の姿を捕えようと目をこらす。
 薄れていく花びらの中で、ようやく捉えた対峙する三つの影。
「……増えた?」
 ようやく視界が晴れた頃には、狸顔に加え、新たに女物の赤地の着物を着た猫頭が立っていた。白い毛並みに黒と茶のぶち模様は、典型的な三毛猫のそれだ。
 昇降口は花びらにおおわれ、すっかり風景を一変させている。
 いよいよもって、眼前の風景が現実離れしてきた。白い舞台に立つ、異形二つと幼なじみ。
 幸いなことに、周囲には俺たち以外の人影はない。こんなとこを誰かに見られたら言い訳不能だ。花の絨毯はともかく、いや、それもかなりどうかと思うが、目の前の狸男と猫女は特殊メイクだなんだといくら言葉を繕うとも誤魔化しきる自信はない。
 そもそも、説明している間も奴らが大人しくしてくれるかどうかも怪しいところだ。
「春」
「なんですか」
 油断なく二人から視線を逸らさず、春が応える。
「俺はどうすればいい?」
「…………」
 片目だけで振り返る春の表情には、満面の驚きが映っていた。
「知っていたですか!?」
 本来なら慌てふためいて何がどうなっているのか説明を求めるのが、巻き込まれた一般人としては正しい姿だろう。
 驚き混乱はしたが、それも落ち着いた。それもこれも、放浪大図書館での異常な経験があってのことだ。よもやこんな役立ち方があるとは思わなかった。
「俺は何も知らない。だけどお前は色々と知ってるんだろ? だったら俺が勝手に動くより、お前の指示に従った方がこの場はうまくいくはずだ」
「殴りかかっておいて、なにを今更言ってるですか」
「それは言わない約束だろ」
 春が下唇を突き出して、そんな約束したことないです、と不満げにぶつぶつ一人ごちてから俺を一瞥し。
「……この場から動かないで下さい。何があっても」
 言い終え、春が狸へと向き直る。口元を引き締め、普段と比べればそれなりに威厳のある態度で、
「この地を守護する一族の代表として問います。所属と目的を告げなさい」
 春が詰問口調で告げる。
 拒絶するような無言に、言葉を接ぐ。
「縄も張らずに襲ってくるとはどういう了見ですか」
「カッ!」
 狸が口の切れ間を深くし目を細め、表情豊かに笑い飛ばした。
「決まっているだろう? 縄張りを作ってしまえば、それだけで気付かれてしまう。俺たちにとっちゃ夜の灯り火のようなものだからな」
 初めて狸の声を耳にしたが、人間の、そこらの男性とまるで違いはない滑らかな日本語だ。ただでさえ奇妙な存在が、違和感を増していく。
「そんな理由で……!」
「キッ! カッ!」
 怒りに震える春をあざ笑うように狸が奇声を発し、口元をやや引き締めた。
「問答している時間も惜しい。さっさと終わらせてしまおう」
 言葉尻を掴むように、狸が突進してきた。
「春の縄張りは、ただの縄張りとは一味違います!」
 春が枝を振ると、床に積もった花びらが震え、隆起するかのように白いトゲが飛び出してくる。腕の太さはあるであろう十を越える数の槍を、下駄箱や天井を飛び回って次々にかわしつつ近づいてくる。
「カッ!」
 矢のような鋭さで飛び込んできた狸の突き。
「はっ!」
 慣性の法則からすれば春の小さな体など吹き飛んでしまいそうな一撃を、揺らぎも後退せず構えた枝で受け止めた。
「狸の変化如きに力負けするハルじゃないですよ……!」
 ざわり、と床に積もった花びらが波打ち、太い刺が飛び出してくる。
「きゃっ!」
 が、春を蹴った反動で距離を取ると同時に刺をかわし切ってしまう。
 春が追撃しようと左腕を振り上げた。そこから赤い花びらが溢れ出すのを確信していたが、春は振り上げた姿勢のまま動きを止めていた。
「……くっ」
 もどかしそうに腕を下ろしてしまう。
「力ではかなわない。それは当然。だからこその場所だ」
 狸の背後から、男子生徒が三人ほど横に並んで歩いてくるのが見えた。
 当然、向こうもこちらが見えているということだ。俺は慌てて春に問いかける。
「どうする春! 見られたぞ!」
