第1話 おはようはキスから?
――あれは、中学2年の冬のことだった。
その日、いつものように僕たちの家に亜希と明日菜と羽実の3人が遊びに来ていた。
「あのね、あたしねっ、今、催眠術の練習してるの!」
空が、いきなりそんなことを言い出した。
「へ?催眠術?」
「えっ、催眠術!?ねぇねぇ、どうやるの!?」
「ねえ……それって、危なくないの?」
いまいちピンときてない様子の亜希と、興味津々の明日菜。
羽実は、少し不安そうに眉を顰めていた。
「テレビでやってるの見たことない?催眠術をかけられて、よく知ってる物の名前が出てこなくなったり、嫌いだった食べ物が食べられるようになったり、催眠術をかけた人の言うとおりにしてしまったりとか、ああいうの」
「……見たことない」
「亜希は夜早く寝るから、あんまりテレビ見ないもんね!でも、本当にそんなことができるの!?」
「うん、まだ練習中だけどね」
「すごい!じゃあさ、ちょっと私たちにやってみてよ!」
「ちょっと明日菜ちゃんったら!……ねぇ、空ちゃん、それって本当に危なくないの?かけてる途中で戻らなくなっちゃったりとかしないの?」
「大丈夫みたいだよ。あたしの読んでる本だと、失敗したりしたときは、そのまま目が覚めるか、寝ちゃうかのどっちかだって書いてあったし、途中で寝ちゃっても目が覚めたら元通りで何ともないみたいだから」
「じゃあ安全だよね!ほら、亜希も羽実もちょっとだけやってもらおうよ!」
「……あたしはまだ何がどうなるのかわかってないんだけど」
「やっぱり、不安だよね……」
「もうっ、ふたりともノリが悪いんだから!」
「ていうか、明日菜ちゃんはなんでそんなに乗り気なのよ?」
「だって、面白そうじゃない!」
明日菜ったら、すっかりその気だな……。
そういえば、昔からそういうわけのわからないものに飛びついたりしてたなぁ。
目をキラキラさせて空の話に飛びついている明日菜と、あんまり関心がなさそうな亜希、そして尻込みしている羽実。
もう、小さいときから何度も見慣れたいつもの光景だ。
こういう時は、結局亜希と羽実が明日菜に押し切られてしまうのがいつものパターンなんだけど。
「ねえねえ、やってもらおうよ-!」
「まあ、別にあたしはどっちでもいいから、明日菜がそこまで言うんだったらそれでいいけどね」
「じゃあ、亜希はやってもらう方ね!で、羽実は?」
「もう、明日菜ちゃんったら……しかたないなぁ……じゃあ、一度だけだったら……」
「よし、決まり!じゃあ、お願いね、空!」
「うん、いいよ。……陸、あんたはどうするの?」
「えっ!?僕はいいよ。ここで見てるから」
「そう?……じゃあ、3人とも、もう少しこっちに寄って」
「……こんな感じ?」
「こうかなっ!?」
「……こう?」
亜希と明日菜と羽実が、少しずつ空の方ににじり寄る。
「うん。で、もう少し間隔を開けて丸く並ぶ感じで……そうそう。じゃあ、3人とも私の指を見て」
「うん」
空を頂点にした扇形を作るように座らせると、空は人差し指をピンと立てて3人の前に差し出した。
それを、3人は床に両手をついて、少し身を前に乗り出して見つめる。
「3人とも、この指をじっと見ててね」
「うん」
空の言葉に、3人ともその指を見つめたままでコクンと頷く。
「よく集中して、この指を見てね。視線を逸らせちゃだめだよ。……じゃあ、ちょっと深呼吸してみようか。指を見つめたままで、す~、は~、す~、は~……」
「うん……」
「すぅ~」
「はぁー」
「そうそう、そんな感じだよ。大きく息を吸って、すぅ~、息を吐いてはぁ~……そう、それを繰り返して。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……」
空の言葉に誘導されるように、その指を見つめたままで3人は深呼吸を始めた。
息を吸うたびに、少し背中が持ち上がるくらいに大きく深呼吸をしているのが僕の位置からもわかる。
「すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……そうやって深呼吸してると、肩の力が抜けてくるよ……すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……ほら、肩の力が抜けて、楽になってくる、すぅ~、はぁ~……」
「すぅ~、はぁ~……」
「すぅ~、はぁ~……」
「すぅ~、はぁ~……」
「そうそう、そのまま深呼吸を続けて、すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……。ほらー、どんどん力が抜けて、楽になってくるー。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~」
深呼吸している亜希たちの体が、気のせいか、くたっとなってきているような気がする。
両手をついているから座っていられるけど、支えがなかったらその場で倒れそうな感じ。
「ほらー、すごく楽になるよー、すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~。ほーら、とっても楽になったー。……じゃあ、私が指を鳴らしたら3人とも両手が床から離れなくなる……ほら」
空が上に立てた人差し指に親指と中指を添えて、パチン、と鳴らした。
「……ん?あれ?」
「うわ、ホントだ!両手がぴったり床についちゃってる」
「やだ……本当、動かないわ……」
3人が、それぞれに驚いたような声を上げている。
小さく体を揺らせて、両手を動かそうとしてるみたいだけど……。
でも、ああやってべったり両手をついて肩の力を抜いたら、それは簡単には動かないよな。
もう少し体を起こせば楽に動くはずなのに、なんでそれに気づかないんだろう?
