第五話
キス・インフェクション
輝く春は足早に去って行き、梅雨も迫ってきたある雨降りの日のこと。
お嬢様がお風邪を召してしまわれたので、私は他のお仕事はそっちのけで付ききりのお世話に当たっていた。
今でこそ大分落ち着いていらっしゃるが、昨晩は少し高めのお熱もあったりして、濡らしたタオルを取り替えて差し上げたり、身体の汗を拭いて差し上げたり、てんてこまいの看病に追われるといった夜だった。
そもそもお嬢様がご病気にかかるなどといったことは滅多にないのだが……。
「ありさ様、雨が降っているのにお出かけになるなんて無茶もいいところですよ」
そう、ありさ様が雨の中外出されたのが今回のお風邪の原因だった。しかも夜分にお一人で、傘も差さずに。もう暖かい時期とはいえ、夜には冷たい雨が降ることもあるというのに。
「仕方ないのよ。
魔女は魔女なりに、色々とやらなきゃいけないことがあるんだから」
ベッドにおとなしく横になっているお嬢様は、ちょっぴりむくれたような顔をなさっている。
「まったくもう……。
今度から、せめて私もご一緒させてくださいね」
お嬢様は無言で布団を引き上げた。
鼻先まで布団をかぶって目元だけを覗かせたお嬢様は、穴倉からちょこんと顔を出す臆病なプレリードッグを思わせる。なかなかに愛らしい仕草であった。
ありさ様の場合、普段からこれくらい可愛げがあると良いのだけれど……。
「……菜々、あなた今、何か失礼なこと考えたでしょう」
どきっ。
「あはははは。そんなまさか。
わたくしが仮にもお嬢様を品評したりなんて、そんなこと考えるワケがありません」
「思いっきり顔に出ているわよ……っくし!」
お嬢様の可愛らしいくしゃみの隙をついて、私は話題をすり替えようと画策する。
「そ、そうだ、ありさ様。
病気をぱぱっと治しちゃうような魔法はないんですか?」
お嬢様のぱっちりしたハシバミ色の瞳が、じっと私に向けられている。ドキドキ。
「そうね……あるにはあるけど、あたしの柄じゃないのよ。
薬草とか薬効とか……面倒じゃない。みつきなら向いてると思うけど」
「そういうものですかね~」
「……っくし!」
お嬢様はなかなかくしゃみが止まらないご様子だ。眉をひそめて、いかにもむずがゆそうな表情をしていらっしゃる。
「この調子じゃ、もうしばらくお休みにならないといけませんね。
何か足りないものがあればお持ちしますけれど」
「大丈夫。少し眠ることにするわ。
それと……そろそろみつきに代わるかもしれないから、よろしくね」
「かしこまりました」
私は一礼して、看病のために持ち込んだあれやこれやを片付けにかかった。
お部屋の大窓から外を眺めると、陰鬱な灰色の空から振りまかれた雨粒のヴェールが、遙かに広がる海の情景をうすぼんやりと曇らせていた。
この時期になるとカモメたちも北へと去り、ここらでは姿を見かけなくなる。
……もう、このまま梅雨に入ってしまうのかなあ。
ため息をついて、私は厚いカーテンを引くと屋外からの光を遮った。お部屋は弱々しい照明を残して薄闇につつまれる。
最後にそっとお嬢様の様子を確認。目をつむって、安らかなお顔でいらっしゃる。うむ、これで一眠りされればすっかり良くなられるであろう。
「バッカスの恩恵は偉大ね……」
私の気配を感じたのか、あるいは夢うつつの独り言か、ありさ様の小さなお口からそんな言葉が漏れた。
お部屋を出たところで、私はありさ様のお言葉を思い出して……はて、とその意味を考えた。
バッカス? 確か、何かの神話に出てくるお酒の神様ではなかったか。
ああ、そうか。私はポンと手を叩いた。
先ほどブランデーをたらしたロシアンティーを淹れて差し上げたのだった。そのことであろう。
お嬢様はお酒をたしなまれるには少し早いけれど、ご病気の時などには少量お召しになって元気を出すには良いものだ。
謎がとけてすっきりした気分になると、私は遅くなったお昼ご飯を頂くために階下へと向かった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ご飯を食べて、仮眠を取って(なにしろ昨夜は一睡もしていないのだ)、そして目が覚めた時には――とっぷりと日が暮れていた。
部屋の中は薄暗く、降り止まない雨の音だけが小さく聞こえてくる。
……あら。ちょっと眠りすぎたかしら。
けだるい身体を起こして明かりをつける。このまま冬眠する熊のように来年の春まで眠りこんでしまいたい気分だったが、しかし――そうもいくまい。
夕食の時間は過ぎているけれど、胡桃ちゃんはまだ帰っていないし、まだお勤めが残っているかもしれない。私は冷たい水で顔を洗って服装だけ軽く整えると部屋を出た。
私の代わりに待機してもらっていたメイドはどうしたろう。気を利かせて別の子に代わってくれたのかな、多分。うむ、こういう気遣いは嬉しいものですね。
