第1話 オフランド
普通の家庭、という言葉を聞いて僕が想像するのは、子どもたちが賑やかに騒ぎ、お母さんがキッチンで何か料理を作っていて、お父さんはビールを飲んでいるかあるいは子どもたちと遊んでいるか、とにかく家族のみんながニコニコと笑っている光景だった。
住宅とか、あるいはシチューのCMあたりでよく見かけそうな映像をいつも思い出す。「普通の家庭」というのは、僕にとってそういう漠然とした幸福な光景を喚起される言葉だった。
だけどこないだ統計局のHPで調べてみたところ、平成22年10月の時点で、日本の平均世帯員数はわずか2.4人程度だという。
これがすなわち家族を構成する平均値であると思い込むほど数字に弱くはないつもりだけど、世帯内の肩書きが「子」でしかも三人姉弟の末子という立場にある僕にとっては、少し衝撃的な結果だったことは言うまでもない。
つまり日本の多くの世帯で、『僕』は存在していない。足元を不安にさせる数字だった。
しかし、だとしたら僕のイメージしていた「普通の家庭」とは何だったのか。
僕の想像の中に登場していた家庭は、世間的にもマイノリティで古くさいテンプレートだったと認めるしかない。そもそも、イメージの中の幸福な家庭で賑やかに騒いでいる子どもは僕自身じゃなく、どこかの子役だった。お父さんも実の父とはあまりにもかけ離れた優しそうな人物だ。それこそ、テレビCMか何かで作られたイメージを思い出しただけなんだから幸福的なのも当たり前というわけだ。
ただ、キッチンに立つ女性だけは間違いなく母だった。僕を産んで育ててくれた実の母。あの笑顔も料理の温かさも子どもたちを撫でる優しい手も彼女のもので、幸福な家庭をイメージするときの中心にはいつも母さんがいた。
それゆえに、やはり僕の抱いていたイメージは古い幻想だと断言できる。
なぜなら母さんは数年前に悪い病気に罹ってもうこの世にいない。
我が家の冷め切ったスープのように白々しい日常はその日から始まっている。温かい朝食の並ぶこのテーブルには笑顔もなければ弾む会話もなく、無言の中で交わされる険悪な空気だけが、げんなりするほど雄弁だった。
今の僕の家族にとっては、これこそが当たり前の光景だけど。
「蓮(れん)、こないだのテストはどうだったんだ」
「クラスでは1位でした。学年では2位です」
「学年1位くらいにはなれ。中学一年生レベルでその程度では先が思いやられるぞ」
「はい。ごめんなさい、父さん」
朝、父さんが珍しく家族と朝食を共にする。僕、義母、姉、義姉。少し複雑な関係である家族が、このときばかりは一本の緊張感で結ばれる。
新聞を広げたまま、家族の顔などろくに見もしない父さんに、朝の食卓は支配されている。
「旦那様、コーヒーのおかわりをどうぞ」
「ん」
住み込みのお手伝いである睦都美(むつみ)さんが、父さんにコーヒーを注ぐ。
立ち上がりかけていた義母の綾子(あやこ)さんが、気まずそうに咳払いして、そっとまた腰を下ろす。
父さんにコーヒーのおかわりを運ぼうと思ったのだろう。でも優秀な家政婦さんである睦都美さんに先を越されてしまった形になってしまい、こっそりと肩を落としていた。
僕は半分くらい残っていたホットミルクを飲み干し、出来るだけ自然な笑顔を作る。
「あの、綾子さん。ミルクのおかわり貰ってもいいですか?」
綾子さんは、少し驚いた顔をしたけど、すぐにいつもの優しい笑顔を浮かべてくれる。
「ええ、もちろん。蓮くんはぬるめでいいのよね?」
「はい」
嬉しそうにキッチンに向かう綾子さんの背中に、少しだけ安心する。
よかった。気分を取り直してもらえたみたいだ。
長いスカートがひらひら揺れる。長い髪もふわりと揺れる。
後ろから見てもスタイルの良いのが丸わかりで、思わず見とれてしまいそうなる自分を慌てて押しとどめる。
「優惟(ゆい)さんも、花純(かすみ)も、おかわりいる?」
「結構です」
「いらなーい」
僕の実姉と義姉は、口調こそ違えど、揃って綾子さんに冷たい返事を返していた。
綾子さんは、気にしてないというように微笑みを浮かべ、「じゃ、蓮くんのミルクだけね」と小さな手取り鍋に瓶の牛乳を注ぐ。
その後ろから、コーヒーサーバを持った睦都美さんが近づき、抑揚のない声で綾子さんの手を止める。
「奥様、私がやりますから」
「あ、いいのよ、睦都美さん。このくらいのことは私でも出来ますから」
「私の仕事ですので。奥様はテーブルでお食事をすませてください」
「でも……」
キッチンでのやりとりが長引きそうな気配になってきた頃、新聞を広げたまま父さんが面倒くさそうに言う。
「綾子、睦都美にやらせろ」
「え、あの……」
「睦都美、いいからお前がやれ」
「はい」
「…………」
行き場のなくなった綾子さんは、父さんに向かって「すみません」と頭を下げ、テーブルに戻ってくる。
そして、「早く食べて学校行かないとね」と、少し寂しそうな微笑みを僕に見せた。「そうですね」と僕も取り繕った笑顔を浮かべる。
ガシャン。
僕の斜めの席で、食器のぶつかる耳障りな音がした。
「ごちそうさま」
姉の優惟が、コーヒーカップを鳴らして席を立っていた。
黒いセーラー服に、きつく束ねた髪に、ブラウンのフレームメガネ。今どき珍しいほど堅いビジュアルに身を包んだ彼女は、学校ではクラス委員長をしている。
我が実姉ながら、ここまで『真面目な女子高生』を体現している人を僕は他に知らない。そして家族が揃った場では、いつも不機嫌そうな顔をしていた。
