魔女見習いは年相応!? 第3話-4

第3話-4

「花火大会? やるの?」
 朝、キッチンの仕事を終えて雑談をしていた百果さんの言葉を捉えて、ハルカが声を上げた。
「うん、明日。知らなかった?」
「ここで?」
「ううん、前浜で」
「あ、島のお祭りってこと?」
「そう」
 その話を聞いて思い出した。一昨日、中央地区に行ったらフラダンスの練習をしているのに出くわしたのだ。花火大会はそのお祭りのメインイベントなのだろう。
「明日みんなで行かない?」
 その言葉に、ハルカは俺を見る。
「ラッキーじゃん」
「そうだな」
 それだけで二人の会話は終わり、俺は百果さんに参加すると伝えた。
「ほらハルカ、出る準備するぞ」
「うん」
 ごちそうさまでした、と告げて、俺達はガレージを出て、部屋に戻った。

 ハルカの二度目の肉体改造も、この上なく順調に進んでいた。
 一度目の反省を踏まえての計画と、俺のツタ使いとしての経験、そしてハルカの慣れが上手く噛み合い、ハルカの肉体は一日おきごとに魅力を増していき。
 俺が肉体改造の打ち止めを考えるようになるまで、十日もかからなかったのは、予想以上の成果と言っていい。

「ハルカ、足下気をつけろ」
「わかってるー」
 埋め込まれた丸太を足がかりに、ハルカは急な斜面を昇っていく。俺はハルカがバランスを崩さないかを気にしながら、慎重に後をついていく。とはいえ、後ろからさらに人がついてくるので、あまりゆっくりもできない。

 この島は自然を楽しむツアーが盛んだ。世界自然遺産なので、許可なく入れない場所も多いのだが、ガイドをつけて、決められた道を通ることで入ることができる場所もある。今日のルートは、そのうちの一つだった。

「ここで休憩しましょう」
 広場のようなところに出ると、壮年男性のガイドさんが言った。俺達を含めて八人ほどいるツアー客の空気が弛緩する。ここまで結構ハードだった。
 周りを見ると、太いツタを束ねたような木が、そこら中に立ち並んでいる。ここに来るまでに何度か見た、ガジュマルである。

《おにいちゃーん》
「気をつけろよ」
 ハルカは、あっという間にガジュマルの幹を登り、先端近くで左手を振っていた。
「戦前は子供達がここで良く遊んでたそうですよ」
 ツタ状の枝を重ねた形状は確かに、子供の遊び道具に向いている。これらのガジュマルはもともと人為的に植えられたもので、外来種だそうだ。しかも、他の木を絞め殺してしまうため、割と厄介者扱いなのだという。とはいえ、そんなことが当時の子供達に関係あろうはずはない。
「よっと」
 俺も枝分かれ部分に足をかけ、少しガジュマルを登る。しかし、かなり枝がしなるので、踏ん切りがつかない。ハルカと俺では体重が違いすぎる。
「ミヒロさーん」
 ハルカの視線は、今度は地上にいる女性に向いた。
「おーぅ」
 片手を上げて応えているのは、バテてヤンキー座りをしているミヒロさんだ。ハルカにとっては最悪とも言っていい出会い方をした相手だが、一週間弱でハルカはすっかり三人と意気投合していた。このツアーに参加したのも、あの「養殖天然」のエミリさんがハルカを誘ったからだった。
 ちなみに、俺達を誘った張本人のエミリさんは、このツアーに偶然居合わせた男性と一緒にガジュマルを上っている。だいじょうぶかなぁ、などとエミリさんが二の足を踏む様子を見せると、見るからに女性経験が少なそうな二十代半ばの男が、張り切ってエミリさんの手を引いていた。隠れ肉食系の技術を見た思いだ。

「ひゃっほーぅ」
 そして俺達と反対側では、セリナさんがガジュマルから垂らされたロープにしがみついてミニターザンごっこをしていた。最初は頻りにネイルを気にしていたセリナさんだが、今となっては三人の中で一番このツアーに熱中していた。ホットパンツからのびる足を惜しげもなく晒している。
 俺と目が合って、手を振られた。反射的に手を振り返す。
 はっとして、おそるおそるハルカの方を見た。が、幸いにもハルカは気にする様子もなく、登ったルートを戻ろうとしているところだった。

「気をつけろよ」
 先に地上に降りた俺は、ハルカに両手を差し出し、迎える体勢を取る。ハルカは足下を気にしつつ進んでいるが、ちょっと降りるスピードが速すぎる気がする。
「ほっ、あっ」
 案の定、最後に着地をしくじり、ハルカは少しよろけた。ちょうど俺の方に向かって倒れ込む。
「おっ」
 これ幸いと、俺はハルカを抱き留め、

「っ」
 その感触に、息を呑んだ。

「ありがとう」
「おう」
 何事もなく離れたハルカに対し、俺は一瞬、呆然としてしまった。

 ハルカの身体が、思った以上に柔らかかった。

「こええ」
「ひゃー」
 目印として埋め込まれた小さな岩から身を乗り出すようにして海を覗き込む。標高約二百五十メートルの岩肌から見下ろす海の色はボニンブルーの名にふさわしく、むき出しの赤土とのコントラストが映える。

 目的地であるこの場所は、海から見るとハート型をしているということで「ハートロック」と呼ばれている。この島の名所の一つだ。
「今日は風が穏やかで良いですね」
 ガイドさんが言うには、この場所はよく強風に煽られるらしいのだが、今日はたまにそよ風が吹き抜けるくらいだった。