そうそう、まずはなによりお嬢様のご様子を確認しなくては。私は二階へと向かうことにした。
それにしても――なんだか妙に静かな気がする。誰にも出くわさない。
まだまだ宵の口、みんなお仕事を終えてくつろいでいるということはあっても、もう寝付いているということはないと思うのだけど。厨房でおしゃべりしたり、お風呂に入ったりといったところが相場だろう。はてさて、これはどうしたことか。
そんなことを考えながら階段の踊り場にさしかかった私は――そこに誰かが倒れているのを見つけてビックリした。
「栞(しおり)ちゃん……?」
眼鏡をかけた金髪のメイドが、ぐったりと壁に寄りかかって座り込んでいる。
「ど、どうしたの?」
少女の元に駆け寄って助け起こそうとするが、どうやら腕にも足にも力が入らない様子だ。顔を見ると普段はほとんど真っ白な頬が赤く染まっており、焦点の合わない目は眼鏡ごしにあらぬ方向をさまよっている。
首筋に触れると汗ばんだ肌の感触と思わぬ熱が伝わってくる。まるで激しい運動をした後のような状態だった。
「やられました……とっさに中和したけど……」
少女の声はトーンの低い落ち着いた声で、頭脳の方はいつも通りの冷静さを保っていることをうかがわせた。
この子は簾読 栞(すよみ しおり)ちゃんといって、書庫の管理を任されている。まだ若いのに相当の読書家で、普段から書庫に篭もりきりでほとんど出てこないくらいだ。
いわゆるハウスメイドのお仕事とはちょっと違う気がするのだけれど、私たちと同じように濃紺のエプロンドレスを身につけている。
英国人とのクォーターだとかで、体つきは少し丸みを帯びていて日本人らしいところもあるものの、外見はほとんど異国の少女といった風である。
色白でくっきりとした顔立ちに、薄い碧色をした瞳。まぶすように散らされたソバカスがチャームポイントだ。暗い金色をした髪の毛はクセっけが強く、短めにまとめているのはともかくとして、手入れを嫌うのでいつもボサボサになっているのはどうしたものか。(私が櫛を入れてあげようとしても断られるのだ)
眼鏡は手放せないらしく、今もちょっと洒落たフレームの眼鏡をかけている。
「やられたって……何のこと?」
私は栞ちゃんを担ぎ上げることにして、よっこらせと肩を入れながら聞いた。
「何って……お嬢様ですよ。
あ、とりあえず、ボクの部屋に行きましょう。あそこなら安全ですから」
栞ちゃんは淡々とそんなことを言う。
えっと……お嬢様が何をなさったというのだろうか。それに安全って。一体どういうこっちゃ。
頭の中を疑問符でいっぱいにしつつも、私は栞ちゃんをおぶって一階へと引き返したのだった。
ようやくたどり着いた栞ちゃんの部屋は、私の自室とも大して変わらない広さのはずなのに、どっさりと積み上げられた本の山のせいでやたらと手狭に感じられた。古い紙の臭いが鼻をつく。
書籍だけではない。机の上には古びた薬瓶や何かの標本がごっちゃりと置かれているし、床にも奇妙な形をした器具や用途の不明な道具類――ねじくれた定規や巨大なハサミ、底の抜けたすりばち、文字盤が左右逆になっている日時計、などなど――が所狭しと並べられて……というか放置されている。
私も無精な方なので人のことは言えないのだが、これは……ちょっと。とても女の子の部屋とは思えません。
栞ちゃんをベッドに下ろすと、私はまともに使えそうなコップをなんとか発掘し、冷たい水を汲んできて飲ませてあげた。
こくこくと喉を鳴らして一息に飲み干した栞ちゃんは、ふーっ、と大きく息をついた。
「少しは落ち着いた?」
「ええ……おかげさまで。大分楽になりましたね。
ここには魔法実験のための結界が張ってありますから」
そうなのだ。栞ちゃんの得意分野は読書だけではない。私たちメイドたちの中ではただ一人、魔法の素質や知識があるという点でも特別だった。
生粋の魔女とは力も技術も比較にならないという話ではあったが……それでも私の知る範囲では、蒼風院家以外の人間で多少なりとも魔法を扱うことができるのは彼女だけだった。
もしかすると、それを見込まれてお屋敷にスカウトされたのかもしれない。
気づくと、眼鏡ごしに碧い瞳がじっと私を見つめていた。
「でも、やっぱりダメですね……菜々さん、ちょっと」
栞ちゃんはそう言うと、何かひそひそ話をするかのように私を手招きした。
「…………?」
なになに、と顔を近づける私。
唐突に――栞ちゃんの唇が私の唇に重ねられた。
「!!!!」
驚いた私は身体を離そうとするが、素早く抱きついてきた栞ちゃんがそれを許さない。
混乱した一瞬の間に……唇から痺れるような衝動が伝わってきて、思わず目を見開いて身を固くした。
「んんっ……!?」
その衝撃は一転、とろけるような快感に変わって私の脳をめいっぱい刺激する。甘い痺れは一瞬で私の全身へと伝わっていき……がくり、と身体の力が抜けるのが分かる。
あぁ、キスってこんなに甘いものだったの……?