それとも、催眠術ってそんなものなのかな?
「ねえ、空ちゃん、これが催眠術なの?」
「うーん、まだまだ入り口ってところかな?でも、3人ともいい感じだよ。じゃあ、もうちょっとやってみようか。ほら、この指を見て深呼吸して、すぅ~、はぁ~……ほら、もう両手は動くようになってるよ。だから、安心して深呼吸しようね。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……」
空が、また3人に深呼吸をさせる。
「すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……そうやってると、肩の力が抜けてすごく楽な気持ちになってくるよ。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……ほら、すごく気持ちが楽に、ふわん、てなってくるよ。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……」
空の指を見つめて、深呼吸を繰り返す3人。
なんだか、少し様子が変だな……。
深呼吸をしているうちに、まず明日菜の、続けて亜希の、最後に羽実の目がトロンとしてきた。
なんだか眠そうな感じだけど、それでも空の指をじっと見ている。
でも、その視線に全然力がない。
「すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……すごく気持ちが楽になったから、ちょっと目を閉じてみようか。でも、寝たらだめだよ。あたしの声はちゃんと聞こえるからね。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……ほーら、まぶたが重たくなってきて、目を開けていられないよ。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……そうしてると、気持ちがふわふわして、あたしの声しか聞こえない、すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……」
空の言うままに、3人が目を閉じる。
すると、空は突きだしていた指をようやく引っ込めた。
「ねぇ、空、これで催眠術にかかったの?」
「しぃっ!静かにしてて、陸」
僕が話しかけると、空が黙っててと指を口元に当てた。
「まだまだ、これからなんだから。少し黙って見てて」
ひそひそ声でそう言うと、空は3人の方に向き直った。
「いい、あたしの声が聞こえる?」
「うん」
「じゃあ、ちょっと名前を言ってみて」
「水田……亜希……」
「土井……明日菜……」
「風間……羽実……」
3人が、自分の名前を口にする。
でも、なんでそんなことを聞くんだろう?知ってるはずなのに。
というか、今の3人の口調……。
なんか、途切れ途切れで棒読みみたいな変な感じ。
「3人の好きな食べ物は?」
「オムライス……ふわふわのやつね……」
「チョコアイス……」
「私は……イチゴ……かな……」
「じゃあ、次は……」
空が、立て続けに質問していく。
目を瞑ったままでそれに答える3人の口調は、同じようにぼそぼそとしたしゃべり方だ。
と、それまで他愛もない内容だった質問の毛色が急に変わった。
「ねえ?3人ともブラはしてる?」
「……うん」
空の質問に、3人ともコクリと頷く。
ブラ……て、ブラジャー?
……そうか、もう、みんなそんな頃なんだよな。
小さい頃からよく一緒に遊んでいたからいまいち実感がわかないけど、よく考えたら、みんな女の子なんだなって、妙に実感させられた。
そういえば、この間、ブラジャー買ってもらったって空が言ってたような気がする。
なまじ双子の兄妹だけに、いまいちピンとこなかったんだけど、それが亜希たちのことだと不思議と現実感が出てくる。
「じゃあ、ブラの色は?」
「あたしは……水色……」
「ピンク……」
「私は……白……」
……て、そんなことまで答えちゃうの?
そりゃ、女の子同士の会話なら普通なんだろうけど、男の僕がいるのにそんなことまでしゃべるなんて。
これもやっぱり催眠術のせいなのかな?
