クリスタルの中庭 第一話

第一話

(1)

 ガシャン。
 背丈の倍ほどもある大きな鉄の扉を、僕は閉じた。僕の家の正門だ。その先には、木立に囲まれた屋敷の屋根が見えている。人の気配は無い。当然だ。今この家の住人は、僕一人なのだから。見送る人もなく、僕は学生鞄を持って歩き出す。

「ちょっと……」

「あら?」

 路地で立ち話をしていた数人の主婦が、僕の存在に気付いた。

「……」

 話を中断して僕を見る。嫉妬、羨望、嘲り、そして好奇心。様々な感情の入り混じった目で僕を見る。そんな目で僕を見るな。無言で足早に通り過ぎた。いつもそうだ。外に出れば、よくこんな視線に晒される。

 親父は一代で財産を築いた。事業の内容は、犯罪スレスレの高利貸し。厳しい取り立てに根を上げ、自殺にまで追い込まれた人もいたと聞く。『借りた金を返せないのが悪い』と公言してはばからなかった親父は、気にも止めなかったが。
 大勢の人の恨みを買っていた親父とお袋は、結局その中の一人によって刺し殺された。不思議と犯人を恨む心境にはならなかった。いつかこういう事になると、うすうす思ってはいたから。
 当初この事件はかなり大きなニュースになった。普通両親を殺された子供だったら世間は同情してくれそうなものだが、この場合同情の大半は犯人へと向かった。その代わり僕に向けられたのが例の視線だ。こうして僕は両親から莫大な財産と、それに相当する恨みを引き継いだ。

 電車に揺られながら、ぼんやり外を見ていた。親しい友達もいない僕には、話す相手もいない。元々人付き合いが苦手だったから、友達も少なかった。その数少ない友達とも、事件の後は疎遠になった。僕は家でも学校でも一人だった。
 電車は隣の駅に近づき、減速を始めていた。

 気がつけば、外出する事自体を億劫に感じるようになっていた。家でも外でも一人なら、じろじろ見られないだけ家にいる方がましだ。そもそもこの街に、居場所は無い。それもあって前から引っ越す準備を進めていた。僕の事など誰も知らない、ずっとずっと遠くの場所に屋敷を買った。いつでもこんな生活から抜け出せるのだが、いざとなるとその決断ができないままでいた。

「お姉ちゃん。待ってよぉ」

 底抜けに明るい声が車内に響く。駅のホームに滑り込んだ電車には、数人の新たな乗客が乗り込んでいた。

「もう、日奈ったら。夜遅くまで起きているから朝起きれないのよ」

「だってテレビでサスペンスドラマやっていたから、真犯人が誰か気になっちゃって」

 彼女達はいつも前から三両目の車両に乗る。それが分かっているから、僕はいつも先回りして乗り込んでいる。葉月と日奈。杉原姉妹だ。学校創設以来の美人姉妹と言われているのも、あながち大げさではない。

「あーあ。髪が……」

 そういうと、手櫛で妹の乱れた髪を整えてやる。えへへ、と日奈は笑っている。それを見て、姉の葉月は微笑んでいた。
 そう、彼女の存在こそが、この街を離れられないでいる理由だった。僕は葉月に恋をしていた。口をきいた事など数回しかないが。

 葉月は綺麗な顔に似合わずズケズケ物を言う性格で、派手にふられた男は数知れない。今の僕には、こうしてその姿を盗み見るだけで精一杯だ。それでも、葉月のいない生活なんて考えられない。

 夢の中では、僕と葉月はもっと親密な仲だった。彼氏彼女の仲だったり、同棲していたり。最近のお気に入りは、葉月が僕の屋敷のメイドになる夢だ。葉月は優しく僕に尽くしてくれた。もちろんどんなHな事でもさせてくれた。

「ご主人様」

 あの果実のように色づいた唇が動き、僕にそう告げる。それだけで、僕は天国でもさ迷っているかのような気分になる。

 でも、夢は夢だ。お金があってもできない事はいくらでもある。我に返り、僕は再び彼女の姿を盗み見ていた。

 学校で面白くも無い授業を受け、僕は自分の家に戻ってきた。ふと、門の前に立っている人影に気づいた。
 変わった風貌の男だった。白髪交じりの長髪で、あごにもびっしりと髭が生えている。まるでホームレスか仙人だ。毛に包まれたような顔の中心に、異常な輝きを秘めた目玉があった。その目は、人生を諦め、人間を馬鹿にしているような、ドス黒い光を放っていた。