 枝を構え、狸から目を離さずに春は応える。
「大丈夫です、見えてません。春が縄張りを張りましたから、普通の人間には春たちが何をしようと絶対に気付けません」
 春は忌々しげに狸を睨んでいると、狸が頷き補足する。
「だが、それだけでしかない」
 すぐ横にさしかかっていた男子生徒の一人に向かって、爪を振るった。
「って」
 男子生徒がうめき、手の甲を見て驚いた。
「ってー……。なんか切れた……」
 言われ、横に並んでいた二人の男子生徒が、血の染み出す手を見て驚いている。
「はあ? なんで?」
「いや、わかんないけど……。ってえな……」
「うへぇ……、結構血が出てきてんな。保健室行くべ」
 三人組はそのままこちらへ向かってくる。保健室はこの廊下の先にあるからだが。
 そのすぐ背後を狸男がついて歩いてくる。
「安心しろ。人質にするとは言わない」
「でも、盾にはするんでしょう?」
 春の不満げな問いかけに、
「当然」
 両指の先から、爪を一際長く伸ばし、狸が目を細めて笑った。
「なら、盾をよけるだけです!」
 構えていた枝が、急激な成長を開始する。指向性を持って成長した枝先は、放物線を描いて男子生徒の頭を越え――
 ――狸の頭を串刺しにした。
「えっ」
 あまりにあっけなく決まったため、春が驚いている。
 男子生徒が少し早足で、怪我をした男子生徒を気遣いながら保健室を目指している。
「…………」
 春は油断なく狸と猫女から目を離さない。
 彼らが通り過ぎた瞬間。
 脈絡もなく唐突に、狸が地蔵の姿に変化していた。
「しまっ――」
 春が背後から受けた蹴りで、昇降口から外へ叩きだされた。
 その春に、影のように追随して跳んで行く男子生徒。
「くっ!」
「カカカカッ!」
 男子生徒の口から、例の鳴き声が響き渡る。
 二人になった男子生徒は、最初からそうだったかのように平然と歩み去っていく。おそらくはその通りなのだろう。
 日の光の下で、男子生徒の姿が狸のそれへと変わり、春が枝を振るい赤い花びらを舞わす。
 だが、花が舞った頃には狸は素早く春の懐へと飛び込み、
「きゃああっ!」
 下駄箱に阻まれた狭い視界から投げ飛ばしてしまった。
 一瞬、狸が俺を一瞥し、春の消えた方向へと飛び去ってしまう。
 取り残され、静かになったことで再び聞こえてきた遠くの喧騒。
 目を閉じれば日常が戻ったように思えるだろうが、白い絨毯はそのまま残っているし、目の前には、これまで一度も動いていない猫女の姿もある。
「……ああ、これはマズいな」
 じっ、と眼差しだけを変わらずこちらに向けてくる猫女の存在感に耐えかね、俺はわかりきったことを言葉にする。
「お前は、俺の敵か?」
 念のため訪ねてみる。予想通り、というか期待通り反応がないことに少し安心した。
 それにしても、案外落ち着いた声が出せるものだな。我ながら感心する。
 未知の存在を前にした恐怖はある。それが間違いなく俺の敵であろう立場であることに緊張もする。眠っている間だけではなく、目覚めているときにまで浸蝕をはじめた非日常に対する動揺は確かに胸の内に感じている。
 それらが渦巻いている思考でも、しっかりと自分を保って考え、動くことができている。これも慣れなのだろう。
 だから言ったろ、リトラル。放浪大図書館での経験は無駄にはならないと。あの時使った意味合いとはちょっと違っているが、気にするな。
 この場にいない誰かに告げ、自らのふてぶてしさに笑う。
 腹は据わっている。
 春にはこの場から動くなと言われたが、当人がいないのであれば仕方がないだろう。襲い掛かってきたら、たとえ適わなくても抗ってやる。
 それで死んだとしても、それはそれだ。戦わずに生きるより、戦って死んだ方がいい。
 ……なんだか普段と比べて捨て鉢に思えるな。気持ちが昂ぶって投げやりになっているのか?
 さて、本格的に戦うことになったらどうするか。妖怪とまともに殴りあったりしたって勝てるはずもないしなあ。
 などと、俺の思索が戦い方に及んだ頃。

