第2部 第10話 新たなる影
翌々日、アナトの意識が戻ったと聞いてシトリーはその天幕を訪れた。
「倒れたと聞きましたけど、大丈夫ですか?」
この数日のことなど素知らぬ顔で挨拶すると、アナトは勢いよく起き上がってシトリーに迫ってくる。
「シトリー!?……本物?本物なの!?」
「なにを言ってるんですか?」
「なによっ!幻術で影武者なんか立てて私を騙して、こそこそ逃げ続けてたのはそっちの方じゃないの!」
「さあ?なんのことですか?」
努めて平静を装いすっとぼける。
でも、幻術を使っていたリディアはもういないんですけどね……。
その言葉は、自分の胸の内にしまい込んで。
「その生意気な口の利き方、間違いなく本物ね!」
「うわっ!」
目の前にいるのが本物と判断するや、アナトは有無を言わさずシトリーの襟を掴むとそのまま引きずるように寝台の上に押し倒した。
「ああ、シトリー!……キミの目が覚めるのを、私もずっと待ってたのよ!」
「ちょっ、ちょっと、アナト!僕はそんなことをやりに来たわけじゃないんですから!」
「うるさいわね!私がどれほどこれを待ちわびていたと思ってるのよ!」
シトリーが止めるのも聞かずにズボンを引きずり下ろすと、アナトは剥き出しになった股間のものに手を伸ばしてくる。
「うわっ、なにやってるんですか!?僕は今後の作戦を相談しに来たんですよ!」
「そんなのどうでもいいでしょ!あの町は私が落としたんだから!それよりもこっちよ。……ん、あふ、ちゅるっ」
「ちょっと待ってくださいよ!」
シトリーの言葉に耳を貸すことなく手で肉棒を扱き、少し勃起してきたそれに舌を這わせていく。
もちろん、シトリーがそれを慌てて止めようとしているのは演技である。
あまりにやる気満々でいくとアナトに怪しまれるかもしれないので、万全を期しているのだ。
「んっふ、ぺろ、ちゅぽっ、れるっ……もういいわね?いいはずよねっ!?こんなに大きくなってるんだもの、早く入れさせてよ!」
「そんなせっかちな……ていうか、そもそもこんなことをしてる暇は……うわっ!?」
なにを言っても問答無用とばかりにシトリーを押し倒し、先日のようにその上に馬乗りになるアナト。
「私はもう我慢できないのよ!じゃあ、入れるわね!」
そう言うと、ゆっくりと腰を沈めて嬉しそうに体をくねらせる。
「……んっ、ああんっ!これよっ、これっ!この、ズブズブッて入ってくる感触、たまらないわっ!」
……今だ!
挿入の瞬間の快感にアナトがよがっている隙に、シトリーは手のひらから触手を伸ばす。
アナトに気づかれないようにその背後にそっと手を回して、しかも、数はリディアが扱っていた最大数の10本。
エミリアの時は、あれだけ嫌がっていたのが3本の触手を絡ませて無理矢理言うことを聞かせることができた。
かつてリディアがマハを堕とした時には、4本目の触手でその動きを止めた。
それを考えると、おそらく10本は充分すぎるかもしれないが今回は絶対に失敗できない。
だから、それを一斉にアナトの中に忍び込ませた。
「……っ?ちょっと、今、何かした?」
「はい?気のせいじゃないですか?それとも、やっぱり思い直してくれたのなら、そこからどいてくれたらありがたいんですけど」
「なに言ってるのよ!せっかくキミとできるって言うのに止めるわけないでしょ!……んっ、はあっ!散々私を焦らせたんだから、あなたも覚悟してなさいね!」
触手が入ってきた瞬間、さすがに少し違和感を感じたようだが、なにしろ勃起した肉棒を敏感な部分で思い切り咥え込んだ状態だからうまくごまかすことができたようだ。
それどころか、愛の実の効果でシトリーへの欲情に燃えているアナトは、その安い挑発にあっさり引っかかって腰を上下に動かし始める。
一方シトリーには、触手から伝わるイメージでアナトの心の中が手に取るように見えていた。
いくら愛の実の虜になっているからとはいえ、そこには様々な格好や姿勢のシトリーがいて、しかも、どれも下半身が丸見えになっていたのにはさすがにドン引きしそうになる。
しかし、そんなことで怯んでいる場合ではない。
……よし、見つけたぞ!