「じゃあ、ちょっと見せてよ」
「って、ちょっと、空!……う」
空にギロリと睨まれて、体が竦んでしまった。
なんか今、ものすごく怖い目で睨んできたんですけど……。
「ねえ、ちょっとブラ見せてよ」
「……え?」
「……うーん」
「……それは……ちょっと」
空が改めて頼んでも、3人は口ごもったままだった。
て、まあ、普通はそうだよな。
「どうしたの?」
「それは……はずかしいよ……」
そう、ぼそりと答えた羽実は、目を閉じたままで少し顔をしかめたような気がした。
「うん、そうだよね。じゃあ、もう少し深呼吸しようか、すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~……」
空が、また3人に深呼吸をさせる。
「今度は、体を揺らしながら深呼吸、ゆ~ら、ゆ~ら……そうそう、すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……」
3人が、体をゆらゆらと揺らし始める。
そうか……それで体が当たらないように間隔を開けて座らせたのか。
「すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……そうやってると、どんどん気持ちよくなっていくよ、すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……ほーら、すごく気持ちよくなって、この声しか届かないところに行っちゃう。そこは、他に誰もいないけど、すごくふわふわして、気持ちよくて、すごく楽しいところだよ。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……」
なんだか、目を閉じて体をゆらゆらさせている亜希たちの表情が緩んできたような気がする。
「すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……ほーら、どんどん気持ちよくなってくる。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……。ふわふわして気持ちいい。そこには他に誰もいないけど、そこにいるのはすごく楽しいよね。そこにいるのは自分だけなんだから、この声は自分の声だよね。すぅ~、はぁ~、すぅ~、はぁ~、ゆ~ら、ゆ~ら……さあ、着いた。ここは、自分だけの、すごく楽しくて、すごく安心できる場所だよ」
それまでゆらゆらと体を揺らせていた3人の動きが、そこで止まる。
「ねえ、ここには誰もいないから、何をしても安心だよね?」
3人とも、空の質問に黙ったまま頷いた。
「じゃあ、今、目の前に大きな鏡があるよ。ちょっと、今日付けているブラが自分に似合ってるかどうか、この鏡で確かめてみようよ。ほら」
……ええっ?
空の合図で、3人がブラウスの裾をたくし上げた。
丸見えになったそれぞれのブラは、さっき自分で言ったとおりに、亜希が水色、明日菜が淡いピンク、羽実のが白い色をしていた。
そして、3人は目を瞑ったままなのに、体を横に向けたり背中を向けるようにひねったりしている。まるで、目の前に本当に鏡でもあるみたいに。
でも、なんかそうしている3人の姿は、すごく女の子らしくて新鮮な気がした。
「うんうん、よく似合ってる。今日の自分、かなりイケてるよね」
そう言われて、3人の口元がかすかに綻んだように見えた。
「さてと、じゃあ、今日は何をして遊ぼうか。……そうだ、陸のところに遊びに行こう。でもね、陸は普通の遊び方じゃ遊んでくれないから、ちょっといつもと違うことしないといけないよね」
ちょっと、何言ってんの、空?
何をしたいのかはわからないけど、なんか僕を巻き込もうとしてない?
妙に目をキラキラさせて亜希たちを眺め回している空に、なんかイヤな予感がする。
と、空が羽実に体を近づけて、僕にぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で囁き始めた。
「羽実は今日、猫になります。羽実は小さくてかわいらしくて、陸のことが大好きな子猫ちゃんです。だから、陸にいっぱいかわいがってもらえるよ。ね、ちょっと鳴いてみようか?」
「……にゃーん」
ホントに?
耳許で空に囁かれて、羽実が猫の鳴き真似をした。
本気で猫になってんの、羽実?
ていうか、何やらせてんの、空?
「もう一度鳴いてみようよ。そしたら、もっと子猫ちゃんになれるから」
「……にゃーん」
「もう一度。そうしたら、本当に子猫ちゃんになれるよ」
「……にゃーん」
「うんうん、羽実はかわいい子猫ちゃんだよね。じゃあ、パチンって手を叩く音が聞こえたら、羽実は子猫ちゃんになります。そして、目を開けたら陸がいるから、甘えにいこうか。じゃあ……はい!」
空がパチンと手を叩くと、羽実の目がゆっくりと開く。
そして、ぼんやりと辺りを見回していたその目が、僕の方を見た。
「ふみゃーん」
そう、ひと声鳴くと、ものすごく嬉しそうな顔をしてこっちに寄ってきた。
猫みたいに、四つん這いになって。
抜き足差し足、って感じなのが本当にそれっぽい。
「にゃあ、ふみゃあぁあ……」
そのまま、僕に頭をすり寄せてくる羽実。
「ちょ、ちょっと、羽実?」
「みゃあ、にゃあぁああ……」
呼んでも聞こえていない、というか言葉が通じてないみたいに体を寄せてきて、こっちを見上げた。
そして、ニマッて笑うと、また頬ををすり寄せてくる。
僕の手を擦る、羽実のほっぺたの感触がふにふに柔らかくて、妙に気持ちいい。
「もう、陸ったら、せっかく甘えてるんだから、喉でも撫でてあげなさいよ」
「いや、そんなこと言っても……」
「だから、早くしてあげなさい!」
「そんなぁ……こ、こう?」
空の勢いに押されて、僕は羽実の喉を指の腹で軽く掻くように撫でてやる。
「ん~~~」
喉をポリポリとしてあげると、羽実は目を細めて嬉しそうにしている。
妙に甘えたような声だけど、本人は喉をゴロゴロ鳴らしてるつもりなんだろうか?
