◆異世界侍女の催眠練習 その1
――。
「――まず、催眠状態というのは、変性意識の一種なんだ。変性意識とは、意識が普段と違う状態になっていること」
「普段と違う……というと。確かに、催眠に掛かっている間は普通の意識ではないです……」
一夜明けて――自室。
ミリちゃんはどうもまだ戻らないようなので、さっそくリルに催眠術のレクチャーをしている。彼女は実践で何となく覚えてしまうタイプのようだけど、一応……まずは基礎知識から。
知っていることで出来ることも増えるしね。
「知っておくといいのは、あくまでも催眠はこの変性意識の『一種』に過ぎないってこと。他にはどんなものがあると思う? 身近なところで」
「えっと……あ、居眠り。最初に、掛けられたときも……似てるなあって思ったんです」
「確かにね。それはかなり近く感じるだろう……他にも、意識せずに何かに集中しているときには、変性意識が関わっていることも多い。例えば、運動。催眠状態のリラックスとはかけ離れたイメージかもしれないけど、長距離を走っていたりするときは変性意識になりやすい」
「ははあ」
いわゆる、ランナーズハイというやつだ。この世界にその言葉があるか分からないのでいちいち説明しないけど。
「本を読んでいるときなんかにも、入ることが多い。集中すると周りの声が聞こえなくなる人、いるよね?」
「ミリセンティアさんですね」
「アー」
これはアーになる。そりゃあそうだろうな。だからあんなにも賢いし、あんなにちょろいんだ。
「リルさんは、そういう身近な変性意識に覚えはある? それはリラックスでも、単純作業でも、集中でもいい」
「……お仕事をしているときが、ちょうどそんな感じです。お洗濯、お料理、お掃除……どれも、集中していると、ぼーっとしているみたいに、なっています。それで、いつの間にか終わっているみたいな」
「なるほど。それは使えるかもしれない」
「全然、そんな風に思っていませんでしたが……確かに、催眠と似ているんですね」
そうした身近な変性意識は、催眠に入るトリガーになる。特にリルの挙げた例は――正直、今聞いて思いついただけだけど――かなり使いやすいと思う。ひとつ、やってみるか。
「そうだね、確かに……たくさんの洗濯物……干して取り込んだ、同じ洗濯物を……同じ手順で、ひとつひとつ……畳んで、積んで……畳んで、積んで、とか……そういう作業なわけだ」
「はい……そう、ですね……同じように、畳まないと、叱られますから……」
「そんなふうに、同じ作業を……繰り返していると、いつのまにか……考えていたことが、抜けて、しまったり……」
「あ、そう……なんです……ぁ……」
「そうして……ぼぉー……っとしていても、身体は……動いていて……普段の意識が、眠っていても……洗濯物を、畳んでしまっている……」
「ぁ……ぅ」
ベッドに腰掛けているリルの手が……指示したわけでもないのに、もぞもぞと小さく動いている。洗濯物をイメージしているのかもしれない。それに合わせて、身体が小さく左右に、揺れ始めた。……都合がいい、使わせてもらおう。
「右から取って……一枚畳む。……ぱた、ぱた。左に置いて……二枚、畳んで……ぱた、ぱた……また置いて……ぼんやりしたまま、右から……ぱた、ぱた……左。右から……畳んで……左」
「あ……ふ、あ……」
「リルは……いつのまにか、変性意識……催眠状態に、なっている……ほら、右から……左。右から……左……洗濯物を、畳むたびに……頭の中が、気持ちよく……なっていますね……」
「ぁ……♥」
表情はすっかり、とろん……としている。本人にとって身近な現象は、こんな風に利用しやすい。それと同じく、術者にとって身近なことも、使いやすい。説明しやすいし、相手にも納得感を与え、聞かせやすいのだ。だからこういう、家事労働のイメージは、リルが催眠を掛けるときにも有効に使えることだろう。
「貴方は……この、気持ちいい状態を……はっきりと、自覚して……覚えることができます。人間が、どのように導かれ……どのように、気持ちよくされてしまうのか……リルの意識は、とても集中して……見て、覚えて、いますね……」
「ぅ、あ……」
自身の催眠の掛かり方を、覚えさせる。
催眠術師には、自分では催眠に掛かれない者も多い。その理由も様々で、例えば――自身を支配する側に置きたがり、意識を手放そうとしない――掛けた相手の姿を見ているため、自分がそうなることに抵抗がある――など。催眠術に手を出すような人間は、だいたいが……人を操る歓びに染まった、クズみたいな性格の奴らだからな。
でも、単に催眠の楽しさ、気持ちよさに染まったタイプもいて――これはむしろ、掛かりやすい。催眠に掛かっている相手を見て、気持ちよさそうだな、羨ましいな、と考えているような連中だ。初めに掛かる側から入って、覚えて行った人間は、こちらになるようだ。
そういうわけで、リルは後者ということだ。
「頭の中の、意識の広がり方……普段とは違う、瞼の閉じ方……ゆらゆら揺れる、心地よさ……倒れまいと我慢する、快感……リラックスして、身体の力が……抜ける感覚……脳がふやけて、ドロドロになる快楽……覚える、覚えていく」
「ぁ、あ……♥ あ、あー、あー……♥」
「覚える。覚えていく。僕の言葉も覚える。催眠状態で、矢継ぎ早に繰り出される言葉、声、その気持ちよさ、呑まれる、押しつぶされる、塗りつぶされる、気持ちいい、快感。快感、快感、落ちていく、ほら、覚えて――落ちる」
「っあ゛♥」
とん、と額を押してやると、どさり。容易く後ろへ倒れた。ふぅ、と小さな息とともに、全身がどろりと……ベッドに沈み込むようにすら見える。この瞬間は……ここまで来られたなら、どんな人間でも、本当に気持ちよさそうに、落ちていく。トランスの快楽は、素直に声に従うことのできた人間への、最高の御褒美なんだ。
「貴方は、本当に気持ちのいい道を通って……今、最高の気持ちで、催眠状態になりました……今日は、この道をあなたに、よーく覚えてもらいます……何度も通って、通って、覚えれば……他の人を、この気持ちいいところへ、連れてくることも……簡単ですよね」
「ぁあ……♥」
そう。自分で催眠に掛かることができるなら……その時の感覚を、催眠誘導に応用することができるのだ。特にリルは、催眠に掛けられるときの自分を、とても冷静に見つめることができ……その意識を、ぐずぐずに潰してしまうのもいいけれど――今回は、目いっぱい有効活用することにする。
「今の自分を覚えましょう……心も、身体も、解放されて……力が抜けきって、横たわるだけ……身体が重ーく感じる人も、軽ーく、感じる人も……様々です。閉じている瞼が、ひくひく震える……全て受け入れていく、心の形……ぜーんぶ覚えていきますね……」
リルは今――さっきまで普通に話していた女が、不意に催眠に落とされ……容易く心を蕩かし、法悦に浸っていく様子を……誰よりも間近で、体感しながら、まじまじと観察しているのだ。そりゃ、覚えもする。リルは、こういうの……他人にするのも大好きだろうから、余計に。
