第一話
我は、魔王だ。人界と対になる魔界の主にして、人間どもの永遠の仇敵である魔族の王だ。我は、磨き抜かれた黒大理石の玉座に座り、闇に包まれた魔界の王の間の虚空を見つめている。この広大な部屋に、我以外の人影はいない。いる必要もない。
我が眷族である魔物たちは、個別の存在にして、我が手足も同然の存在。魔物たちの意識は魔王のもとに統合され、魔王の意志とともに動く。我が望みさえすれば、数多の魔物たちの五感も、我のものとして手に取るように感じられる。魔族とは個別の欲望を持ちながら、一つの意志に統合される群体のようなものだ。我は自らの視覚を閉じ、人界を侵略するために散っている魔物たちの意識を求めた。
「グルオオオォォォ……!!」
魔獣の唸り声が聞こえ、我の感覚が荒野に群れる魔族たちとつながった。屈強な魔物たちが、けたたましい咆哮をあげる。魔獣の騎馬にまたがった魔人の騎士たちが、剣を抜く。我が眷族たちは、数百の魔獣を前衛に、指揮を執る数十の魔人騎士を後衛にして陣形を張る。
その眼前には、甲冑に身を包み、武器を構えて相対する人間の兵士たちの姿があった。それも、十人、百人と言った規模ではない。魔族の群れに対峙する人間の兵団は、地平線を埋め尽くすほどの規模だった。
「人界より、魔物を駆逐せよ! 魔王を倒し、真の平和を!!」
「恐れるな! 進め! 聖女ティアナの名のもとに!!」
人間どもの声が響く。弩弓の矢が放たれ、前衛を務めていた魔獣たちが貫かれる。合わせて、人間どもの重装歩兵が突撃を敢行した。前方を守る魔獣たちの陣形を蹴散らして、後方に控えていた魔人の騎士と衝突する。魔族は人間よりもはるかに屈強だが、目の前の兵団の規模は人界にいる魔族の数を大きく上回り、さらに兵士一人一人もまた精強だった。たちまち乱戦となり、魔人の騎士たちが長槍でその身を貫かれる感触と、長剣で人間を切り捨てる感触が、同時に我へと伝わってくる。
我が魔王となって、およそ千年。人界において、侵略する魔族とそれを迎え撃つ人族の戦いが途絶えたことはない。時に魔族が押し、時に人族が押し返してきた。しかし、いま目の前で繰り広げられている人族の攻勢は、千年の間で最も大きな規模だった。人界の主要大国である三王国――それぞれ、聖都、魔法王国、槍の王国と呼ばれている――の連合軍が、聖都に住まう聖女ティアナの名を叫びながら、人界から魔族を一掃しようと前進する。そして、人界の大攻勢は、それだけではなかった。
魔界、魔王城、玉座の間につながる大扉の前。そこには、近衛兵としての役目を任せた死霊騎士と、それに相対するように三人の人間の娘が立っていた。
三人のうち、軽装の鎧を身に付け槍を持った女が、漆黒の甲冑に身を包み巨大な刃の剣を握った巨体の死霊騎士の前に歩み出る。死霊騎士は、見下ろすようにその槍の女を睨みつけると、振りあげた刃をたたきつけた。風圧が巻き起こり、断頭台のごとく振り下ろされた刃は、宙を切り、轟音を立てながら、黒い床石をえぐる。
槍を持った娘は、刃の軌跡を見切り、紙一重で死霊騎士の一撃を交わしていた。死霊騎士は、荒く息をつくと興奮したかのように、力任せで重剣を振り回す。対峙した娘は、まるで自らが旋風そのものになったかのように、死霊騎士のすべての攻撃をかわしていく。次の瞬間には、槍使いの娘は死霊騎士の隙を縫って、間合いの外に逃れている。
槍の娘の後を追おうとした死霊騎士の眼前で、空間がゆがむ。轟音が響き、虚空から灼熱の爆炎が生ずる。背後に控えていた、魔術師のローブと杖を持った娘の仕業だった。死霊騎士の巨体が揺らぐ。間髪いれずに出てきたのは、聖都の聖印が記された外套を羽織ったまだ幼い娘だ。奇妙なことに、外套の下は一糸まとわぬ姿をしているが、その理由はすぐにわかる。その全裸の娘の身体が、むくむくと膨れ上がり、柔らかい肌が岩のように硬質化していく。見る間に、幼気を残した少女は、岩の肌を持った巨人へと姿を変える。岩の巨人へと姿を変えた少女は、死霊騎士へと組みつき、力づくで動きを封じる。