実際、家族のみんなは優惟姉さんのことを無愛想で取っつきにくい娘だと思っているだろう。父さんが綾子さんと再婚して以来、優惟姉さんと父さんは絶交状態になっていて何年も二人は口を聞いていない。他の家族に対する態度も似たようなものだ。
そんな彼女が、笑顔を見せるのは――。
「ごちそうさま!」
張り合うわけではないだろうけど、義理の方の姉、花純さんもカップをガシャンと鳴らしたので僕は思わずビクっとなった。
ショートカットの明るい色をした髪。くりくりとした大きな瞳が、機嫌の悪いときの形をしている。
「こら、花純。食器をがちゃがちゃ鳴らさないの」
綾子さんが珍しく眉をつり上げる。
優惟姉さんのときはスルーしたくせに、彼女にとって唯一血の繋がった実の娘である花純さんには注意していた。
「うっさいな」
花純さんは、綾子さんを小馬鹿にする態度を隠そうともせず、ガタガタと椅子をうるさく引いて立ち上がる。なんとなくだけど、実の子だけ叱るような逆贔屓には反発したくなるよなって共感はできる。でも、親にそういう態度をとることは感心しない。
そんな僕の想いが通じたのかどうかわからないけど、花純さんは後ろを通るときにわざとらしく僕の椅子の脚を蹴って行った。
「綾子。なんだあの花純の態度は」
「す、すみません、あとでよく叱っておきますから……」
「まったく」
バサ、とうるさく新聞を広げて、父さんはコーヒーをすすった。
優惟姉さんのことはまるで存在しないかのように扱い、花純姉さんに対する文句は綾子さんに言う。息子の僕には厳しい期待を押しつけ、そしてそんな子どもたちの顔すら見ないで新聞ばかり何紙も読んでいる。
父さんは、IT関連――主にケータイやスマホ用のソーシャルゲームの会社で社長をしている。僕の本当の母さんとは学生のときに結婚して、その母さんは4年前に病気で亡くなっていた。
僕と優惟姉さんと母さんはとても仲の良い親子だった。母を失った悲しみは今も忘れたことはない。でも、それからたった2年後に父さんは、突然再婚すると僕らに告げ、たいした紹介もないまま綾子さんと花純さんの母娘を我が家に入れた。
2人のなりそめについて僕は詳しく教えてもらってないけど、優惟姉さんや綾子さんが少しだけ会話の端で漏らしていた情報を集めるかぎりでは、どうやら、綾子さんも学生時代にIT関係の研究会にいた父さんたちの後輩で、そして母さんの死後……大学の後輩で同じく学生結婚していた彼女の旦那さんから、父さんが強引に奪うような形で後妻にしてしまったらしい。しかも、綾子さんの前の旦那さんがやっていた同業の会社まで吸収して社員と技術を奪ったとか、そんな話もあった。
僕は、優惟姉さんが綾子さんたちを嫌う理由も、綾子さんが僕たちに遠慮する理由も、花純さんが家族みんなを敵視する理由も、なんとなくだけど理解できているつもりでいる。
ただ、父さんがどうしてこんな雰囲気の中を平気な顔でいられるのか、それだけがわからない。
僕は家族を愛している。どんな形であれ、母さんのいたこの家を守っていきたいと思っている。
甘い考えかもしれないけど、子どもの僕に出来ることなんてないけど、いつかまた母さんがいた頃みたいに家族みんなが笑ってテーブルを囲めたらいいなと思う。
「蓮さん。そろそろお支度の時間ですが」
「あ、はい。ごちそうさまです」
睦都美さんが、僕の隣に立って恭しく頭を下げる。彼女は母さんが亡くなってから我が家に来てくれたお手伝いさんで、仕事がすごく出来る人なんだけど、どこか表情が冷たいというか怖い感じがしていた。
年は確か今年で27才。母さんが亡くなってから来てくれているので、もう3年ほど我が家の面倒を見てくれている。まだ独身でスレンダーな美人だ。どうして我が家なんかでお手伝いさんをしているのか謎。短いボブカットと切れ長の眼が、触れがたい硬質な印象を与えて僕は苦手だった。
「あ、蓮くん待って」
「はい?」
綾子さんに呼び止められて振り返る。にこにこと微笑みながら、彼女は青い袋を取り出した。
「はい、体操着袋。ほつれてたところが洗濯で破れちゃったから、新しいの買って置いたの」
「え……」
確かに僕の僕の体操着袋は、小学生のときから使っているほつれたものだ。
でもそれは、死んだ母さんが縫ってくれたものだった。
何も言えずに袋を裏返すと、『三沢蓮』と僕の名前が縫ってあった。
「ふふっ、お裁縫なんて久しぶりだから、上手にできなかったけど。どうかしら?」
「……いえ、嬉しいです。ありがとうございます」
「いいのよ、お礼なんて。これくらい遠慮しないでいつでも言ってね?」
「はい」
仕方ない。
今のお母さんは綾子さんなんだから。
死んだ人の思い出を今の家族の愛情よりも優先するのはよくないって、僕でもわかる。
だから、いいんだ。
僕はもう一度にっこり笑顔を作って「ありがとうございます」という。
綾子さんは嬉しそうにしていた。
彼女の前の家庭がどういうものだったか僕は知らないけど、家事は全て綾子さんがやっていたらしいというのはわかる。
我が家の有能な家政婦さんの前で、いつも綾子さんの方が萎縮していた。
僕とのやりとりの後ろで、無表情に食器を片付け始めている睦都美さんに気づいて、慌てて追いかけていく。
「わ、私もやります」
「奥様は結構です」
「でも……主婦ですから、これぐらい」
僕は、家族になろうと懸命に頑張っている綾子さんには共感している。
母と思うのは今はまだ無理だけど、家族の一人として仲良くやっていければと思っている。