「こうして、催眠状態になってしまった人間は……軽く、数を数えてあげるだけで、より深く……落ちてしまいます。私は何も、特別なことをしませんから……数える声、落ちていく感覚を、しっかり覚えることができますよ……」
「ぁ……」
カウントダウンは基本的なルーティンの一つ。こういうのも覚えていってもらわなくちゃね。
「5……4、3……2……1、0」
「っ、――あ、っ」
「吸い込まれる。落ちながら聞こえる声。投げかけられる声が、もっと深く、深くしてくれる。何でもいい、話しかけられたら気持ちいい。呼びかけます、気持ちいい、気持ちいい、深く、深く落ちる。ほら覚える。何を言われてもどうせわからない。気持ちいいからわからない。だから何を言ってもいい。ほら深く、気持ちよく、落ちる、落ちる、落ちる――」
「ぅぁ、ぁ、ぁ、ぁ」
こういう追い込み暗示は、勢いがあるとよい。何も考えなくても言葉を続けられるようになるのが目標だろうか。よく言えばアドリブ、悪く言えば出任せだ。相手にとって気持ちよく落ちられる内容を叩き込めればなお良いが、実はそこまで大事ではない。
「この気持ちよさを覚える。覚えてしまう。気持ちいいから覚える。覚えたら……貴方にも、できるようになりますね……ほら、落ちる……」
「……ぁ、んぅ……♥」
催眠状態でドロドロになった頭に、声と情報の洪水を流し込み続けて、パンクさせるのが目的だから。難しいこと言っても、どうせ意味なんてわかってない――だってこれ、死ぬほど気持ちいいからね。
「とても深い……深いところです。普段、この気持ちいい所では……リルの意識は、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされてしまい……なんにも、見たり、聞いたり……できなくなって……いましたね……」
「っ、あ、ぐ」
リルに、暗示を完全に忘れて、無自覚で操られてしまうほど深く掛けたいとき。要するに、ミリちゃんみたいに掛かって欲しいとき。そういうときは、自分はこの方法で、リルの俯瞰する意識をごまかしている。どうしても見ようとする気持ちが強い子だから、見えないところへ降りる、見たくなくなる、暗くなって見えなくなる、違うものに集中してしまうなどの暗示で隙を作るのだった。
しかし今回はあえて、見てもらうことにする。
「いつもと違い……リルさんの意識は、深い催眠状態のリルを、よーく……見ることができます。彼女が、この声を……催眠暗示を、どう受け入れてしまうのか……どう変えられてしまうのかまで、ぜーんぶ、見ることができますよ……」
「あ……」
声が少し、力のある……いつものリルの声に近くなった。彼女は深い催眠状態でありながら、覚醒した意識を持ち始めた。
何故ってもちろん、催眠を覚えるために。
「見たら、その様子を覚えることができます……大丈夫。覚えてしまっても、貴方が催眠に掛かるのを、邪魔することはありません……むしろ、仕組みがよくわかって、安心して……僕の催眠に掛かることができるようになりますよ……」
「ぁぁ……♥」
だから、こういう暗示もプレゼントしておく。舞台裏を見せてあげるのは今日だけ。また掛けるときは、ドロドロに騙されて欲しいからね。タネを知ったからマジックが楽しめない、のでは可哀想だ。知っていても、しっかり楽しく騙されることができるように……次の機会への贈り物。
「この、気持ちいいところ……深いところに、目印をつけておきましょう。心の大事なところに……深く、刻み込みます。ここは気持ちいい、催眠に落ちるのは気持ちいいって、証拠を……残してしまいましょう。これがある限り、貴方は……催眠に落ちるのが、大好き。気持ちいいのを、絶対、忘れない……そうですよね……」
「ぁ……く、ぅ♥ それ、ぇ、ずる……っ♥」
そうだよ、ずるいよ。催眠は、ずるいことをできる奴が上手いんだ。リルはそういうの、得意だと思う。いっぱい、ずるい技に晒されて……覚えて帰るといい。多分、リルならすぐ覚えるよ。性格悪いもん。
「ほら、刻んでしまいますよ。今の気持ちよさを忘れないように……3つ、3つ数を数えたら、刻み込まれる。3、2……1、ほら、0」
「ぅああああっ♥」
いつもより声が大きい。意識がちゃんとあるせいだな。こういうのも面白い。
「深く刻む……ほら、ぞりっ。気持ちいい形が刻み込まれる。痛くない……心に刻まれちゃうのって、めちゃくちゃ……気持ちいいですね……ほら、こっちも……ぞりっ。気持ちよさ、覚えてしまいますね……」
「っくふ♥ ……あっあ、あ、あー、あ。あぁああぁっ♥」
イってるな、これ。リルは類稀なるスケベなので、特に指定していなくてもこれは勝手に性的快感に感じている。ここは人それぞれなんだけどね……まあ、だいたいの人はドロドロにトランスさせると、股も濡れちゃうんだけど。
「心の……深いところに、気持ちいい印が刻まれてしまいました……貴方はもう、これを取ることも、忘れることもできません……ずーっとこの場所を、覚えていることができます……」
「ぁう……」
催眠術師の倫理観としては、こういう永続的に束縛する言葉は、安易に使ってはいけないとされている。強く縛り付けると、あとで暗示を抜こうとしても抜けなかったりするからね。でもまあ、ここは異世界だ。そして僕はクズ野郎で、リルはクソ女だ。だったら、僕らの目的と少しばかりの楽しみのため――これくらいの悪いことは、してもいいだろ。
「そして……これを目印にして、貴方はいつでもここへ戻ってくる……深い催眠状態になることができます。この印はとても分かりやすいので……どれほどはっきり目覚めていても、すぐに、ここに落ちてきてしまいますね……」
「ぁあ……♥」
「でも、この目印は、僕と二人で、ミリちゃんに内緒でつけたものだから……悪い子の目印、ですね……リルは、悪い子なのを僕以外には、内緒にしていますから……この印のことは、普段は……忘れたように、思い出さなくなって、しまいます。内緒にすることができます……」
言葉選び。『忘れる』『思い出せなくなる』ではない。これから催眠を掛ける側にもなるリルの意識、それに馴染むような言い回し。『ミリセンティアさんには内緒にしておくから、思い出さないでおく』という、リルの納得できる物語。
「ふふ、ふふふ……♥」
ほら嬉しそう。本当にこの女、根がクソすぎるな。悪い子で、可愛い。
「もう一つプレゼントします……私が、『悪いことをしよう』と貴方に言ったとき。そう……貴方が目を覚ましていても、私に、『悪いことをしよう』と言われたとき。この目印のことを思い出してしまいます……」
「ぁ……ん……」
キーワードに反応してトランス状態になる暗示。以前リルには『魔術師になろう』というワードで、魔術を使うのに適した、想像力を解放する状態になれるような暗示を入れていたが、それとは別の……ただただ気持ちよく失神する、ドロドロに落ちられる……そして、暗示に対して一切無抵抗な、深い催眠状態になれる。そんなとっても幸せなキーワードを仕込んであげようと思う。