うんざりするほどに大量の自分のイメージを掻き分けながら触手をどんどん奥まで進めていくと、光を放つ魂の結晶が見えてきた。
エミリアのそれは澄んだ青白い光だったのに、仄赤く妖しい光を放っているのがいかにもアナトらしい。
それに向かって触手を殺到させるシトリー。
頭の中で、かつて聞いた言葉を反芻しながら。
“たとえ感情や思考、感覚しか操れなくても、それで相手の魂を解けないくらいにしっかりと絡め取ってしまえば完全に支配することができるのに”/p>
それは、初めてアナトと出会ったシトリーが説教を受けた時に言われた彼女自身の言葉。
あの時は相手を侮って大火傷をしたが、同じ失敗はもう繰り返さない。
全ての触手を一気に巻き付かせ、隙間も見えないくらい密に絡める。
さすがにアナトの魂だけあって、触手に伝わってくる律動はこちらに反発するように力強く、熱のようなものすら感じる。
「……ううっ!?」
腰を振っていたアナトの動きが止まり、息を詰まらせてその視線が泳ぐ。
「あ、あなた……やっぱりなにか……したでしょ?」
「すみませんね、騙してしまって。でも、あなたにも十分メリットはありますよ」
「……ええっ?」
シトリーは、触手を通じてアナトの受ける快感を増大させる。
それも、いきなり16倍から。
「はううっ!?やっ、なによこれぇええええっ!?」
肉棒を咥え込んだままで動いていないというのに、戸惑いと快感の入り交じった声を上げてアナトの体がぶるぶると打ち震える。
「あなたの感覚をちょっと感じやすくさせてあげたんですよ。どうせ、あなたの体はこのくらいじゃないと満足できないんでしょ?」
「やっ!?……ちょっとって……これ、やりすぎよ!」
「そんなことはないでしょう?どうしたんです、動かないんですか?じゃあ、僕から動いてあげましょうか?」
「ちょっ、ちょっと、シトリー!?あうっ、はううううううううぅんっ!」
下から一度突き上げただけで、アナトがぐっと背筋を反らせて絶頂した。
そのまま、シトリーの腹にペタンとへたり込んで体をひくつかせている。
絶頂したせいか、アナトの魂から伝わる律動が少し弱くなったように感じられた。
すかさず、触手の締めつけを強めていく。
「どうしたんです?まさか、もうイッてしまったんですか?」
「そっ、そんなことあるわけ!くううっ、シ、シトリー!!」
否定しようとする言葉とは裏腹に、触手を通ってアナトの心の声がはっきりと聞こえてくる。
(……なに?こんなのありえない。こんなに簡単にイッてしまうなんて。そんな……こんなに気持ちいいなんて。だめ……意識をはっきり持たないと、この快感に飲み込まれるわよ。はううっ!あんっ、またっ!)
それを確かめながら、追い打ちをかけるようにずんずんと下から突き上げていく。
そうすると、快感に喘ぐアナトの魂の律動が少しずつ弱く、不規則になっていくのがわかった。
その心の声から、リディアからもらったこの力がアナトに通じていることを確信するシトリー。
だが、彼女相手にこの程度で手を緩めるわけにはいかない。
油断すると自分が痛い目を見るのは、彼自身が一番よくわかっていた。
「ほら、どうしたんですか?気持ちいいんでしょ?」
「いやあああっ!こんなのダメッ!ダメってば!」
「だめって言っても、そもそも僕を押し倒して無理矢理やってきたのはあなたですよ?」
「くっ、それは、だからっ!シトリーッ、こんなことしてっ、後で覚えていなさいよ!」
「まだそんなことが言えるんですか?……だったら」
「あううううううううっ!」
ズンッと力強く突き上げると、大きく喘いでアナトは再び絶頂する。
その魂の反発がまた弱まったその隙を逃さず、さらに触手で魂を締めつけていく。
そして、肩で息をしながら喘いでいるアナトに命令した。
「さあ、四つん這いになってこちらに尻を向けるんだ」
「……えええっ!?やだっ、体が言うことを聞かない!?」
シトリーの命じるままに、アナトはいったん腰を上げるとシトリーの上から降りて四つん這いになる。
(くっ、このままじゃ本当に言いなりになっちゃう!早く……早く意識を逃がさないと……。でも……どこに!?)