怪力が拮抗し、死霊騎士は思うように動けない。その脇を、槍使いの娘が跳躍する。自らの身長以上の高さを跳んだ女は、身を捻りつつ、死霊騎士の首筋を槍で貫く。
「――!!?」
死霊騎士が、声にならぬ断末魔の叫びをあげた。そのまま巨体が床に倒れる。死霊騎士の身体は、槍に貫かれた場所から、ボロボロと塵のように崩れ落ちて行った。この三人の娘が屠ったのは、この死霊騎士だけではない。ここに来るまでに、魔界にいた魔物を全滅させられていた。
我は、意識を自分のもとに戻した。玉座の前に広がる空間と闇の中から、三人分の足音が近づいてくる。ほどなくして、三人の娘がその姿を現した。
「人界の平和のために、あなたを倒しに来ました。魔王。私たち、三王国は三王女の使命として……」
三人のうちの一人、長く柔らかな黒髪を結わえ、清楚な顔立ちの細身の娘が静かに言った。精緻な装飾の施された槍を手に持ち、動きを妨げぬよう急所のみを守る軽い鎧の間から見える四肢は、細くもしなやか筋肉を宿していることをうかがわせる。三王女と名乗ったということは、槍の王国の姫であろう。
「ここに来るまでに、魔界の魔物たちは一掃させてもらったわ。あなたも覚悟することね」
ふくらみのある茶髪と、顔つきから想像できる年齢よりも豊満な身体つきの娘が、勝ち誇ったように言う。ローブの下には、魔法王国の魔術師が好んで着用する身体の線が浮き出る衣装を身につけている。こちらは、魔法王国の王女か。
「すべては、聖女ティアナ様から頂いた、お導きと使命です……」
残った一人、金色の髪に、他の二人よりも、二回りか三回りは幼いであろう少女が、祈るようにつぶやく。羽織っている外套に記された聖印は、聖都の聖職者の中でも、特に高位の者にのみ許されたものだ。
聖都には王族はおらず、聖女が直接、都を治めている。そのため、聖女が女王として、その一番弟子が王女として、他の国から王族と同格以上に扱われていた。ならば、この幼い子娘が、人界の象徴である聖女の直弟子といったところか。
「ククク……お前たちの選んだ行動は正しい……」
我は笑いを噛み殺しながら、ゆっくりと玉座から立ち上がる。三王女は、我を睨みながら、身構える。
「何がおかしいのです!!」
槍の姫が、怒鳴り返す。
「魔王を倒せるのは、千の軍勢ではない。いつであっても、少数の英雄のみだ……」
我の言葉が、戦いを始める合図となった。魔術師の王女が、歌うように呪文を唱え、踊るような動きで魔術を織り上げる。我もまた、指先を繰り、因果を操る魔術の式を中空に書き出す。一瞬の後、我が立つ玉座と、三王女の間の空間がゆがむ。魔術師の王女が生み出した爆風の炎と、我が生み出した氷の飛礫が、中空で衝突する。相反する力がぶつかり合った衝撃が、広がる。その衝撃の中を突っ切るように、槍の姫が、我の目前へと踏み込んできた。
「てやあぁぁ!!」
掛け声とともに、疾風のごとき鋭さで槍を突き出す。我は、無造作に右手を振った。それだけの動きで、槍の姫の一撃ははじかれる。槍の姫の表情に、わずかに驚愕の色が浮かぶ。魔力を込めた手は、刃よりも硬い。ついで、左手の魔力を放つ。その力は、衝撃となり、槍の姫の身体を吹き飛ばす。
「ふん、他愛もない」
我は、再び魔術の式を編み上げる。生み出される氷の刃を、体勢を崩した槍の姫に向かって放つ。動けぬ槍の姫の前に立ちはだかったのは、聖女の弟子の少女だった。少女は、外套を脱ぎ捨てると、自らの身体を異形の姿へと変形させる。
(神官どもが使う聖術ではないな。めずらしい力だ)