これは基本的なテクニックなので、リルに覚えて欲しいというのが第一の理由。それから、リルが催眠を使って悪さをしても、直ちに黙らせられるように保険をかけたいのがもう一つの理由だ。この女にはいくら警戒してもし過ぎるということはない。
「いいですか、『悪いことをしよう』と、私が言う……私に言われる……両方の言い方で伝えましたから……どちらで覚えてもいいですよ……貴方にとって、自然な言葉で覚えることができる……」
言葉の使い方、暗示の復唱の仕方について。同じ内容でも、立場や視点を変えて繰り返してやることで、すっかりドロドロになった催眠バカの脳みそでもわかりやすくなる。催眠が深いと、理解力は思った以上に落ちていることがあるから、少しでも暗示が入りやすいようにする。
普段はこんなことわざわざ言わないでこっそりやるけど、今日はリルに覚えて欲しいわけだから。
「練習しましょうか……ほら、リル……『悪いことをしよう』」
「ぁ……っずる――、っ」
「溶ける。気持ちいいのが溢れてくる。あの印に向かっていく。一気に吸い込まれる。絶対に逆らえない、抗えない。言われたら必ず落ちる。必ずこうなる。絶対に気持ちよく――落ちる。ほら、ね。『悪いことをしよう』」
「っ、あ゛、が――」
びくん。一度大きく跳ねて……静かになる。練習と称して……目覚めた後でどのようになればいいのか、催眠状態のうちに仕込んでおくという手口だ。リルの言う通り、かなりずるい。これだけ周到にされて、起きた後に暗示が入ってないということは……そうそう、ない。気持ちよくトランスしてさえくれれば、あとはやり方をきちんとすることで、誰にだってこれくらいの暗示は入れられる。
「貴方は……とても上手に、私の言葉で……深い、催眠状態に戻ることが、できました……だからもう、いつでも……私の同じ言葉で……同じように、なることができますね……必ず、そのようになる」
「ぅ……んんぅ……」
「そう……私が貴方に『悪いことをしよう』と言うと、この目印を思い出す……そのことを覚えて、私が3つ数えたら目を覚ましますよ……私に『悪いことをしよう』と言われると……気持ちいい目印を思い出し、必ずここに落ちてくる。3つ数えるとそのことを覚えたまま、すっきり、はっきり目が覚める」
ここでも復唱。言い回し、リズムを変えつつねじり込む。まあ、もうリルの意識、無いだろうけど……。
とにかく、叩き込んでやる。身を以って覚えてもらうのだ。
「ひとつ……手足に、力が戻る。……ふたつ……光を、音を感じる
「ぁ、ん……んんぅー……ん」
かなり深落ちしていたから、覚醒暗示も念入りに。起こしてもなかなか起きてこない人もいるからね。気持ちよすぎて……。
「……みっつ、はいっ、ほら目が覚める」
ぱん。
「っひゃあ」
「はい、おかえり。どう?」
「わ、わー……勉強に、なりますね……」
目をぱちぱちさせながら、どうやら催眠中のことを振り返っている。
「……すごい、本当に全部覚えてますよ。すごいです」
「よかった。暗示で忘れさせなくても、結構みんな、催眠中のことは勝手に忘れてしまうんだ。自然健忘とか呼ばれるけど……ほら、夢の中身みたいに」
リルは比較的記憶が残りやすいタイプだとは思ったが、それでも結構忘れていたはずだ。だから今回はあえて、見て覚えていられる、という暗示を入れている。
「なるほど……あ、私って今、アレで落ちちゃうようになっているんですよね」
「なってる」
アレというのは、さっき入れたキーワードだ。『悪いことをしよう』という、我ながら悪趣味なフレーズ。
「確かに、不意に言われたら落ちますねこれ。自分でわかります」
「うん。リルさんはそうだろうなあ」
覚えてるだろうし、その上でちゃんと暗示は入っているはずだ。リルだし。
「そこでなんですが、私、その言葉に全力で抵抗してみたいです。我慢して見せます」
……なんか変なこと言い出したぞ。
「無理だと思うんだけど」
「いや、わかっていればさすがに耐えられると思います。我慢してみましょう、我慢するの気持ちよさそうです。ずっと我慢してるだけでめちゃくちゃ幸せになれそうです」
「壮大なオナニーの片棒を担がせないでくれないかな」
……一回きちんと分からせてやらないと駄目だろうか、この子。
そんなことを思っていると、リルは上半身を起こし、立ち上がった。
「耐えられるとは思いますが、さすがに何回も言われたり言葉で追い込まれたら無理なので、しばらく我慢させてくださいね。それはずるいので」
「あ、そう? まあいいけど」
思いっきりやる気だったけど、まあリルがそこまで理解しているならやって見せる必要もないしな。
「万一私が倒れるようなら受け止めてください……」
「だったら何故立った」
「少しでも我慢しやすいように……」
……この快楽への情熱と探求心、何なの?
「じゃあ、準備が出来たら言ってくれれば……」
「すー、はー……よし、私はリル・セイレナンド。自分を確かに……催眠なんかに負けない……負けない……!」
「既に面白い」
「気が散ります……すー、はー。よし、絶対大丈夫です。どうぞ」
ふん、と気合を入れて仁王立ちになったリルは。
「じゃあリル、『悪いことをしよう』」
「よし……っぁ――」
どさり。
たった一言で、倒れるというか――膝から崩れて、糸の切れた人形みたいに――その場に、潰れてしまったのだった。
◆異世界侍女の催眠練習 その2
――案の定、キーワード一発でリルは沈んでしまった。
手足はくにゃっと変な形に曲がったまま床に投げ出され、崩れ落ちてしまったリルを――とりあえず、観察してみる。
ゆっくりと口をぱくぱくさせながら、小さく『ぁ』『ひ』みたいな声が漏れて……静かになった。
「気持ちいいですね……とっても、気持ちいい……」
助ける暇も無かった。我慢するって言ってたからつい油断しちゃったよね。危ない危ない。まあ後ろにはベッドがあったし、前には自分が立っていたから、ぶっ倒れて事故になるようなことはなかった。
ただ静かにその場に――すとん、と落ちて潰れてしまったので、助けは間に合わなかった。痛そうな感じではなかったので、あれでちゃんと受け身が出来ているのかもしれない。
「ぁ……あー……♥」
首は、かくん、と曲がって、口から襟のあたりに、てろー……と唾液が毀れている。これ気持ちいいだろうな……リルのことだから、今自分がどこでどんな姿勢になっているか、分かっているんだろう。床で、めちゃめちゃ無様な格好で、虫みたいに潰れているのが、本人もわかっていて――そんなの、気持ちいいに決まっているよな。
「目印に沿って……気持ちいいところへ、落ちてくることが……できましたね……とても、とても嬉しい……我慢できなかったのが、気持ちよくて……とっても、嬉しいですね……」
あまりに幸せそうな落ちっぷりに見惚れてしまったが、ちゃんと深化暗示を重ねておく。大丈夫かな、リルの意識はこれちゃんと聴いてるんだろうか?