絵に描いたようなお嬢様育ちの女性で、30代半ばにしては少し頼りない大人だとは思うけど、優しくて一生懸命で、そしてなによりきれいで笑顔の素敵な人だった。
ゆるやかなパーマを描く栗色の長い髪も、母性あふれる大きな胸とお尻も、女性としての魅力は申し分なしで、父さんが彼女を好きになる気持ちも男として理解できる。
いつか、僕もこの人を「母さん」と呼ぶ日がくるのかな。
でも、その前に優惟姉さんが彼女を母と認めたらだと思うけど。
そんなことを考えながら、僕が登校の準備をするために部屋に戻ることにする。慣れない体操着袋を胸に抱えて。
「――あたしのお母さんにデレデレしないでよ」
二階に上がったら、廊下で花純さんが腕を組んで立っていた。
下から見上げる格好だから、短いスカートの裾から白地にグリーンの縞々が見えている。もちろん家族の下着なんて見るものじゃないので僕はそこから目を逸らす。
それを何かやましいことがあるせいだと早合点したらしく、花純さんはフフンと鼻を鳴らす。
「言っとくけどね、あたしはあなたのこと弟なんて思ってないから。あんたの親父も、姉も、家族だなんて思ってないから。あたしの家族はお母さんとお父さんだけ!」
花純さんの年は僕より1つ上だ。
だから優惟姉さんの義妹で、僕から見れば義姉になる。
年が近いから仲良くなれそうと思ってたら大間違いだ。花純さんはいつもこんな感じでトゲトゲしている。くりくりした瞳が印象的なボーイッシュな顔は確かに可愛くて学校でも目立ってるけど、ちょっと性格は乱暴なところがあって、姉というより兄に思えるときもある。
正直……綾子さんよりもずっと接しづらい人だった。
「なんだよ、こんなの」
「あっ……」
僕の体操着袋を取り上げると、花純さんはそれを床に叩きつけた。そして、それを紺色のハイソックスを履いた足で踏む。
「人のお母さんにベタベタするな。マザコン」
べえっ、とピンク色の舌を突き出される。なんだか、僕の死んだ母さんのことまで侮辱されたみたいで頭に血が上りかけた。
「……蓮に何してるのよ」
そのとき、花純さんの背後から冷たい声がした。
いつから見ていたのか、優惟姉さんが廊下の向こうに立っていた。そして僕らにゆっくり近づいてくる。
「私も、あなたのこと妹だなんて思ってない。もちろん、あなたの母親も赤の他人だわ。この家が嫌ならさっさと出て行ってくれるとこっちもせいせいするんだけど」
優惟姉さんは、花純さんより頭一つ高い身長で彼女のことを見下ろす。
花純さんは、ぐっと唇を結んで、そして何も反論できずに足を震わせた。
「私のお母さんも1人だけ。兄弟も蓮だけよ。私の大事な家族に乱暴したら許さないわよ」
花純さんは踵を返して、ダンダンと派手な音を立てて階段を下りていく。その背中を睨みつけるように見送ってから、優惟姉さんは僕の肩に優しく手を乗せた。
「蓮、大丈夫?」
「え、あ、ありがと。でも全然平気だから」
「何かされたらすぐお姉ちゃんに言いなさい。泣き寝入りしちゃダメだからね」
「うん。でも、本当に何もされてないよ」
「だから、そうやって我慢しちゃダメなの。どんなことでもお姉ちゃんに言いなさい。代わりに怒ってあげるから」
優惟姉さんは、僕の新しい体操着袋を取り上げ、眉をしかめる。
「蓮の優しいとこ、お姉ちゃん好きよ。でもくやしいと思ったら、ハッキリそう言うことも大事なの」
「でも、僕は別に……」
「あんな奴らに蓮が遠慮することないの。他人なんだからね」
僕はその勢いに呑まれるまま頷く。
突っ返された袋を受け取り、「わかった」ともう一度答えた。
姉さんは満足したように微笑み、僕の肩に手を置いた。
「テストの結果も返ってきてたのね? 今夜もお勉強見てあげるから、お風呂上がったら蓮のお部屋に行くね」
「あ、うん」
トントンと、静かな音を立てて優惟姉さんは階段を下りていく。
しゃんとした背中は、優等生の姉さんを象徴する後ろ姿だ。
でも最近は、なんだかその姿を見ていると寂しい気持ちになってしまうんだ。
学校では僕も一応、優等生で通っている。優惟姉さんのようにしっかりはしてないと思うけど。
私立なせいか周りもおおらかな子ばかりで、教室の中は落ち着く。
でも、家のことを思い出すと少し憂鬱にもなった。
今朝もちょっとした一悶着があったけど、ああいうのは日常茶飯事だ。僕の家族は、基本的に父さんの前では沈黙で、父さんのいないところでは噛みつきあいで、ピリピリとした空気が常に漂っていた。
妙に固い感じのする肩をぐるぐると回す。あれ、これひょっとして肩こりってやつなのかな? 中学1年生でこんな疲れ方しちゃうなんて、結構切ない。
「お、ため息なんてついてどうしたんだよ。勉強疲れ? さすが優等生は違うねー」
目の前に、ドカっと座り込んだ悪友がニヤニヤしながら僕の顔を覗き込む。
ちなみに僕の前は黒川という女子の席なんだけど、彼女は一度も学校に来たことないので、空席扱いになっていた。
「そんなんじゃないけど……まあ、でもそんなようなもんかな?」
「なんだよ、相変わらず煮え切らない男だな。MOCO’Sキッチンの圧力鍋かよ。どうした、なんか悩み? 恋の悩みならいつでも聞くぜ? でも、シモの悩みだったら俺のを先に聞いてくれよな。こないだ親戚の兄ちゃんから、金玉近くにあるコリコリしたところ触ったら気持ちいいって教えてもらったんだけど、どうしてもそのコリコリが見つからなくてさぁ―――」