聖女の弟子は、見る間に鋼のうろこを持つ竜に姿を変え、槍の姫を狙った氷の刃を自らの身体で弾き返す。ここまで、自由自在に姿を変じられるものは、魔族の中にも見たことはない。そのとき、我は気配を感じた。
「たぁっ!!」
先ほど吹き飛ばしたはずの槍の姫が、聖女の弟子が変じた竜の影から、一瞬のうちに我の横まで跳躍していた。再び、刃を弾こうとするも、槍の姫の一撃のほうがわずかに早い。槍の姫の持つ槍が、深々と我が脇腹に突き刺さる。我が、槍の姫の身体を捕らえようと手を伸ばすと、槍の姫は、自らの武器を手放し、素早く離れる。
次の瞬間、轟音と爆炎が目の前に広がった。熱と衝撃に我の体制は崩れ、玉座に身体を打ちつけられる。魔術師の王女が、放った魔術だった。
「やったわよ! リーゼ!!」
「油断してはダメよ、エレノア!!」
勝利を予感し、歓声を上げる魔術師の王女と、それを制する槍の姫。竜の姿の聖女の弟子は、我をじっと見据えている。我は、槍が突き刺さったままの脇腹に手を当てる。魔王の身体から血は流れない。我は、倒れた身体を持ちあげる。眼下を見下ろすと、油断せずに相対する三王女の姿が見えた。
「なるほど……我は、少しばかり、お前たちを見くびっていたようだ。三王女よ」
我は、無造作に脇腹の槍を引き抜き、槍の姫の足下に放ってやった。槍の姫は警戒しつつも、愛用の武器に手を伸ばす。我はその様子を確かめると、身をかがめ、我の影に手を伸ばした。自らの影に手を触れると、その表面がさざ波のように揺らめく。
我が影は、魔界の中の空間を超越して、つなげることができる。言ってしまえば、魔界そのものも我が身体のようなものなのだ。やがて、我が手は武器庫の中につながり、一振りの剣を握り取る。影の中から闇の塊を磨き抜いたがごとき、漆黒の刀剣が姿を現す。
「まずは、さすがだ。と言っておこう。今回の人間どもの攻勢、ここまでで魔族の力の半分を削いだだけのことはある」
我が言葉に、三王女はけげんな顔をした。
「何を言っているのかしら? ここに来るまでに、魔界の魔物はすべて倒してやった、と言ったでしょう。人界の魔物だって、今頃は三王国の連合軍が、全部やっつけちゃっているはずよ。つまり、残っている魔族は、あなた一人ってことよ」
言い返す、魔術師の王女。
「そうだ。その通りだ。そして、魔族の残りの力の半分は……お前たちの目の前にいる、この我だ」
我は、にやりと笑うと、漆黒の刀剣を振りかざした。空中をすべるようにして、三王女に迫る。反射的に槍の姫が、後ろの二人をかばうように一歩出る。我は槍の姫に向かって、刀剣を振り下ろす。槍の姫は、槍の柄でその一撃を受け止める。
鉄と鉄がぶつかるような小気味よい音が響いた。我と槍の姫は、そのままつばぜり合いの体勢になる。
「うぅッ……」
槍の姫がうめき声をあげる。彼女のか細い腕が、魔王の筋力を受け止めきれずに悲鳴を上げている。どうにか力をいなして、身をかわそうとするも、我がそれを許さない。我は、そのまま力ずくで刀剣を押しこんだ。
「うあ……!!」
槍の姫が、悲鳴をあげた。体勢を崩し、背中から床にたたきつけられる。我は手をかざすと、足下に倒れる槍の姫に魔力の衝撃波を放つ。きゃしゃな体から鈍い音が響き、槍の姫は、声にならない声をあげて、意識を失う。
「ガルアアァァァ!!」
その様子を見て、聖女の弟子が変じた鋼の竜が、咆哮をあげた。我を噛みちぎらんと、その顎を迫らせる。
「滑稽だな。魔物の姿を借りれば、魔物の主である魔王が倒せるとでも思ったのか?」