「写真お願いします」
 ハルカがガイドさんにスマホを渡すと、再び俺のところに戻ってくる。
「ほら、お兄ちゃん」
「え?」
 見ると、俺の左にいるハルカが大きく腕を広げ、準備運動でもするかのように身体をこちら側に倒してきた。
《マジ?》
 そのポーズの意味が分かり、俺は思わず後ずさりかけた。だが、後ろは断崖絶壁なのですぐに踏みとどまる。
《はやく》
 しかしハルカは聞く耳を持たず、俺を急かした。抗弁したかったが、他のツアーの人も来ており、後がつかえている。
 俺はやむなく、ハルカに合わせて両手を差し出し、結んだ。右手を右手に。左手を左手に。

 俺達の腕で出来上がったのは、大きなハート型だった。

「OKでーす」
 ガイドさんの声がかかり、即座に俺はポーズを解いた。ふとセリナさんと目が合い、けたけたと笑われた。

 ハートロック。その名前と形状から、どちらかと言えば女性もしくはカップルに人気のツアーである。もっとも、この場所からはハート型を確認することなどできないが。

「いただきまーす」
 行儀良く手を合わせ、ハルカは皿に置かれたクッキーを拾い上げて口に運んだ。ぽくっ、クッキーが折れる音が微かに響き、半分がハルカの口腔に消える。
「ん、おいひぃ」

 ハートロック近くで弁当を食べ、その後概ね順調に下山した俺達は、ツアーが解散した足でコースの入口近くにあるカフェに押しかけた。

 カフェと言っても、作りは簡素だ。掘っ立て小屋にキッチンカーを埋め、ひさしを伸ばした下にテラスが展開されている。周りは小高い山に囲まれた森の中の喫茶店である。庭にはニワトリが啼き声を上げながら戯れていた。

「づがれだ……」
 俺の向かいの椅子に座ってうなだれているのはミヒロさんだ。こぼれた言葉は本音だろう。
「ねーもーどうしたん? いつもよりしんどそーじゃん。夏バテ? ねっちゅーしょー?」
 その隣に座ったセリナさんが、からかい半分、心配半分でミヒロさんに声をかける。ちなみに、エミリさんはここにいない。さっきまで一緒にいた男とどこか(多分中央地区の方)に行った。
「あんまちゃんと寝れなくてな、寝不足なんだよ……」
「なーんだ。ただの呑みすぎじゃんそれ」
 ミヒロさんの答えにセリナさんは途端に呆れ顔になった。
「大して呑んでねえよ」
「よくゆうよー、タバコ吸いに行ったと思ったらいつの間にかベロベロだったじゃん。誰と呑んだん?」
 二人の言い合いを聞き流していると、キッチンカーからマスターが出てきて、カップを四つ運んできた。

「どうぞ」
 店名とひょうたんのマークが刻印されたカップには、黒い液体がなみなみと注がれていた。各自が思い思いに手に取る。
「あっ、コーヒーおいしー」
 真っ先に声を上げたのはセリナさんである。が、同意見だ。香ばしい香りと苦みの中に、少し甘みを感じる気がする。少し薄めではあるが、味がよく分かる。
 隣のハルカと正面のミヒロさんは、ポットから砂糖をそれぞれ一杯すくって入れた。一杯といっても、ハルカの方が明らかに多い。
「うん、うまい」
 素直にうなずくミヒロさんと、ノーコメントのハルカ。ハルカがコーヒーの味を理解するのはまだ時間がかかるだろう。

「そーいえばさ」
 リラックスしつつツアーの感想を言い合っていたら、思い出したようにセリナさんが言った。
「ふたりって、どーいう関係?」
 その言葉にハルカが一瞬、眉をひそめた。「彼女だって言ってんだろ」というオーラをありありと放っている。
「あ、ごめん。そーじゃなくて。いつ知りあったん」
「こいつが生まれたときです。元々隣の家に住んでて、母親同士の仲が良かったので」
 ポイントをできるだけ早めに、簡潔に話す。これまでなれそめを話す機会は少なかったが、この手の質問はいつか受けると思って、あらかじめ回答を準備していた。もちろん、核心部分――俺達の血筋のことは話せないのでぼかしておく。そして、俺達が付き合っていることも直接的には口にしない。店の人に聞こえるかもしれないからだ。
 そんな俺の言葉でも興味を十分に引かれるのか、「へー」「ほー」と相づちや軽い質問をしつつ、セリナさんは俺達の話を聞いていた。隣にいたミヒロさんは無言だったが、セリナさんを止めることはなく、むしろ表情から興味がありありと伝わってきていた。女が他人のコイバナを好むのは、俺もよく知っている。ましてやこの年齢、そして年齢差だ。良し悪しの問題ではなく、興味を持たないはずがない。
「へー、押しかけ彼女なんだ。意外」
 一通り聞き終わったセリナさんの感想に、ハルカは笑みを浮かべる。少し誇らしげに見えるのは、サキュバスとしての習性が顔を出しているように思えなくもない。
「俺としてはもうちょっとゆっくりのつもりだったんですけど」
「うっそ。私から逃げて一人暮らししてたくせに」
「ちげーよあれは冷却期間みたいなもんだよ」
「絶対嘘。じゃあ何で最初の夏休み帰ってこなかったの」
「帰ってきたじゃん」
「私が三回も来てっていってやっと来たんじゃん」
「第一あんときはお盆に旅行行く予定だったろ。本当はその時に帰るつもりだったんだぞ」
 はっと気づいたら、目の前の二人が苦笑いを浮かべていて、俺は押し黙った。二人の反応を見てやっと気づく。これはただの痴話喧嘩だ。
「まさと君、はるかチャン好きなんだね」
「……はい、それは、もちろん」
 周りに聞かれないように声を抑えて、しかしはっきりと答える。そうしないと、ハルカに拗ねられる。
「良いんじゃない、イイ子だよはるかチャン」
「それはよく知ってます」
「惚気るなよ……」
 ミヒロさんが軽く頭を抱えている。すみません。
「それにはるかチャン、さっき気づいたんだケド」
 一方、セリナさんはぐいっとハルカに顔を近づけた。声を低くして言葉を続ける。
「おっぱい、あたしよりおっきくなってない?」
 一瞬ハルカの、そして俺の表情が固まった。
「えっ、そうですか」
 ハルカがとぼける。
「最初に会ったときより、おっきくなってる気がするんだけど」
 しかし、セリナさんは簡単に許してくれなかった。
 セリナさんが言っていることは正しい。ハルカの胸はセリナさん達と会ったときより確実に大きくなっているし、今のハルカの胸は、セリナさんと同じくらいか、おそらくはほんの少し大きい。
 もちろん、セリナさんは、なぜそうなったかは知らない。だから、その質問の真意は、恐らく別にある。どうすれば女の胸は大きくなるか。その「俗説」を疑っているのだ。
「何聞いてんだセリナ。アホか」
 しかし俺達の危機は、ミヒロさんがぴしゃりと切って捨てたことによって去った。
「正人さんは、私を大事にしてくれてます」
 ハルカもあくまでしらを切る。大事にしているのは本当だ(と、俺は信じている)。ただ、俺とハルカが性行為に及んでいないとは言っていない。
「ごめん、ヘンなこと聞いて」
 ハルカとミヒロさんに押し返され、さすがにセリナさんは反省したらしく、追及を止める。
 と思ったら、矛先が別の方向に向いた。
「でも、そっかー、だから『おにーちゃん』なんだ」
 ぽそりとつぶやいたセリナさんの言葉に、ハルカは口に含んだばかりのコーヒーを吹き出しかけた。
「……聞いてました?」
「しょっちゅー言ってんじゃん」
 ハルカは、周りに人がいる時には俺を「正人さん」と呼ぶ。しかし、周りの人が聞いているかどうか微妙なときは「お兄ちゃん」と呼ぶことも多い。俺達の近くで数日生活しているセリナさんが、その呼び方を知っていたとしても不思議ではない。