「やあ」

 知り合いでもないのに、その男は馴れ馴れしく僕に話し掛けてきた。僕は男の脇をすり抜け、門の扉に手を伸ばした。

「おいおい。君を待っていたんだよ。無視する事はないだろう」

「どちら様ですか?僕はあなたに用なんてありませんよ」

 こうした手合いは初めてではない。僕には親しい友達はいないが、金目当ての詐欺師ならいくらでも寄ってくる。

「そう言うなって。是非君に買って欲しいものがあるんだよ」

 やっぱりか。僕は内心ため息をついた。

「別に欲しいものなんてありませんよ」

 そう言うと暗証番号を入力し、指を置いた。指紋照合が終わり、門の鍵が外れる音がした。

「ほう。そうかね」

「ええ。そうですよ」

「可愛い女の子じゃないか。あの子は」

 男は予想もしていなかった事を口にした。ノブに伸ばした手が止まる。僕は、思わず振り返って男を見た。

「話だけでも、どうかな?」

 男はニヤリと笑った。それは生理的に受け付けないような、嫌な笑い方だった。

(2)

 コーヒーカップを男の前に置く。カップは高級品だが、中身はインスタントだ。僕が用意した。事件の後は、家政婦まで辞めてしまっていたのだ。
 男は珍しそうに室内を見渡している。居間は広いが、家具や装飾品の類はほとんどない。

「寂しい部屋だねぇ。引越しでもするのかね」

「ええ。まあ……」

 僕は口を濁した。実は家具のほとんどは新しい屋敷に運んだ後だったのだ。今この屋敷には、最低限の家具しか置いていない。

「あんな事件があったんだ。それも理解できるが……。それでも引っ越さないのは、この街に何か心残りがあると見える」

「……」

 男の顔には相変わらず嫌な笑みが張り付いている。右手で首からぶら下げたアクセサリーを弄んでいた。ふと見る。ピンポン玉ぐらいの大きさの丸い宝石だった。

「ただ水晶玉だよ。ガーデンクリスタルというやつでね」

 僕の視線に気づいた男は、水晶玉を僕の方にかざして見せた。水晶玉の中には、渦のような模様が浮き出ている。まるで銀河系宇宙を封じ込めたような、不思議な光景が小さな玉の中に広がっていた。

「知っているかい?昔の人は、水晶は氷の化石と思っていた。クリスタルという言葉の語源もギリシャ語の『氷』から来ている。中国では水の精が宿っていると信じられてきて、『水精』と書いていた。不思議な力があるから、占いや呪術で用いられてきたんだ」

 男の話を聞きながら、僕は水晶を凝視していた。いくら見ても見飽きない。その小さな玉に、吸い込まれそうな感覚があった。

「おっと」

 男は水晶を引き戻した。僕も我に返る。少しぼうっとしていたようだ。

「これは私の商売道具でね。…私は催眠術師なんだよ」

「催眠術?」

「君が『催眠術』と聞いてどう思うかは想像がつく。だが考えてもみてくれ。人間の欲求とは、要するに他人を自分の思う通りに動かす事にある。恋愛然り、商売然り。人の心を動かす術は、常に歴史の裏側で研究・実施されてきた。それを現代では心理学と呼んだり、催眠術と呼んだりもするわけだ。まあ、余り深く考えなくていい。つまり私は、この催眠術を使って君の願望を叶えてやろう、というのだ。もちろん報酬は頂くがね」

 僕の願望。脳裏に葉月の姿が浮かぶ。妹の日奈を見守る、優しい表情。彼女を僕のものにできたら……。

「そんな事できるわけが」

 僕は頭を振って否定する。騙されるな。うまい話なんて詐欺師の常套手段じゃないか。

「まあ信じられないかもしれんがね。他に方法があるのかい?あの子を手に入れる方法が。すごい美人じゃないか」

 僕自身が催眠術にかけられているのかもしれない。男の言葉は僕の心に染み込んで、ずっと秘めてきた欲望を刺激する。

「ついでに可愛い妹も付けようじゃないか。あの美人姉妹の心を、君の思う通りに変えてやるよ」

 男は甘く囁いた。
 妹の日奈。姉と違い子供っぽい仕草をする少女だが、学校では姉に負けない人気がある。二人とも僕のものにするだなんて。そんな事できるはずがない。そう、普通の方法では。