心の声を通じて、シトリーにはアナトの動揺がはっきりとわかっていた。
かつてシトリーが力を使った時に、アナトは意識の欠片を逃がしておいてわざとかかってみたと言っていた。
それを知っているからこそ、今回はどんな小さな意識の欠片も逃さないように隙間なく魂を包み込んだのだから。
以前のシトリーの能力では、アナト相手にそんなことはできなかった。
だが、それができる力をリディアが与えてくれた。
だからもう、あの時と同じ轍は踏まない。
今回は、捕らえたアナトの魂を決して離しはしない。
「いい格好ですね。じゃあ、続きといきましょうか」
自分に向けて尻を突き上げる姿勢になっているアナトの腰を掴む。
そして、いきり立ったままの肉棒を濡れそぼった裂け目に再びぶち込んだ。
「やっ!そんないきなり!」
「なに言ってるんですか。もう2度もイッておいて、ウォーミングアップは十分でしょう?だいいち、こんなにグショグショに濡らしてるじゃないですか」
実際シトリーの言葉通りに、アナトのそこからこぼれ落ちた愛液がシーツに染みを作っていた。
「あうっ!だめっ!こんなのダメなんだから!」
嫌がる言葉とは裏腹に、アナトの中は肉棒がスムーズに出し入れできるほどに濡れていた。
それだけでなく、それで満たされるのを待ちかねたように締めつけてくる。
それをいいことに、シトリーはバックから突きまくった。
「はうっ、ああっ!やんっ、なんでこんなにっ!?ああうんっ!」
体が言うことを聞かなくて逃げることができないのに、それでもなお逃れようと体を捩っているアナトの声に艶めかしい響きが混じり始めた。
「やんっ、だめっ!こんなのっ、すごすぎっ!ああんっ、すごいっ、いいっ!」
やがてそれは、完全によがり声に変わっていく。
触手を通じて伝わってくるアナトの心の声からもそれはわかる。
(だめ……意識を逃がさなきゃいけないのに、どこにも逃げ場がないわ……。あんっ、気持ちいいっ!このままじゃ、快感に流されてしまうのに……でも、もう……ああんっ!だめっ、これっ、すごすぎてすぐイッちゃうじゃないの!)
実際の喘ぎ声以上に、その心の声が切羽詰まっていく。
それを反映するように、自分から肉棒を迎え入れるように腰を動かし始めていた。
(あうっ、だめっ、気持ちよすぎて流される……私の中がっ、気持ちいいのでいっぱいになって……ああああっ!イクッ、またイクぅううううっ!)
