第2話 転落
あれはまだ小学校に入学したての頃――光希はジャマイカ・モンテゴベイのホテルビーチで羽を伸ばしていた。
自分をバカンスに連れだしたのは、もちろん爺ちゃん。
光希はバカンス中の爺ちゃんのことを思いかえす。
一つはただでさえ色黒だった爺ちゃんの肌がさらに黒々と焼けたこと。もう一つは爺ちゃんがずっと女をはべらせていたことだ。
滞在二日目の午後。パラソルの下で太陽を浴びていた自分のもとに、爺ちゃんが現われたのをおぼえてる。
「浮かない顔だな。せっかくカリブのリゾート地へ来たんだ。もっと楽しそうな顔をしたらどうだ」
爺ちゃんは現地で買ったサングラスを外し、これまた現地で知りあった女子大生にキスの雨を降らす。少女は恋する乙女のように爺ちゃんを見つめ、媚を売るかのように下半身の桃尻をぷりぷり揺らす。
彼女の痴態に光希は息を荒げた。
「血は争えないか。おまえはジャマイカの青空よりも、こいつの熟れかけた女体に興味津々なんだな」
爺ちゃんの言葉にうなずいた。
「昨日約束しただろう、光希。女は初日だけだって」
「爺ちゃん、いつも言ってるじゃんか。男の本分は女を抱くことだって」
「……いいだろう。今日だけだからな」
「よっしゃ!」
ガッツポーズを決めた。
「おまえはトロピカルジュースがお気に入りだったな」
爺ちゃんは少女へ目配せした。相手は心得たようにとなりのビーチチェアへ腰を落とす。ちぢれた恥毛に隠されたヴァギナを左右に押しひろげる彼女。あらわになった女の器官からツーっと愛液が垂れた。
「キスで濡れたか」
爺ちゃんが指摘すると相手は気恥ずかしそうにする。
彼女は自身の腰部に、トルピカルジュースに使うデンファレの花を添えると、こっちにむかって腰を突きだした。
爺ちゃんにうながされて少女の陰部に口をつける。つたない動きで肉壷や陰核を責め立てる光希。当初は幼稚な性技に快感をおぼえなかった彼女も次第に蜜を溢れさせる。その蜜でカラカラに乾いた自分の喉が潤っていった。
「光希。そろそろ記憶を封印させてもらう時間だ」
女体に夢中になっていると爺ちゃんが話しかけてきた。
「色事を知るのはいいことなんだが。如何せんおまえにはまだ早すぎる。教育にも悪い」
「またかよ?! いつも自分から誘ってくるくせに」
「大丈夫。いずれおまえが成長したら記憶もよみがえるだろうさ」
爺ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。
光希の顔の前に手のひらをかざす。上から下に落ちる手のひら。まぶたは爺ちゃんの動作に合わせて閉じられていった。
それが首の肉を引きちぎられ、死を覚悟した光希の脳裏に閃いた記憶の一欠片、ありし日の記憶だった……
足元がおぼつかなくなって庭園のエンジェル像にもたれかかる。
小さなころから爺ちゃんの苛烈な野生教育を受けてきた光希だったが、やはりまだまだ背の低い中学生に過ぎない、元々の体力が絶対的に足りないのだ。
光希はTシャツの裾を破って作った布切れで首筋の血をおさえてから、自分の喉笛を噛み千切ろうとした少女を注意深く見守る。
「さあ、トドメを刺しなさい」
少女に意識を向けていると、彼女の影に隠れていたローブの女が命令を発した。
命令を受けた少女は、エンジェルとビーナス像の合間を四足で潜りぬけると、前足を蹴って真正面から襲いかかってきた。あの噛みつきをまた食らうわけにはいかない。光希は体勢を立てなおして攻撃を避けようとする。
「ヤバイ。足が」
ひざが力を失ってあっという間にバランスを崩してしまった。
覚悟を決めて目をつぶる。
……二秒経ち、五秒経ち、一〇秒を過ぎたあたりでようやくまぶたを開けた。
「なんじゃこりゃっ!?」
光希は素っ頓狂な声を上げた。自分の両足が数センチほど浮いていたからだ。
自分に襲いかかろうとした少女も動きを止め、目の前にひろがる不可思議な光景に目を奪われる。
「ご心配なく。わたしはあなたの敵ではありません」
耳元でささやくように声をかけられた途端、何者かの透明な手によって自分の身体が抱きかかえられる。