どう贔屓目に見ても、女の子が嬉しそうに唸ってるだけなんだけど。
さすがに催眠術を使っても、こればっかりは真似できないんだな。
だけど、そうしているとなんか、本当に子猫をあやしているような気がしてくるから不思議だ。
まあ、よく見たら、いや、よく見なくても羽実なんだけど。
でも、小柄でしなやかそうな体格で髪が短くて丸顔の羽実と、小さな子猫のイメージがよく合うというか、どっちもかわいらしい感じがするというか……。
ふにゃっ、と甘えた声でほっぺたをすり寄せてくる羽実を見てると、気のせいか、お尻から嬉しそうにくねっている尻尾が生えてるような気がするし、丸っこい頭の髪の間から三角形の耳が覗いてるように思えてくる。
「ん~~、ふみゃああぁ~……」
「おっと!」
いきなり、羽実が僕の膝の上に頭を乗っけてきた。
「ふにぃいいい……」
そのまま、目を細めて体を丸くする。
まるで、このまま昼寝でもしそうな勢いだ。
「ちょっと、羽実?」
「んにゃぁああああ……」
僕が呼んでもどこ吹く風と、羽実は大きく欠伸をする。
「ふにぃいいいい……」
そのまま、幸せそうに寝息を立て始める羽実。
その頭を撫でてやると、寝言なのか、ふゃぁあああ、と小さく鳴く。
でも、そんな羽実がやたらかわいく思えて、ついつい僕の頬も緩んでしまう。
それに、すごく温かくて柔らかい。
女の子の体って、こんなに柔らかいんだ……。
「……じゃあ、明日菜は今から子犬になります。陸のことが大好きで、陸に遊んでもらうのが楽しくて仕方がないかわいい子犬です」
て、今度はそっちで何やってんの、空?
僕が子猫状態の羽実をあやしている間に、空は明日菜の耳許で囁き始めていた。
「じゃあ、ちょっと鳴いてみようか」
「……あんっ!」
明日菜も!?
明日菜が、甲高い声で犬の鳴き真似をした。
羽実の時と同じパターンだ。
ということは、この後……。
「じゃあ、もう一度鳴いてみよ。そうしたら明日菜はもっともっと子犬になれるから」
「……あんっ!」
「もう一度鳴こう。そうしたら、本当に子犬になっちゃうよ」
「……あんっ!」
空の言うままに、明日菜は犬の鳴き真似を繰り返す。
この高めの鳴き声は、たしかに大型犬というよりかは小型犬だな。
「うん!明日菜はかわいい子犬になっちゃったね!じゃあ、あたしがパンって手を叩いたら、目を開けます。そうしたら、陸の姿が見えるから、陸が大好きな子犬ちゃんはじゃれついて遊んでもらおうね。……じゃあ、はい!」
空がパンって手を叩くと、明日菜が目を開く。
「あんっ!」
僕の方を見て、明日菜が満面の笑みでひと声鳴く。
「あんっ!あんっ!あんっ!……すんすん、くーん」
嬉しそうに鳴きながら飛びついてくると、明日菜は僕の体に鼻を寄せてふんふんと嗅ぐ。
「……あんっ!」
「うわっ!明日菜!?」
なんかよくわからないけど、僕の臭いに納得がいったのか、ひと声鳴いて明日菜は前足……じゃなかった、両手を僕の肩にかけてきた。
「ハッハッハッハッ!ふん、ふんふん……」
「ちょっ、ちょっと明日菜!?」
「ハッハッハッハッハッ!」
明日菜の顔がこっちに近づいてきたかと思うと、そのまま僕の頬をぺろぺろと舐めてくる。
「ぶわっ!だめだよっ、くすぐったいよ、明日菜!」
「ハッハッハッ……」
明日菜のベロが、顔中を舐め回していく。
僕が顔を背けても、明日菜はところ構わず舐めてくる。
逃げたくても、なにしろ、僕の膝を枕にして羽実が寝てるから、逃げるわけにもいかない。
それにしても、本当なら汚いとか言わなきゃいけないのかもしれないけど、不思議とそんな感じはしなかった。
生暖かくて柔らかいものが顔に当たってくすぐったい。
「だから、だめだって!ちょっと、明日菜!」
「ハッハッハッハッハッ!」
体を押しのけて、無理矢理やめさせる。
けど…………あれ?