「うああっ!ああっ、もうだめっ!くううううううううううっ!」
アナトが寝台に突いた両手をぐっと突っ張る。
そのまま頭を仰け反らせ、喉から絞り出すような喘ぎ声を上げた。
「んふうううう……こ、こんなことって……」
硬直していた体から力が抜けて、アナトはくたっと寝台に突っ伏す。
「……まったく、だらしのないマンコですね。僕は一度もイッてないっていうのに自分だけ勝手にイクなんて」
「くうぅ……調子に乗らないで、シトリー……」
「ふーん、まだそんなこと言える元気があるんですか?でも、僕だってこんなものじゃ満足できないですからね」
そう言うと、シトリーはアナトの両手を掴んでその上体を引っ張り上げる。
「やっ!?シトリー!?」
後ろ手に引っ張られる格好になったアナトの悲鳴に、僅かに怯えたような響きが混じる。
それには構わず、シトリーはまだガチガチにいきり立ったままの肉棒をアナトの裂け目に宛がうとその腕をぐっと引いた。
「んくぅうううううううううう!」
再び挿入された瞬間に、アナトは喉を震わせて喘ぐ。
「くっ……シ、シトリー!何回もイッた後に、いきなりそんなに激しくしたら!くううっ!」
「どうしたんです?あなたらしくもないですね。もうイキ疲れたんですか?まあ、いいでしょう。だったら、イカないようにしてあげますよ」
……その代わり、快感はさらに倍にさせてもらいますけどね。
その、最後の部分は口には出さず、触手を使ってアナトの絶頂を封印し、その感じる快感をさらに倍加させる。
そして、その腕を引きながら腰をずんと打ちつけた。
「くううううううううっ!」
その瞬間、アナトの体が伸び上がる。
その、弾力に満ちた胸を張るような格好で髪を振り乱して喘ぐ。
そこに、さらに一突き。
「はうううっ!だめっ、こんなの、イッちゃううううっ!」
「そんな心配はしなくて大丈夫ですよ。……ほら」
「ああああああっ!だめっ、イクッ、イクぅうううっ!……うそ……どうしてイケないの?」
奥まで突かれて体を仰け反らせていたアナトが、信じられないといった表情でシトリーに顔を向けた。
「だから、イカないようにしてあげたんですよ」
「そ、そんなことって……」
「まあ、絶倫のあなたのことですから、この程度はなんともないでしょう?」
「そんなっ……うぁああああああっ!」
もう一突きされて、その体が海老反りになった。
続けて、もう一突き。
「だめええええっ!イクぅうううううっ!」
「だから、イケないって言ってるじゃないですか」
「そんなっ!こんなっ、こんなに熱いのにイケないなんてっ!はうううううっ!」
「たまにはこういうのもいいでしょう?」
「だめっ、こんなのっ!このままじゃ、私っ、おかしくなる!んくうううううううっ!」
髪をばさばさと振り乱し、アナトは狂ったように身を捩らせる。
「まさか、あなたがこの程度でおかしくなるはずがないじゃないですか」
「だってっ、こんな拷問みたいな!あくぅううううううっ!」
「拷問ですって?僕はあなたを気持ちよくしてあげているんですよ」
「いやっ、もうこれ以上感じたくないっ!んはぁあああああっ!」
「そんなこと言わずに、もっと感じてください」
「いやあああああああっ!だめ……体が、頭が熱くてっ、もう……!」
だんだん、アナトの喘ぎ声に力がなくなっていく。
シトリーの触手に完全に包まれた中でアナトの魂は力をほとんど失い、爛れたような鈍い光を放つだけになっていた。
「どうしたんです?ほら」
「くっ!んふぅうううううううう……」
「まだまだいけるでしょう?」
「あああああああっ……だめ……お願い、もう……赦して、シトリー……」
絶頂を封印して、僅か12回突いただけでアナトが赦しを乞うてきた。
しかし、最初のそれは素知らぬ顔でスルーする。
「赦して?何のことですか?」
「ううううううううっ!お願いっ!お願いだからもう赦して!私をイカせてっ!お願いします、シトリー!」
さらにもう一突きすると、アナトのそれは懇願へと変わった。
そして、その心の声は……。
(熱い、熱い、熱い、熱くてもう、私、おかしくなりそう……イキたい、イキたい、イキたい、イキたい、イキたい、イキたい、イカせて欲しい……)