――これじゃポルターガイストじゃん。
足をばたつかせて相手の名を叫ぶ。
「おまえの仕業だろ、エル!」
返事はないけど確信があった。光希はサルとあだ名されるほどの小さな身体のせいで、これまでに何度も年上の女の人にお姫様抱っこされた経験がある。今この身体をお姫様抱っこしている透明人間は、まちがいなく女性の柔肌とボディラインを持っていた。
――あっ、おっぱいが密着してる。
鼻の下をのばしている間にも肉体は浮上する。させじと相手は飛びかかってくるが一寸遅い。光希は獲物を仕留められなくて歯噛みする二人の敵に舌を出した。
「ざまあみろ」
「これで終わりだと思わないで」
ローブの女の毒づきを聞いて、けらけらと笑う。
「聞いたか、あの悔しそうな声、マジ傑作……おい、エル。そろそろ顔を見せてくれたっていいだろ」
「かしこまりました。光学迷彩を解除します」
自分の頼みを受けて、全身ボディスーツに身をつつんだエルが、スッと出現する。
「ナイスタイミングだ、エル。おまえが来てくれなきゃ死んでたよ。ところでおれたちが空を飛んでるのはどういう仕掛けだ」
「お気になさらず。それより振り落とされないように注意してくださいね」
「振り落とされないようにって? ……こら。どんどん高度が上がっていってるぞ」
鎌倉の大仏。由比ヶ浜。緑の山々に挟まれた市街地。それらの景色が小さくなっていく。
高度一〇〇メートル。二〇〇メートル。三〇〇メートルを超えたあたりで光希は恐怖のあまり涙ぐんでしまった。
あれから五分、二人はいまだ鎌倉市の上空を飛んでいた。
間断なく吹きつける風が顔面を震わせる。雲の切れ間からのぞく太陽がいつもより近い。
キョロキョロあたりをうかがっていると、二匹のつがいの野鳥に遭遇する。光希は笑顔で彼らに手をふった。
「そろそろ目的地へ着きます。心の準備をしてください」
「心の準備?」
問いかけるとエルは微笑む。
「この便は着陸態勢に入ります」
「まて、おれを殺す気か!」
自分の悲鳴をともなってエルは急速に高度を下げる。あっという間に近づいてくる地表……
決定的な瞬間から目をそらしたくて顔をおおう。
――次の瞬間、あたまからアスファルトに突き刺さる。アスファルトの破片が周りへ飛び散り、通りかかった通行人たちは突然の事態に唖然とする。
通行人の喧騒を耳にして、アスファルトに刺さったあたまを引っこ抜いた。
「ぷはぁ、死ぬかと思った……どうもお騒がせしてすみません。すぐに立ち去りますから」
周りの目撃者たちに愛想笑いを振り向いて場をごまかそうとする。
それで奇異の視線が止むことはなかったが、光希はべつのことに気を取られる。
――エルのすがたが見当たらない。
そう思ってあたりを見渡してみる。物音を頼りにさがすと、街路樹の近くに倒れた彼女を見つけた。
そばに近づいて手を差しのべる。彼女は自分の手を借りて起きあがった。
「無事に目的地へ着いたようですね」
こともなげに言い放った彼女をにらみつける光希。
「おれはぜんぜん無事じゃないんですけど」
こっちは服もボロボロの傷だらけなのに、エルのボディスーツに傷や汚れのたぐいは一切ない。
エルは申し訳なさそうに顔を伏せる。
「ごめんなさい」
「まあ、命があったからいいけど。しっかしここはいったいどこなんだ」
光希はひとりごちた。見たところ自分たちがいるのは国道沿いの歩道らしく、周囲にはコンビニ。スーパーマーケット。ゲームセンターが点在してる。
「君たち。いったいどこから来たのかね」
しばらくして白髪の老人が心配そうに声をかけてきた。
ほかにもいろいろ聞きたいことがあったのかもしれないが、話の取っ掛かりにチョイスしたのかもしれない。
ともかく相手の質問に答えようとする。
「あなたに折り入って話したいことがあります」
ところがエルに途中で阻まれてしまった。そのまま首根っこをつかまれてどこかに連れていかれる。
「会話の邪魔するなよ」
エルは自分の言葉を無視し、ゲームセンターの前まで連れてきて、ようやく口を開く。