悪友の、いかにも「悪友のあるべき姿とはこれだ」と言わんばかりのウザい絡みを、僕は適当な苦笑で受け流す。
恋とかの悩みだったらまだ良かったんだろうけど。
「――で、お前の悩みはアレか。姉のことか?」
「え?」
いきなり、核心をつかれて思わずうろたえた。
僕って、そこまで顔に出るタイプだったんだろうか。
「やっぱりなー。いや、そこはしょうがないよ。花純先輩たん、めちゃ可愛いもんな? 俺だってあんな人が急に義姉になったら、毎晩寝てる隙にぺろぺろしちゃうもん。しかたないよ、それは。ホラ、ちょうど外にいるぜ」
悪友の指さす中庭では、昼休みの談笑に興じる2年生女子たちがいて、花純さんもその中で可憐な笑顔を見せていた。
いや、身内の顔をぺろぺろしたいなんて思ったことはないけど。
「花純先輩たん、いいよなぁ……あーあ、ブルマになりたい」
相変わらず下品な友人に、僕はあきれてため息をつく。
ちなみに花純さんがスカートの下にブルマを履かない派であることは今朝確認したばかりだけど、そんなことを教えても喜ばせるだけだと思うので黙っておく。
彼女は学校でも有名な子だった。
ちょっと不良っぽいグループにいるけど、別に悪い噂で知られているわけじゃない。小柄な体に似合わず彼女はスポーツ万能で、体育祭のときに獅子奮迅の大活躍を見せて学校内での人気を沸騰させていた。
普通そういう大会でヒーローになるのは男子の仕事だと思うけど、花純さんの場合は容姿でも目立っちゃうせいもあり、まさにアイドル誕生って感じだった。普段は部活も何もしてないみたいだし、本人も男子相手にはツンとしているせいで大っぴらなアイドル扱いはないみたいだけど。
でも、秘かな注目はずっと集めているらしい。誰かと付き合ってるような噂は聞いたことないけど、告白した人は何人もいると噂では聞いた。
「なあなあ、ところで花純先輩たんってナプキン派? うちのブス姉もナプキン派だから、よかったら今度こっそり俺の唾液付きナプキンと――」
花純さんは友だち同士ではよく笑う。明るい女の子って感じだ。悪そうな友だちも多いけど、夜遊びとかしないタイプなのは同居している僕がよく知っている。たぶん、根は悪い人ではないんだろう。
だけど家では、一度もあんな顔を見せたことない。学校で、こうして遠くからじゃないと見たことのない彼女の本心からの笑顔。
なんだか遠い人みたいに感じる。僕はまだあの人から家族らしさを感じたことは一度もない。
最初に会ったときからずっと、彼女は全身をトゲで覆っていて、近寄れば刺さって痛い感じだった。
僕の悩みは確かにその姉のことでもあるし、そしてもう一人の姉も、義理の母も、実の父も家政婦さんも悩みの種だ。
僕たち家族は、少しずつパーツのずれたパズルみたいで、あちこち歪なままくっつけずにいる。
誰かが調整役にならなきゃいけない。
でもそれはとても困難な役目で、僕なんかではとても無理だと思うけど。
「――って、蓮。聞いてるか?」
「え、あぁ、ごめんごめん、聞いてるよ。君の主食はブス姉さんの使用済みナプキンって話だよね?」
「俺は引きこもりの変態吸血鬼かよ! 『僕の主食は姉さんの使用済みナプキンっ!』って、今どきのラノベでもそこまでの変態タイトルねぇよ。てか、主食なのに俺は毎月10日前後しか食えないのかよ! そうじゃなくて、今夜は何時くらいにログインするって話!」
「あぁ、そのことか。ていうか、僕は自分んちの姉の生理周期を把握してるような奴と一緒に狩りしてたのか……」
「ち、違ぇよ! うちのブス姉ちゃん、生理のときでもピチピチのホットパンツ履いてるから、おもっきしギャザー飛び出してんだよ。あんまりビラビラさせてるもんだからよ、こないだスカイフィッシュと間違われて変な団体に捕獲されちゃって、じつはまだ帰ってきてな――」
僕のクラスでは、あるネトゲが流行っている。といっても今どきPC版しかないゲームなので、自分用のPC持ってる男子限定だけど。
それは、『オフランド』というゲームだ。
世界に現れる巨大なモンスターを何人かのパーティあるいはソロで退治して、それを供物として神に捧げることでアイテムをドロップしてもらうという、よくあるシステムのゲームだ。でも、わりと運営がまめにアイテムやイベントを更新してくれるし、歴史が長いせいでユーザーの自治ルールやマナーも洗練されていて、初心者でも入りやすいゲームだった。
最近じゃ、父さんの会社で作ってるようなケータイやスマホで出来るソーシャルゲーが主流だけど、ああいうのによくある、課金しないとまともなプレーできないような縛りがないのも魅力だった。
もちろん僕は父さんの仕事を誇りに思っているし、課金制そのものが間違っているとは思っていない。でも、「子どもがやることではない」と父さんは言って、息子の僕には禁じている。
もっともだと思う。どんなゲームでもギャンブルでも、適正な相場と客層というのがあるはずだ。
その点で『オフランド』は、中規模メーカーが広告収入とかでひっそり運営する財布に優しいゲームだ。課金アイテムも一応あるけど、獲得経験値が一時的にUPとかのサボり用アイテムしかない。
一昔前のネットゲームっていう雰囲気が今も色濃く残っている。
まあおそらくは長くこの業界にいる運営会社に大がかりな資金や最近のシステムに移行していく技術がないっていうのが真相だろうけど、それはそれとして、シンプルなルールと複雑多数なジョブとスキルの組み合わせ、そしてモンスター造形のキモさなんかに僕らはハマって、このところは毎晩のようにログインしていた。