こんなのありえない。ありえないことなのに……私は同性である栞ちゃんとのキスで切ないほどに感じていた。
「んっ!」
きゅん、と身体の中心が疼く。
栞ちゃんの唇から燃えさかる炎のような不思議な力が伝わってきて、私の身も心もすっかり焼き尽くされてしまったかのようだった。抵抗しようとする気持ちすらかき消えてしまう。
耳まで真っ赤になった私には、もう眉をひそめて必死に快楽に耐えようとすることしかできなかった。
目の前には目をつむったまま一心に私を求めてくる栞ちゃんの顔がある。そのピンク色に染まった頬に若干の恥じらいの色を見て取った私は、栞ちゃんもこの気持ちよさを感じているんだ、と気づいて……いっそう興奮が高まるのを感じた。
「…………っ!」
栞ちゃんは狂おしく快感を追い求めるようにして、さらに舌を侵入させてくる。その甘美な誘いに逆らえず、私は暴虐の限りを尽くす侵略者を喜んで迎え入れてしまう。
私の心が無茶苦茶に犯されてしまうことを恐れるというよりも――むしろ期待に胸を高鳴らせて。
くちゅっ、という淫らな音が遠く聞こえた気がするけれど、押し寄せた快楽の波の向こう側に霞んでしまう。
「んんんっ!!」
栞ちゃんの舌が踊るようにして私の咥内をなぞると、それだけで脳髄を直接刺激されるかのような電流が走り、心が焼き切れてしまうのではないかというほどの快感が荒れ狂う。
私は年下の女の子と……口づけをしてこんなに感じているんだ。唾液がこぼれ落ちるのにも構わず、あさましく求め合っているんだ……。
その背徳感にいたぶられながらも、私の心は強制的に送り込まれてくる快楽の渦に巻き込まれ、舞い散る木の葉のように翻弄されてしまう。
いつの間にか……私は物欲しげに腰をくねらせている自分に気づいた。じっとりと下着が濡れた感触を改めて感じると、あまりの痴態に頭がクラクラしてくる。だがそんな羞恥心への刺激すら、快感に変換されて私の身体の奥にじんじんと響きわたるのだ。
豊かとは言えない胸も今はいっぱいに張りつめており、突起が布地にこすれるたびに切なさに身をよじってしまう。
あぁ……もうダメ……これ以上は……!
「んんーっ! んっ!!」
そして……栞ちゃんが自分の舌を私の舌に絡ませ、なぶるように動かした瞬間――私は天にも昇るような快感を味わって、思い切り身をのけぞらせたのだった。
ぐったりとなった私は、栞ちゃんのベッドに倒れ込んで荒い息を吐いていた。たっぷり十分間はそうしていたんじゃないだろうか。
ようやく元気を取り戻した私は、顔を真っ赤にして異国風の顔立ちをした少女に訴えかける。
「し、栞ちゃん! な、なんてことするのっ!? 私にそんな趣味はっ」
しかし当の本人は冷静なもので、自分の唇を人差し指でゆっくりとなぞりながらこう言ったのだった。
「だから、ボクのせいじゃなくてお嬢様の……みつき様の魔法ですって。
伝染性のキス希求症候群。これは厄介ですよ」
★★★★★★★★★★
なにがなんだかよく分からず、私は栞ちゃんにもう少し詳しい説明を求めた。彼女の解説によると、こういうことだ――。
「簡単に言うと、お嬢様がキスをした相手は、また別の人を見かけた時にキスをしたくてたまらなくなる、っていう魔法です。で、その相手もまた別の人間に……っていう具合に魔法がどんどん広がっていく仕組みですね。
お嬢様がいつそんな魔法を身につけられたのかは分からないですけど……みつき様も魔力に関してはとても強力ですからね。ボクは耐性があったからまだマシな方で、普通だったら理性も何も吹っ飛んでキスすることしか考えられなくなっちゃいますよ。
ま、このままだとお屋敷中がキス魔だらけになるでしょうね。いや、もうなってるかな……」
う、うーん、これはひょっとして……とんでもない話なのでは。
「で、でも……お嬢様はなんでまたそんな魔法を?」
「それは分からないですけど。
ボクがキスされた時には、お顔も赤くて、なんだかフラフラしていらして……」
「うーん、お風邪が悪くなったのかな?」
「いえ、ご気分は良さそうでしたよ。上機嫌と言ってもいいくらいです。
ありていに言えば……酔っぱらっていらしたんですよ」
ぎく。私はみるみるうちに顔面蒼白になった。
「……ブランデー」
「…………?」
「お嬢様の枕元に、ロシアンティーを淹れて差し上げた時のブランデーの瓶が置きっぱなしに……」
栞ちゃんは私に注いでいた視線を外すと、ちょっと考えこむような仕草を見せて言った。
「それですね、原因は。今さらそれが分かったところで仕方ありませんけど。
いや、酔っぱらってることがハッキリしたから対策も講じやすいかな……」
私は罪悪感にさいなまれて目線をさまよわせた……部屋の片隅に置かれたどう見ても邪悪そうな顔をした偶像と目があってしまって、ぎこちなく視線をそらす。
「ああ、私のせいでお屋敷のみんなが……。
同僚の女の子にファーストキスを捧げてしまう子も居るのねきっと」
自分の言葉にがっくりと落ち込んでいると、栞ちゃんが私をまじまじと見つめて言った。
「ボクも初めてでしたよ」