「光希様。このままでは人目につき過ぎます。一刻も早くこの場から去りましょう」
「去りましょうって。どこに去ろうってんだ」
「お祖父様にゆかりのある場所です」
そう言ってエルはゲームセンターの入り口に手をかざす。手を感知して開かれる自動ドア。彼女は開け放たれたドアへ向かって自分を放りこんだ。
「いってぇ」
エルのせいでドアの向こうにあった壁に思いきり後頭部をぶつけてしまった。
あたまをさすりながら文句を言う。
「このアマ」
「手荒な真似をして申し訳ありません。手荒ついでにこちらのスイッチを触っていただけますか」
いけしゃあしゃあと紡がれるエルの言葉にイラッとして、彼女が指さした方向にあったスイッチをおもいっきり叩く。
「これでいいか!」
「いえ、そうじゃなく、こうです」
エルはいやな顔一つせず、自分の手を優しく包み、指先を四角いスイッチに触れさせる。
いきなりエルの後ろの自動ドアが閉まり、これまで暗がりに覆われていた場所に明かりが灯る。それで自分が今いる場所を把握できた。
「おれはゲームセンターへ放りこまれたはずなのに」
なのに自分が立っているのは四角い部屋のなか――おそらくエレベーターのなかだ。
しばらく事の成り行きを見守っていると、スイッチの上部に設置された電子パネルが動きだし、黄色のメッセージが流れはじめる。
――”この昇降機は森谷邸・地下ラボへの直行便です”。
心のなかでメッセージを読みあげてみた。
「指紋認証が終わりました。エレベーターが作動します」
エルが説明を終えるとエレベーターが動きだす。またも味わう浮遊感。
――さっき落ちたばっかりなのに!
取りつけられた手すりを持って倒れないように踏んばる。
落下の衝撃に耐えること三〇秒……次第に落下スピードはゆるやかになっていき完全に停止する。
チンという軽い音に合わせてエレベーターのドアが開かれた。
「助かったのか」
舌を出して荒い息を吐く。
こんな怖い思いをしたのに彼女はいたって涼しい顔だ。
――あの女のハートには剛毛が生えてるに違いない。
悪態をついてエレベーターの外に出る。視界の先にひろがるトンネル状のレンガ通路。壁には火のついた燭台が等間隔に並んでいる。
「おっかしいな。エレベーターは森谷邸への直行便だろ?」
光希はつぶやいた。
――爺ちゃんの家なのに見覚えがない。っていうか、さっきのゴタゴタで、爺ちゃんの庭から飛んで逃げてきたはずだ。
「エル。このエレベーターのこと教えて」
「あれは別次元に通じるエレベーターです」
意外とあっさり答えてくれた。
「わたしがそばにいると、どんな扉からでもエレベーターに入ることが可能となり、光希様の指紋があればエレベーターを作動させて地下ラボに入室することができます」
彼女の話を理解できなくてキョトンとする。
「ごめん。もうちょっと噛み砕いて説明して」
「わたしたちは森谷邸の庭園から移動しました。直後、別の場所からエレベーター室にワープし、そこからお祖父様の家へと舞い戻りました。わたしの認証があれば全国どこからでもエレベーター室にワープすることができます。ただしエレベーターを動かすためには光希様の指紋が必要です」
なんとなく理解できた。ホントになんとなく。
「……つまりここは爺ちゃん家の地下なわけね。わざわざ爺ちゃんの家に逆戻りして大丈夫なのか?」
「錬太郎様はこの場所で例の遺産を開発していました。この地下室は秘密裏に建造されたもので、例の”ローブの女”も存在は知らないはずです」
ちなみに森谷邸から直接この地下へ降りてくることもできない、とエルは補足する。
「それでは地下ラボへご案内します。わたしのあとについてきてください」
彼女はいつの間にかボディスーツからメイド服に着替えていた。
エルは通路の先へと歩を進める。あわてて彼女の背中を追いかけた。
しばらく無言で歩く二人。沈黙が支配する通路に水滴が落ちる音が響きわたる。
――気まずい。
静寂に耐えきれなくなって顔を上げる。すると相手の背中に奇妙な紙が貼ってあるのを見つけた。光希は好奇心に負けて勝手に貼り紙をはがした。
