被験者の記憶集1

 大学生:前原恵(20)

 5月××日(水)

 

 

 最初は簡単な興味でした。

 大学2年にもなって新鮮さは消え、いいサークルも見つからず、バイトにも慣れてきてしまって、新しい刺激が欲しくなったんです。

 そしてたどり着いたのが、『催眠音声』というジャンルでした。もともとAMSRというものを知っていて、そこからの派生でした。

 ただ試してみたのはいいものの、わからない。

 その催眠の感覚がまったくわからないのです。感覚を掴めないのです。当然「○○したくなる」とか「××を忘れる」なんてのもわからない。

 ただ男性向けの催眠音声の市場はそれなりに充実してるってことは、きっと少なくない人が効果を実感できるものなんだと思う。だから詐欺とかいうわけではないんだろうけど……

 残念ながら女性向け市場は男性向けほど大きくないようで、またネットでレビューを見るとかなりの玉石混交らしい。

 とはいえこのまま素直に退くのも少し悔しくて、催眠を掛けてくれる相手を探してみることにした。

 ただ危惧してたとおり性的なものを求める人が多くて、そうじゃない人は多くない。

 『エロはしません』や『全年齢なし』といった書き方が大半のなか、目を引いたのは『本番なし』という表記。

 性的な内容もやるけど本番はしない、ということなんだろうけど、そこに他の人との少しの差を感じた。

 その名前やIDで検索してみると、多少のレビューがヒットする。少なくとも問題がある素振りがないのと、やっぱり本番はしてないらしい。

 『最悪の事態が起きても、本番が発生しないなら』って考えで、この人と連絡を取ってみることにした。ハンドネームは『ディーシー』。

 

 

 返信は翌日に来た。

 日程調整をした後で場所の調整に移るんだけど、当然のようにラブホテルを提案される。

 やっぱり少し抵抗感があって、それ以外の場所はないですかと聞いてみる。

 そうするとカラオケボックスでもいいと返って来たので、それでお願いしますと答えた。

 ディーシーさんは場所代が折半、これが依頼料らしい。ラブホテルの相場は私は知らないけど、たぶんカラオケボックスの方が安いはず。お金に余裕があるわけじゃないので私としてもだいぶ助かる。

 大都市の駅前で合流。見た目だけで判断するなら年上……30代前後の男性だった。

 合流後はカラオケに向かう。時間は2時間、ワンドリンクで部屋を取る。そして少人数向けのやや狭めの部屋に案内された。

 催眠術師と個室に二人きり。少し危険な状況かもだけど、昼間の駅前のカラオケボックス。平日だけどそれなりに人は多い。もし危険があれば、行動を起こせば誰かが反応してくれるであろう場所。フリータイムじゃなくて2時間だから、どれだけ長くても2時間後には確認があるはず。念のためセーフティは用意しておく。

 ディーシーさんは改めて挨拶してきたのち、どんな催眠をして欲しいのか聞いてくる。

 私は催眠の内容どうこうより、催眠音声がダメだったので、催眠術にかかった感覚を知りたい、実感が欲しいということ。そしてゆくゆくは催眠音声を使えるようになりたいと伝えた。

 ディーシーさんは「わかりました」と答えた後、電話でフロントになにか頼んでいる。しばらくして運ばれてきたのは水。なにかの飲み物ではなくて無色透明な水。店員さんは「お水お持ちしました」って言って持ってきたから、本当にただの水なんだと思う。

 よくわからないチョイスに困惑している私を他所に、ディーシーさんはセッティングを始める。

 テーブルを奥にやって足元を広くして、照明を消す。昼間だから十分に明るいけど、少し落ち着いた感じになった。そしてTVモニターの電源を切った。カラオケなのに、壁に掛けられてる大きなテレビが沈黙している様はなかなか新鮮。ただモニターを消しても音だけは流れ続けてたので音声もすべてゼロにする。初めての静かなカラオケルーム。隣の部屋から少しばかりの声が響いてくるだけだ。

 次に自分のカバンからなにかを取り出す。出てきたのは『催眠術と言えばこれ』といえるアイテム、真ん中にヒモを通した五円玉。

 これを目の前で揺らすのかと思ったら、私に持てと言ってくる。

 どう使うのか想像できないまま受け取って、追加で指示されるまま、五円玉振り子を持った手を伸ばして糸を垂らす。

 そして五円玉をじっと見て欲しい、と言ってくる。言われるようにするけれど、動かない振り子を見ているだけ。

 なんの意味があるのかと思っていると、ディーシーさんは自分の人差し指を五円玉の下に置いて、それを左右に動かしていく。ちょうど五円玉振り子が動いた場合の軌道くらいの位置を行ったり来たり。