「店長さん、このコーヒー美味しいですね」
 こちらの質問の方が、ハルカとしてはよほど対応しづらかったらしい。返事に窮したからか、ハルカはキッチンカーの奥から出てきた店長に話を振った。あの砂糖の量では、コーヒーの味は絶対分からないと思うのだが。
「ありがとうございます。それ、庭で採れたんですよ」
 しかしその破れかぶれな質問は、店長から思わぬ回答を引き出した。
「えっ、育ててるんですか!?」
「ええ、ボニンコーヒーって言って、まだ量は少ないんですけどね」
「あっ、そういう……」
 そう言われ、俺はカウンターにかかっている黒板のメニューに目をやった。「ボニンアイランド」という名前のコーヒーが、ラインナップにある。俺達は四人揃ってそれを頼んだのだが……。
 聞いてみたら、この島のコーヒーは歴史が深く、明治の頃から栽培していたのだそうだ。俺は知らなかったが、特産品の一つらしい。ただ、栽培量がかなり少なく、手に入るところは限られる。そしてこの喫茶店は、その数少ない場所の一つなんだと。
「もうすぐ実がなって、収穫できるようになりますよ」
「そうなんですか」
 俺は店長の話を噛み締め、最後の一口を運ぶ。

「そろそろ出るか」
 ご馳走様、と店を出ると、ちょうどバスが通るところだった(時刻表を見て狙っていた)。この島の路線バスは、中央地区以外はどこでも停まってもらえる。喫茶店の前を通ったバスを捕まえ、宿手前の丁字路で下ろしてもらう。そして四人揃って、徒歩で宿に戻る。

 そして部屋に戻った俺は、ハルカに「肉体改造」の終わりを正式に告げた。

「あ゛ー」
 限りなく重くなった足取りで、部屋にたどり着くまでが限界だった。部屋に入ってすぐ、アタシはベッドに倒れ込んだ。つけっぱなしだったエアコンの空気が心地よい。
「ホント大丈夫?」
 後に続いたセリナが心配半分、からかい半分で言う。エミリはまだ帰ってきていない。
「ねっみい……」
「ほら、水」
 差し出されたコップを見てのそのそと起き上がり、中身を煽った。とはいえ、さっきのカフェで水分を摂ってるので、あんまり効果は感じられない。
「遅くまでタバコと酒で遊んでっからだよ」
 心配半分、呆れ半分でセリナが言う。こいつはギャルの見た目に反して世話焼きが好きな奴だ。
「遊んでねーよ」
「よくゆーよ。あたし達が寝る直前まで屋上から帰ってこなかったじゃん」
「知らねーよ……」
 最後の言葉は弱かった。
 昨日の夜、缶ビールとタバコを持って屋上に上がったのは、はっきり覚えている。だが、そこから先の記憶がなかった。だから、否定のしようがない。
 酒を呑みすぎて記憶をなくすことはたまにあるが、さすがに缶ビール一本でそうなったことはこれまで一度もない。しかし、かといってそれ以外の原因も思いつかない。
「とりあえず寝れ」
「そうするよ……」
 大分汗をかいたし、本当はシャワーを浴びたい。だが、もう無理だ。目を閉じると、すぐに意識が遠のき始めるのを感じる。
(何があったっけな……)
 襲い来る睡魔に身を任せつつ、アタシはほんの暇つぶしに、深い霧の向こう側にある記憶を探っていた。が、考えれば考えるほど、頭の中の霧は深くなっていくばかりだった。

★ ★

 ホタル族、という言葉を聞いたことがある。ベランダでタバコを吸うと、まるでその火が蛍火のように見えるから、だそうだ。
 とはいえ、都会でタバコを吸っていても、周りに明かりが多すぎて、風情を感じることなどない。所詮、タバコはタバコだ。