「”光希の名を持つ男性に触れると、肉体が高度三〇〇メートルまで上昇する。二キロの距離を飛行後、歩道付近に無傷で着地する”」
書かれた文字を読んでハッとする。空を飛んだことといい、着地した場所といい、無傷だったことといい、ことごとくエルの状況と一致していた。
「それは、あなたに紹介した”指紋の遺産”と似たようなものです」
「ふうん。よくわからないけど」
彼女は光希の正直な反応に笑みを浮かべると、自分を通路の先へと案内する。
――ここが爺ちゃんの秘密基地か。
爺ちゃんのラボを目の当たりにしておどろいた。
各部屋をガラス張りの壁で区切られたクリーンラボ。地下らしく青いトーンで統一されていて一見すると暗いイメージを見る人に与える。しかしそこはアウトドア派な爺ちゃんらしく。ラボの各所にサーフボードや釣りに使用するルアー。しまいには爺ちゃんが乗りまわしていたフェラーリF40が飾ってあった。
「爺ちゃんはラボとして使ってたんだろ。めちゃくちゃなレイアウトだな」
「ここは練太郎様のプライベートラボですから」
光希は好奇心満々といった様子でラボを見まわる。
最初に足を踏み入れたのは、爺ちゃんの発明品展示ブースだ。無数の配線につながれた巨大コンピュータ。鋭角的なデザインのギター。ハリスホークの剥製。コンピュータ以外はただのガラクタだが、光希は目を輝かせてそれらを確認する。
――これはあの時の。
とりわけ目を惹いたのは、ショーケース内に保管された三点セットだった。
「ブラシ。ライト。アタッシュケース……これって例の”指紋の遺産”だよな」
喋りながらエルのほうに向きなおる。
「あれ、どこに行ってたんだ」
ラボの奥からもどってきた彼女に聞いてみる。
「救急箱を取ってきたんです」
「そっか。おれって怪我してたんだっけ」
「治療したいのでそこに座っていただけますか」
エルにうながされて素直に椅子へ腰かける。忘れかけていた痛みがぶり返してきた。
「あたまに怪我はなさそうですね。あのときは落下のショックで手を離してしまいました」
「おかげであたまから地面に突っこんだし」
文句を言いながらもおとなしくエルに身をまかせる。
「とりあえず噛まれた傷の処置を。消毒するので傷口に染みても我慢してください」
「痛ぅ!」
すでに出血は止まってる。なのでせっけんと水道水で傷口を綺麗にしてから、なんこうを塗られて、最後に包帯をぐるぐると巻かれる。
巻かれている間にもエルとの会話は続いた。
「そういえば爺ちゃんの遺産、発明品? どっちでもいいや。あれの詳しい説明ってまだ受けてなかったよな」
「ええ。どこから聞きたいですか」
「こいつらはどういった用途で使うのか、とか、こんなものを作った爺ちゃんの意図とか」
「錬太郎様の遺産は”性的な目的”で開発されました。あの方は筋金入りの好色漢でしたから」
「爺ちゃんらしいや」
五〇歳になったお祝いといってはロッククライミングに挑戦。六〇歳になった記念といってはヨットで世界一周を達成。そんなパワフルな爺ちゃんだからこそ異性にモテていた。おまけに今日よみがえったばかりの記憶によると、爺ちゃんはなんらかの方法で女性の心を虜にしていたらしい。
だから爺ちゃんが女好きだったと聞いてもあまり驚かなかった。
「じゃあさ。次はさっきの空飛ぶ現象とか。そうやって逃げる原因を作った”ローブの女”のこと聞かせて」
「空を飛べたのはこの”マジナイペンシル”のおかげです」
エルはそう言ってボールペンを手渡してくる。自分はペンを受け取った。
「それはデジタルペンシルです。Bluetoothを使い、紙に書いた文字をワイヤレスで転送できます」
「凄いのはわかるけど、これのどこが性的な目的で作られたものなんだ? 指紋のほうはわかるけど」
「指紋。プリインストールのことでしょうか」
彼女はショーケースに入れられた三点セットを指さす。
「あちらはフィンガープリント・インストール、略してプリインストールといって、人の”気分”を書き換えるツールです。ブラック。各色の磁性粉。竜血樹の粉。これらの粉を、あなたが操りたい気分に応じて使い分けてください。詳しい使用方法は説明済みなのでスキップします」