 制服の裾を、背中から軽く引っ張られた。

「――――!」
 あまりにも意表を突かれ、俺は思わず背後に肘打ちを撃ちつつ振り返った。
「……いない?」
「ねえ」
 今度は、背後から声がした。か細い少女の声。
 首がツるんじゃなか、というような勢いでひねって背後を確認。
 やはり誰もいない。
「ねえ、お兄ちゃん」
 今度は正面から声が聞こえてくる。弱々しい、かすれた声が、訊ねて来る。
「遊んで?」
 こんなことが出来るのは、間違いなく目の前の存在しかいない。
「……お前だな?」
 三毛猫娘を睨みつけるが、相変わらずの無言。
 代わりに、
「ねえ、遊んでくれないの?」
 やはり背後から、呟くような声。
 足はすくんでいない。だが、足裏が床に張り付いたかのように動かない。
「どっち?」
 変わらず、背後、一歩後ろの位置から声が訪ねてくる声。
「ねえ、どっちなの?」
 三毛猫は口をピクリとも動かさない。ただ、その瞳だけが何かを語りかけるかのように俺だけをずっと見続けている。
「どっちでもないの?」
 ゾクゾクと背筋が震える。狸男が飛び掛ってくる一瞬の恐怖より、謎の存在が姿も見せずひたひたと忍び寄ってくるような今の方が恐ろしい。
 こういう間接的な、なんというか怪談の実体験のような現象は想定していなかった。猫娘に拳を振るう姿は想像できるが、幽霊や亡霊の類が殴り飛ばせるとは思えない。
「くっ!」
 もう一度背後を振り返るが、やはり誰もいない。

「じゃあ、お兄ちゃん で 遊ぶ」

 視界の端で、確かに見えた。
 三毛猫が、着物はそのままに雪美ちゃんより小さい幼女に姿を変えたのを。
 日本人形のような髪型で、真っ直ぐに切りそろえた前髪が俯いている女の子の目線を隠している。ただ、頬から流れる一筋の赤い線が顎を伝い、手に持った鞠を赤く染めあげている様子を見ただけで、もうなにも考えられなくなっていた。
 そいつが一歩踏み出した。コロン、と下駄が鳴った音で、俺は反射的に四肢を力ませた。
「く……!」
 動かない。硬直……いや、金縛りか!?
 ふざけんな! なんの抵抗もせずにやられてたまるかよ――!
「イヤッッハー!」

 ズシャン!