「報酬は成功してからでいい。これならいいだろう?やってみる価値はあると思うが」

 僕は再び水晶の玉を見つめていた。ぼんやりと鈍い光を放っている。見ていると、頭の中に霧がかかったような感覚に陥る。

「まあ、それなら……」

 僕は重力に負けるように、ゆっくりと男の言葉に頷いていた。

(3)

 催眠術師と名乗る男と会ってから、僕は激しく後悔していた。考えてみればみるほど、胡散臭い話に思えてきた。
 自分で催眠術について調べてみたが、当然の事ながら万能というわけではない。そもそも誰にでもかけられる、というわけではないし、本人が嫌な事は強制できない。

 別に金を支払ったわけではないから実害は無い。しかしもしあの男が何か犯罪まがいの事をして逮捕され、僕の名前を供述するかもしれない。それが怖かった。

「おい。聞いたか?」

 それはあの男と会ってから、二週間ほど月日が経過した頃だった。放課後、鞄を取り出していた僕の耳に、クラスメイト達の話し声が入ってきた。

「杉原さん。アメリカに留学するんだってさ」

「えっ、どっちが?」

「二人とも」

「マジかよ。すげーショック」

「ホントだよ。あーあ、これから何を楽しみにすればいいのやら」

 その話はすぐに学校中に伝わった。どこでも杉原姉妹の話で持ちきりだった。急な話だったが留学の話は本当らしく、手続きも終わっているらしい。両親が学校に連絡してきたのだそうだ。期間は一年。出発は一週間後だった。

 それは一体どういう事だ。色々な事を考えつつ帰宅している途中、不意に僕の携帯が鳴った。

「もしもし、私だ」

 その声には聞き覚えがあった。催眠術師と名乗った、あの男だ。

「ようやく全ての仕掛けが終わったんでね。報告しようと思って」

「まさか彼女達が留学するって話は」

 携帯電話から、男が笑う声が聞こえてきた。低く、不気味な声だった。

「こうでもしておかないと大騒ぎになるだろ?聞いているかもしれないが、彼女達は一週間後には連れて行ける。君の方でも受け入れの準備しておくんだね」

 そう言うと電話は切れた。
 それから一週間、学校はちょっとした騒ぎが続いていた。姉妹の為に、派手な送別会も実施された。

「みんな、ありがとう」

 最後の登校日の放課後。葉月のクラスの様子を窺ってみると、葉月はプレゼントされた花束と寄せ書きを手に涙ぐんでいた。

「外国に行っても、みんなとはずっと友達だからね」

 あんな様子を見ると、僕ですら本当に留学するような気がしてくる。当然、留学するという話を疑う者は誰もいない。こうして学校の有名な美人姉妹が派手に学校を去る影で、ひっそりと僕も同時に学校を辞めた。姉妹と僕との関係を疑う者など誰もいなかった。

 催眠術師の男と共に、僕は葉月達を迎えに行った。ワンボックスのレンタカーは、男が運転していた。男は大胆にも、姉妹の家の前に車を横付けする。葉月達の家は、ごく普通の二階建て住宅だった。

 家の中から両親が飛び出してくる。

「やあ、杉原さん」

 馴れ馴れしく催眠術師が声をかける。

「どうも。お待ちしていましたよ」

「こっちが、葉月ちゃん達のオトコになる人ね」

 男が両親に僕を紹介する。両親が僕を見た。

「ほう」

「まあ」

「あ、あの」

 僕が言いかけるより早く、父親が手を握り締めてきた。

「おお、君が娘達を慰み者にするんだね。よろしく頼むよ」

 父親は、異様な熱意を込めて話し掛けてくる。

「何、学校や近所には留学すると説明しておいたから、心配はいらない。後は私達がうまくやるから、安心して娘達を弄り抜いてくれ」

「は、はあ……」

「お父さん。こいつらは若いんだ。ほっといても毎日やりまくるに決まっているよ」

「それはそうだね」

 男と父親は、顔を見合わせて豪快に笑った。

「一体何したの?」

 僕は疑問を押さえきれず、小声で男に尋ねた。

「将を射んとすれば何とやらって言うだろ?両親にはちゃんと術をかけておいた。娘達を差し出す事を疑問には思わないし、それが本人達の幸せだと信じている。あとは両親がうまく誤魔化してくれるさ」