私は一瞬ぎくり、としたが……すぐに思い直した。
「う、嘘ばっかり……。
めちゃくちゃ慣れてたじゃないの」
そのことを思い出してカッとなってしまう。
「冗談です。菜々さんをからかうのは面白いですね。
お嬢様のお気持ちが良く分かります」
「し、栞ちゃん~!」
「ま、みんなのことより、ご自分の心配をしてくださいね。
この部屋に居るうちはいいですけど、外に出たら魔法の効力がまた有効になるんですから。
いや、待てよ……」
栞ちゃんはベッドから抜け出すと、なにやらごそごそと捜し物を始めた。
前から思ってたけど……この子、マセてる。それも、ものすごく。確か私よりも三つか四つは年下のはずなんだけれど。
「……ねえ、栞ちゃんがこのお屋敷に来たのって、四年くらい前だったよね。
その時、いくつだったっけ?」
それを聞いて栞ちゃんは振り返ると、一瞬スッと目を細めた。それから、いつもの何事にも無関心ですと言わんばかりの表情に戻って、軽く肩をすくめてみせる。
「ま、物事は見た目通りとは限らないものですよ」
「……あの、全然答えになってないと思うんですけどー?」
こ、この子は……わき上がる怒りにこめかみをひきつらせる私。
「あ、あった」
そんな私の思いなぞどこ吹く風、栞ちゃんはなにやら古ぼけた紙の束を引っ張り出してきた。表面には何やら不思議な紋様が描かれている。二匹の蛇がバツの字に絡みあっているような図柄だ。
何だろう。なにか……魔術的なモノなんだろうけど。
私の怒りは好奇心に負けてみるみるしぼんでいく。
「……なにそれ?」
「魔法封じのアミュレット。魔除けというか、お守りというか、そんなものです。
本物は純銀製の腕輪で、これは羊皮紙に模写した出来のいいレプリカですけどね。
……ちょっと菜々さんに使ってみますよ」
そう言うと、栞ちゃんは紙の一枚を手にすると、なにか私には理解できない言葉を唱え始めた。碧い瞳が真剣な表情をたたえて下から私をのぞき込んでいる。
お嬢様とおつきあいしていると、魔法をかけられるのなんて慣れっこになりそうなものだけど……こういう時はやっぱり緊張する。私は身を固くして栞ちゃんの呪文が終わるのを待った。お嬢様のようにすんなりとは行かないらしく、思ったよりも時間がかかる。
と――紙に描かれた紋様から青白い光が漏れ出した。栞ちゃんはそれを手ですくうようにして、私の額に押し当てる。身体の内側から触れられているような奇妙な感触があったが、それも一瞬のことで、光は薄らいで消えていった。
紋様にまとわりついていた光は青い炎へと姿を変えていた。羊皮紙はそのまま栞ちゃんの手の中で燃え上がって――消えてなくなってしまった。それはある種美しい、幻想的な光景ではあった。
「これで……魔法は解けたの?」
私が聞くと、栞ちゃんは残りのアミュレットを点検しながら言った。
「完全に除去するのは無理みたいですね。
でも、大分抑えられているはずです。我慢しようと思えば我慢できる程度になっていると思いますよ。
ああ、あと一度キスした相手をまた求めたりってことはなくなるかな」
「うーん、大丈夫かなあ……」
不安そうな表情を浮かべる私。
「ま、根本の原因を何とかしないことにはどうにも。
ともかく、みつき様をつかまえることですね」
コンコン。
その時だった。部屋の扉にノックの音がしたのだ。
どきっとして、私は身体を強ばらせた。
栞ちゃんはいぶかしげな表情をしながらも、眼鏡越しに視線で合図を送ってくる。
し、仕方ない……私は覚悟を決めた。
「は、はーい……」
落ち着かない足取りで入り口に向かうと、我ながら情けない声を出しながらそろそろと扉を開ける。
そこに立っていたのは――我が相棒、胡桃ちゃんであった。
★★★★★★★★★★
「菜々ちゃんを探してたら、ここに居るような気がして……」
さすがの胡桃ちゃん、勘の良さはピカイチである。しかもお嬢様や他の誰にも出会わずにここまでやってくるとは、ツキも相当にあるようだ。
「……多分、残っているのはボク達だけでしょうね」
胡桃ちゃんを迎え入れて三人になった私たちは、額を寄せ集めて作戦会議を始めていた。
「澄さんは?」
「昨日がお休みのはずだったんだけど、あんなだったから……今日は振り替えの休日で、外泊されるっていうお話だったわよ」
私の希望は胡桃ちゃんの言葉であっさりついえた。
「ま、できるだけやってみましょう。
このメンバーならなんとかなりますよ」
「そうね。きっと大丈夫」
栞ちゃんの言葉に胡桃ちゃんが同意する。
この二人は趣味が近いせいもあるのか、とても仲がよいのだが……本当に大丈夫なのだろうか。理性派の二人にしてはなんだか根拠が薄弱な気がして、私は不安が拭いきれずに渋い顔をしてしまう。
「菜々ちゃん、上手くいくか心配?」
私の心を見透かしたかのように、胡桃ちゃんが小首をかしげて問いかけてくる。うなじにかかったおさげがふわりと揺れた。
「え? ……い、いやそんなことはないですけども」
引きつり気味の笑顔を浮かべてそう言った私だったが、内心の動揺を隠すには無理があった。