第一、あんな風に身構えて『よし来い』って待ち受けて集中してたら、余計入りやすいと思うんだよな。分かっててやってるのかもしれないけど……リルだし……。
「ぁー……♥」
溶けてるね。そりゃあ気持ちいいだろうとも。
――。
そうして何度か起こしては、キーワードで叩き落すのを繰り返して……。
リルには、催眠への落ち方を言語化できるように、たっぷり覚えてもらった。
「この……気持ちいいところで、いつものお仕事を……思い出すことができます……洗濯物を畳む他にも、お洗濯自体や……掃除に、料理、ベッドメイクなど……貴方はいつも、よく働いていましたね……」
「ん……」
あとはこうやって、気持ちのいいイメージを具体化してもらおう。リルはやはり、家事労働を催眠に応用すると楽しいことができると思う。普段からやり慣れている営為は、細かく描写することができるし……相手も、『この人が言うならそうなんだろう』と思い込む。
「この気持ちいい場所で……お仕事の、とてもうまく行っている様子を……想像することができます。どの仕事も……何も考えずに、こなすことができ……何だかとても、気持ちがいい状態です……」
「ぁ……」
自分だって、例えばリルに……洗濯のやり方を解説されたとしたら、その中に多少嘘があったとしても、そうとは全く疑わない。専門家の先生から、話を聞いているのと同じだ。その精神状態は、とても――催眠にも、掛かりやすい。
「まずは、お洗濯から……ほら、想像して――」
――。
ぱちん。
「わあ」
「起きるのも慣れてきたね」
リルに、仕事の様子を思い浮かべて……その中から、気持ちよさそうな表象を拾ってもらった。譫言のように呟いていたので、聞き取れていないものもあるけど……洗濯物を畳む作業に加え、料理の包丁の音など、単調なリズムの快さ。洗濯物が真っ白になること、部屋がきれいに片付くことといった、綺麗になる気持ちよさなどがあるようだった。
「なるほど……ふふ、お仕事中に気持ちよくなってしまったら、大変ですね」
「一応、そうならないような暗示は入れたから、気をつけて欲しい」
途中で気付いた。包丁を使いながら催眠状態になられたら困るもんな。
「少し、分かってきました……たくさん、ありがとうございます」
「うん。あとは何回かやってみて、それでアドバイスをしようかな。ミリちゃんが戻ったら試させてもらおうか」
「あ、それなんですけど」
リルはひょこ、と起き上がって――。
「レシヒトさんは……催眠、掛かれないんですか?」
そんなことを、言い出した。
「……あー、僕で試す、ってことかな」
「はい。アドバイス、貰える気が……しますし」
どうしたものかな。正直別に困るわけじゃないんだけど……。
「う、うーん……いくつか問題があるんだけど、まあ、いいかな……うん」
「問題ですか? あまり掛からないとかでもいいですよ、冷静にご意見もらえそうですし……」
そうじゃない。問題はそういうことでは全くない。むしろ……。
「……い、や、いいだろう。いいよ、やろう。やってみて」
「やった。ありがとうございます……ふふ、まだまだ分からないんですけど、頑張りますね?」
とりあえず……大丈夫だろう。腹を決めることにした。
――。
「それじゃあ、レシヒトさん――お話、しましょうか……♪」
――かくして。
僕とリルは、ベッドに隣り合って座り……『お話』をする羽目になったのである。
「何の話、するの?」
「やっぱり……お仕事の話が、いい……ですよね。……そうですね、お料理を、する……とき、なんですけど……ごつごつ、固いお野菜……ありますよね。お芋や、人参、蕪とか……」
「……うん……」
早速これだ。リルに催眠が向いている大きな理由の一つ。そもそもこの子、ノリノリで昂奮してくると、もともとこういう喋り方なんだ。吐息交じりで……間を取りながら、言葉を選ぶように、甘い声で……囁いてくる。もともとダウナーな喋り方が、催眠の技法と本当にうまくかみ合ってしまっている。
「しゅり、しゅり、丁寧に、少し……ずつ、皮を剥いて……美味しい、ところを……剥き出しに、して、あげるんです……」
「……ぁあ……」
参ったな。これはかなり、気持ちがいい。事前に催眠誘導の話をしていたから、なおさらそういう風に聞こえるし……第一、これはリルの練習なんだから、少しくらい掛かってやったほうがいい――という意識があるので、めちゃくちゃ『掛かろうとして』しまっている。マズい。
「薄く……しょり、しょり……ほんの、表面だけを……剥いていきます。食べられないのは、すこーしだけ……中は、とっても……美味しい、ですからね……」
「……ぁ……?」
待て。上手すぎるだろ。何なんだこの女は。
素人目には一見、トロトロした喋り方で野菜の調理法の話をしているだけかもしれないけど……これは当然、催眠誘導になっている。そして、かなり高度だ。
この誘導には、根菜類の皮を自意識に見立てて、それはとても薄っぺらいもので、リルには簡単に剥くことができ……そうすると、無意識が曝け出された、催眠状態になる。そして、リルの手で『美味しく』――つまり、催眠で、玩具に――されてしまう……そういう『暗示』が含まれている。非常に効果的だ。
「しゅるしゅる……慣れてきたら、いくつも、素早く、剥けるように、なるんですよ……くるくる、回して……しゅりしゅり、剥けちゃうんです……つるつるの、美味しいお野菜に、なりますよ……」
「……ま、て……」
いかん。身体が少し動いてる。眠気のような感覚が押し寄せて、リルの声に集中してしまう。いや抵抗するべきではないんだけど、むしろ掛かってやるべきなんだけど、それはそれとしてちょっと悔しい!
「そう、ですね……待ちますよ。剥いたあとは、外気に晒すと……よくないですから、しっとり、湿らせて……そっと、休ませましょうね……」
そういう意味じゃねえ!!! 畜生、この女わかっててやってやがる!!