「葉月、日奈。お迎えが来たわよ。早くいらっしゃい」

 母親が玄関に向かって言っている。中から大きな鞄を持った姉妹が現れた。私服姿だった。

「いい?殿方の言う事をよく聞いて、一日でも早く立派な淫乱女になるのよ」

 まるで結婚式前に娘にアドバイスするかのように、母親は愛する娘達に話し掛けている。それでも話している内容は、どこか狂っていた。

「はい……」

「うん……」

 両親の活き活きとした表情とは裏腹に、姉妹の表情には生気がない。どこか虚ろな表情で、ぼんやりとしていた。

 僕は車のトランクに姉妹の鞄を乗せた。何も言わなくても、姉妹達は後部座席に乗り込んできた。

「じゃあ行きますかね」

 男は車を発進させた。ミラーを見ると、両親が満面の笑みを浮かべて手を振っている姿が、次第に小さくなっていく。姉妹達は両親に一瞥をくれる事もなく、相変わらず虚ろな表情で前を見ていた。

(4)

「二人はどうなっているの?」

 姉妹は車に乗り込んでから、一言も口を聞いていない。身じろぎ一つせず、ただ後部座席に座っている。

「両親を完璧に『調整』する事で精一杯でな。二人には最低限の施術しか行っていないんだ。留学に行くって話を信じさせ、今朝からは意識を奪っている。騒がれては困るからな。心配しなくても向こうに着いたら、完全に施術してやるよ」

 僕が新しく買った屋敷は、遠く離れた地方都市の外れにあった。ここで僕らの事を知る人間は誰もいない。車が屋敷に着いたのは、翌朝の事だった。

「さて、降りるんだ」

 男の声に従って、姉妹は車から降りた。

「ちゃんと頼んでおいた物は用意しておいてくれたかい?」

「う、うん」

 催眠術師の男は、僕に用意しておく物のリストを送りつけてきた。非合法の薬品から最高級AVコンポまで。僕は大金をかけて、それらを全て集めていた。

「結構。じゃあ地下室に行こうか」

 屋敷には地下室があった。元々は映画や音楽を楽しむ為に作っておいた部屋だった。その部屋に男の要求した物は全て運び込んでおいた。部屋の中央に、椅子がニ脚設置している。座っている者の首と両手両足を固定し、暴れてもびくともしない作りになっていた。まるで拷問でもするかのようだ。これも男の注文だ。その椅子に姉妹を座らせ、縛り付ける。

「さて、と。これで準備はいいかな」

 男は言った。

「これから彼女達に施術を行う。両親にやった術より、もっと強力な奴だ。これには三日三晩かかる。これが完了すると、彼女達の今まで作り上げてきた思想や人格といったものが全て剥ぎ取られ、純粋な生身の器だけが残る。そうなればどんな暗示も思いのままだ。目を覚ませば暗示は完全に定着し、君が希望する通りの人間に生まれ変わる、というわけだ。だが、その前に」

 男はじっと僕を見た。濁った瞳に僕の姿が映っている。

「最後の決断だ。施術を行えば、もう私でも元に戻す事はできない。今ならまだ辞める事もできるが。本当にやるかね?」

 僕は葉月を見た。彼女は椅子に縛られたまま、大人しく座っている。そうしている姿は、まるで美しい人形のようだった。彼女のいない人生なんて考えられない。彼女を失うぐらいなら、死んだ方がましだ。

 僕は短く言った。

「いいです。やってください」

(5)

 僕は地下室を追い出された。男が催眠術をかける所は秘密らしい。もうこうなったら男を信じるしかないのだから、僕も腹をくくって待つ事にした。長い三日間が始まった。

「その間に、どんな風にあの子達を変えるか考えておいてくれ。やり直しはきかないから、慎重にな。そうだな、アドバイスをするなら余り細かい暗示はしない方がいい。その方がいろいろと楽しめる」