「――って、また聞いてないのかよ?」
「あ、ごめん。いやそういえば僕、夜は姉さんと勉強する約束してるんだった。今夜はちょっとログインできないかも」
「おま、花純先輩たんと真夜中の保健体育だと…ッ!? バカヤロウ、そのまま花純先輩たんにログインしちゃえよ!」
「あのさ、僕こないだ君に借りたエロゲーっていうの? やってみたけど、正直言ってそのいかにも『エロゲーに出てくる悪友』みたいなしつこいノリ、疲れるだけで笑えないタイプみたいなんだよね」
「どおりでシカトされ気味だと思った!」
悪友には、勉強を教えてくれる姉が実姉の優惟であることをきちんと説明した。
優惟姉さんとも会ったことのあるその友人は、何かまた変なことを口走って余計に興奮し始めたので、今度こそ完全に無視することに決めた。
「――うん、その公式で合ってる。蓮は飲み込みが早いわね」
くすぐったいことを言って、優惟姉さんが僕の頭を撫でてくれる。
お風呂上がりの甘い匂いがさらに濃くなった。
優惟姉さんは時々こうして僕の勉強を見てくれる。姉さんも自分の勉強で忙しいはずなのに、いつも丁寧に教えてくれた。
「あと、わからないところある?」
机に肘をついて、僕の顔をのぞき込むように体を寄せてくる。
姉さんの体は柔らかくて、近くにいると時々母さんを思い出す。
「大丈夫だよ。姉さん、いつもありがとう。でも自分の勉強もがんばってね。医学部に行ってお医者さんになるんでしょ?」
それが僕だけが知る優惟姉さんの夢だ。母さんが死んだことをきっかけに、医者になることを志したらしい。
優惟姉さんは、にこりと笑った。
彼女はきれいな顔をしている。メイクなんて全然してないのに、メガネを外せば切れ長の瞳に長いまつげが、まるでモデルさんみたいに白い肌に映えているんだ。
でも、本人は絶対に人前でメガネは取らない――僕の前以外では。
姉さんは、メガネをそっと外して机の上に置くと、僕のほっぺたをつついた。
「いいのよ。お姉ちゃんは蓮の役に立ちたいの」
そして姉さんは、今の家族の前では絶対に見せない優しい笑顔を浮かべる。
「可愛い弟のためだもん」
なでなで、頭を撫でられて僕はなんだか照れくさくなった。
他の人にはちょっととっつきにくい姉さんも、僕と2人っきりのときは優しい姉さんになる。こういうのをツンデレっていうのかなって悪友に聞いたら、全然違うって怒鳴られた。そして姉を交換してくださいと土下座された。
きれいな顔。良い匂い。
最近、優惟姉さんは死んだ母さんを思い出させる。前にそれを言ったら、息が苦しくなるくらい抱きしめられて泣かれたのでもう言わないけど。
「あとね、お姉ちゃん、医学部はやめることにしたの」
「え?」
「薬学の方にしようと思う。そっちの方が少しランクも下がるし、余裕あるから」
「そんな、でも、姉さんは医学部だって全然……あ、もしかして僕の勉強をみるために? そんなことのためだったら僕――」
「違うよ。薬剤師だったら、どこかの病院か良い会社に入れれば勤務時間もお給料も安定してるみたいなの。医者は最初のうちは仕事も給与も大変だっていうから」
「でも、医者が大変なことぐらい姉さんは知ってたでしょ? それでもお医者さんになりたいんじゃなかったの?」
僕は、姉さんがお金が欲しいとか楽をしたいとか、そういう理由で将来を選ぶような人じゃないことを知っている。だから、きっと姉さんほど勉強のできない僕のために時間を作ろうとしてくれているんだと思った。
姉さんは、ちょっと困ったような顔して笑って、「本当は大学に受かってから言おうと思ってたんだけど」と言って、息をついた。
「お姉ちゃんが就職したら、一緒にこの家を出よう」
「ええ?」
「お金のことなら心配しなくていいし、ゴハンも全部お姉ちゃんが作る。父さんにだって文句は言わせない。蓮にはもっと自由に自分の人生を生きて欲しいの。だから、お姉ちゃんがずっと蓮のこと守ってあげる。それがお姉ちゃんの将来の夢」
まるで愛の告白でもしたみたいに、姉さんは顔を赤くして俯く。
志望を変えた理由は、僕が想像していた以上に、僕のためだった。
姉さんが僕のために必死に母親になろうとしてくれているのには気づいていた。綾子さんにも花純さんにも心を許そうとせず、ただひたすらに僕だけを愛そうとしていることも。
死んだ母さんの代わりに。死んだ母さんの分まで。
「さ、それより今は蓮の宿題を終わらせないと」
姉さんは絶対に僕を不安にさせない。優しい愛で包んで甘えさせてくれる。
でも、もし姉さんが甘えたいと思ったときは、誰を頼ればいいんだろう。
誰にも心を開かない姉さんは、いつも1人で物事を決めていく。将来の進路という大きな決断すら、彼女は家族の誰にも相談しないで自分で決めるしかないんだ。
僕は姉さんの相談相手になれない。
それどころか重荷になってるのかもって考えたら、背中が冷たくなってきた。
「――あれ、綾子さん。まだ起きてたんですか?」
優惟姉さんと一緒に宿題を終わらせた後、少しおしゃべりするつもりがずいぶんと遅くなり、11時を回っていた。
トイレに行こうと下に降りたら、リビングのソファで、一人で映画を見ていたらしい綾子さんが、なんだか眠たそうにクッションを抱えていた。
僕を見て、驚いた顔した。顔が赤くなっている。テーブルの上にはワイングラスが乗っていた。