次いでエルは光希の手に握られたペンを指さす。
「逆にそのペンは人の心に干渉しません。本人の意志に関係なく、人の”状況”を操ることができます」
光希はペンをくるくる回し、先ほどの状況を回想する。
「ひょっとして物理的な制約抜きで状況を操れちゃったりする?」
「これで紙に命令を書いて、あとは操りたい人の身体に張りつければ、貼られた相手は紙の”命令通り”に動きます」
「すげえ」
光希は興味津々といった様子でペンをながめる。
「これらの遺産はすべて光希様に受け継がれたものです。ご自由にお使いください。なお指紋が登録された人以外は遺産に触れられません」
エルは左手を差し出して光希の持ったマジナイペンシルに触れる。
バチッという閃光がほとばしってエルの手は離れた。
「指紋登録されていないとこうなります。あしからず」
「でもさっきは空を飛んでたよな。ペンを使ってさ」
光希に指摘されて彼女はいたずらっぽく笑う。
「ペンシルの表面を嗅いでみてください」
「……変だな、イチゴ臭いぞ」
「タネを明かすとこれです」
エルは右手をひろげて五本の指をかかげる。すべての指先に赤いゼラチンが付着していた。
「以前あなたを屋敷に招きいれた際、あなたの指紋を採取しました。あとは採取した指紋から型を取ってゼラチンを流し入れれば出来上がり」
「うわ、ズリぃ」
「ご心配なく。このゼラチンは食べちゃいますから」
エルは五本の指についたゼラチンを口のなかに入れて飲み干してしまう。
「じゃあ今度は”ローブの女”のこと。あいつの素性は割れてるのか?」
「彼女のことはよく知っています。ですがお教えするわけには参りません」
「なんだよ、ケチ」
「この件に関してどちらか一方に加担するということができないんです。ごめんなさい」
エルは包帯を巻き終えて立ちあがる。
「そうそう。大事なことを伝え忘れるところでした」
「大事なこと?」
「光希様がお祖父様の遺産を受け継がれない場合、あなたの記憶を改ざんさせていただきます」
それを聞いてびっくりした。
「記憶を改ざんだぁ? だいいち遺産はすべて受け継がれたって」
「厳密にはまだ遺産の継承は済んでいません。わたしはあなたに遺産を受け継がせるよう錬太郎様から命令を受けました。ですがそれはこちらの都合。あなたがこの遺産を受け継がれるか否かの確認はまだです。錬太郎様はあなたの自由意志に任せるように、とおっしゃいました」
最初の接触からしばらく間を開けたのも、自分の未来は自分で選択させたかったからだという。
「実際、あのあと屋敷から遠ざけようと思えば遠ざけられたのに。あなたはあえてここに戻ってきた」
「だからおれはホイホイ遺産を継承するだろって?」
光希はムッとした。
――エルの態度もそうだが、選択の余地がないというのが一番ムカツク、ムカツクが……
グッとおさえてあることを確認する。
「記憶ってどっからどこまでが消されるんだ?」
エルは一泊置いてから答える。
「錬太郎様の遺産および地下ラボの記憶。さらにわたしの記憶。そしてあなたを襲った”ローブの女”の記憶。これらのすべてを」
やっぱりかとうなだれる。
――あいつはおれの命を狙ってきたのに、その記憶を消されたりしたら。
そんな条件飲めるわけないと答えると相手はサラリと言う。
「となると残された選択肢は一つ。錬太郎様の遺産を受け継いでいただくほかありません」
「……それで記憶を消されないなら。わかったよ。おれは爺ちゃんの遺産を受け継ぐ」
「承知しました。それではこちらへどうぞ」
エルは例の巨大なコンピュータの前に自分を導いた。
「このデジタルスキャナに左右の手を置いてください。マスター登録を済ませると、遺産の全機能が解放されます」
言われたとおり左右の手をガラス製のパネルの上に置いてやる。パネルの下部に設置されたセンサーが動きだし、スキャンされた指紋がコンピュータの画面に出力される。エルはコンピュータのキーボードを操作して光希のマスター登録を完了させた。