見る者が見れば、どこからどう見ても意図的な催眠誘導だけど……それでも、さりげなさ、料理の話であるという体裁はまだ保っている。その上でイメージを喚起させ、注意を誘導し、精神活動の狭窄――催眠状態へ落とし込む意図がたっぷり含まれている。そこまで教えた覚えはない。似たようなのを見せたのは……ミリちゃんと一緒にやった水のイメージと、さっきの洗濯物のとき。にしても、たった2回で――。
「固いお野菜も……くたぁ……って、お塩と、水を吸って……馴染んで、いくんです……。柔らかく、なるので……お料理に、使いやすく、なりますよね……」
「あー……」
あー……美味しそうだな……と思って、ちょっとだけ我に返る。うん、ダメだなこれ。呑まれてる。我ながらちょろいもんだよ。
――催眠術師には、2タイプいる。支配欲が強く、自分で掛かるなんてとんでもない、という人物と――そもそも催眠に掛かるのが好きすぎて、他人にも掛けるようになった連中だ。
それでは、こうして女の子2人を弄んでいた自分は当然前者――ということは、実は全くなかったりする。自分も後者。バリバリの後者。なんなら、リルより掛かりやすいと言える。ミリちゃんには負けると思うけど。
なので――リルに催眠を掛けさせたら……このまま続けさせたら、多分……あっさり彼女の言いなりになって操られる、かも、しれない。掛かるにしてもそれはちょっとヤバいんじゃないだろうか。
「皮を剥いたら……私の、好きな形に、切って……いきます。お野菜を、まな板に置いて……ころころ、転がってしまわないように、そおっと、押さえるのも、大事です……ほら、これで……安心ですね……」
「うぁ」
ゆらゆら、揺れ始めていた身体を……肩を抱くようにして、ぎゅ、と止められる。安心……する。
よし、諦めよう。だって――掛けてもらうのなんて、久しぶりなんだ。こんなに、気持ちよくなれるなら、ちょっとくらい、落とされても……悪く、ない……。
「お野菜を、切るときは……リズムよく、とん……とん……包丁の音がして……なんだか、ちょっと……気持ちが、いいですね……ほら、とん……とん」
言いながら、太股のあたりを指で、とん、とん、軽く叩かれる。ずっと、同じリズムで、とん、とん。これ、気持ちいい……。
単調なリズムも……快いボディタッチも……催眠にはとても有効だ。なまじ、自分はそういう風に知っている分、こんなの気持ちいいに決まってるだろ……と思ってしまうので――実際に、気持ちよくなってしまう。
「とん……とん……小さく、まあるく……とん、とん……おいしく、食べやすく……なって……いきます……ほら、とん……とん。……おいしく、なあれ……とん、とん……」
「ぉ……ぁ」
首がかくんと倒れそうになって……リルの腕が優しく支えてくれて……あ、これ、ダメだろ……傍目、エッチすぎるというか……ああ……。
「一口で……食べられそうで……つい、食べちゃいたく……なりますけど……だめ、ですよ……? まだ……食べて……あげません……」
「……ぉ、ぉぉ……」
突然声が低くなり、耳元で囁かれる。ずるい。リルだってずるいだろ。こういうのはずるいぞ。こいつ自分の声とか体温とか匂いとか、雰囲気とかそういうの、全部わかってて武器として使っている。きっと普段から、男にそういう風に接しているせいだ。クソ女と催眠は相性がいいらしい。
「貴方は……きっと、今……頭の中が、とろとろで……すっごく、幸せな……気持ち、ですよね……。私、よく……分かるんです……今、ぜったい……とっても、気持ちいいって……」
「……ぅ、……ぁ」
「いい、ですよ……だって、リルの……声で、こんな風に……とろとろに……なって、しまうのは……貴方にとって、ちょっとだけ、悔しくて……だから、とても、とても……気持ちいいこと、ですから……」
あっずるい。そこに言及するのずるいだろ。今抵抗できないんだからな。終わった。僕終わり。レシヒトさんは耐えるのをやめてしまいました。あーあ。
「だいじょうぶ……催眠、掛かってしまったから……悪く、ないですよ。悪い子なのは、リルだけ……貴方は、なぁんにも、悪くないから……気持ちよく、されちゃうのは……仕方ない、ですよね……だって、私が……練習、しなきゃ、だめなんです……お二人の、ため……気持ちよく、なって、くれますよね……」
「ぅ……ぁあ」
他の女に頭蕩けさせられているのが、ちょっとだけ、ミリちゃんに申し訳なくなってたんだけど、どうやらお見通しらしかった。そりゃあそう、リルが催眠上手になれば、ミリちゃんは自分と付き合えるようになるんだから。だからこれは仕方ない。気持ちよくなっても、いい……。
「ほら……切り並べた……お野菜を、大きな、お鍋に……入れて、しまいます。ぽちゃぽちゃ、って、ぜんぶ……入っちゃいますからね……ぜんぶ、入れて、しまうと……とても、とても、気持ちよく、なります……」
「……」
声のトーンが低く、抑揚のないものになる。自分のやり方とそっくりだ。こうすると、気持ちよくなっていた相手も静かになり……暗示として言葉を受け入れるようになる。
瞼の感覚が変わる。いつの間にか、目を閉じてしまっていた……その状態でも、感覚の変化が訪れる。自分の場合は、目を閉じたまま、筋肉が勝手に目を開けようとするように眉毛が上に引っ張られ……それでも目は開かずに、瞼が引き延ばされるように感じる。そうすると眼球と、瞼が、ぴったりと密着して――視界が、完全に真っ暗になる。
「気持ちいい……お鍋に入れられてしまうと、体中がとっても気持ちよくなって……意識が完全に、無くなってしまいます。そうすると、頭の中もとっても幸せに……美味しく、なることが……できます」
真っ暗だ。シャッターが下りたように、真っ暗。引き攣った瞼の上が、ひくひく震えてしまっているのが自分でもわかる。自分の知る限り、この眼球と瞼の不随意運動が出た相手が、催眠に落ちなかったことはない。つまり、自覚出来てしまった時点で、自分はもう完全にリルの手中であることを認めていることになる。終わりだ……。
「私が……私が、数を、5、から、0まで……数え、ますね……。0になると、お野菜はぜーんぶ、お鍋に入っちゃいます……0になると、ぜんぶ沈んで……とっても、とーっても、気持ちよく……催眠に、入ることができますよ……」
「……ぅ、……あぁ……」
しっかり、深化も……してくれるんだな……。これ、教えること、無いんじゃないかな……。何なんだ、この女……。
「ほら、5……ぽちゃぽちゃ、お野菜が……お鍋に、入っちゃう……。4……ころころ、転がって、ちゃぷん、ちゃぷ……3――」
――自分は、リルのように催眠中に俯瞰する意識が残るタイプだった。
しかし、もっと深く掛かることが、後天的に――できるようになった。
イメージはキャッチボール。術者の言葉をボールとすると、それを見て……軌道や速度を確かめて、捕る。これが普通なわけだ。自分にとって嫌な暗示や、難解な言葉をちゃんと見て認識して、考えて、避けたり、捕ったり、どうするか決める……これが、比較的多い、催眠の掛かり方。
けど、例えばミリちゃんのように、意識を手放してしまっているタイプは――そもそも、ボールを見ちゃいない。何をどこへ投げてくるか見ていない。どこに入るか、どこに当たるか、何が飛んできているか意識していない。これだと、どんな暗示でも入るし、表層意識は全くそれに関知しない。