「…………」
 俗な表現をするならば、『せんべい』もしくは『座布団』だろうか。
 ジャバラでもない限り元の形には戻れないであろうほど、少女は徹底的な潰され方をした。
 思わぬ展開から、今更ながらに握った拳も向ける先がなくなり、その場で固まってしまう。
 少女の立っていた場所には、今は俺の胴より大きな手形がついている。鈍い赤色をした、毛むくじゃらのごつごつした手だ。
 あまりな展開に、さすがに理解が追いつかない。
「おう、ヘタレてんじゃねえっつったろ、糞餓鬼」
 手ばかりを注視していたため、その持ち主のことをすっかり忘却していた俺は、聞き覚えのある声にハッとして顔を上げて腕の主を見た。
「お前、この間のチンピラ!」
「……野村だ」
 これ以上ない妥当な呼称だというのに、何が不満なのかチンピラは即座に俺に向かってガン付けをはじめる。異常な大きさの腕も右肩までで、それ以外は白スーツに赤シャツ姿という記憶のままの姿でチンピラしている。
「この糞が――いや、ぼっちゃん。てめぇ、なんか舐めたこと考えてくれやがってませんか?」
 右手を窮屈そうに動かして、チンピラが俺に微妙な敬語を使ってくる。この大きさの右腕じゃ、確かに廊下の中では動かし難いだろう。
「ったく、あっさり化かされてんじゃねぇよ……」
 チンピラが拳を握り締め、腰溜めに拳を構える。体と右腕の大きさがあまりにアンバラスで、まるで木の幹を構えているようにも見える。
「おう、そこの人形壊すから、ちょっとどいてろや。邪魔」
「人形?」
「石人形だ。それぐらい分かれタコ」
 ようやく地蔵のことだと合点がいく。しっしっ、とぞんざいな態度で左手で払われるが、俺は大人しく横にどける。態度はともかく、チンピラが俺を助けてくれたのは間違いない。
「……よけたな?」
 にやり、と笑ったチンピラの。
 頬が裂けた。
 直感的に何か致命的な失敗を犯してしまったことを確信するが、俺の一挙動すら許さず丸太突が俺の眼前まで迫る。
「だぁら化かされんじゃねえっつってんだろボケが!」
 背後から、一喝と共に腕が伸びる。
 チンピラと同じ腕が、目の前に迫っていた拳から腕、そしてチンピラの体を全て纏めて粉砕してしまった。
 振り返ると、やはりそこにはチンピラの姿があった。同じように歪な大きさの腕を抱えているが、左腕になっている。
「いいか、とにかくそっから動くんじゃねえぞ」
 言われて気付く。俺は先ほどから一歩も動いていない。
「……今のは?」
「あぁ? 化かされたんだっつってんだろしつこいぞ。幻だ幻。ラリってたようなもんだ」
 チンピラは、廊下に転がっていた地蔵を軽々と持ち上げ、握り砕いた。
「これで近場のアンテナは全部潰したから、しばらく今みたいのはねえだろ。とにかくそこの結界から出るなよぼっちゃん。俺らの喧嘩に巻き込まれたら、生身の人間じゃもたねえぞ」
「結界?」
「足元をよく見てみろよ」
 ぞんざいに言い放つと、チンピラの右腕が縮み元の大きさに戻った。肩口から破れている白スーツだけがその名残だ。左肩をさすりながら、ボロボロの切断面を見て舌打ちした。
「くそっ、キートンがおじゃんだ。貫徹でこれじゃ割に合わねぇ……」
 一段落ついたとばかりにチンピラはヤンキー座りで腰を落ち着け、懐から煙草とジッポライターを取り出している。
 俺は言われた通りに足元を凝視するが、ただ花びらが積もっているだけにしか見えない。上靴で花びらをどけて見ると、床の上で何かが動いていた。
「んん?」
 しゃがみこみ、よく見えるよう手で大きく床を払う。出てきたのは、回転する五芒星だ。この上に立っていれば、とりあえず安全ということか。五芒星は花びらで描かれているのだが、触れてみても床の冷たい感触だけで、五芒星には触れられない。不思議なもんだ。
 もう一つの不思議というか妙な存在は、煙草に火をつけて一服していた。
 いくら忠告をされたとしても、今見ているこいつも偽物ではないか、という疑いが晴れない。こうも騙され続ければ5歳のガキでも学習するというものだ。
 だからと言って、黙って立っていられるほど今の情況に対して理解も納得もしていない。チンピラの言葉が正しいなら、この場から動きさえしなければ言葉を交わすくらいの余裕はあるはずだ。情報に飢えている俺は、話半分に聞くことを念頭に置いて声をかける。
「お前も、そうだったのか」
「あ?」
「さっきのだよ。花咲かせたり腕太くしたり……非科学的なことができる連中なのかってことだ」
「いいや、違うな。俺らに科学が追いついていないだけだ。でもって、俺は常識の外にいる。今更ンな分かりきったこと聞いてんじゃねぇよ」
 言葉を切って煙草を吹かすと、怪訝そうに俺の顔を見上げてきた。
「お前、驚かねえの?」
 質問の意図が読めない。とりあえず正直に答える。
「驚きっぱなしに決まってるだろ。俺は常識の中で生きているもんでね」
「……いや。やっぱお前驚いてねえよ。落ちつきすぎだ」
 ついさっき、春も似たようなことを言っていたな。なんだ? 俺のリアクションが弱い
ってことなのか?
「ったく、ややこしいことになってきたぜ――っと?」
 パラララーラー、とチンピラの懐から携帯電話とおぼしき音が鳴った。ゴッドファーザー、愛のテーマか。似合わねー。つか、格が合わねー。
「はい。こっちは――へい、無事っす。ピンシャンしてこっち見てます……ちょっとすんません」
 電話の相手に断り、唐突に顔を近づけてきた。
「なんだその目は。やんのかコラ。俺は昨日の続き今ここでやってもいいんだぞオイ」
 俺にはどういう顔をしていたのかは知らないが、チンピラの勘に触ったらしい。電話の相手そっちのけで因縁つけてきやがった。
「はあ? 突然何言い出してんのお前。うざいから消えてろ」
「俺の力を見てそれだけトバせるたあ身の程知らずもいいとこだな。お前なんぞは5秒で肉片だぞ。それでもやるってのか?」
「やれるもんならやってみろや。ただじゃ死なねえぞ。片目くらいは手土産に持ってっから覚悟しとけよ。あ?」
 互いに一歩も引かずに睨み合う。
 と、携帯電話から何を言っているのかはわからないが、わめき声のようなものが聞こえてくる。
 チンピラは俺を睨んだまま携帯電話を耳にあて、
「へい、なんすか。……や、違うっすよ。……そんなことは……いや、そうじゃなくてですね……すんません」
 一言ずつチンピラの声から険が落ちていく。
「は? いや、いやいやいや違うんっすよそんなことないっすよ滅相もないいやほんとマジでちょっと待っ」