 なにやってるんだろうと思ってると、「五円玉をじっと見ていると、ゆっくり左右に揺れてくる」なんて言い始める。

 素直な感想は、なに言ってるんだろうこの人、だった。

 五円玉振り子のヒモを持ってるのは私だし、遮音性に優れたカラオケルームは隙間風もない。エアコンは動いてるけど、風を感じないくらいの微弱な運転。だから私が動かさない限り動くことなんてないのに。

 聞き間違えたかな、なんて思いながら、ひとまず言われた通りに五円玉を凝視する。

 当然動かない五円玉。その周りで往復するディーシーさんの指。わけのわからないまま五円玉を見続けてる私。

 私はなにをさせられてるんだろう。人選を間違えてしまっただろうか。なんて考えてると、不可解なことが起きた。

 なにもしてないのに、少しだけ五円玉が動いたんだ。

 いや、本当になにもしてない。のに動いた。しかもそれだけじゃない。仮に揺れたとしても、振り子というものは同じ大きさで揺れ続けて、空気抵抗を受けて揺れは小さくなって最終的に動かなくなる。はずなんだ。なのに動きが小さくなっていくどころか振れ幅は次第に大きくなっていく。

 運動量がゼロから1になるだけでもおかしいのに、それが次第に増えていく。

 状況を飲み込めない私を他所に、振り子の振れはさらに大きくなる。

 「もうバッチリ催眠にかかってますね」とディーシーさんが少し笑いながら言ってくる。

 自分の状況が理解しきれないまま、事態はさらに進展する。振り子を持ってる私の手を上から掴んで、「振り子が動くだけじゃなくて、右手がガチガチに固まって動かなくなってますよ」と言ってくる。

 それだけで信じられないことに、言われた通りに手が動かなくなっていた。

 肩は動かせそうなんだけど、その先から……なんだろう、感覚はある。あるんだけど、ギブスかなにかで固定されてるような感じ。

 そうなると意図しても振り子を止めることができなくなる……はずなんだけど、「振り子の動きがゆっくり収まっていく」って言われると、それだけで本当にそうなる。自然に振れが収まって、ピンと糸が張って静止する。

 次は伸びたままの私の手首に、糸を巻き付けるという。手首の周りをディーシーさんの手が糸をくくるように動く。でもそこに糸なんてない。細すぎて見えないってワケでもない。なにせ手首になにかされてる感覚がない。

 だけど、「手首に縛った糸を上に引っ張るよ」って言われて、吊った糸を引っ張るジェスチャーをされると突っ張ったままの腕が勝手に上がっていく。そしてディーシーさんの手が止まると、私の腕も止まる。そこには糸もなにもないハズなのに。

 ひじの内側を軽く叩かれると、私の腕を固定してた見えないギブスが外れた。やっと自由に動かせるようになるし、逆に振り子は動かそうと思えば動かせるようになる。そして「糸を切るよ」って言われて、私の手とディーシーさんの手の間で『チョキ』で糸を切るような動きをされると、吊られた鉄骨のワイヤーが切れた時と同じみたいに、私の腕が下に落ちる。そしてやっと私の手は私自身の制御下に戻る。んで五円玉振り子を回収された。