 しかし、

 ふぅ~~~。

 満天の星空の下でくゆらすタバコは、確かに、一匹のホタルを泳がせているような気分になる。

 民宿の喫煙所は屋上にある。しかし照明はない。照明があると虫が寄ってくるという至極もっともな理由で、夜にここに来るには、少し遠くにある街灯か、スマホのライトに頼るしかない。
 アタシは左手でタバコを咥えて、一日の疲れを煙に変えていく。右手には缶ビール。三人での旅行の間に得られる、貴重な一人の時間だ。セリナもエミリも未成年だし、そもそもタバコは止めておけときつく言い渡してある。こんなものを有り難がるのはアタシだけで十分である。

 ふと、扉が開く音が聞こえる。振り返ると、女の人がアタシを見ていた。
「オーナーさん」
 そこで微笑んでいたのは、ここのオーナーだった。
「お邪魔していい?」
「どうぞ」
 オーナーさんはアタシに断りを入れると、アタシの横に並んで、星空を見上げた。
「タバコ吸うんすか?」
「ううん」
 私が誘いを向けると、オーナーさんは首を横に振った。
「私は吸わないけど、タバコの匂い好きなんだ。妹を思い出す」
「ふぅん、妹さんいるんすか」
「うん、内地に。……もっと砕けて良いよ?」
 オーナーさんがそう言ったので、遠慮なく聞く。
「オーナーさん、何歳?」
「真利奈って呼んで。何歳だと思う?」
「うーん」
 オーナー……マリナさんは、アタシより少し年上ってくらいの見た目だ。二の腕ががっしりしてるのは、力仕事が多いからに違いない。時々見せる笑顔は、むしろかわいらしい部類に入る。だけどその一方で、話をしていると、何とも言えない違和感がある。まるで仙人のような、何もかも見通しているような、そういう底知れなさ。
「三十くらい?」
 仕方なく、見た目年齢をそのまま答えた。
「ありがと。もうちょっと上かな」
 マリナさんはそれだけを返して、にっこりと笑う。それ以上は聞くな、と言わんばかりだった。砕けていいという割には、渋い。
 追及を諦めて缶に口を付けると、いつの間にかマリナさんの手元にも缶が出現していた。チューハイだ。
 プシュ、と小気味のいい音がして、缶が開く。ほどなく甘い香りがあたりに広がる。かんぱい、と缶を差し出され、手持ちの缶を当てた。

「やっぱ、いいとこだね、この島」
 煙を空に噴き上げながら、アタシは言う。
「でしょ」
 誇らしげに言うマリナさんは、確かにこの島の人だ、と思える。

 この島に来たのは、二回目だ。
 前回は、アタシの傷心旅行だった。全てが嫌になって、逃げるようにこの島に来た。あのときは一週間だけだったが、癒されて帰った。

 今回は三人だ。決めた時期が遅くて、こんな場所の宿しか抑えられなかったが、セリナもエミリも楽しそうなので、良かったのだろうと思う。他の旅行客との出会いもあったことだし。
 そういえば、ふと気になった。
「そういや、あのハルカって子、マリナさんの親戚なんだって?」
「うん」
「あのカレシ、どう思う?」
 そう言って、ビールを口に含んだ。

 アタシの見立てでは、二人はおそらく、既にヤっている。

 二人がヤってるかどうかは、アタシ達三人の中でも意見が分かれている。エミリはアタシと同じく、ヤってるという意見だ。一方、セリナは関係を疑ってはいるものの「そこまで行ってないんじゃない?」と言っていた。

 あの二人は、距離が妙に近い。二人で座っていても、ハルカの方がカレシに寄っている。
 セリナは、それを恋人の近さじゃないと見ていた。実際に今日、二人から話を聞いて、もともと兄妹同然の関係だったと聞いて、自信を深めている。
 だけど、アタシはそうは思わない。二人は、「腰が近い」のだ。アレは絶対に、家族としての近さじゃない。本能で惹かれあうオスとメスの近さだ。

 そして、あのトシの女と安易にヤってしまう年上の男っていうのは、ロクなもんじゃないというのが相場である。

「んー、まさ君はすごくちゃんとした子だと思うよ」
 だがマリナさんは、穏やかな声で、そう答えた。
「あの子、はるちゃんが大人になるまで見守るつもりみたい。だけど、はるちゃんが我慢できなくて押しかけちゃったんだってさ」
「……そうなんだ」
 思わぬ情報を聞いて、アタシはまた、タバコを一口吸った。

 あのトシの女とヤっているということさえ無視すれば、確かにアタシにも、ぱっと見はマトモそうな男には思える。気怠そうにしながら受け答えはしっかりしてるし、ハルカをぞんざいに扱う様子もない。
 しかし、十代で五歳違いは大きな差だ。女というものは、年上の男には頼りがいを感じがちだ。しかしそれは多くの場合、本質は年齢の差があるゆえの錯覚に過ぎない。
 そのことに、あの二人は気づいていないだろう。あの二人の仲は、本人達が思っているより、きっと不安定だ。

 ――まあ、そんなことをアタシが悩んでも仕方ないけどな。

 息をついてタバコを灰皿に押し込もうとすると、マリナさんがいつの間にか、アタシのすぐそばに近づいていた。
 その近さに少し驚く。ほんのりと甘い香りが漂う。チューハイの匂いではない。もっと生々しい匂いだ。香水かなにかだろうか。
 そんなことを考えながらも、気を取り直してタバコを灰皿に押しつけ、火を消す。