今、僕の手に当たってる、ムニュっていう弾力のある感触。
ふにゃふにゃとしてて、ゴムボールよりも柔らかな感じ。
て……ん?
ひょっとして、これは……。
「わっ!わわわっ!ごめん、明日菜!」
「ハッハッハッハッハッ!」
明日菜のおっぱいを手で掴んでいたのに気づいて、慌てて謝る。
でも、明日菜は気にする様子もない。
ていうか、羽実と同じで僕の言うことが全く通じてない。
だらんとベロを出して、ハッハッハッ……て荒く息をしてる。
黒目がちの目が、期待いっぱいって感じでキラキラ光ってる。
なんか、本当に犬になってしまったみたいだ。
「あんっ!あんっ!ハッハッハッハッハッ!」
左右に赤いリボンで結んだ、肩くらいまでの長さの髪を揺らして、また嬉しそうに鳴き声をあげる明日菜。
そういえば、こんな感じの子犬を見たことがあるようなないような……。
そうだ!ヨークシャーテリアとかマルチーズっていうの?
ああいった、毛の長い小型犬に、時々リボンを結んであるのを見たことあるけど、あんな感じなんだ。
「あんっ!」
「うわっ!」
明日菜がこっちに体重をかけてきたから、支えきれなくなって抱きつかれる格好になる。
そのまま、また顔を舐められてしまう。
ていうか、今、唇と唇が当たらなかった?
ひょっとして、僕たちキスしちゃったのかな?
いや、僕は別にいいんだけど、こんなのが明日菜のファースト・キスだったらちょっと可哀想かも。
「うわわっ!明日菜!?」
その時、明日菜の手が滑って、グラッとバランスを崩した
「にゃふん!」
明日菜が手をついた先には、僕の膝で寝ている羽実がいた。
大きな鳴き声を上げて、気持ちよさそうに寝ていたその目が開く。
驚いて、目をパチパチさせていた羽実が明日菜を見る。
そのとたんに、さっきまで気持ちよさそうにしていた表情が一変した。
「ふーーーっ!」
のそりと体を起こした羽実が、明日菜を睨みつけて威嚇する。
ていうか、その目、怖いよ羽実……。
おとなしくて、怒ったところなんか見たことない羽実が、目を怒らせて明日菜を睨んでいる。
それだけでも信じられないっていうのに……。
髪の毛が逆立ってるみたいに見えるのは気のせいかな?
一方、威嚇された明日菜はというと……。
「うーーーっ!」
……だめだ。
明日菜は明日菜で、羽実を睨み返して唸り声をあげていた。
「ふーーーっ!」
「うぅーーーっ!」
唸りながら睨み合っている羽実と明日菜。
いつもはすごく仲がいいふたりの間に、剣呑な空気が漂ってる。
傍から見たら、僕を巡って女の子ふたりが争っている、みたいな感じなんだろうけど、実際はそんな格好いい状況じゃ全くない。
ていうか、お互いに、相手が誰だかわかってないみたいだし。
なにしろ、今のふたりは空のせいでただの子猫と子犬なんだから……。
「ちょっと、羽実も明日菜も、もうやめようよ……」
「ふーーーっ!」
「ぐるるるぅっ!」
だめだ、やっぱり人語が通じない。
ふたりとも、僕の言うことなんか全然聞きやしない。
「しゃーーーーっ!」
「ううううぅーーーっ!」
きやあああああっ!
だめっ、僕にはふたりを止められないよ!
空っ!なんとかしてよ!
僕が空の方を見てると、空は亜希のすぐ横で何か考え込んでいた。
「……ああもうっ!いいペットが思い浮かばない!」
うそっ!?それで悩んでたの!?
ていうか、子猫と子犬だけでもうネタ切れ!?