 ほぼ確定的にそうなんだろうけど。自分に起こったことをいまだに信じきれなくて、催眠にかかってたんですか、と訊いてみる。

 予想通りなんだけど、「そうです」と返ってきた。

 これが音声じゃなくて、実際にやってもらうことの差なんだろう……というのと、あまりにもあっさりかかってしまったのもあって少し恥ずかしくなる。

 「ところで、足が動かなくなってるの気付いていますか?」と言ってくる。

 今回はなにもされてない。振り子も持たされてない、手も握られてない。糸を結ぶような動きもない。なのに……なのにだ。足が動かない。

 わけわからなくなって変な笑いが漏れる。動かないです、と返した。

 目の前で手を叩かれると、ちゃんと足が動くようになった。えっ、なにもされてないのになんで……私ってこんなに催眠にかかりやすかったんだろうか。

 では別のパターンも、ということで、さっき注文した水を手に取るディーシーさん。

 手に持ってるのは水なのに、オレンジジュースは好きかどうか聞いてくる。まぁそれなりに……って答える。

 「私が指を鳴らすと、この水がオレンジジュースの味がしますよ」って言って指を鳴らしてくる。静かなカラオケルームにパチンと音が響く。

 とは言われても、目の前にあるのは透明な……たぶん水。どう見てもオレンジジュースじゃない。でもこれまでの流れを考えると……

 恐る恐る、その水に口を付ける。そして口に広がる柑橘の味。やっぱり味はオレンジジュースになっていた。

 これってテレビとかで見る『ワサビが甘くなる』の亜種なんだろう、きっと。

 もしかしてワサビも持ってきてるのかと聞く。ディーシーさんは苦笑いしながら「さすがに持ってきてないです」と。さすがにワサビは怖いからホッとしたはずなんだけど、心のどこかにそれを楽しみにしてた自分がいた気がした。

 「けっこう催眠にかかりやすいタイプみたいですね」って今更指摘される。そんなこと私が一番理解してしまってる。

 そして次はカバンから棒状のなにかを取り出してくる。銀色のペンライトみたい。なんだけど、だいぶ光が弱い。

 ソファーに寄りかかるように促されて、顔をペンライトで照らされる。んで「私の言葉を聞こうとしないでいいので、ペンライトの光をじっと見つめててください」と指示される。

 なにされるのかわからないまま光を見続ける。

 「光をじっと見ていると、まぶたが少しずつ重くなってくる」って言ってるのが聞こえる。普通に生理現象として、目が乾いて瞬きの数が増えて、まぶたが下がってくるのが分かる。

 そのまま横でディーシーさんが喋ってるのが聞こえる。まぶたが重くなるって言ってるのは聞こえた。重くて自分で開けなくなる、ってのも聞こえた。んで、視界が真っ暗になると、意識がどうこう言ってたのはわかる。わかるんだけど、細かいところまで聞き取れなかった。その後はほんとになにも覚えてない。覚えてられなかったというか、なんだろう。寝起き直後の頭が働いてない感じの、上手に言語化できないふわふわした状態になってたことは覚えてる。その心地よい感覚は、肩を揺さぶられて吹き飛んだ。

 さっきの寝起きっぽい感覚を引きずってるのが分かっちゃう表情してたんだろう。「おはようございます」と声を掛けられる。私もおはようございますにゃん、と返事して、自分のココアを軽く口に入れる。甘くてほんのり苦い味で意識が醒める。

 今度はこちらを使ってみましょう、と、カバンからまた別の道具を取り出す。

 次はなんですかにゃ、と聞きながらディーシーさんの手元に意識を向ける。

 口頭での返事より先にモノが出てきた。見た目ですぐにわかる。ねこじゃらしだ。植物のエノコログサじゃなくて、100均で売ってるようなおもちゃのピンク色のねこじゃらし。

 ただのねこじゃらしなんだけど、どうしてかわからないんだけど、それが無性に欲しくて仕方ない。

 失礼なのは分かってる。分かってるんだけど止められなくなって、ディーシーさんの手のそれを奪い取ろうとする。だけどサッと避けられてしまう。

 それをくださいにゃ、と二度三度とアタックを仕掛ける。5回目くらいでやっと穂先を掴んで奪い取れた。

 ただのねこじゃらしなのに、穂先の部分を弄ってると顔がにやけてきてしまう。

 ごめんなさいにゃ、失礼なことをしてしまってにゃ、と謝るけれど、その手は止まらずねこじゃらしを揉んだりこねたり。

 膝の上にねこじゃらしを置いて、それを愛でる私。そしてねこじゃらしと私の顔の間で、ディーシーさんが思い切りでを叩く。

 びっくりして背が伸びる。どうかしましたかにゃ、と聞く……んだけど、どうかしてるのはディーシーさんじゃない、私だ。

 なんか私の喋りがおかしい。語尾に余計なものが付いてる。ディーシーさんが軽く笑いながら「気づきましたか」と。さっきまで平気でにゃぁにゃぁ言ってたのも自覚してしまって、少し悪態付きながら、気づいたにゃ、と返事。

 さらに「ねこじゃらし好きなんですね」って煽ってくる。反抗心を燃やして、普通に答えようとする。別に好きじゃないです。……にゃぁ。と、我慢しても不自然にさせるのが精いっぱいだった。喋り終わった直後に勝手に口が動いてしまう感じ。