 そして、アタシはタンクトップをまくり上げた。

(ん? アタシ何してる?)
 タンクトップから首を抜きながら、僅かな違和感が脳裏をかすめる。しかし、衝動には耐えがたく、アタシはそのままタンクトップを足下に落とした。インナーは、無地の黒いブラ一枚だ。
「綺麗なブラ」
「ただの布だよ」
 マリナさんに言われて吐き捨てる。いやそうじゃないだろ、と内心思いつつも、アタシは手すりに置いた缶を手に取っていた。
 ビールを再び口に含みながら、思う。

 おかしい。説明不能な奇行に走ってしまったのが自分で分かっているのに、全く大したことではないかのように感じている。

「Dくらい?」
「いんや、E」
「へぇ、おっきい」
「マリナさんも大きいだろ」
「わたしDだよ?」
「へぇ、アタシと同じくらいに見えるのに」
 アタシは上半身ブラ一枚の姿を夜空に晒したまま、胸談義に花を咲かせていた。
「じゃあ、比べてみる?」
 そう言うと、マリナさんはブラウスのボタンを開け、胸元を開いた。明るい色のブラが、マリナさんの胸を覆っている。ふと、甘い香りが強まったような感じがした。花の蜜のような甘い香りは、もしかしたらマリナさんの胸元から出ているのだろうか。
 そのままマリナさんはブラウスを脱ぎ畳んで、近くに置いてあった洗濯かごに置いた。マリナさんは洗濯かごをこちらに寄せてきたので、アタシもタンクトップを拾い上げて、かごに放り込む。

 ブラ一枚にして見てみると、確かにマリナさんの胸は、アタシより少しだけ小さい。だが代わりに、マリナさんのそれはトップが前に突き出し、張りのあるものだった。なるほど、だから大きく見えたのか。

 マリナさんの胸元は深い。二つの急峻な山が形作る谷は、あらゆる男を魅了しそうな魅力的な曲線だ。

(マジか)
 アタシは反射的にお腹に触れた。身体の奥の方に、種火が宿るような感覚があった。

「ミヒロさんは、自分の胸は好き?」
「え? うーん……まあ、嫌いじゃないな」
「男の人に触られてる?」
「まあ、それなりに。男についてった方が生きやすいしな」
 大きい胸は邪魔に思えることもあるが、オンナとして生き抜いていくには便利な面も多い。男の視線はウザイものの、男の下心に取り入ることができれば頼りにもなる。ウリやエンコーという程に露骨なものではないが、恋愛モドキで男のチンポを咥えて食いつないだこともある。自分のメンタルの健康を引き換えにするので、もう足を洗ったが。

 ……いやいやいや、アタシ、何しゃべってるんだ?
 意識の奥深くに沈んでいた違和感が、やっと顔を出した。
 アタシは少しでも落ち着くため、ケツポケットに入れていた新しいタバコを出し、火を付ける。

「セックス好き?」
「割と」
「最近、誰かとシてる? 彼氏さんとかいる?」
「いんや、どっちもご無沙汰。オナってばっかだな」
 新鮮な煙を吐き出しながら、アタシは最後の男を思い返していた。セックスは多少上手いが、自分勝手な男だった。金を無心されたのを最後に、会っていない。それでも、女に手を上げないだけマシだったとはいえる。
 確か、それが今年の春先。それ以来、一週間か二週間に一回、自分の身体をイジるのが続いている。

 そういえば、この島に来てからオナってねえな……と、気づいてしまったのがマズかった。

 ふぅ。

 アタシは熱い吐息を煙でごまかそうとする。しかし、意識してしまったオナ欲は、あっという間にアタシの心と身体を蝕んでいく。
 無意識に、指が腹をなぞる。くすぐったさの中に、ゾクゾクとする感覚が混じった。
「溜まってる?」
「バレたか」
 マリナさんに見破られ、うっかり答えてしまう。徹底的におかしい問答だとはわかっているのだが、気持ちが言うことを聞かない。それどころか、タンクトップを脱いでおいてよかったとすら思い始めている。今すぐオナりたい。

 アタシは火を付けて間もないタバコを、灰皿に押しつけた。いつの間にか背後にベッドがあるのを見つけ、流れで倒れ込む。

 ――ベッド?

 そんなものがここにあるわけない、と思ったが、顔を上げて確認しても、それはベッドだった。掛け布団はないが、まっさらな白いシーツに包まれた、ふかふかのベッド。

 しかし、もうそんなことはどうでも良くなっていた。頭の中にモヤがかかっていく。気持ちが完全に、オナニーするモードに入ってしまっていた。
「普段はどうやってオナニーするの?」
 マリナさんに聞かれ、アタシは見せつけるように、自分の腹をタテになで始めた。
 腹から脇腹にかけて、そろそろと触れる。
「こうすると、ムズムズしてくる……」
 アタシの声がかすれていた。
 この夏のためにダイエットしたので、ウエストは少し細くなった。さらに日サロで焼いたせいで、肌が敏感になった気がする。

 ジワジワとした種火が腹から広がり、少しずつ、全身に延焼していく。ブラの下で乳首がシコっているのを感じた。乳首がブラに擦れて不快だ。

「オナニーも好き?」
「割と。ってか、キモチイイことは好きだよ……」
 アタシは手を後ろに回し、ブラを外しながら、マリナさんのぶしつけな質問に答えていた。
 オナニーを見られているのに、手を止めようとする気持ちは全く沸かなかった。久しぶりの快感を愉しみたいという欲求に支配され、全身がウズウズする。
 だから、
「わたしもお邪魔していい?」
「……好きにすれば?」
 マリナさんの言葉を、ろくすっぽ考えずに受け入れてしまった。アタシ、こんなに快楽に弱かったっけ。