へえ、綾子さんでもお酒とか飲むんだ。大人なんだから当たり前だけど、父さんのいない場所で飲んでるのを初めて見たし、そういうイメージもあまりなかったから。
綾子さんは、ぎこちなく笑う。
「あ、この映画が面白くて、つい……ね」
「そうなんですか」
画面では凶悪で気持ち悪い顔をしたエイリアンが、逞しい女性宇宙飛行士と戦っていた。
ますます意外。こういうのが趣味だったんだ。
ふと見ると、綾子さんはぼんやりとした顔をしていた。眠い、というのともちょっと違うような。まるでテレビなど見てもいないような。
目が少し赤かった。
テレビの光に照らされる彼女の横顔は、なんだか僕のことも忘れて、さらに遠くを見つめているみたいで、僕はそれ以上は何も言えずにキッチンで牛乳を飲み、リビングを避けて廊下に出た。
――そして、トイレの帰りに父さんと綾子さんの寝室から光が漏れているのを見つける。
「あぁッ! あッ、旦那様! 旦那様ぁ!」
心臓が跳ね上がった。
夫婦の寝室から漏れるこの声が意味することがわからないほど、僕は子どもじゃない。悪友にもその辺の教育は受けていた。
でも、まさか現実に耳にするとは思っていなかった。この不意をつくタイミングで。しかも自分の親ときた。
急いで自分の部屋に戻ろうと思って、ふと、違和感に気づく。
旦那様だって?
いや、それ以前に綾子さんはさっきまでリビングでテレビを見ていたんだぞ?
しかも、この女の人の声――
僕は、よくないと思いつつも、部屋の前に近づき始めている。
ドアはきちんと閉められておらず、中の明かりを廊下の床に落としていた。
「旦那様ぁ! あぁ、そこッ! 気持ちいいです、旦那様ぁ!」
凍りつく、という時間感覚を僕は初めて体験する。
僕の知らない人。いや、知っているけど、知らない顔。
睦都美さんが、いつものあの冷たい顔から想像できないほどいやらしい表情をして、裸で四つん這いになっていた。
綾子さんと父さんが寝るはずのベッドで。
「ほら、お前が動け」
「ひゃあん!?」
ぴしゃん。
誰かのが睦都美さんのお尻を叩く。狭い隙間で、睦都美さんの後ろにいる男の人の顔は見えない。
でも、父さんだ。聞き間違えるはずがない。この声は父さんだ。
睦都美さんのお尻がいやらしい動きをして、ぐちゅぐちゅと音を立てていた。
「あぁ、いかがですか、旦那様? 睦都美のオマンコはいかがでしょうか、あぁ! あぁん!」
「ふっ、いいぞ。お前の体はいやらしい」
「あぁん、ありがとうございます、旦那様ぁ! 私の、体は、旦那様のものですぅ! ですから、どうか、どうかお情けを!」
睦都美さんのいやらしい顔。いやらしいおっぱい。いやらしいお尻。
僕は、リビングで膝を抱えてテレビを見ている綾子さんを思い出す。彼女の真っ赤になった瞳を。ぼんやりと生気の抜けた表情を。
「あぁ! あぁ! いい! 気持ちいい! 旦那様ぁ!」
心は虚無になっていくのに、下半身だけは別の生き物のように生き生きと反応する。
初めて目にする本物のセックスの、衝撃と興奮と怒りと悲しみは僕の許容限度を一瞬で上回り、肉体を置き去りにしたまま思考を停止させた。
綾子さんのあのうつろな瞳には、何度この光景が映ったんだろう。息をするのも忘れてしまいそうなこの強烈な衝撃を、何度も味わってきたのだろう。
僕も、おそらく彼女と同じ顔をしている。
裏切られようが孤独を思い知らされようが、「家族」という言葉にすがって生きるしかない僕らは、無力な表情を浮かべて目の前の光景を受け流していくしかないから。
「旦那様ぁ! お慕いしています、旦那様ぁ! もっと、もっとォ!」
それでも僕は信じたいんだ。
僕らは「普通の家族」になれるって。
『kains』:ありえないわそれ
僕は眠れずにオフランドにログインしていた。
そしてリアルとは無関係な狩り仲間に、うちの複雑な家族関係(父さんのベッドシーンを除く)を打ち明け、はたして良好な家族関係がこれから構築されるか相談した結果がこの一言だった。
『kains』:うちも両親と祖母が祖父の遺産でかなり揉めててさ。結局、祖母さんが死ぬまで安らぎはなかったよ。死んでくれてよかった^^
『teico.p』:共働きの俺んち楽勝。親が外で働いてるうちは俺もネットに専念する。互いに干渉はしない→それが利口な家族のあり方
“忍者”の『kains』さんと“狩人”の『teico.p』さんに思い切って相談した悩みを一蹴され、“道化師”の僕――『M_lotus』は【ヘコむ】アクションをする。
こういうナイーブな問題、ネットの世界で生きてる人に相談することじゃなかったかもしれない。彼らとはちょっと人生の定義が違いすぎる。
『kirikiri舞』:みんなー
『kains』:舞姐さんチィッス
『teico.p』:結婚して欲しい
『kirikiri舞』:3人だけ?カイロプレクス狩りに行けないじゃん、やだー(TεT;)
『kains』:厨たちは学校あるからって寝た。これだからガキと組むのは嫌だとあれほど
『M_lotus』:いや中学生のピエロがまだここにいるし(震え声)
彼らは、こう見えて僕ら初心者たちにオフランドでの遊び方やマナーを教えてくれた親切な人たちだ。あとネットスラングなんかも僕は彼らから教わっている。時々はミッションの下働きさせられたりパシリに使われるときもあるけど、基本、親切にしてもらってる。
たぶんだけど僕らより大人だ。でも、まともな大人かどうかはちょっとわからないけど。
『kains』:ツレがクラックスの砦攻略のメンバー募集してるけど。舞さん行きます?