 僕は自分の部屋に篭り、ノートを手にあれこれ考えていた。あの姉妹を僕のメイドにしたい。それは決まりだ。でも僕の願望を過不足無く叶え、後で思いついた願望までフォローできるようにしておくにはどういう暗示がいいのか。ノートに思いついた事を書いては消していた。

 ふう、と息を吐いた。今はちょうど夜中の零時だ。これであの男と姉妹は、丸二日地下室で過ごした事になる。地下室にはトイレもあるし、水や食べ物もある。何の知らせもない所を見ると、特に問題は無いのだろう。

 気がつくと、真っ白だったノートに僕の書いた文字が散乱している。歪んで乱れた文字達は、僕の心境を表していた。そういえば、昔もこんな事があったな。僕の顔に苦笑にも似た笑みが広がる。

 昔、僕は葉月に手紙を書いた事がある。気のきいた事を書こうとしては失敗し、何枚もの便箋を無駄にした。結局、自分の思いの丈を書き記しただけの手紙を、彼女の机に入れた。

「ごめんなさい。私、誰ともお付き合いするつもりなんてないから」

 その日のうちに葉月から返事をもらった。ちっとも悪いと思っていないような、さばさばとした口調だった。

「そ、そうなんだ」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「…それじゃ私、行くから」

 そう言うと、僕の方も見ずに彼女は去っていった。
 考えてみれば、男を振るなど彼女にとっては何度も経験している状況なのだ。いちいち相手してられないといった所だろう。それ以来、葉月の視線に僕が入った事はない。ただ、一方的に僕が彼女の姿を盗み見ていた。

「……」

 僕はシャープペンを取り、ノートに一行書き加えた。

 四日目の早朝、うたた寝をしていた僕は、内線電話の呼び出し音で我に返った。それは待ちに待った、地下室からの連絡だった。

「お待たせ。すぐ地下室に来てくれるかい?」

 僕は慌てて地下室へと急いだ。

 地下室の前に着き、扉をノックすると男が現れた。三日前より頬がこけ、顔色も土色をしていた。ただその目だけが、狂気を秘めて爛々と輝いていた。

「さあ、中に」

 男に促され、僕は地下室に足を踏み入れた。むっとする異臭が鼻につく。アンモニア臭に混じって、濃密な体臭が漂っていた。まるで獣の檻に入ったかのようだ。床には様々な薬品がぶちまかれ、至る所に染みが出来ていた。そこは異様な場所と化していた。一体ここで何が行われていたのか。こんな部屋にいたら、精神がおかしくなるのではないか。背筋が寒くなる。姉妹はここで三日を過ごしたのだ。その葉月達は、三日前と同じく椅子に縛られたままだった。意識がないのかぐったりと頭は垂れ下がり、身じろぎ一つしない。

「暗示の文章は考えてきたかな?」

 部屋の惨状にあっけにとられていた僕に、男は話し掛けてきた。

「う、うん」

「結構。では」

 男は姉妹に後ろから近づき、その肩に手を置いた。ピクンと、葉月の体が反応する。

「さあ。いよいよ今からあなたの人生が決まります。今から言われる言葉は、あなたの心の一番奥の奥に刻まれ、生ある限り決して消える事はありません。あなたは、言葉通りの人間に生まれ変わるのです。それは、もう理解していますね?」