鋼の竜の姿は、並の人間が十人集まって敵わぬ力を持つだろう。だが、その動きは、先ほどの槍の姫ほどにも洗練されてはいない。我は、大木ほどもある竜の首元をつかむと、魔力を込める。すると、竜の身体が宙へと浮かび上がる。竜はじたばたと手足をもがくが無駄なことだ。我は、竜を背中から床石へと叩きつける。竜自身の自重もあって、凄まじい衝撃が響き渡る。そのまま、動かなくなった竜の全身が波打ち始める。巨大な鋼の竜は少しずつ縮んでいき、やがてもとの少女の姿へと変わっていった。
「さて……残るは、お前だけだぞ。魔術師の王女?」
我の視線を受けて、魔術師の王女は後ずさりする。それでも、覚悟を決めた王女は、再度、踊るような動きで己の魔力を収束させる。我の身体の真芯を捕らえるように爆炎が生じる。しかし、その炎熱は我を傷つけるほどにはならなかった。
「どうやら、先ほどまでで、己の魔力を使いきったようだな」
我は手をかざし、魔力の衝撃波を放って、魔術師の王女を吹き飛ばした。魔術の行使に支障がないよう、鎧の類を身につけない魔術師がその衝撃に耐えられるはずもなく、倒れ込んだ王女は他の二人同様に気を失ってしまった。
我は、しばしの間、倒れ伏した三王女を見下ろしていた。しばらくして、三王女は意識を取り戻すも、戦いの負荷によって、身動きはできなかった。
「なぜ……私たちを殺さなかったのです!?」
槍の姫が我を睨みながら言った。
「貴様らには、殺された魔族の埋め合わせをしてもらわなくてはならないからな?」
我は、三王女を見下ろしながら、そう告げる。
「まさか、魔王の配下となれ、とでも言う気じゃないでしょうね? そんなことになる位なら、死んだ方がマシよ!」
魔術師の王女が、甲高い声をあげる。
「貴様らに、選択権はない……」
我がそうつぶやくと、我の意図を予感したらしき聖女の弟子が身じろぎした。我は、自らの影を魔界の片隅とつなげる。
「いや……何をする気なの……気持ち悪い……」
聖女の弟子が、倒れたまま首を振る。その視線は、我の足下の影を捕らえていた。槍の姫と、魔術師の王女も、我の影から這い出るものに気が付く。
「ひっ……!!」
槍の姫と魔術師の王女が息をのんだ。それは、無数の黒いイバラだった。表面からは、黒い樹液が染み出して、ぬめりながら蠢いている。遠目に見れば、黒蛇の群れに見えることだろう。
魔王城の周りを取り巻く闇の森に生えるこのイバラは、人の精神を狂わす毒の樹液を滴らせる。黒いイバラは、樹液の跡を残しながら、三王女のもとへと這い寄っていく。彼女たちのもとへとたどり着いたイバラは、柔肌を這いまわり、その肉体を覆い隠していく。
「やめて! お願い、やめて!!」
「イヤ! 助けて!!」
「気持ち悪い……気持ち悪いよぉ!!」
三王女は、悲鳴をあげてわめく。イバラは無慈悲に、彼女たちの四肢を覆い、腹を覆い、胸と背を覆い、さらには顔にまで覆いかぶさっていく。やがて、三王女の身体が黒いイバラによって完全に包まれ、三つの巨大な漆黒の蕾状となって、三王女の悲鳴は聞こえなくなった。
我は、その様子を確かめると、黒大理石の玉座に腰を下ろした。
「三王女よ。その蕾の中で、やがて淫らに花開くがよい……」
我は、静かに目を閉じる。人界に残された魔物の意識を探る。やがて、全身を刃に貫かれた感覚とともに、一匹の魔物と感覚がつながる。かすれた視界越しに、地に伏した多くの魔族の骸と、その向こうに勝利を声高に宣言する人間どもの姿が見えた。そして、魔物の視界はかすみ、闇へと閉ざされていく。もはや、意識を通じることができる魔族の配下はいなくなった。それでも、構わない。いずれ、三王女が、それに代わる駒として、手足のように働いてくれるだろう。
「我が千年の悲願……人界の象徴、聖女ティアナ奪取のためにな……」
老いることもなく、千年の時を人界の象徴として生き続ける美しき聖女ティアナの姿を脳裏に描く。我は千年間求め続けてきた渇望を抱きつつ、もはや飽きてしまったまどろみに意識をゆだねた。
< 続く >