『teico.p』:ついでに俺の股間も攻略してください
『kirikiri舞』:ていうかログみた。人生相談楽しそうだね君たちwww
『kains』:(サーバ内の)人生の達人ですから
『teico.p』:箱庭のストライダーっすから
『M_lotus』:ダメな大人しかいませんでした
『kirikiri舞』:お姉さんからも言わせて。それは君が解決しなきゃだめなことだよ
『M_lotus』:え、僕が?
この『kirikiri舞』という人はかなりベテランユーザーで、ここのメンバーの中でもモテモテの人だ。たまにしか会えないけど。
オフランドって他のMMOに比べると閉鎖的な人間関係が少なく、むしろミッションごとにメンバーを募集して組んだり離れたりの自由な共闘関係が多いらしい。僕も普段はリア友とばかり組んでるし、この人たちとはたまに誘われてミッション手伝ったりしている程度の関わりだけど、それで冷たくされるようなことはない。
昔は大御所ギルドと呼ばれるようなチームや派閥もあったみたいだけど、運営はそういうのを嫌っているらしく、プライベートチャットの上限を減らしたり追加ミッションにはジョブ指定や人数指定を設けたりと、組織を固定しにくい作りに変えていってるらしい。むしろ単独プレイで顔見知り程度の付き合いを増やしていくほうが効率的だとか。
そのぶん、大量アップデートのときに放り込まれる無制限の狩り系ミッションは熱く、お祭り状態で人口が一気に膨れあがり、それきっかけでオフランドにハマる人も多かったりするそうだけど。じつは僕らもそこから入ったクチだ。
まあ、それはともかく『kirikiri舞』さんは、いろんな人たちの間を渡り歩いているらしく顔が広い。というより、ゲーム内で有名になるにつれ、いろいろやっかみや嫌がらせを受けるようになったのであまり一つのグループの留まることはないそうだ。
なにしろ過去を含めて2人しか存在しないという超レアジョブの“神託者”だし、いろいろと目立ってしまうんだろう。
言っていることも他の人よりまともな気がする。
ようするに彼女が言うには、家族の問題というは、序列とか関係なしに問題意識を持ってる人間が動かないと、解決までは持っていけないということらしい。
そして、そのためには家庭内の女性たちを味方にすることが肝心だということ。特にうちは女性だらけだし、父よりも先に女性陣をまとまることが賢明だ。父は家族の気持ちをまとめるつもりなどないようだから。
つまり、下克上――僕が、家庭内の“男”として、父の代わりに家をまとめるのが最速解決だと、『kirikiri舞』さんは言った。
でも、言いたいことはわかるけど、中学1年生の子どもで、父さんみたいにお金を稼いで家族を養うこともできない末子がどうやってそんなことを?
『kirikiri舞』:できるわけないじゃんねー^^
言うだけ言って、『kirikiri舞』さんは無責任な一行で締める。
結構白熱した家族論を繰り広げている間に、『kains』さんも『teico.p』さんも違う場所へ移動しまい、プライベートチャットに切り替えて真剣にやりとりしてた。
そしてオチがこれ。
やっぱりだめか、ネットの人たちは。明日、子ども電話相談室にでもかけてみるかな……。
『kirikiri舞』:あ、そういやピエロ
『M_lotus』:え?
『kirikiri舞』:君、ピエロじゃん。あのさ、ピエロのスキルで『催眠』ってあるよね。ちょっと都市伝説めいたこと言うけど聞いてくれる?