「大丈夫よ。菜々ちゃんが居ればね。
強力な盾になってくれるもん」
「……へ?」
「ボクも賛成ですね。
菜々さんならお嬢様も油断されると思いますし」
二人の言っていることの意味と、その自信の根拠に気づいて……私は慌てた。
「ちょ、ちょっと待った! 盾ってなによ盾って! 私は嫌ですよっ。
そんな非人道的な計画には断固反対! 廃案を要求しますっ!」
栞ちゃんは駄々をこねる子供を見るような目つきで私を眺めた。
「そんなこと言ったって、他にやりようがないでしょう。
それに今回のことは菜々さんにも責任があるんですからね」
「それはそうだけど~! だけどもしかしですねえ……」
私の抗議をさらりと聞き流すと、二人は具体的な手順について相談を始めた。
「その魔法封じのアミュレットをみつき様に使うのかしら?」
「いえ、みつき様には無駄ですね。魔力のケタが違いすぎますよ。
虫取り網でインド象を捕まえようとするようなものです」
「じゃあどうするの?」
「こっちの酔いさましのアミュレットを使います」
「そんな便利なものがあるのね」
真顔でそんなやりとりをする二人。完全に置いてきぼりにされた私はしょんぼりとして床に座り込んでしまう。
……どーせ私は盾ですよ。使い捨ての道具みたいなものですよ。うう、いじけてやる。
「あ、そうだ。行動開始の前に、胡桃さんもキスをしておいてもらえますか。
一度魔法にかからないことには除去もできませんから」
「分かったわ」
なんだかとんでもないことを言っている気がするのだが、胡桃ちゃんはあっさりと頷くと、すっと顔を寄せて――栞ちゃんの唇を奪った。
それは私の時とは違う、ごく控えめな口づけだったけれども……目をつむり唇を合わせる二人の姿を見て、私は胸がドキドキとしてしまうのを止められなかった。
胸を高鳴らせているのは私だけではないだろう。その証拠に二人の頬はうっすらと桃色に染まって、まだ幼さを感じさせる顔立ちにもどこか色っぽさが漂っている。
抱き合うように身を寄せた小柄な二人はしばらくして唇を離した。
「……ごちそうさまです」
栞ちゃんはぺろりと赤い舌を出して唇を舐めると、そんな言葉を漏らす。
「じゃ、あとは菜々ちゃんね」
頬を染めた胡桃ちゃんは私の方を向いてそう言った……って、えええ? もう魔法はかかったはずでは……?
「念のため、菜々さんもお願いします。
同じ相手とはシたくならない、って言ったじゃないですか」
私は呆然として、頭上から迫ってくる胡桃ちゃんの顔を見つめた。同い年なのにあどけない顔立ちの少女は、少しいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「ちょっと、ドキドキするね……」
そんなことを言ったかと思うと、胡桃ちゃんは口元を寄せてくる。私は思わず目を閉じてしまった。
ふにゃっ、という柔らかなふくらみが唇に触れる感覚があったかと思うと……またあの甘い衝動が訪れる。
魔法が弱まっているのだろう。先ほどのような強烈な快感はないけれど、ふんわりとした暖かい波に身体を揺すられているような、心地よい感覚が全身を満たしていく。
その感触を長く感じていたいという気持ちがなかったと言えば嘘になる。
胡桃ちゃんは私の肩を優しく抱いたまましばらくそうしていたが、やがてそっと身を離すのが感じられた。
ようやく目を開けると、優しい表情で私を見下ろしているおさげの少女を見つめる。
ああ、親愛なる胡桃ちゃんと口づけを交わしてしまったのだ……。
そう思うと、実際にキスをしていた時以上に頭に血が昇って、耳まで真っ赤になってしまうのが分かった。
「お熱いことで……」
座り込んだまま力が抜けてぼうっとしている私を見て、栞ちゃんが苦笑を浮かべる。
「胡桃さん、ちょっとじっとしていてくださいね」
胡桃ちゃんが魔法を解いてもらっている間も、私はその小さな桃色の唇をつい盗み見てしまうのだった。
「まずはお嬢様の居場所をつきとめるところからですかね」
栞ちゃんはどこからかお屋敷の見取り図を引っ張り出してきて、ガラクタをよけた机の上に広げた。
「うーん、やっぱりお部屋にいらっしゃるのじゃないかな」
私はとりあえずそう言ってみたが……あんまり自信はなかった。金髪の少女も、その可能性は念頭においているようだったが、やはり決め手がないのだろう。悩ましい表情を浮かべている。
「そうですねえ、一度は確認してみる必要があるかもしれませんね。
……胡桃さんはどう思います?」
栞ちゃんが水を向ける。
「そうね……確かに普段なら、お部屋で私がお勉強を見て差し上げたりしているような時間だけれど……」
胡桃ちゃんは少しの間逡巡していたが、やがて明晰な口調で言った。
「みつき様の行動パターンからすると、だれかれ構わず魔法をかけて回っていると思うの。
でも大分酔っていらっしゃるようだし、まだ病み上がりでしょう。そんなことをしていたら、お体にもかなり負担があるんじゃないかしら。
そのお疲れを癒すのと、それに汗を流すために……お風呂に入っていらっしゃる、と予想するわ」
……お風呂?