「はぁ……っ」
 両胸を揉み込みながら、アタシはブラジャーを外すマリナさんを横目で見ていた。マリナさんの胸はブラを外してもツンと上を向いて、まるでガイジンのようなおっぱいだった。
 トップレスでベッドに乗り込んできたマリナさんは、アタシの横で仰向けになった。そのまま、星空を見上げている。自分の乳首を手のひらでコスりながら、横目でマリナさんを見た。Dカップと言ったその胸は、上を向いていてもツンと立って、ほとんど崩れない。横に流れてしまっているアタシのとはえらく違う。さすがに同性の胸に興奮する趣味はないが、うらやましくは感じる。三十路を越えててこの胸っていうのは、信じられない。

 しっかし、いつもより胸が気持ちいい。ショーツの中がもう湿っているのが分かる。まだそこまで指を伸ばしていないが、触ったときが楽しみになるくらい、アタシは盛り上がっている。
 はぁ、はぁ、と、自分の吐息がうるさい。時折ふと鼻につく甘い匂いが、どういうわけか興奮を呼び起こす。
「ううんっ」
 胸を揉む手が止まらない。息が荒くなり、甘い香りをこれまで以上に吸い込む。声を我慢できなくなって、本格的に感じ始めてきたときだった。

「女の人とセックスしたことって、ある?」
 横から、声がした。
「……あいにく」
 少しうざったく感じながら、アタシは答えた。オナニーの邪魔をしないでほしい。
「そっか」
 しかしマリナさんは、私の不機嫌な声を気にすることもなく、言葉を繋ぐ。
「じゃあ、今だけレズビアンになってくれる? 今だけでいいから」
「えっ、何――」
 意味分かんないことを言われて、アタシはマリナさんを見て……

 どきり、とした。

 マリナさんはアタシの方に身体を向けていた。
 その目に吸い込まれるような感じがして、アタシは思わず目を逸らす。
 湿った唇がやけにいやらしい。

 それだけじゃない。南国の日に焼けたデコルテも、Dカップの谷間も、がっしりとした二の腕も、全てが魅力的で、あたしの心を掴んで離さない。

 混乱しているアタシを見て、マリナさんは微笑む。そして、ゆっくりとアタシに手を差し出す。
「わたし、どっちかっていうと女の人の方が好きなんだ」
「っ」
 マリナさんの右手が、アタシの肩に触れて、ピリッとした感覚が走った。思わず、乳首をこねる手に力が入る。

 アタシを襲ったのは、嬉しい、という感情だった。
 アタシ、マリナさんにときめいていいんだ。マリナさんを好きになっても、拒絶されないんだ。
 そう思った瞬間、全身の熱がアタシ自身に襲いかかってきた。
「ヤバっ……!」
 今まで感じたことのない、激しいオナニー衝動だった。全身が満たされたくて悲鳴を上げる。
 アタシはたまらず、手をホットパンツの中に突っ込んだ。
「はぅうぅぅっ!」
 ショーツの上から触っただけで、マンコが開き、マン汁がドロドロと溢れてくる。指のみならずチンポも咥え慣れたアタシのそこが、征服されることに飢えた獣のように吼えている。
 アタシはホットパンツとショーツをむしり取るように脱ぎ去り、貪欲な穴に指を咥えさせた。二本では足らず、三本目を即座に追加する。
「お゛っ」
 獣のような声が口を突き、アタシは反射的に仰け反った。激しすぎる快楽が身を焦がして、まだ絶頂ッてもないのに、経験したことのない痙攣に見舞われる。それでも、膣壁と乳首を指で擦るのがやめられない。
「イキたい?」
 マリナさんからの問いかけに、アタシは思わず何度もうなずいた。オナニーを見られているのに――いや、マリナさんに見られているから、気持ちいいのが身体の中で暴走して。

 だから。

(んぅっ!?)
 マリナさんに抱きすくめられた瞬間に、アタシがこの人との恋に落ちたのだと理解してしまった。
「あっ……あああぅっ……」
 手がマン汁でビチャビチャなのも構わず、アタシは最愛のマリナさんを抱きしめた。マリナさんの胸がアタシの胸と重なって、お互いの形を変えていく。
「キスして良い?」
 質問にアタシが答える前に、マリナさんはアタシの唇を奪っていた。

 たまらなく、嬉しい。

 こみ上げてくるような歓喜の渦が、身体を蕩かす。女同士のキスの柔らかさと、心の奥が繋がったかのような錯覚に、あっという間に呑まれていく。

 もっとしたい。
 もっとほしい。

「んぅ゛っ」
 気づいたらアタシは舌を絡め取られ、直にマンコを触られていた。燃えるような興奮が、マリナさんの舌と指で快楽に昇華されていく。
「ここかな?」
「あっ、あ゛っ」
 マリナさんはまるで昔からアタシの身体を知っているかのように、あっという間にアタシのナカにある弱点を探し出してしまった。執拗にそこを擦られ、全身が痙攣し始める。
「ヤバっ、ダメっ、だめぇっ」
 涙がはらはらとこぼれる。快楽に従順になっていく身体をどうすることもできないまま、アタシはマリナさんにしがみついた。

 イかせて。
 イかせて。
 イきたい。

 女の人にイかされそうになって、だけど、嫌じゃない。
 むしろ、嬉しい。
 幸せ。

「しあわせになっちゃお?」
 耳元で囁かれて、うなずいて。
 そのまま。

「あっ、あっ、ああああああ……――――……っ!!」

 私はマリナさんのおかげで、人生で初めて、雲の上の世界を見る。

「なんかいでも、してあげる」

 そう囁くマリナさんの言葉は、もうアタシには理解できなくなっていた。

★ ★

 穏やかな波音が響いている。
 俺はほんのりとオレンジがかった海を眺めていた。二日に一回のペースで訪れていた場所だが、明るいうちにあの裏ルートを使ってこの場所に立ったのは初めてだ。砂浜ではない、かなりゴツゴツした岩場を覆うように波が押し寄せ、帰っていく。小さいペットボトルとスマホだけを手に、一人でぼうっと眺める。明かりのない海は本当に何も見えない。夜の海に決して入るな、と真利奈さんが言っていたのを今さら思い出す。真利奈さんはセックスには緩いが、身の安全には厳しい。出かけるときに必ず飲み物を持ち歩くのも真利奈さんからの指示である。