アナトの心は、その願いで一杯になっていた。
それを確かめると、シトリーはもう一度突き込んでからいったん動きを止める。
根元まで挿し込んだままの肉棒でアナトの膣奥を捏ね回すようにしながら意地悪く尋ねる。
「そんなにイキたいんですか?」
「え、ええ……イキたいの。お願い、イカせて……」
「じゃあ、僕の下僕になったらイカせてあげましょうか?」
「……えっ!?」
「聞こえませんでしたか?僕の下僕になったらイカせてあげるって言ったんですよ」
「なるっ!なるから!だからイカせて!」
よほど限界が近づいていたのか、アナトは切迫した表情であっさりとシトリーの下僕になることを認めた。
そこでシトリーは、すっかり弱々しくなったアナトの魂をさらに締めつけて最後の仕上げに入る。
「なら、僕の言うことには絶対に逆らわないと誓うか?」
「誓うっ!誓います!」
「この先ずっと僕に服従し、僕のために生きると誓うか?」
「誓います!」
シトリーに言われるまま、アナトは唯々諾々と誓いを立てていく。
それを聞いて、シトリーはその腰をぐっと掴んだ。
「いいだろう。じゃあ、これからその中に射精してやる。それであなたはイクことができる。そして、それと同時に今の誓いはあなたにとって絶対のものになるんだ」
触手を通じて強く力を送りながら、そう命じる。
だが、アナトの頭にはもはやイクことしかないようだった。
「わかった!わかったわ!だから、お願い、私をイカせて!」
「なら、いくぞ」
そう言うと、シトリーは再びピストンを再開する。
「あうっ!はぁっ!はっ、激しい!こんなのっ、イク前におかしくなっちゃうっ!」
大きなグラインドで出し入れを繰り返すと、アナトは息も絶え絶えに身悶えする。
しかし、彼女がイケない快感に悶え狂うのもそう長い時間ではなかった。
すでに限界間近だった肉棒が、射精の時を迎える。
「さあ、僕の下僕になれ!アナト!」
そう叫ぶと、アナトの腕をぐいっと引っ張って肉棒をその奥深くに突き入れ、精液をぶちまける。
「ああああああああっ!来てるっ、すごいの来てるぅううううっ!んふぅううううっ!やあああっ、こんなっ、私っ、すごいイッてるっ!あふぅうううううっ!だめっ、イクのっ、止まらないっ!こんなの初めてっ!すごすぎてっ、わけわからない!」
きつく肉棒を締めつけ、まるで瘧のように体を痙攣させながらアナトはイキ狂う。
「まだっ、まだイッてるぅううう!本当にっ、止まらない!止まらないのっ!熱いのでいっぱいになって、イクのが止まらないぃいいいい……」
永遠に続くかと思われた絶頂の果てに心身の限界が来たのか、突然、糸が切れたようにアナトはぐったりとなって失神してしまった。
* * *
寝台の上に突っ伏した、涎と涙にまみれたアナトの寝顔を、じっとシトリーは見つめていた。
千年と少し前のあの時は、何度も絶頂させた後でアナトは元に戻った。
それまで、散々シトリーに遊ばせておいて、そのタイミングで逃していた意識を戻したのだ。
しかし、今回はアナトが正気に戻る気配は見られない。
そうやってじっと見守り続けていると、小さく呻いてアナトの目がゆっくりと開いた。
「……あっ」
シトリーを見て最初は少し驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに目を細める。
そのまま、熱っぽく潤んだ眼差しを向けて微笑んでいた。
そして、感慨深げに呟く。
「すごいわ……完全にやられちゃった。まさか、あなたがここまで力をつけていたなんて思ってもいなかったわ……」
それまでずっと、シトリーのことをキミと呼んでいたアナトが、愛おしそうに、あなた、と呼んだ。
……だが
「ねえ、シトリー様って呼んでいい?」
アナトのその言葉を聞いた瞬間、ざわわ……と鳥肌が立った。
ぶるっと身震いしたシトリーを見て、アナトが訝しげに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ……初めて会ったときのあれのせいで、あなたにシトリー様って呼ばれるのがトラウマになってるみたいなんですよ」