……それ、最高に気持ちいいよね。
「2……ちゃぷん、ちゃぷ……ほら、1……ぽちゃ、ぽちゃ、あと少し……」
だから自分は、ボールを見るのをやめた。催眠状態で、何を言われているかに注意を払うのをやめた。代わりに、自分の瞼と眼球の反応、それだけを意識する。ひくひく震えて、暗闇が迫って来て、気持ちよくなって――その間、何か聞こえてくるのは、無意識に任せてしまう。これは案外、意識上でできる。
自分は表層意識を騙すために、注意を逸らしたり、暗示を意識しないような暗示を使うが……それを自分でやってしまえば、『人為的にちょろ神様になれる』というわけだ。そしてこれ、気持ちよすぎるので……一回覚えたら、気持ちよくなったらもう、勝手にこれをやってしまう。今も、そうなっていて、リルの声は気持ちよく……どこかに、勝手に、通り抜けている。
「ほら、0――ぽちゃ、ぽちゃん。ぜんぶ。全部入ってしまいました。気持ちいい、とても気持ちいいです。すうーっと沈んで、お鍋の底へ、ゆっくり下りる……沈む、沈む……気持ちいい……」
どさり。リルが背中を支える手を引いてしまうのと同時に――僕は後ろ向きに倒れ、ベッドの上に崩れ落ちた。
この瞬間の、気持ちよさと言ったら――。
――。
「――」
とても穏やかで、落ち着いた声……気持ちいい声が、自分に何か、呼びかけている。何を言っているのかは、遠くてよく、わからない……。でも、大丈夫。無意識が、この声をほら、ひくひく、ひくひく、聴いて、いるから。僕は、この声を聞かなくていい。聞こえるに任せればいい。
「――」
何が飛んでくるかわからない、キャッチボールで……目を瞑るのは、とても、勇気がいることだ。
でも、大丈夫。……この声はとても、気持ちいいから……自分にとって、幸せで、いいものだから……信じてしまえば、いい。その結果、何が飛んできて、どうなっても……ちょっと恥ずかしかったり、嫌だったりしても……きっとそれ以上に、ずっとずっと、楽しくて、気持ちよくて、幸せに、してもらえる。
だから、信頼できる相手との、催眠は……本当に楽しくて、気持ちのいいものに、できる。楽しまなきゃ、勿体ない。だから自分は――この、眼と、瞼しか、見ない。
「――、――。……」
相手を信じて……相手がくれる、楽しさを、受け入れて……いちいち、文句をつけるために、見張ったりしないで……全部任せて、笑えるように……。
催眠に、深く掛かれる人っていうのはそんな……明るくて、大らかで、人を信じて委ねることのできる……心が広く、素直に楽しいことを受け入れられる……とても、とても、素敵な人だ。
僕は心から、そういう人を尊敬するから――素直にさえなれれば……真似することもできる。
「――戻ってきた、ミリセンティアさんと出会ったとき……貴方は、ある感情に、支配されて、しまいます」
「……ん、ぁ……」
ひくひく。
なにか、入ってきている。頭に負荷が掛かっている。きっと暗示が囁かれている。
「強い、強い感情。抗えない衝動。目の前のミリセンティアさん……いえ、『ミリちゃん』に対して、抑えきれない感情が噴出して、意識は一つに塗り潰されてしまいます……。貴方はそれに従って、行動してしまう……そうするのがとても気持ちいい……だから必ず、そうなってしまいます――」
「……ぁ――」
ふつ、と意識が、途切れた。
「――。……――、――」
ひく、ひくひく。
何か、いっぱい、入って、きている――気持ち、いい――。
気持ち、いい。この声、本当に……気持ちいい。
――。
「――さあ、ゆっくり、目を覚ましましょう……ここでのことは、レシヒトさんは覚えていませんが――起きた後も、私の言葉は……深い所に、残って……います……」
「……あ……」
「ひとつ、ふたぁつ……」
そして、カウントとともに――。
「みっつ。はいっ」
午前の日差しが、ぱぁっと、意識を満たした。
◆異世界侍女の催眠練習 その3
ぱん。手を叩く音とともに、視界が一気に――明るくなった。
何だっけ。状況が分かっているつもりなんだけど、全然まとまらなくて、目は覚めたけど言葉が出ない。――この瞬間って、少し気まずいよね。術師として、ケアしていきたい部分だ。
「おはようございます」
「……ああ、おはよう」
そうだよ。リルに催眠をかけられていたんだ。それで……諸手を挙げて気持ちよくなってしまい……。恐らくは、何かの暗示を入れられていた――気がする。
「気持ちよかった……です、よね……?」
「うん……何、言われたっけ……?」
「あ、すごい……覚えて、ないんですね」
催眠状態になっていても、自分は入れられた暗示は基本的に覚えているタイプだった。しかし、意識を向けず、無抵抗に言葉を受け入れる――表層意識による監視を一切行わず、無意識にすべて委ねるようになってからは……きれいに、忘れてしまうようになった。ことによると、そもそも聞いていないのではないだろうか。それでも、しっかり無意識には届いてしまっているのが、催眠の面白いところだ。
「いいですよ……じゃあ、分かるように、して、あげますね……ほらっ」
「わっ」
がばっ。リルはいきなり、自分でスカートをめくって見せてきた。なんだなんだ? 何を考えて……って!
「ほら、分かっちゃいましたね……股下に、違和感が……ありますよね……?」
「うわあ!! おいこら、待て、いつの間に!?」
リルが穿いているのは、男物の下着だった。たぶん自分に支給されたやつと同じ、というかさっきまで自分が履いてたやつだろこれ!
言われてみれば確かにこの感触、履いてない……。は? 何? 催眠状態になってる間に脱がされた? 全く覚えがないんだけど。
「思い出せますよ……ほら、催眠で……とろーっとした意識のまま……ぼーっとしているまま……ぱんつ、脱いで……リルに、渡しました……」
「そんな、わけ……いや……え、マジ、か……?」
した、かも。手の中で確かめて、渡した……。
「そのまま……ぱんつ、履かずに……ズボン穿いて……元通り、気持ちよーく……ふわふわ、してた……いい子、でしたよね……」
「いやいやいや、わかった。前の仕返しだなこれ。降参だ降参。返してくれ……」
「え、嫌ですよ。あの時、私も……ぱんつ履かないで、お仕事、したんですよ?」
ふぁさ。スカートを戻してしまった。えっ僕ノーパンで過ごさなきゃいけないの? 待て待て。待って。だったらせめて気付かないままにしておいてくれないかな。いやそういう問題でもないけど!
「いやいや、さすがに困るって。返してくれ、ほら、ええっと……脱いでもらわなきゃ駄目か」
「そんな、白昼堂々、使用人の女を呼びつけて……下着を脱げ、と命じられるのですね……なんて、酷いことを……」
この女マジでふざけるなよ。くそ、こうやって催眠絡めておちょくられるのって、めちゃくちゃ美味しいよね。それはそれとしてふざけるなよ。
「まあ返してくれないなら洗濯場まで行くけど……しょうがないし……」
「あ、それは大丈夫ですよ」
「は? 何………」
「ほら……ちゃぁんと、思い出すことが、できます……レシヒトさんは……ぱんつなんて、脱いで、いませんよね……ずうーっと、気持ちよく、とろとろで……変なことなんて、して、いませんよ……」
「あ……?」
あれ? じゃあさっきの記憶は……?