「はい……」

「はい……」

 やけに丁寧な男の言葉。蚊が鳴くような声で、姉妹は返事をした。男が、僕を見て頷く。僕は、自分の考えた暗示を口にした。

「あなたは、この屋敷のメイドだ」

「さあ。言葉を完全に理解できたら口にして言ってみなさい」

 男の言葉に促され、姉妹は自分の言葉として僕の暗示を復唱する。

「私は、この屋敷のメイドです……」

 姉妹の綺麗な声がハーモニーを奏でる。僕は激しく興奮していた。

「ご主人様は僕だ。そして僕の言葉は絶対に正しい」

「ご主人様は、あなたです。あなたの言葉は絶対に正しい……」

「あなたは、僕の事はもちろん『ご主人様』と呼ぶ」

「私は、もちろんあなたの事を『ご主人様』と呼びます……」

「メイドは、ご主人様が指定した服を着るのが当たり前だ」

「メイドは、ご主人様が指定した服を着るのが当たり前です……」

「あなたの住まいはこの屋敷だけであり、外に出る事はあっても用が終われば速やかに屋敷に戻る」

「私の住まいはこの屋敷だけであり、外に出る事はあっても用が終われば速やかに屋敷に戻ります……」

「自分がメイドである事は、ご主人様の許可なしには公言しない」

「私がメイドである事は、ご主人様の許可なしには公言しません……」

「あなたは、メイドである事の生活全てに、疑問も不安もストレスも感じない」

「私は、メイドである事の生活全てに、疑問も不安もストレスも感じません……」

「あなたは、一日中ご主人様とHな事が気になって頭から離れない」

「私は、一日中ご主人様とHな事が気になって頭から離れません……」

 僕は暗示を言い終え、息を吐いた。

「さあ。あなたは自分が何者か、完全に理解しましたね?それではしばらく眠りましょう。再び目を覚ました時から、あなたの本当の人生が始まりますよ」

 そう言うと、男は葉月達の肩から手を離した。再び彼女達は、まったく動かなくなった。男は満足そうに、そして邪まな笑みを浮かべて頷いた。

(6)

 僕は葉月を覗き込んだ。ベッドの中の彼女の可愛い寝顔は、いつまで見ても見飽きない。地下室から運び出してから丸一日。姉妹は眠り続けていた。少し先にあるベッドでは、日奈が横になっていた。

「さて。私の仕事はこれまでだ」

 葉月達をベッドまで運ぶと、男は僕にそう告げた。

「数日中には入金の方も頼むよ」

「そ、そんな。もう少しここに」

「悪いがもう私にできる事はないんでね。君の邪魔になるだけだろう」

 そういうと、男は風のように去っていった。止める暇も無かった。屋敷の中には、僕と日奈、そして葉月だけが残された。
 一体彼女達が目を覚ましたら、どんな反応を示すのだろうか。早く見てみたい。反面、うまく暗示が効かなかったら大変な騒ぎになるだろう。そう思うと、まだ目を覚ましてほしくはない。居たたまれなくなって彼女達の寝室を離れてみるが、結局気になってここに戻ってきてしまう。僕はそんな事を繰り返していた。

「う、うん……」

 そしてようやく、葉月は目を覚ました。ベッドから上半身を起こす。彼女はこの屋敷に着た時の同じ、私服姿のままだった。しばらくお風呂にも入っていないから、髪もぼさぼさだった。まだ寝惚けているのか、ぼんやりと僕を見ていた。

「や、やあ」

 僕が言いかけた時、彼女は悲鳴をあげた。甲高い、絹を引き裂くような悲鳴だった。慌てて毛布で体を覆いつつ、僕を睨んだ。うっすらとその瞳には、涙が浮かんでいた。その騒ぎで起きたのか、日奈もベッドから体を起こしてきた。

「い、いや。これは」

 一体どうなっているんだ。僕はパニックになりながら、何とか彼女に話し掛けようとしていた。しかし何を言えばいいのかわからない。葉月は僕を睨みつけながら、右手を差し出した。

「えっと。お、落ち着いて。あのね」

「服」

 僕の言葉に付き合わず、彼女は短くそう言った。

「えっ服って……?」

「服は服よ。着る服を頂戴って言っているの。メイドはご主人様の指定した服しか着ちゃいけないんだから。…こんな服着ているなんて、恥ずかしい」

 一瞬、葉月が何を言っているのかわからなかった。

「あ゛―ご主人様だぁ。おはようごぜーますだ」

 まだ寝惚け眼の日奈が、僕を見て大げさにお辞儀をする。

「まったく。この人が私のご主人様だなんて」

 葉月はブツブツと文句を言っている。

 男の施術は完璧だった。葉月は文句を口にしてはいるが、それでもメイドである自分を否定していない。彼女達は生まれ変わったのだ。学校一の美人姉妹から、僕だけのメイド姉妹に。もう、彼女達は僕のものだ。

「も、もちろん用意しているよ。二人に着てもらうメイド服をね」

 僕は舞い上がりながら葉月に言った。計画は成功したのだ。これから三人だけの生活が始まる。この狭い、中庭のような屋敷だけの世界で。夢が現実になった。これからが楽しみだ。僕はその期待感に、胸を膨らませていた。

< 続く >

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