 ドシャッ

「うげっ」
 慌ててなにやら弁解していたチンピラだったが、突然廊下に這いつくばってしまった。
「……なにやってんだよ」
 潰れたカエルのような姿に呆れてしまって、なんだか今のやり取りどうでもよくなってしまう。
「うっせえ……」
 チンピラが不愉快極まりないといった表情で俺を見上げてくるが、間抜けな姿勢のためちっとも迫力がない。
 力なく立ち上がると、埃を雑に払って床に落ちていた煙草を踏み消した。
「とりあえず、片がついたってよ。じゃあな」
「は? おい、ちょっと待てよ!」
 あっさり立ち去ろうとするチンピラを呼び止める。
「ああ? んだよ」
 振り返った顔からは、すっかりやる気が無くなったのか力が抜けていた。
「今の、っつーか今までのは全部なんだったのか教えてくれよ。俺は何も知らないんだぞ。このままじゃわけわかんねえよ」
 俺の問いに半眼で見つめ返し、嘆息混じりに一言。
「……俺に聞くな」
「はあ?」
「俺には答えられねえんだよ。文句は電話の相手に言ってくれ。じゃあな」
「ちょっと待てって!」
 チンピラはポケットに手を突っ込んで歩き出す。これ以上話すことはない、と態度が物語っている。
 あの頑なな態度では、口八丁で情報を漏らさせることは難しい。それなら力ずくだが、腕力に物を言わせられる相手ではない。だからと言って、このまま黙って行かせられもしない。
 追いかけようとしたチンピラの姿を、床に積もっていた白い花びらが舞い上がって隠してしまう。思わず目を閉じて腕で顔をかばうが、花びらの感触はない。薄目を開けて見ると、花びらの絨毯の消えた、普段の昇降口の姿がそこにあった。
「くそっ」
 上靴のまま昇降口から飛び出して、周囲を見回す。校門から玄関前、グラウンドからあの目立つ白スーツの姿は見つけられない。
 あまりにも乱暴に、日常に放り出されてしまった。
 元いた場所に戻ってみるが、非日常の名残としては、足元に残った煙草の灰がらだけだ。
 灰がらを拾って、手近にあったゴミ箱を狙って投げる。軽い煙草では距離がかせげず、ゴミ箱の足元に落ちてしまう。
 これ以上この場にいても意味はない。灰がらを一瞥して、俺は壁に背中を預け、考える。
 おそらく、春は何か言うつもりはないだろう。そのつもりなら、向こうから説明に来るはずだ。チンピラが関係したのなら、半田さんが関係している可能性は高く、芋づる式に麓風会への疑いも深まってくる。訊くだけ訊いてみようと考えてはいるが、正直に教えてくれるとは思えない。
 本気で俺を関わらせたくないと考えているのなら、記憶を操作するということすらやりかねないように思える。よくは知らないが、今の争いを見ている限りじゃ何でもアリのように思える。迂闊に突っ込んだことを聞いて黙らされるくらいなら、ここはじっとしているべきか。
 もう一つの現実を垣間見、関わった事件の概要すら知らないまま、締め出されようとしている。身の安全を考えれば、このまま蚊帳の外にいるべきなのだろう。
 人間の基準とはまるで違う、もう一つの世界があると考えるべきだ。人間では飲み込まれるだけで立つことすらかなわない、圧倒的な法則の支配する世界。
「……まてよ?」
 だったら、どうして俺は記憶しているんだ?
 今更ながらに疑問に思う。放浪大図書館での眠り際、俺は忘れるようにリトラルに命令された。あの世界での命令は絶対だ。それは疑いようもない。
 リトラルにすら想定できなかった何かが放浪大図書館で起きていた、ということか? 
 それとも、もしかして……俺にも秘められた未知の力があって、それが発現したとか?
「くくっ」
 思わず笑ってしまう。そんな都合のいいことがそうそう起きるはずがない。
 壁に預けていた背中を返してもらい、教室に戻ることにする。これ以上考えるには判断材料があまりに足りない。
 片がついた、とチンピラは言った。
「いや、違うな」
 狸男から感じた敵意。間違いなく、俺に向けられたものだ。
「まだ、終わっていない」
 この俺が、敵対する誰かを放置して、目的も理由も知らないまま終われるはずがない。
 当初の目的だった春への質問もまだだ。それどころか疑問が増えてしまっている。
 階段を登る前にもう一度昇降口を見た。昼休みの終わりも近くなり、グラウンドや中庭で過ごしていた生徒がちらほらと戻ってきている。
 そんな、いつもの風景。
 階段を登れば、壁の向こうに隠れてしまうその風景を少し眺めに見つめ、これまでの日常で構築された世界から足を踏み出し、非日常へ続く階段を登っていく。
 ……まあ、既に階段も半ばにいるかもしれないんだけどな。放浪大図書館で館長候補なんて立場になってるし。
 背後に僅かな未練を感じつつ、俺は階段を登り切った。

< 続く >

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