「私が………ぱちんっ、と、手を叩いたら……ぱんつのこと、正しく……分かるようになりますよ……」
「あ? 何、え?」
「ほらっ」
ぱちん、手を叩く音がした。
ああ、そうか――リル、指を鳴らすの、できないのかも。さっきも、手を叩いて起こされていたしな――。
「あ? あー、そっか。履いてるじゃん」
「はい。レシヒトさんが履き忘れてなければ、履いていますよ。脱がせていませんから」
くそ。してやられた、自分でもよくやる暗示だ。自分、どっぷり入っていると、こうして暗示を抜かれても何て言われてたのか思い出せないことがあるんだけど……恐らく、『リルが自分のパンツを履いているように見える』というのと、『それを見ると、自分がパンツを履いていないと思い込む』という暗示だったんだろう。
だからきっと、リルは普通にリルのパンツを履いていて――。
「――あれ?」
「どうしましたか?」
あれ? ここ自信持てない。どうだった?
「……ちょっともう一回パンツ見せてくれる?」
「だめ、ですよ……何を、昼前から、破廉恥なことばかり言ってるんですか……?」
この女本当にふざけるなよ。全部わかっててすっとぼけているんだろこれ。
「いや、ちゃんと履いてた? これ本当に暗示? おい見せろ!」
「きゃー、助けてくださいー」
――。
「だめ、ですよ。どうしても知りたいなら、催眠でも掛けて、言うこと聞かせちゃえばいいじゃないですか。私のこと、素直で従順な催眠人形にしてしまいましょう。さあ」
「なんかそれで大人しく催眠掛けるのめちゃくちゃ嫌なんだけど」
「そうしたら、スカートの中もレシヒトさんのものになりますよ……? ほら、昨日みたいに……」
「お前本当にいい加減にしろよ」
駄目だ、何かもう完全にリルのペースだ。やっぱりこいつに催眠なんか教えちゃ駄目だった気がする。
「してますよ……すっごく、我慢したんですよ……? 目の前で、大好きな人が無防備になって、私の声を待ってるんです……。操って、ください、って……手綱を、渡してくれているのに……」
「昨日のしおらしさはどこへ行ったんだどこへ」
「とりあえず、ミリセンティアさんが居ないのでセーフです」
ガバガバジャッジも大概にしてくれ!!
「まあ、パンツの仕返しで済んだなら……想定よりはマシだったかもなあ」
「あら。私がそんなに酷いことをすると思ってたんですか」
「とても思ってた。何か暗示が入ってくるのを感じながら、『終わった』と思ってた」
今思い出した。こうして催眠中のことを振り返っていると思い出すことがある。
「じゃあ、楽しみにしておいてくださいね……♥」
「え? まだあるの? 待て、何をやった? お前この――」
そうだよ。別にあれが全部だって保証はどこにもない。むしろ、リルがあの程度で済ませるとは思えない!!
「私、レシヒトさんに『二人きりの間はミリセンティアさんのことを忘れて、リルのことが大好きになる』とか『毎日一度はリルの声で気持ちよくならないと、発情して勃起が収まらない』とか、すごく……入れたいのに、我慢したんですよ……?」
「ああうん。それは本当に我慢してくれてよかった。本当にありがとう……」
「えへん。えらいのですよ私は」
直球でシャレにならないから本当にやめてほしい。リルにも最低限の分別があって本当に良かった。……ん? 待てよ?
「ところで、どうして我慢してくれたの?」
「流石にミリセンティアさんに悪いじゃないですか」
「それだけ?」
「……他に理由があるんですか?」
うん。こいつがミリちゃんのことを大好きで本当に良かった……。常識があるわけじゃなかった。単にミリちゃんとの仲を応援してくれているだけだった……。
「とにかく、我慢してくれたのはわかった……助かった……」
「はい。我慢したんですから、ちょっとくらい……遊んでも、いいじゃないですか……」
「いいわけないんだよなあ」
そんな自分勝手な理屈が通るわけないだろ。知ってるか、人を操って遊んではいけないんだぞ。僕はいいけど。
「だって! レシヒトさんは、大好きな人があんなふうに無防備に催眠に入っていても、むらむらして悪戯しちゃったりしないんですか!?」
「するけどな」
「しますよね」
「それはそれ」
実際、リルにもミリちゃんにもいろいろ理由つけて悪戯したからね。でもああいうのは、やられる側も気持ちよくて楽しめる内容じゃないと。ノーパン勤務はセーフ! 僕は無罪だ!!
「むう。そんな自分勝手なレシヒトさんは、催眠で聞き出そうとはしないんですか?」
「だからそれはなんか嫌なの。無粋というか……なんか嫌」
「そう、ですか……じゃあ、こう、ですね………ほら、この声――まだ、抜けていませんよね。大好きな声……しっかり、聴いてくださいね……いえ。聴いて、しまいますよね――」
「あ、ま……て……」
ふらぁ。全然抜けてない。そりゃそう、さっきあんなに気持ちよくされて――その上で、ばっちり暗示に従って動いてしまっているのを、自覚もしている。それはつまり、逆らえませんと自分で認めてしまっている状態――催眠の深化が、充分に行われた状態だから。
「ほら……数えて、あげますから……落ちて……いきましょう。5……、4……」
――。
ぱん。
「あ……えっと、そうだ。催眠の感想だよね」
「はい、お願いします」
「総じてすごく上手だった。リルは才能があると思っていたけど、これほどとは思わなかった。何か聞きたいところはある?」
そう。『リルの練習に付き合っているんだから、ちゃんと答えてあげないと』。リルは聞きたいことが知れて嬉しいし、自分も『気持ちよかったのを思い出すと、えっちな快感が込み上げて、女の子みたいに感じてしまう』から、気持ちよくなることができる。お互いメリットしかない。
「そう、ですね……お野菜の、モチーフでしたけど、気持ちよく、なれた……でしょうか?」
野菜を切るイメージ。皮を……皮を剥かれて、剥き出しの、つるつるになった、敏感な状態で、リルに――。
「――っく、ぁっ……う、うん。きもち、よかった……すごく」
「途中……思わず、触れてしまいました……。ああいうのは、どうですか……?」
リルの手が、肩を抱いていた……。髪も、いい匂いで……あと、脚を、とん、とん、触られて――。
「――っ、ふぁっ……っくぅぅ……」
「大丈夫ですか? ああ、レシヒトさん、可愛い……♥」
いけない。『ちゃんと答えてあげないと』。
「ああいうのは、男には特に……いいと思う。アルスもきっと、気持ちよくなってしまうだろう、さ」
「良かったです……あ、あと。暗示の入れ方は、どうでしたか」
暗示……真っ暗なところで、何もわからないまま、気持ちいい言葉が入ってきて――ああ、『何が入ってきたかは、気にしなくていい』んだったな。
「ん……きもち、よかったよ……何、言われてるのか、全然覚えてないから……本当に聞いてなくて、全然入ってなかったりしたらごめん。たまにあるんだよねそういうことも」
「あ、それは大丈夫だと思います」
「そう? 分かんないけど……他に聞くことはあるかい」
「あ、じゃあ――どこが一番、気持ちよかったですか?」
え? そんなの、思い出したら――。
「う、あ♥ だ、だめ、とんとん、切られるのも、っ、ぽちゃぽちゃ、するやつも、あ゛♥ すき、で、あ、あと、落とされて、倒れるの――っ、お゛、ぉおぉぉ……っ♥」
「そう、ですかぁ……気持ち、いいですね……教えてくれて、『ありがとうございました』」
あ。『リルにお礼を言われると、女みたいにイって、この暗示を思い出す』んだった。
「ぉ――、あ、あー……お、ごっ♥ イ゛、ってる、これ……」
そうだよ。さっきから気持ちよくされてるじゃん。思い出した。遅いんだよバカ!!