「おめでとうございます。これであなたはお祖父様の遺産”ディギトゥス・マヌス”のマスターとなりました」
「ほとんど無理やりだったけどな」
ジト目で彼女を見る。
「これであなたは晴れてわたしたちのマスターです」
「”わたしたち”のマスター?」
「言葉どおりの意味です。これからよろしくお願いしますね。わたしのご主人様」
エルは嬉しそうに顔をほころばせた。
時計の針が一二時を回った頃、自分たちは地下ラボに備えつけられた階段から一階へと登っていた。
光希は階段を登りながら後ろにいるエルに視線を送る。
――どういう意味なんだ。わたしたちのマスターって。こう聞けば簡単なんだろうけど……ったく。考えてもしょうがないか。
光希は意を決する。
「さっきの言葉ってどういう意――痛ぅっ!」
ボーっとしてたら前方の扉にひたいをぶつけてしまった。
ひたいをさすって眼前に現われた石造りの扉を見てみる。
ずいぶん大きな扉だ。扉を開けるのに必要な取っ手や蝶番といった部品は見当たらない。
「ここのレンガを押すんです」
彼女は通路に敷きつめられたレンガからいびつな形のものを奥に押しこむ。
するとホコリを散らして目前の石扉が自動的にせり上がっていった。まぶしい太陽が瞳に射しこむ。いつもより地上の光を強く感じた。
――ここは爺ちゃん家の階段室だ。
扉がつながっていたのは、正面入口を抜けた先にある階段室だった。
自分たちが扉をクグッてから数十秒後。通り抜けた隠し扉が自動で閉まっていく。エルによるとこの扉は地下通路からじゃないと開けられないらしい。
「あっ。メールだ」
メールの着信音が鳴った。携帯を開けてメールをたしかめてみる。
相手は幼なじみでクラスメイトの鈴華。本文には”早く学校に来ないと先生の逆鱗に触れるよ”とだけ。
「やばい。学校バックれたままだった」
外へ出ても大丈夫かと尋ねる。彼女は壁に取りつけられたテレビをたしかめて答えた。
「大丈夫のようです」
「悪い。この家で説明の続きを受ける約束だったけど。また今度な」
学生鞄を持って屋敷を出ようとする。
「これを使ってください」
壁にかけられたスケートボードを渡された。ボードの裏には、車のフロントドアから機関銃をかまえる男の、ド派手な絵が描かれている。
光希は礼を言ってスケボーを受けとった。
「午後の授業に間に合うかな」
時計を見る。間に合うかどうかは五分五分だ。
スケボーで敷地内の庭園を抜けると正面の通りへ飛びだす。
「しまった。エルのバイクで送ってもらえばよかったな」
スケボーを走らせながら自分のミスを後悔する。
「わたしもそのほうがよかったと思います」
「……もうおどろかねえぞ」
光希は呆れ顔で背後を見る。あいかわらず誰もいないが、どうやら自分の後ろにぴったりくっついているみたいだ。
「背後霊かよ」
ツッコミを入れると相手は静かに笑った。
「わたしがそばにいると便利ですよ。例えばあなたが出会い頭に誰かとぶつかったとして……」
ボードで通学路の角を曲がると誰かにぶつかってしまう。
「あまつさえ、その誰かがおとしものをひろったりして……」
ぶつかった誰かは、自分のもとに駆け寄ると、落とした学生カバンをひろう。
「ごめんなさい。気分が優れなくてぼんやりしていました。怪我はないですか?」
風邪をひいて咳のまじった鼻声。見上げると、ちょうどマスクをつけた女子高生と目が合った。
――うちの女子? ちがう。この制服は高等部だ。
彼女は光希が通う青龍学園の生徒だ。中等部の女子のように紫のブレザーとスカート。中等部と制服のデザインが似てるが、中学生は赤いリボン、高校生は赤いネクタイというのが両者を見分けられた理由だった。
「ごほっ……立てますか。本当にごめんなさいね」
桃色のリボンで髪をハーフアップにまとめあげた女の人。柔らかい雰囲気と洗練された物腰が彼女の人柄を物語っているよう……相手は一礼すると清流学園の方ほうへ小走りに駆けていく。その後ろすがたに見とれてポーッとする光希。