栞ちゃんと私は顔を見合わせた。
★★★★★★★★★★
私たち三人組は、お部屋を出てこそこそとお屋敷の中を移動していた。お風呂はメイドたちの寝室がある一角からすると、お屋敷のちょうど反対側である……かなりの距離を突き進まねばならないことになる。
幸い、栞ちゃんが言っていた通りお嬢様の魔法はほとんど解けているようで、三人で唇を奪い合う……というような羽目には陥らずに済んでいる。
それでも……私の心臓は絶え間なくドキドキと脈打って休まることがない。
なにしろ、そこかしこで同僚のメイド同士が我を忘れて情事に耽っているのだ。唇同士がこすれ合うちゅぱちゅぱという音や、色っぽいあえぎ声が聞こえてきて、思わず顔が赤くなってしまう。
物陰からこっそりと覗くと、エプロンドレスが乱れるのも構わず、何かに突き動かされるかのように激しく求め合っている姿が目に入る。なまめかしい肢体が快感の電流に打たれて時折びくり、と震えるのが遠目にもはっきりと分かった。
「じゃ、菜々さんお願いします」
「頑張ってね」
こんな背徳的な光景を目にしているというのに……栞ちゃんと胡桃ちゃんはいたって冷静なものだ。やれやれ、二人のこういうところはどうにも理解できない。
私たちの作戦は極めて単純だった。まず私をけしかけて、メイドが気を取られている隙に――というか、唇を求めてくるメイドに私が押し倒されている間に、栞ちゃんが魔法封じのアミュレットの効力を発動させて魔法を解く、というものだ。
……私は本当にただの盾の役目であった。
それに魔法が解けたメイドたちは、甘い刺激に耐えきれなかったのか、みんなぐったりとして倒れ込んでしまい、とても協力を頼めるような状態ではなかった。
つまり、私の代わりは居ないということである。とほほ。
同僚の少女や年上の女性から何度も情熱的なキスを受けて、お風呂にたどり着く頃には、私はもうフラフラになってしまっていた。
★★★★★★★★★★
首尾良くお風呂の脱衣場に侵入した私たちは、何人分かの洋服――メイドのお仕事着であるエプロンドレス――が乱雑に脱ぎ散らかされているのを発見した。
「2、3……4人分ありますね。
お嬢様の寝間着も落ちてます」
栞ちゃんは手早く数えると、ちょっと思案げに首をひねった。
「うーん、この人数を相手にするとなると、ちょっと大変かもしれませんね」
肩をすくめる。
「ま、やるしかないですね。
とりたてて有効な手だてがあるワケじゃありませんし」
そう言って、栞ちゃんは疲労困憊している私を見つめてくる。
はい、分かってますよ……また同じ手でいこうということね。
『はぁんっ!』
私が肩を落として嘆息していると、曇りガラスの向こう側から恥ずかしそうなあえぎ声が聞こえてきた。
『あはははは!』
そして……お嬢様の明るい笑い声も、広いお風呂の壁に反響して木霊のように響いてくる。
私にはお嬢様の餌食になる自分の姿がまざまざと想像できた。
「菜々ちゃん、頑張ってね」
胡桃ちゃんがそっと肩を叩いてくれた。
ガラガラ……。
こっそりとお風呂のガラス戸を開けて忍び込むと、そこにはパラダイスが……じゃなくて地獄絵図が……いや、やっぱりパラダイスかも……広がっていた。
4人のメイドたちはみんな裸で(お風呂だから当たり前だけど)、身体を重ね合わせて情交に夢中だった。
もはやキスとかいったレベルではなかった。どんな光景を目にしてもひるむまいと覚悟を決めていた私も、思わず躊躇してしまう。
「ふああ……ああっ!」
「はんっ……す、すごいぃ」
絶え間ない嬌声が、湯気を透かしてお風呂場いっぱいに響き渡っている。
お互いがお互いの胸を揉みあったり、大事な場所を舐めあって甘美な蜜をむさぼったり……。欲望におぼれて激しく身体をくねらせ、淫らに腰を振りながらながら女同士で求め合う様に、私は禁忌の園を盗み見ているかのような背徳感を覚えて……身体が熱くなるのを感じた。