 さすがに20を越えた女がにゃぁにゃぁ言ってるのは恥ずかしくなって、この催眠を解いてくれますかにゃと懇願する。

 答えは「頭に付いてるものを取れば元に戻りますよ」っていうよくわからないもの。なんのことだろうと思って自分の頭に手を持ってくと、確かになにかある。あるというか、付けられてる。カチューシャだこれ。

 取ってそれを確認すると、白い耳の付いた猫耳カチューシャ。んで恐る恐る、これでいいんですか、と声を出す。うん、確かに普通に喋れる。

 膝の上にあるねこじゃらしをディーシーさんが回収していく。語尾が元通りに戻ったのと一緒に、ねこじゃらしへの執着も消えた。そこまで私は猫になってたらしい。……なってたというか、猫にされてたというか。

 ただこのカチューシャを外しただけで変わるってことは……興味本位で自らカチューシャを付け直す。直後、ディーシーさんが持っているねこじゃらしが光り輝いた気がした。反射的に、本能的に手が動いてディーシーさんの手から強奪する。私が自分でカチューシャを付け直すと思ってなかったのか、不意を突けたようで一発成功。

 そして、本日は晴天なりにゃ、と適当に口に出してみる。やっぱりまた語尾に変なのが付く。カチューシャを外す。本日は晴天なり、と口に出す。

 カチューシャの有無でスイッチのオンオフを切り替えるように変わっていくのが面白くなってきた。自分のことなのに自分で制御できない。なんだろうこの感覚。

 「催眠術を楽しんでいただけてますか」と聞いてくる。直接認めるのはちょっと恥ずかしいけど、実際楽しい。楽しいんだけど、音声というか、独りで遊ぶ手段がないのがそれはそれでつらい。

 どうにか催眠音声にかかれる方法はないか、と尋ねてみると、「かかれると思いますよ」と私からすれば意外な回答が返ってきた。

 というのも、催眠にかかれない理由は人によって違うし、一概には言えないんだけど、その中に『催眠にかかる感覚がつかめない』というパターンがあるらしい。そして私はその可能性があるという。

 最初の手が動かなくなったとき、水がオレンジジュースになったとき、ペンライトを見ながらうとうとしてたとき、そしてカチューシャを付け外ししてたとき、確かに実感があった。

 音声だけじゃよくわからなかったけど……こういうことなんだろうか。

 少なくとも催眠にかかれることは分かったので、後日もう一度試してみようと思った。

 お勧めの催眠音声はありますか、と聞いてみたけど、どうやらそっちには詳しくないらしく答えを得ることはできなかった。残念。

 興味本位で、カラオケでも性的な催眠ってできるんですか、と聞いてみる。間を置かずにすぐ「できますよ」との返答。食い気味というより、さも当然という感じだった。

 エロなしで、と自分から言った手前、これ以上追究するのも気恥ずかしくなってここで引き下がったけど、どういった内容をするのか少し気になった。

 時間もそこまで残ってないので、ここで切り上げることになった。

 『催眠の解除』っていう仕上げ? を済ませて、料金の精算だけして解散になった。

 我ながらここまですんなり催眠が上手く行くのは想定外だったけど、上振れの想定外。ディーシーさんには感謝しないといけない。

 先日買った催眠音声も無駄にならずに済むかもしれない。今日……はさすがにもういいか。また後日チャレンジしてみよう。

 

<つづく>

2件のコメント

  1. 読ませていただきましたでよ~。
    新作は女性視点で本番もないという、しかし、それでいて催眠の魅力にあふれるいい作品でぅ。
    1つ目は導入とショー催眠に使われそうな暗示。
    よく使われるものだからこそ、王道と言い、王道だからこそ外れない。
    使い古されたと言われることもあるけれど、いいものだからよく使われるのでぅ。
    というわけで振り子の導入もねこ化も素晴らしいものでしたでよ。
    であ。

  2. 淡々と、本番無しという言葉に偽りなし。
    まあ世の中には性行為そのものよりも催眠にかかってる女性を見ること自体に興奮するという人が、自分以外にも案外いっぱいいるということはこちらのサイトで存じております故、そういう術者が居ても不思議じゃない気もします。

    あまり女性視点作品は読まないのですが、サクサク読めました。
    2話以降も読ませていただきます。

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