「もうっ!しっかりしてよ!あなたは私を屈服させたのよ。間違いなくあなたは私のご主人様なんですからね!」
シトリーの返事に、アナトは不満げな表情を浮かべる。
「しかし、そうは言ってもですね……」
「だから!どうして敬語なのよ!?」
「それは、あなたとの長いつきあいでそれが刷り込まれてますから」
「でも、さっきは命令してたじゃない。あなたの下僕になれって」
「あれは、その場の流れというかなんというか……」
「でも、もう私はあなたの下僕なのよ」
「ですけど、ちょっと僕にも時間をください」
「本当に……しっかりしてよね、シトリー様」
「いや、だから本当にシトリー様は勘弁してください」
「もうっ……」
戸惑いを隠せずに、シトリーはアナトに頼み込む。
アナトはシトリーの力によって完全に堕ちてしまったようだが、彼女を堕としたシトリー自身の意識には特に変化があるわけではない。
というかむしろ、主人と下僕になったとはいえ長年積み重ねた関係はそう変えられるものではない。
そんなシトリーの反応にふて腐れて頬を膨らませると、アナトは体をすり寄せてきた。
「でも、本当にすごかったわ。魂を鷲掴みにされたような感じで、逃げることができなかった。だけど、以前はそんな力はなかったわよね?」
「ええ、まあ……」
一瞬、リディアのことを話していいものかどうか迷って、言葉を濁す。
しかし、今の彼女になら本当のことを話してもいいだろうと思い直して、全て打ち明けることにした。
リディアに魔力を吸い取られて、自分の力が落ちていたこと。
彼女からの申し出で、その力を戻してもらったこと。
それだけでなく、リディアの持っていた魔力と、その能力も手に入れたこと……。
「……なるほどね、あのおチビちゃんとの間にそんなことがあったんだ。だから、この間まであなたの力が落ちていたように感じたのは私の気のせいじゃなかったっていうことね」
「まあ、そういうことです」
「でも、それもあなたのことを思っているからこそよね。同じ立場だったら、私もきっとそうしてたと思うわ」
「なに殊勝なこと言ってるんですか?」
「あなたがそうさせたんじゃないの!さっき、あなたのために生きろって誓わせたでしょ。もう、私はあなたがいないと生きていけないんだから!」
「もしかして、僕がそうさせたこと怒ってます?」
「怒ってないわよ。……というか、あなたに対して怒るっていう感情が欠落したみたいな感じかしら?自分でも不思議な感覚なんだけどね。きっと私はあなたにそういうマイナスの感情を抱くことはないだろうって、そんなことできないだろうって、そう思える。きっと、それだけ完全にあなたのものになってしまったのね」
「へぇ……本当に僕のものになったんですね」
「だから!あなたがそうさせたんでしょ!」
自分でやっておきながら、シトリーにはいまだにアナトを下僕にしたという実感が湧かなかった。
アナトにはそれが不満そうな様子だったが、それも本気で怒っているのではなくて、甘えるような拗ね方なのがまた彼女らしくなくてものすごく違和感があったりする。
と、思いついたようにアナトが話題を変えた。
「それはそうと、こうなってしまったらあなたの方が司令官になった方がいいんじゃないの?」
「そう言って、また面倒なことを僕に押しつけようとしてるでしょ?」
「そうじゃないわよ!だって、私はあなたの下僕になったんだし、私たち全員に指示を出すあなたが司令官に相応しいじゃない」
「だからそんなのはガラじゃないですって。ひとりひとりに指示を出すのはともかく、軍を指揮する能力はあなたの専門分野じゃないですか。だいいち、司令官変更なんて魔界の上層部にどう説明するつもりなんです?」
「うーん、それもそうよね……」
「とにかく、各自がそれぞれの得意分野で力を発揮してくれたらいいんですよ。そういうわけで、軍の司令官はあなたにお任せします。心配しなくても、あなたのことは僕がしっかりこき使ってあげますから」
「わかったわ、ご主人様」
「……それも勘弁してください」
「もうっ!」