「もういいやっ!とにかく、亜希も陸のことが大好きなの。本当に好きで好きでしょうがないの。いい、わかる」
空の言葉に、亜希はコクリと頷く。
「だから、パンって手を叩く音がしたら、とりあえず陸に迫ってみようよ。力ずくで陸をモノにするくらいにね!」
なに?その投げやりな感じ?
ていうか、本気でなに言ってんの、空?
「あ、それと、陸のところには子猫と子犬がいるけど気にしなくていいから。……じゃあ、はい!」
空がパンって手を叩くと、亜希の目が開いて僕の方を見る。
「……陸」
なんか、亜希の雰囲気がいつもと違う。
体育会系で、どちらかというとサバサバした性格の亜希が、顔を赤くして僕を見つめてる。
なんか、目がうるうるしてるし……。
「……亜希?」
「あたしさ……前から陸のこと好きだったんだ。……ねえ、あたしとつきあってくれないか、陸?」
僕の方ににじり寄ってきながら、亜希がいきなり告白を始める。
前から……て、それ、違うから。今さっき、空にそう思い込まされただけだから。
それは、ずっと友達だったから嫌われているわけじゃない自信はある。
でも、友達として好きだっていうのとそれは違うと思うんだけど……。
「ねえ、ちょっと落ち着こうよ、亜希……」
「どうして?あたしはこんなに陸のことが好きなのに」
「いや、だから……」
亜希には、僕の膝に手をかけて威嚇し合っている羽実と明日菜のことは気にならないみたいだった。
本当に子猫と子犬だと思ってるのかはわからないけど、さすがに邪魔にはなるのか、膝立ちになってふたりを避けながら僕の方に腕を伸ばしてくる。
「なあ、陸!」
「ちょ、ちょっと!亜希!」
「どうしてだよ、陸!?」
「ちょっと、痛いって!」
「しゃあぁーーーっ!」
「ぐるるうぅーーーーっ!」
亜希の手が、ぐいっと僕の肩をつかんで揺さぶる。
ただでさえ、亜希は僕より身長がある上に、ずっと水泳部の選手をしてるから力も僕より強い。
その亜希に迫られると、嫌だとは言えない迫力があった。
……だからって、うん、と言うわけにもいかないけど。
で、僕の肩をつかむ亜希の腕の下で睨み合っている羽実と明日菜。
なにこの、わけがわからない状況は?
「だから、落ち着こうよ、亜希……うわぁっ!」
「わぁっ!」
「きゃっ!」
「きゃあっ!」
体を後ろに引こうとして、そのまま押し倒される。
それも、羽実と明日菜まで巻き込んで。
4人でもつれ合うように倒れ込んでしまう。
なんなんだよこの状況?
空~、どうしてくれるんだよ~!!
……て、ん?
今、羽実と明日菜が普通に悲鳴をあげてなかった?
「いたたたた~、なによ~、どうしたのよ、亜希~?」
「もう~、亜希ちゃん、痛いじゃないの……て、あれ?私?」
「あれ?私、何してたんだっけ?」
「いたたた……。あたし……あれ?あたし、さっき……」
体を起こして、それぞれきょとんとした表情を浮かべる3人。
「あれ?私、犬になってた気がするんだけど……?」
「私は……猫?……なんで?私、さっきまで……て、やだっ!私っ、陸くんに!」
さっきのことを覚えているのか、羽実の顔が真っ赤になる。
「あれ?あたし、今、陸に……ええ!?どういうこと?」
亜希も、いつもはなかなか見せない、戸惑った表情を浮かべていた。
「あらららら~、催眠術、解けちゃったみたい」
そして、すべての元凶の当人も、驚いたように目を丸くしていた。
「いや、あのな、空……」
「うーん、倒れたショックで解けるなんて、かなり深くかけたつもりだったのに、それでも不十分だったみたいね。まだまだ練習しないといけないなぁ……」
「だから、そうじゃなくてさ……」
「導入部も、あれじゃ時間かけすぎだよね。本には、他のことに注意が向かないくらいにひとつのものに集中させると、意識レベルが低下して暗示を受けやすくなるって書いてあったわよね……。だったら、相手の意識をもっと素早く、もっと強烈に引きつけて、暗示を受けやすくさせてから一気に深い催眠状態に持って行って、簡単に解けない暗示をかけて……うーん、結構大変かも」