湯船の端にちょこんと腰掛けているお嬢様ももちろん裸で、ほっそりとしたお身体に真っ白な肌も美しく、栗色の髪はしっとりと濡れてえもいわれぬ艶を見せている。まるで妖精のお姫様のような可憐なお姿であった。
ようやくふくらみかけた乳房を隠そうともせず、足を組んでほおづえをついた姿勢で、4人の様子を満足そうに見守っている。
時折、みつき様が4人のメイドたちに向かって茶目っ気のある仕草で軽く手を振ると、途端にあえぎ声が高まって、中には感極まって身体をピンと仰け反らせてしまう子も居る。
魔法で直接、快楽を与えられているのだろう。お嬢様の思いのままに感じさせられて、メイドたちは切なげにその肢体を震わせてしまう。
そんな様子を見て、お嬢様は可笑しそうにクスクスとお笑いになっている。
な、なんという淫靡な……。私は頭がクラクラしてきた。
ありさ様ならともかく、みつき様がこんなエッチなことをして喜ばれているなんて……。
そのお嬢様は私の姿に気づかれたようで、ぴょこん、と跳ねるようにして立ち上がると、私のところへと駆け寄ってくる。
「菜々ひゃーん、わらひに会いに来てくれらのれー」
満面の笑みでおっしゃったお嬢様は……思いっきりろれつが回っていなかった。愛らしい頬がバラ色に染まっているのは、お風呂で暖まったからばかりではあるまい。
「お、お嬢様、お風呂場で走ったら転んでしまいますよ。
……じゃなくって、こんなことなさってはいけませんっ!」
少しきつい口調で言ったつもりだったが、みつき様は全くこたえた様子もなくおっしゃった。
「なんれー?
気持ちいいことは、とってもいいことらよー」
無邪気な笑顔を見せつけられて、酔っぱらったお嬢様が本当に罪悪感の欠片も感じていないことを悟る。
こ、これはある意味ありさ様よりタチが悪いような……。
「菜々ひゃんも、気持ちよくなっれみればいいよー」
どきり。私は危機感を感じて身を強ばらせた。
みつき様が、ついっ、と指で空中に円を描くような動作をされる。
その途端……身につけていた衣服が一瞬で消え去って、私は真っ裸になっていた。
「きゃっ! ちょ、ちょっとお嬢様、何をされるんですかっ!」
私は身体を隠そうとして、内股でその場にうずくまった。お風呂に入っているのに裸を恥じるのはなんだかおかしいのだが、そんなことを考えている余裕は私にはなかった。
というか、みつき様ってこんなに魔法がお上手でしたっけ……?
「まーまー、からいこと言わにゃいのー」
ちらり、と入り口の方に目をやると、栞ちゃんと胡桃ちゃんが裸のメイドたちに阻まれて……というか襲われているのが目に入った。これはもしかして……ピンチかも。
「菜々ひゃんのお肌、きれいらねー。つるつるしてるぅー」
みつき様は相変わらずニコニコしながら、私の肩や腿に触れてくる。こ、これくらいなら多少変な気分になるくらいで、なんとか耐えられそうな気もする。
「ふぁーい、気持ちよくなっれねー」
ところが……お嬢様がそうおっしゃって、太股の内側をつるりと撫でた瞬間だった。
「ひゃんっ!」
お嬢様に触られた場所が、まるで熱でも帯びたようになって――私は声を出して感じてしまった。きゅっ、と身体の奥底が締め付けられたかのような快感が走る。
そ、そんな。ほんのちょっとちょっと触られただけだとういうのに。
「どおぉ? 気持ちいいれしょー」
なおも手を伸ばしてくるお嬢様に恐れをなして、私は慌てて立ち上がると身をかばうようにして脱兎のごとく逃げ出す。こ、これではちょっとでも触られたら大変なことになってしまう。
なんとかお嬢様から距離を取った私だが、すぐにお風呂場の奥に追いつめられてしまった。こうなったら危険を承知でお嬢様の脇を抜け、反対側に脱出するしかないか……?