そういって『kirikiri舞』さんは、昔の仲間のことを語り始めた。僕と同じ“道化師(ピエロ)”のプレイヤーの話だ。
そもそも“道化師”――ピエロのスキルは“芸”といって、SP(スキルポイント)やCT(発動時間)を使わない代わりに、『成功率』という制限があった。その“芸”の中には『催眠』といって、上手くいけば範囲内の味方に催眠術をかけてステータスを一定期間爆上げしてくれるという、成功率の低いスキルがあった。
かつて『kirikiri舞』さんのネトゲ仲間のピエロが、なぜかこのスキルを現実に応用しようという試みを始め、なぜか成功してしまったそうだ。そして彼女は家族や仲間を催眠状態にして操り、それをきっかけにとある事件が起こったという話だ。
どんな事件だったかは伏せて教えてくれなかったけど、『kirikiri舞』さんの仲間は事件をきっかけに崩壊し、今もオフランドに残っているのは彼女だけだという。
彼女自身も半信半疑だが、こういう噂もあるという――『オフランド』と相性が良すぎる者は、ゲームの世界に魂を捧げてしまうと。
たとえば、“格闘家”が現実でも実践的な格闘術を身につけてたり、“シーフ”をやっていると無意識の盗み癖がついたり、“アサシン”が殺人鬼になったり。
ようするにゲームのしすぎで精神に異常をきたし、犯罪行為に手を染めてしまうやつ。オフランドにはそういう危険もあると言われているらしい。
確かに一昨年あたりから、連続殺人や爆破未遂とか、あとこないだのファミレスでの暴行事件みたいな、いわゆる「ネットひきこもり」がキレて起こす事件が増えた気もするけど。
そういや前にゲーム上で廃止された“魔獣使い”のジョブも、増えすぎたジョブの調整のためと運営は言っているが、きなくさい噂もあるって話も誰かが言っていたし。
『kirikiri舞』:ま、噂だけどね。私も実際に目撃したことじゃないし。ウソくさいよね
『kirikiri舞』:でも私の仲間だったピエロの子が催眠術を使えるようになったのは本当ぽいよ
『kirikiri舞』:家族に催眠術をかけて、催眠ワードを植え込んで、思いどーりの家庭にしちゃったんだって
はあ、と気の乗らない返事を返しておく。
彼女が何を言いたいのかわからない。
『kirikiri舞』:だから君も試してみなよ催眠術www
バカバカしい。
と、僕も一笑に付した。
荒唐無稽にもほどがある。いくら僕が中学生のガキだからといって、そんな話を真に受けるはずもない。
だけど、『kirikiri舞』さんとのやりとりは、そのまま朝まで続いた。
次の日、僕は学校帰りにコンビニに寄ってスポーツドリンクを買ってきた。
オフランドでは、“芸”の『成功率』を一時的に上げるアイテムとして『ラッキーポーション』というのが存在する。オフランドの公式設定本で語られているポーションの組成に、最も近いドリンクがこのメーカーのスポーツドリンクだと『kirikiri舞』さんが教えてくれた。
そこまでいくと都市伝説というより悪質なこじつけだ。もちろん僕はそんな話を本気で信じたりしていない。
でも、買ってしまった。
まるで催眠術にかかったのは僕の方みたいだ。なんでこんな買い物までしてるんだ。僕は本当に無力なただの子どもだ。現実とゲームの区別もできない忌まわしい現代っ子だ。
だけどそんな子どもには、不可思議なチート能力でもなければ現状を変えることなんて出来ない。
お酒でも飲むみたいにスポーツドリンクをあおる。
『kirikiri舞』さんとのチャットは、勇気づけられるような、自分がみじめになっていくような、おかしなわだかまりと焦りを残して終わった。
五円玉に糸を結ぶ。『kirikiri舞』さんの昔の友だち……『BUBU』さんはこうやって催眠術を使ったという。
バカバカしいよ。笑っちゃう。こんなことを真面目に実践しようとしている自分が。
僕は家族みんなに仲良くしてもらいたいんだ。例え血のつながりがなくても、みんなが仲良く幸せならそれでいいと思うんだ。
スポーツドリンクを飲む。がぶがぶと呷る。
笑われたってかまうもんか。一か八かだ。
(まずは、お母さんと仲良くなることじゃないかな。君の話によるかぎりではたぶんお母さんも同じことを考えてるよ。みんなと仲良く幸せな家庭にしたいって)
『kirikiri舞』さんはそう言っていた。僕も、そんな気がしている。綾子さんは、家族のために何かしようといつも頑張っている。空回りも多いけど優しくしてくれる。
きっと彼女も同じ気持ちじゃないかなって僕も思う。
(彼女の本音を聞いてあげるといいよ。家族ってのは、まず本音を言い合えるものなんだから)
綾子さんは、リビングでアイロンをかけていた。花純さんのセーラー服だ。我が家には睦都美さんがいるので、主婦らしい仕事はあまりない。ゆっくりと、ただアイロンを動かしてるだけに見える。
僕が近づいても気づいてる様子もない。
「綾子さん」
「え、はい?」
ピクンと肩を震わせて、綾子さんは振り返る。
「あ、蓮くん、どうしたの?」
にこにこと、いつもの優しい顔だ。
振り向いた一瞬、怯えるような表情をしていたことには、気づかないふりをする。
「えと、何かお手伝いします?」
「え、いいよ、いいよ。全然、たいしたことはしていないから……」
花純さんのセーラーを一枚、隠すように後ろに回す綾子さんに、僕は話しかけるきっかけを間違えたことを悟る。
綾子さんも、することがなくて困ってるんだ。
「じゃ、じゃあ、その、ちょっと、付き合ってもらっていいですか?」
「え、何に?」
「えっと、その、これ……」
僕は気まずさに少しテンパってしまい、さっきまでいろいろと考えていた催眠術への誘い文句も忘れて、いきなり糸のついた五円玉を取り出してしまった。
「あ、それ何? 催眠術? 私に催眠術かける気なの?」
「いや、その、これは、あの……」
綾子さんは僕の取り出した怪しい小道具を見て、面白そうに笑う。
僕は顔が真っ赤になってると思う。それがますますおかしいのか、綾子さんは口を隠してクスクスとお腹を抱える。
子どもっぽいやつだと思われたに違いない。
「わかった。いいよ。蓮くんの催眠術の実験台になればいいのね?」
「え?」
「じゃあ、ここじゃ何だから、蓮くんのお部屋に行こうか?」
「……いいんですか?」
「いいよ。うん。ちょうど暇だったし。ふふ」
花純さんのセーラー服をふぁさっとアイロン台に置くと、綾子さんは軽い足取りで僕の後ろに付いてくる。
僕は、とりあえず事が上手く進んでいることに、ますます緊張を高めていく。
< 続く >