 この島に来てからすっかり日付の感覚を失っていたが、カレンダー上は今日からお盆に入っている。この島のほとんどは曜日ではなく旅客船のスケジュールを元に動いているけど、役所と建設業者はその数少ない例外――と話していたのは百果さんだ。つまり、工事は今日から休み。この場所にはこの時間でも誰もいない。ハルカは百果さんの言葉を覚えていたのだろう。先に行って待ってて欲しいと言われ、俺は今、一人でここにいる。 

「お兄ちゃん」

 背中から声がして、俺はゆっくりと振り向く。

 初めて見るハルカの姿が、そこにあった。

 ハルカが身につけているのはビキニだが、ハルカが家から持ってきた三角ビキニではない。
 島に来て二回り大きくなったハルカの胸を覆っているのは、胸元をねじったツイストビキニである。ストラップはなく、黒い布が右胸を、蛍光緑が左胸を覆っていた。限界近くまでくびれたウエストは綺麗な小麦色に焼け、同じく蛍光緑のショーツが、ハルカのデルタゾーンを隠している。
 そのビキニは、民宿の倉庫で掃除を手伝ったときに見つけたものだった。真利奈さんの友人が水着メーカーに勤めていて、たまに送ってくるらしいのだが、真利奈さんの趣味には合わず、使われないままになっていたものだという。
 確かに、この水着はギャル、しかも日焼けをしたギャルが着そうなもので、おっとりした外見である真利奈さんの趣味には合いそうにもない。しかし、ハルカには――この島で日焼けし、体つきがちょうど真利奈さんと同じくらいになった今のハルカには、びっくりするくらいに似合っていた。

「いえーい」
 ハルカもそのことを理解しているのか、手のひら側をこちらに向けたギャルピースを右目に当てた。よく見ると、化粧もさっきと違って、どことなくギャルを感じさせるものになっている。セリナさんあたりのを借りたのだろうか。比較的白さを残している手のひらのせいで、色の濃くなったハルカの肌が強調されている。サロン焼けではないので、デコルテから胸にかけて三角ビキニの跡がくっきりついているのはご愛敬だ。

「どう? お兄ちゃん」
 ハルカは俺の顔を覗き込むように、心持ち前屈みになった。ハルカの両胸が形作る谷間が、くっきりと見える。さきほどのツアーで不意に感じた柔らかさの源泉が、そこにあった。
 ストラップのないブラジャーであるにもかかわらず、ハルカのそこはほとんどまっすぐ、前に突き出されている。俺にとっても予想外だったのだが、ハルカの脂肪がおっぱいに集まるのに合わせて、乳腺も急速に発達していたようだった(成長紋のせいかもしれない)。だから、そこを意識して触ると、柔らかいというよりはしっかりとした感触だという印象を受ける。もちろん、ハルカのおっぱいは昨夜、この場所で触ったばっかりだった。

 そう、触って、愛したはずだった。

「ふふっ」
 なのに。
 ギャル水着をまとい、ほんのり挑発的な表情で微笑むハルカの姿を見せられて、突き動かされるような衝動を覚えた。
 最初から数えて数ヶ月にわたる肉体改造で、痩せぎすな姿から、この歳として巨乳と呼んで差し支えないまでに育った胸。ほんのりとした肉付きで魅力を訴えるデコルテ。背後の男の目を引くであろう尻。スプレーで明るい色に染まった髪。そして何より、一人前のサキュバスとしての自信をまとった、その表情。

 それは、あまりにも魅力的な獲物の姿だった。

「ハルカ」
 俺は獲物の名前を呼び、ゆっくり歩を進めた。
「大人になったな」
 獲物の表情が一際明るくなる。その間に少しずつ距離を詰め、警戒させないように近づく。
 すると、向こうからも近づいてきた。サンダルが小岩を蹴り、あっという間に手の届くところにやってくる。
「……お兄ちゃん?」
 声色が少し変わった。
「大丈夫だ」
 俺は獲物を抱き留める。水着と衣服越しに、乳房が俺の胸板に押しつけられる。獲物の警戒心をそれ以上呼び起こさせないように、慎重に頭をなでた。

「次に進もう」
 そう、俺は告げた。
 ハルカは大人の身体になった。その証拠に、ハルカの肉体は、それを見せつけられただけの俺に、これほどの興奮をもたらしている。
 我慢して育てた甲斐があった。
「大人になったハルカに、やりたいことがあったんだ」
 正直、こんなに早く打診することになるとは思っていなかった。しかし、大丈夫、ハルカは大人になりたがっていた。だから、受け入れてくれるはずだ。それに、これからしたいことは、ハルカもなじみのないことではない。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「落ち着いて?」
 からかい半分、不安半分な表情で、ハルカは俺を見上げた。
 しっとりと湿った唇がとても魅力的に見え、俺はゆっくりと顔を近づけ、唇を合わせた。
《お兄ちゃん》
 ハルカの言葉が脳に響く。
《俺、すげえドキドキしてる》
《いいから落ち着いてよ、いくら私が魅力的だからって》
《お、言うな?》
 俺はハルカの煽りに乗る形で、ハルカのうなじにツタを向けた。
 左右の二カ所にツタが刺さり、ぴくん、とハルカの身体に力が入る。
《え、ちょっと、え?》
 するするとツタを進め、いつも通り、ハルカの認識回路にツタを打ち込む。
「んっ」
 ハルカの短いあえぎ声は、俺の腔内に消えた。
 そして、
《そんなお前には、俺の、■■になっ》《! いやっ!!》

 ばちんっ!