僕が声をかけても、空は真剣な顔でブツブツ呟いていて、こっちの言うことなんか聞いちゃいない。
一方で、亜希たちはというと……。
「今さっきのって……」
「もしかして、あれが催眠術?」
「じゃあ、今のは全部空ちゃんのせいなの?……もうっ、ひどいよ、空ちゃん!」
ようやく我に返った羽実が、唇を尖らせて空に詰め寄る。
「……へ?あっ、だから、ちょっと練習のつもりでね。自分を動物だって思い込ませるのって、よくあるみたいだし、それに、相手が陸だったらいいかなと思ったりしてね。てへへ……」
「そうなんだぁ?んー、ちょっと驚いたけど、私は結構楽しかったかなー」
「もうっ!明日菜ちゃんは空ちゃんに甘すぎだよ!」
「うん、いくら相手が陸でも、あたしもあれは恥ずかしかったな」
「そうだよ、いくら陸くんでも、男の子なんだからね!それを、私、あんな……」
「そう?私は陸が相手でも、子犬になって甘えてる感じって、なんか不思議で面白かったけどね」
「だから!そういう問題じゃないでしょ、明日菜ちゃん!」
自分が子犬にされてたっていうのに、いたって暢気な明日菜。
亜希も、少し恥ずかしそうだけど、いつもの飄々とした態度に戻ってる。
顔を真っ赤にして恥ずかしがっている羽実の反応も、これまたいつも通りっていえばいつも通りなんだけど。
それにしても、いちいち、僕「でも」っていうのが少し気になるんですけど。
羽実以外は、僕を男の範疇に入れてないんじゃないのかな。
「陸くん!本当にごめんね!私、陸くんにあんなことして!」
「え?いや、でも、さっきの羽実、本当に子猫みたいでかわいかったよ」
「もうっ!陸くんのバカ!」
「痛てっ!」
いきなり、羽実に頬をはたかれた。
なに?
僕、叩かれるようなこと言った?
「いやだ……本当に恥ずかしい!もうもうもう!ひどいよ、空ちゃんったら……ううっ!」
あ、とうとう羽実が泣き出しちゃった。
「ごめんごめんごめん!謝るからっ、ね、羽実!」
「ひくっ……ひどいよ、空ちゃん……」
「ごめんね。もうあんなことしないから、許して、羽実。ね、お願い!」
結局、その後も顔を真っ赤にして泣きじゃくっている羽実に、空はひたすら謝るしかなかったのだった。
*
*
*
久しぶりに、初めて空が催眠術を使って見せた時のことを思い出していた。
よく考えたら、亜希に告白なんかさせて……あの時から、あんなことやってたんだよな、あいつ……。
最近の、自分の気に入った子に催眠術をかけて僕に告白させるルーツは、すでにあの時からあったんだ……。
あの時、羽実にはもうしないって言って謝っていたけど、本人はその後も催眠術をマスターする道を邁進していたようだ。
たしかに、あれから羽実たちには催眠術をかけてないみたいだ。
その分、空の催眠術の被害を受けるのは主に僕になったんだけど。
でも、このところ空はおとなしくしてるみたいだった。
絶対、またなにかとんでもないことを考えてくると思ってたのに。
いや、でも油断は禁物だな……。
「どうしたの、陸!?早く学校行こうよ!」
僕の少し先で、空が手を振っている。
なんだか、今日はやけに楽しそうだ。
もしかしたら、なにか企んでるのかもしれないな。
朝からテンションの高い空に、少し身構えながら学校へと歩いて行く。
* * *
「おはよう!」
「おはよ」
教室に入ると、手を上げて亜希たち3人に挨拶する。
と、3人が立ち上がって僕たちの方に近づいてきた。
「おはよう、陸。……ちゅ」
「ん゛む゛っ!?」
……亜希!?
いきなり、亜希が僕にキスしてくる。
朝っぱらから、しかも教室の中で、みんなが見てるっていうのに。
しかも、亜希だけじゃなかった。
「陸、おはよ!……ちゅっ!」
亜希に続いて、明日菜も挨拶しざまに僕の唇にキスしてきた。
「おはよう、陸くん。……ちゅ」
そして、羽実の顔がゆっくり近づいてきて、僕の唇に柔らかい感触が当たった。
「ん゛むむむ!?」
ちょ、ちょっと!?なにやってんの?