そう考えた私だったが……お嬢様の手にあるものを見て血相を変えた。
「菜々ひゃーん、逃げひゃらめらよー」
みつき様が手にしているのは……シャワーのノズルであった。お嬢様が何をされるおつもりなのか悟った私は、短く悲鳴をあげる。
「えいっ」
お嬢様は楽しそうにおっしゃって指をくいっと曲げる。シャワーのコックがひとりでに回転して全開になると――熱いお湯が吹き出して私めがけて襲いかかった。
「ああぁぁあぁぁぁぁあっ!!」
身を避けようとする暇もなかった。
肩に、腕に、胸に、脇腹に、太股に――肌に降りかかる水流は、身体のどこに触れても信じられない快感を生み出して私の身体の芯を震わせる。暴風のように強烈な、それでいて熟れた果汁のような甘みを伴った衝撃が、みるみるうちに心をとろけさえていく。
ふたたびへたりと座り込んでしまった私は、もはや抵抗する力も意志も奪われて、肌から伝わってくる快楽の奔流に身を任せるばかりだった。身体がびくびく、と勝手に反応してしまう。
「いやあぁぁ! だめぇっ! お、おかしくなっちゃいますぅっ! ひゃあぁぁっ!」
あまりの気持ちよさに、絞り出すような声も甘く震える。
「ほーら、菜々ひゃんったらかわいい声らして……気持ちいいんれひょう」
みつき様は無邪気にそうおっしゃると、容赦なくシャワーを浴びせてくる。
「やめっ……いやぁぁ! ふぁあああっ! イっちゃう! イっちゃいますぅぅっ!」
ほんのわずかの間に、私の頭脳はもう考えることを拒否して快楽を享受するだけの器官に成り下がってしまっていた。もはや自分で何を口走っているのかも理解できない。
今にも達してしまいそうな、ビリビリと痺れるような快感が暴れ狂っている。もう期待することは一つしかなかった。絶頂に向けて駆け上ろうと、私は自分から胸をこすり始める。
けれど……その終着点は待てども待てども訪れなかった。
「ああぁぁっ! なんでぇぇ……なんでイケないのぉ……」
私はあさましく胸をいじくりながら、涙さえ浮かべてあえぎつづけた。その間もシャワーに打たれる肌から脳髄へと、絶え間なく快楽の波が送り込まれているのだ。私は本当に気が狂ってしまうのではないかと思った。
「ふぁあ? あー……ごめんねぇ、この魔法らと気持ちよくなるらけなんらぁ。
別の魔法かけてあげるねぇ……」
お嬢様が何かをおっしゃって近づいて来られると、私の身体をいつくしむように抱きかかえられた。みつき様のきめ細やかな肌が私の肌とぴったりと合わさると、その吸い付くような感触と共に甘く激しい快感が走り、身体の奥に一段と強い高みへの欲求が湧き起こる。
もうろうとする私の意識は、お嬢様のお顔が近づいてくるのをなんとか認識した。そして……。
「――――!?」
キスをされたのだ、ということに気づくのに少し時間がかかった。
柔らかい砂糖菓子のような感触を味わった私は、力が抜けて半分しか開かないまぶたを必死に見開こうとする。そして目をつむって頬を染めたお嬢様の端正なお顔に、恍惚とした表情が浮かんでいるのを目にした瞬間。
「んんん――――――っ!!」
意識も心もどこかへ飛んでいってしまったかのように頭が真っ白になって――私はイってしまったのだった。
★★★★★★★★★★
目が覚めた時には、私はお嬢様のお部屋でカウチに横になっていた。その隣にはお嬢様と栞ちゃんの姿がある。
あれ……? 私は一体……どうなったんだろうか。まだぼうっとしていて、身体にも力が入らない。
栞ちゃんがのぞき込むようにして声をかけてくる。
「菜々さん、お疲れ様です。作戦は成功ですよ。
土壇場で胡桃さんが頑張って、なんとかなりました」
そ、そうかぁ……良かったあ……。私は胸をなでおろした。
「事後処理もきっちりやっておいたから、安心してください」
……ん? 事故処理って……なんだろう。と考えたのもつかの間、今度はお嬢様がカウチの脇に膝をつくと、はっしと私の手を取っておっしゃった。
「菜々ちゃん、ごめんね。悪気はなかったの……。
ほんのちょっとのつもりでお酒を飲んだら、なんだかフワフワしたいい気分になっちゃって。
それで、みんなにも気持ちよくなって欲しいなって、そう思っただけなの……」
なるほど……キスの魔法にしてもお風呂の騒動にしても、結局、根の所はそういうお気持ちから始まったことだったのか。私はようやく納得がいった。
みつき様は眉根を寄せた表情で、栗色の瞳を潤ませていて……って、今にも泣き出しそうなお顔ではないか。あわわ。
「い、いえ、元はといえば私の不手際がいけなかったのですから……。
そんな、お嬢様が気に病むことなどありませんよ」
本当は思い切り抱きしめて慰めて差し上げたいところなのだが、けだるい身体は動きそうにもない。
けれど私の言葉を聞いて、お嬢様は少し元気を取り戻したようだった。
「よかったぁ……。
みんなにも悪いことしちゃったし、菜々ちゃんにも嫌われちゃったらどうしようかと思っちゃった」
私はなんとか腕を持ち上げると、涙の溜まった目尻をそっとこすって差し上げた。
「誓って申し上げますけれど、私がお嬢様を嫌いになるなんてこと、決してありませんよ」
嘘いつわりない気持ちでそう申し上げると、お嬢様はようやく小さな微笑みを浮かべておっしゃった。
「ありがとう、菜々ちゃん……」
そしてお嬢様のお顔が近づいてきたかと思うと、形の良い唇が素早く動いて、チュッとついばむようにして私の唇を奪った。
その甘い感触に恥じらいを覚えて……私はポッと頬を染めたのだった。
< 続く >