どこか困った様子のシトリーに、アナトはまたもやプイッと頬を膨らませてふて腐れた表情を浮かべた。
* * *
そうやって、すったっもんだの末にようやくシトリーがアナトを下僕にしたのと同じ頃。
――某所。
「今、人間界に大いなる危機が訪れていることは皆も知っていることと思う。この危機に対処するため、いよいよ我々にも出陣の命が下った」
大勢の前で、話をしている金髪の男。
その場には、100人近い人数がいるだろうか。
5列に並んだ男女が、身じろぎもせずに彼の話を聞いていた。
全員が白い甲冑を身に着け、剣を帯びている。
そしてなにより、その全員の背中に生えた、純白の翼。
それが、彼らが天使であることを雄弁に物語っていた。
彼らを前に、その部隊の隊長とおぼしき男の声が滔々と響く。
「約300年ぶりに攻め込んできた魔界の軍勢は、我々が準備に手間取っている間に地上を席巻してしまった。今回、魔界はこれまでにないほどの数の妖魔を地上に送り出してきている。今、地上で悪魔どもに蹂躙されていないのはイストリアだけとなってしまった。イストリアが落ちてしまえば、人間界は悪魔どものものになってしまう。それだけはなんとしても避けねばならない。そこで、我が部隊の任務は、モイーシアとの国境にあるウムラニエ城を守備するイストリア軍の援護に当たるシャルティエル隊と連携を取りながら、西方から侵攻してくる悪魔どもを撃退することに決まった。この方面の悪魔どもは魔法王国ヘルウェティアを落とし、モイーシア軍も粉砕している油断ならない強敵だ。困難な闘いになることが想像されるが、我々は必ず勝つ。いや、勝たねばならない」
男の力強い言葉に、その場にいる全員が一斉に頷く。
「人間界の秩序を守る想いは皆も同じと思う。全員で力を合わせて、悪魔どもを魔界に追い払おう!」
彼の檄に、天使たちは今度は拳を突き上げて応える。
男女の違いはあれど、彼らの表情には正義のために戦おうという強い意志と、戦いに臨む緊張感が表れていた。
それを見て、隊長は満足そうに頷く。
「よし……出立は明朝だ。それまでに、各自準備を怠らぬように。では、解散」
その言葉を合図に、整列していた全員がそれぞれの持ち場に散り始める。
その、ブロンド、亜麻色、赤みを帯びた茶色や濃い茶色の髪の天使たちの中に、輝くような白銀色をした髪の女がふたり。
よく似た顔立ちだが、ひとりは切れ長の目の大人びた雰囲気で、もうひとりは少し大きめの瞳に、まだ少女のあどけなさの残る、丸みのある顔立ちをしている。
そして、ふたりが腰に佩いている剣。
男でも扱いかねそうなほどに幅広の大剣だった。
その、年少に見える少女の体は、気のせいか小さく震えているように見えた。
そんな少女に、年長の女がそっと体を寄り添わせる。
「怖いの、アーヤ?」
「サラ姉さま……」
アーヤと呼ばれた少女は、不安そうな表情を浮かべてコクリと小さく頷く。
そんな彼女を、サラと呼ばれた天使は優しく抱きしめた。
「無理もないわね。あなたは前回の魔界との大戦の時はまだ見習いで、実戦はこれが初めてだものね。でも、自分の力に自信を持つのよ、アーヤ。あなたは十分に強いわ」
「はい、姉さま」
素直に返事をしたものの、少女の表情は晴れることはなかった。
心細そうに睫毛を伏せて、ぎゅっと抱き返してくる。
そんな少女を励ますように、サラも抱きしめる腕に力を込める。
「大丈夫よ、アーヤ。あなたならきっとやれるわ。それに、もしもの時には私が守ってあげるから。だから大丈夫」
「姉さま……はい」
初陣の恐怖を振り払おうとするように、視線を上げて姉の顔を見る。
真っ直ぐにこちらを見つめる姉は、優しい微笑みを浮かべていた。
実際、そうやってサラの腕に抱かれていると恐れが和らいでいくように思える。
いつも自分の側にいてくれた姉の温もりを感じていると安心できる。
「落ち着いた?アーヤ?」
「はい、姉さま」
「良かった。……じゃあ、今日はゆっくり休んで、人間界の平和のために私たちも頑張りましょうね」
「はい」
まだ少し緊張の面持ちは残しているものの、サラに励まされて少女はやっと笑顔を見せたのだった。
< 続く >