立て続けに3人にキスされて、僕は目を白黒させる。
そんな僕の隣では……。
「おはよう、空」
「おはよ、亜希。……ちゅっ。……明日菜もおはよ、ちゅ。……おはよう、羽実……ちゅっ」
空も、亜希たちとキスをしていた。
それも、やけに楽しそうに。
……間違いない。
朝、学校にきていきなりキスされるなんてわけのわからない状況は、きっと空のせいだ。
「ちょっと、空!これって、どういうことだよ!?」
空を教室の隅に引っ張っていって、他のみんなに怪しまれないように小声で問い詰める。
「どういうことって?」
「とぼけたってダメだよ。亜希たちがいきなりキ、キスしてきて、空が催眠術でなんかやったんだろ!?」
「ああー、まあ、おはようの挨拶ってとこかな?」
「おはようの挨拶って!?」
「そう、仲のいい相手におはようの挨拶をする時は、キスをするのが当たり前なの」
「はい!?」
「亜希たちだけじゃないわよ。クラスの全員がね、そう思ってるわよ」
「……ていうことは、男も!?」
「んー、おはようの挨拶をして、キスをするのが当たり前のことで不思議に思わないのはそうだけど、これにはいくつかルールがあってね。まず、キスをしてくるのは女の子だけで、男子からはしないこと。そして、キスする相手は誰でもいいんじゃなくて、仲がいい相手か、好意を持っている相手に限られること。あっ、あと、女の子同士のキスは自由ね」
「……はぁ!?」
そう言われて、もう一度教室を見回してみる。
さっき教室に入ってきた斎藤さんが、高田にキスしてる。
そういえば、あのふたりってつきあってるんだっけ。
他には、女の子同士があっちこっちでキスし合ってるけど、男の子にキスしに行ってる女子はそれほど多くない。
そして、空の言うとおり、男子の方から女の子にキスしてるのは誰もいない。
「なんでこんな……」
「だって、あたしだって相手を選びたいもん。男子の方からもキスできるようにすると、誰があたしにキスしてくるかわからないじゃない。あたしはそいつのこと好きでもないのに、一方的にあたしに好意を持ってるやつがキスしてくるかもしれないでしょ。そんなのは嫌だもん」
……自分勝手なやつ。
ていうか、問題はそこじゃない気がする。
「そうじゃなくて、なんでこんなことをするんだよ!?」
「え?スキンシップを図って、親睦を深めるためじゃないの」
「はい?言ってることの意味がわからないんだけど?」
「だって、初対面の相手は嫌だって陸が言うから、こうやってまずは、陸もよく知っているクラスメイトの間で親睦を深めようとしてるんじゃないの。初対面の子が嫌で、真面目でお堅い陸には、まずキスからこういうことに慣れてもらおうと思ったのよ」
「あ、あのなぁ……」
このところおとなしくしてると思ったら、クラスの全員に催眠術をかけてたのか……。
しかも、やっぱり僕の言ったことを全然違う意味でとらえて、余計なことをしてるし。
ていうか!
「おまえ、あの時、初めて僕の前で催眠術かけた時に、もうしないって羽実に言ってたじゃないか!なのになんで羽実たちにも催眠術をかけてんだよ!」
「ああ、あの時もうしないって言ったのは、途中で解けちゃうような中途半端な催眠術はかけないってこと。だから、催眠術に磨きをかけて、勝手に解けたりしない、完璧な催眠術をかけたんじゃないの」
「屁理屈だ!」
どこをどう切り取っても詭弁にしか聞こえないことを、真面目な顔で言う空。
「でも、羽実たちにも催眠術をかけないと、おかしいって思われちゃうじゃない」
「だから、最初からそんなことしなきゃいいだろ!」
「なに言ってるの?キスくらい、今から慣れておかないと、本当にいつまで経っても彼女できないわよ」
「おまえの方こそなに言ってんの!?すぐに催眠術解けよ!」
「いやよ」
「どうして!?」
「だって、楽しいじゃない、朝から仲がいい子とキスするのって。あたし、気に入っちゃった」
「いや、だって、誰かが他のクラスのやつにキスしたりなんかしたら、怪しまれるだろ!?」
「これはうちのクラスだけのルールってことにしてるから、キスするのはこのクラスの相手だけ。それも教室の中でって決めてるから、簡単にはばれないよ。それに、なんだったら他のクラスにも広げてもいいしね」
「やめて……お願いだからこれ以上騒ぎを大きくしないで……」
「もう、陸ったら心配性なんだから~!せっかくなんだし、陸も楽しんじゃおうよ。……あっ、おはよう、美紀~!……ちゅっ!」
「あっ、空ってば!」
僕との話を途中で切り上げて、空が今入ってきた子に駆け寄ってキスをする。
空のやつ、本当に楽しんでるな……。
こうなったら、空は梃子でも動かないだろうし、だいいち、催眠術をかけることができるのも、解くことができるのも空だけで、僕にはどうしようもない。
仲のいいクラスメイトと嬉しそうにキスをしている空を見て、僕は言いようのない脱力感に襲われていた。
< 続く >