 俺の両指、そして脳に衝撃が奔り、反射的に手が飛び退いた。
 ほぼ同時に、どんっ! と今度は胸に衝撃が奔り、俺は尻餅をつく。

 俺は、ハルカに突き飛ばされていた。

 波音だけが当たりに響く中、俺は自分の手指を見る。
 そこには、まるで高温で焼き切られたかのようなツタの残骸が数センチ残っている。

 俺は恐る恐る、目の前にいるハルカの顔を見上げた。

「……すまん、そういうつもりじゃなかった。今の、間違えた。ごめん」
「……ううん、私こそ、ごめん」

 ほんの一言ずつ、謝罪の言葉を交わす。
 しかし、続く言葉は、どちらからも出ない。

 俺達はそのまま、身動きも取らず、目を逸らし。

「ごめん、戻る」
 どれほどの時間を費やしたのかも分からなくなった頃、ハルカは一言残し、逃げるように、来た道を引き返していった。

 真っ暗な部屋で、天を見上げる。

 星一つない天井は、心を動かさない。今、俺の心を動かしているのは、俺自身の思いだけ。

 ハルカがとって返したとき、俺もすぐに起き上がり、後をついていくように宿まで戻った。先を行くハルカは目に入っていたが、声をかけることはできなかった。
 俺が部屋に入ると同時に、ハルカは着替えを持って、再び部屋を出て行った。それ以来、ハルカの姿は見ていない。夕飯にも出てきていない。スマホで呼びかけても、反応はない。見られてすらいないようだった。
 といっても、行方不明ではない。ハルカは、真利奈さんの部屋にいる。ついさっき、真利奈さんがここにハルカの荷物を取りに来た。もっとも、夕食の時、ハルカがガレージにいなかったことを真利奈さんが気にするそぶりがなかったことで、薄々察していたが。

 ハルカに拒絶された。

 その事実が、俺の心に重くのしかかっていた。

 他の淫魔の能力を拒絶する能力。それは、淫魔の基本能力――というよりむしろ、最も重要な能力という。その手の研究では、現在に生きている淫魔がモータルを除く他の種族との生存競争に勝利した要因が、拒絶能力だったと、中翼の教授に聞いたことがある。今の淫魔と類似した種族は、俺達より他者に干渉する能力が高かった一方、自分の身を守る能力が低かったため、生存競争に敗れたという説があるそうだ。
 そして、俺が(不顕性とはいえ)淫魔であるように、ハルカもまた淫魔である。それは即ち、ハルカには俺の「弄り」を拒む能力があるということだ。拒絶する能力は、不顕性であっても、恐らく変わらない。俺が舞耶さんからの誘惑をはねつけられるくらいだからだ。……誤解のないように言えば、舞耶さんが泥酔して、昇さんと俺を間違えたのである。

 俺のツタがハルカに弾かれたのは、実は初めてではない。
 それは、一番最初――俺がツタの能力に目覚め、ハルカの野菜嫌いを克服させようとした、あのとき。
 不躾に伸ばした俺のツタがハルカの鼓膜を突き破ったところで、あえなくハルカの拒絶に遭った。それは当時の俺が持っていた全能感――能力が目覚めた直後に特有のそれを見事に叩き潰すほどの効果だった。その経験から、言葉も含めた様々な手段を織り交ぜ、ハルカの矯正に二週間の時間をかけることになった。もっとも、それはハルカに「弄り」というものを受け入れてもらうという結果に繋がり、今の関係に至っているので、決して無駄なものではなかった。

 ハルカにツタを拒絶されたのは、それ以来だ。

 はぁ。

 思わず、溜息が漏れる。

 ハルカが俺の弄りを受け入れていたのは、本質的には決して、俺の洗脳によるものではない。ハルカが俺の行為を理解し、自ら受け入れられると判断したからだ。そう思うに足る関係を築いてきたと、俺は信じている。だからこそ、ハルカに拒絶されたという事実そのものが、痛恨だった。それは、俺がハルカとの関わり方を誤ったということに他ならない。
 断じて、ハルカをあの場で完全に変える気はなかった。ただ、気が逸り、勢い出た言葉が、最悪の反応をもたらしてしまった。しかし、その経緯は言い訳にはならない。俺は自分の衝動を抑えられないどころか、そのことに気づいてすらいなかったからだ。

 しかし、ただそれだけだったなら、今の俺の悩みは、もっと単純だっただろう。
 だが、今の俺の脳裏にこびりついているものは、少し違う方向を指し示している。

 突き飛ばされ、俺が恐る恐る見上げたときに映った、ハルカの、顔。

 そこにあったのは、怒りに打ち震えた表情――では、なかった。失望とも違った。
 それは、驚きや戸惑い。いや、それよりは、動揺。
 まるで俺ではなく、ハルカ自身が何か失態を犯したかのような、そんな表情だった。

 その表情を見たときに、悟らされた。

 俺は間違えた。
 だが、間違いは「これ」だけではない。
 俺はきっと何か、もっと大事なことを、間違えている。

 なんでもない、というハルカの言葉が脳裏をよぎる。
 やはり、ハルカは何かを悩んでいた。
 何だ。ハルカは何を悩んでいたんだ。なぜ、ハルカは俺ではなく、ハルカ自身を責めるようなそぶりを見せたんだ。

 俺は、ハルカの何を見ていたんだ。

< つづく >

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