「意外と年上が好みなんですね」
「いやどっちかというと叱ってくれる人のほうが。鈴華もそういうタイプだし……変なこと言わせるなよ」
「ユニークな人ですね。光希様って」
釣られて余計なことを喋っていると、いつの間にか光学迷彩を解いたエルが、自分のゴーグルに手を伸ばす。
彼女がスイッチを弄ったことでゴーグルのレンズがオレンジ色のカラーフィルターに切りかわった。
「先ほどわたしがそばにいることの必要性を訴えましたが、早くも機会が巡ってきたようですね」
「機会だあ?」
「わたしの持つ機能の一つは、ディギトゥス・マヌスに関する知識をマスターに与えること。それには適切な使用法を伝えることも含まれます」
彼女はメイド服のポケットからスマートフォンを取りだす。本体に”XPERIKAN”と刻まれた機種だ。
「画面からプリインストールのアプリを選択してタッチしてください」
言われたとおりプリインストールをタッチした。
スマートフォンから光が放たれる。例のプリインストールと呼ばれる三種のアイテムが地面にあらわれた。
「このスマートフォンをお使いください。屋敷の地下からこちらにディギトゥス・マヌスを転送することが可能です」
呆気にとられているうちに、彼女はアタッシュケースを開けて粉の入った容器を取りだす。
「この粉の詳しい説明はまだでしたね。基本の指紋パウダーは、粉をふりかけた相手に警戒心を抱かなくなるブラック。感情を操作する磁性粉。性的興奮を高める竜血樹(ドラゴンツリー)の三つ。ほかにも様々な粉があります。操りたい”気分”に応じて使い分けてください」
「おまえの辞書にはせっかちっていう言葉が一番出てくるな。もうちょっと順を追って説明してくれよ」
エルは黙ってALSライトを拾いあげると、光希の手のなかの学生鞄に光を照射する。
「せっかく指紋を手に入れたんです。これをみすみす逃すなんてもったいない。ちがいますか」
光希はポンと手を叩いた。
――おれはマヌケか。
おかげでせっかく指紋を手に入れたのに。彼女の背中は遠い彼方へ消えようとしていた。
「もっと早く気づいていれば」
「ご安心ください。この場合はそうですね。この粉が最も適しているはずです」
エルは磁性粉と書かれた容器からグリーンのものをチョイスする。
「……粉は無数にあるみたいだけど。説明書みたいなものはないの?」
「説明書はありません。わたしがすべての粉の効果を記憶していますから」
「あんたもディギトゥス・マヌスの一部なわけね」
一人うなずいて指紋にグリーンの粉をかけた。
女子高生の朝霧琴音(あさぎり・ことね)は、照りつける太陽に目を細めつつ、昼休みに入った青龍学園へと向かっていた。
素行不良の生徒ならわざと遅刻することもあるだろうが、琴音は至極真っ当な学校生活を送るおとなしい生徒で、こんな時間に登校するような人間ではなかった。
しかし今日に限っては事情が違う。それというのも朝おきると風邪を引いて熱もあったから。幸い風邪薬を飲んだおかげで熱は下がっている。
琴音は何度か咳きこみながら、お昼過ぎの通学路を突き進んでいく。
その時だ。中学生ぐらいの男の子と道ばたでぶつかったのは……
琴音はぶつかって道に倒れてしまった男の子へ駆けよる。男の子は突然のことに目を白黒させている。
「ごめんなさい。気分が優れなくてぼんやりしていました。怪我はないですか?」
男の子は琴音の質問にぶんぶん首を振る。
制服から考えて琴音が通っている青龍学園の生徒らしい。不良というにはおだやかな目つきをしていて、とても遅刻の常習犯には見えない。
――ひょっとしたら自分のように気分が優れないのかも。なおさら悪いことをした。
琴音は申し訳なさそうに男の子へ手を伸ばす。
「ごほっ……立てますか。本当にごめんなさいね」
男の子を立ち上がらせた琴音は、もう一回だけ謝罪すると、また学び舎へ向けて歩きはじめた。
……
………
…………
……………ふと琴音は立ち止まる。
べつに忘れ物をしたから立ち止まった。というわけではない。まるで洪水のように”これ以上一歩も動きたくない”という気分が襲ってきたのだ。
理屈ではわかってる。動かなければ学校に遅刻することに。しかし現実は動けない。動きたくない。
そうこうしてるうちに真後ろから声が掛かる。
「こんにちわ」
まるで少年のように無邪気でキラキラした笑顔で、実際少年なのだが、さっきの男の子が話しかけてきた。
「あの、こんなことをお願いするのは変だって重々承知しているんですけど、わたしの足が一歩も動かなくなったんです。助けてくださいませんか?」
渡りに船とばかりに涙目で助けを求める琴音。
対して男の子はあることを提案する。
「歩けなくなって困ってるんですね。じゃあさ。ここに自転車があるから使ってみて。歩きたくはなくてもペダルを漕ぐことはできるでしょ」
彼が手を叩いて合図すると自転車がひとりでにやって来る。これだけでも奇妙なのに、琴音の身体は勝手に動いて自転車にまたがってしまった。
「でもお姉さんはペダルを漕げない。なぜだろう」
彼の言うとおりだ。一向にペダルを漕げない。
琴音はなぜだろうと必死に考える。
「それはお姉さんが”自転車”だからだよ。自転車は人を載せて目的地に運ぶもの。だから誰かの命令を貰わないと動けないんだ」
「そんなことは」
言い返そうとして琴音は思い留まる。
――彼の言葉は本当に間違っているんだろうか。彼の言葉を聴けば聴くほど彼が正しいような”気分”になってくる。そうだ。自分は生まれつき自転車だった……ような。お父さんはマウンテンバイク。お母さんはシティサイクル……のはずだ。脳裏をよぎるのは、両親が人を乗せて軽快に走る光景ばかり。
「君は両親のすがたを昔から誇らしく思っていたよね」
ダメ押しの断定口調を受けて彼女の考えはまとまった。
「はい、わたしは昔から両親のことを尊敬していました。さあどうぞ、自転車の荷台へ。あなたを目的の地へ運ばせてください」
琴音はパアッと笑顔になって男の子を自転車の荷台に乗せる。光希は荷台に乗って彼女の腰に手をまわした。
「気づいてた? さっき”こんにちわ”って言ったとき貼りつけたんだ。これと同じものをお姉さんの背中に」
琴音は彼に紙切れを見せられる。
紙切れには、琴音が自転車へ乗ること。誰かの命令を貰わないとペダルを動かせないこと。左右のおっぱいを揉むと前進。右のおっぱいを揉むと右へ。左のおっぱいを揉むと左へ。お尻を叩くと走りながらサドルオナニー。ほかにも色々なことが記されている。
「ど、どうしてこんな卑猥なこと!」
声を荒げる琴音だが相手のほうはすでに別のことへ意識を向けていた。
「どうせ遅刻するならお昼休みが終わるまでに登校すればいっか」
明後日の方向に目を向けながらも彼の両手は琴音の右胸に伸ばされる。
彼女の意思に反して自転車は右に動きはじめた。
「とりあえず学校と反対方向に行こうか。うわっと」
加減を間違えたのか。そのまま自転車は右回りを続けた。男の子は右の胸を弄り、タイミングを見計らって両胸を揉みだす。
ようやく成功する∪ターン。思うがままに琴音を操作できて彼はご満悦な様子だった。
「お次はこれだ」
男の子は琴音のおしりをポンと軽く叩く。だけど琴音に起きた変化は劇的だった。
「あんっ……いや…あ……こんなの……こんなのぉ……だめなのにいっ……」
なかなか前に進まない自転車。それもそのはずで、彼女は腰を低くし、自分の股間をサドルに擦りつけていた。
前傾姿勢になってショーツに包まれた陰部を刺激する女子高生。そんな異様な乗り方をする彼女に、通行人や車のドライバーの関心は集まった。
注目が集まって顔を真っ赤にする琴音。対照的に、相手は笑いながら琴音の両胸を楽しむ。
「ショーツにシミがひろがってきたね。まさかお姉さん。こんな屈辱的なシチュエーションに興奮してるの?」
琴音はまたも強く言い返せなかった。
――自分よりも年下の男の子に。自転車として言いように従わされて。それに興奮しているなんて。
自尊心が傷つけられた怒りと、怒りの影にチラつく隷属の快感――琴音はペダルを漕ぎながら軽くイッてしまった。
< 続く >