「可愛いから、許してあげますね……。ほら、よしよし……おやすみなさい――」
絶対、こいつに催眠を与えたのは、失敗……だっ、た――。
――。
「……レシヒトさん、起きてください。もう昼前ですって、もう」
ん……?
「リルか……?」
「違いますよ。私です、帰ってきたもので。それで、連絡が――」
あ、ミリちゃんだ。昨日と同じドレスを着ている――。
「――は?」
ミリちゃん、と認識した瞬間――自分は、ベッドから勢いよく飛び起きた。
寝ている場合じゃない。心臓が早鐘を打つ。早く、早く、早く。強烈な衝動に叩き起こされた。いる。目の前にいる。どうして忘れていたんだ。自分は、自分は、この子を。この女の子を、絶対、絶対に。こうして、こうしてやらなくては。
「ミリちゃん……!」
「は、はい。ミリちゃんですけど、いやミリセンティアですミリちゃんじゃないです。けど今更ですよねうんミリちゃんでもまあ一応は――」
――我慢などは、一瞬もできなかった。
「ミリちゃん、ごめ、ん……っ」
「んぶっ!? ふ、んぅうっ!!??」
気づいたときにはもう――彼女を抱きすくめ、一直線に……唇を奪っていたのだ。
◆宮廷魔術師の朝帰り
――は?
意味がわからない。ここまでのことを整理しよう。うん。
アルスさんの部屋で目覚めて……変な姿勢で寝たもんだから、少し痛む身体を起こして……毛布――そういえば彼が掛けてくれたんだったっけ――を畳んで、気まずそうに紅茶を差し出すアルスさんにお礼を言ったわけですよ。昨日のことは完全に私が悪いわけだから。
確かに彼は何も知らずに私とレシヒトさんのことを軽く見るようなことを言ったけど――まあ、その程度のことだし。私の怒りっぷりは過剰で、とてもヒステリックだったと思う。自分でも驚いたんだからわかる……嫌になる。女扱い、子供扱いに反発して、怒れば怒るほど――いかにも女、まるで子供、そんな自分に嫌気が差すのだ。
そんなとってもモヤモヤした気分でアルスさんの部屋――副団長ともなると、立派な私室持ちだ――を出ると、道すがらミライさんに呼び止められた。あのクソ嫌味女の神盟者ですね。あまりの不幸な境遇に同情するけど今はあまり関係ない。
で、彼女の言うところによると、聖王陛下がお呼びなのだそうで。2時に、両魔術師、神盟者を伴って参上せよとのことだ。
うむ。私はそれでレシヒトさんを呼びに来たのである。早めに伝えておかないと身支度も間に合わないし。
「ん……ん、んぅー……」
「んんっ、んむうぅ、んんむぶっ!?」
さて。ではどうして私は今――。
――レシヒトさんに、熱烈な、キスを、されているのだろう。
「んふ、ふー、んんん……ミリちゃん……ああ、可愛い……んむっ……」
彼は、私を抱きしめて離さない。そのまま、あ、頭――撫でられていますね、これ。めっちゃキスしながら。そういうの駄目だと思います。
「んぅ……ん……うー、うー!」
嫌すぎる。いやまあ、彼のことは嫌いじゃないですよ。なので、されていることは実際そこまで嫌じゃないけど。こうやって可愛がられるとすぐ嬉しくなっちゃうのが嫌なのである。
まあ、嬉しくなってきちゃうんですよね。なってます。なったが? 私は撫でられると喜ぶタイプの魔術師だが?
「いい子……だね、ほら、んちゅ……」
「ぷあ、え、何? んぶっ! んん……」
なんでこんなことになっているのかさっぱり分からない。ちゅっちゅなでなでの暴力はなおも執拗に続けられており、上を向かされているので背筋が反る。だからそこで腰に手を回すのはよくないんですよね。わかるか?
「んん……ん、ふう……ミリちゃん、大丈夫だった……?」
「今まさに大丈夫じゃないですが?????」
マジで何? 心配されてる?
「上手くいった? しんどい思いはしてないかな。とにかく、がんばったね……!」
「は? え? はあ???」
ぎゅうーなでなで。何? どういうことですかこれは。さては夢ではないか? さてはまた私、妙な催眠に掛かってる?
「しんどかったよね……よしよし、よしよし……可愛いねー……」
「う、うう……うー!」
ふざけるな。こんなの嬉しくないわけがないでしょ。何も意味は分からないけど、実際、私は確かにしんどかったのだから。
「『練習』したのは大丈夫だった? 痛い思いはしなくて済んだかな」
「あ、はい……それは、まあ……お陰様で……?」
いやこれ恥ずかしいんですけど??? 貴方にぐちょぐちょにされまくったお陰ですっかりすけべな身体になったので無事にエッチできましたって言わされてるわけですよこれ?
「あ〜、良かった!」
またしてもぎゅー。何なんだ。どうなってるんですかこれは。
「でも、やっぱりそんなに良いものではなかったですよ……」
私は何を、娼館でご卒業された童貞さんみたいなことを言ってるんでしょうかね。でも、はい、まあ……身体の方の負担はなくなって、むしろすごく気持ちよかったけど……それでも、アルスさんとのああいう時間は、嬉しいものだとはあまり感じられなくて。一緒にいることで、安らぐよりも疲れることが多くて……その最たるもの、というのは変わっていなかった。
「そうか……残念。期待に応えてあげられなくてごめんね……よしよし、よしよし……しんどかったね……がんばるミリちゃんは、可愛いなあ……えらいなあ……」
こいつどうあっても私を甘やかすつもりだな? その手には乗ってしまいますよ。私はちょっと弱っているので。私は対人ストレスが限界に達すると赤ちゃんになるので!
「う、うー!! ううううう……! なんでですか、なんで、あんなこと言うんですかあの人……!!」
ほら涙出てきた。結局私はこうなんですよ。だから甘やかしてくれなきゃ駄目なんですよ。
「いい子、いい子……ミリちゃんは、がんばり屋さんだねー……なで、なで……」
「私はすごいんですよ、偉いんです。だからもっと褒めてください」
「よしよし……そうだよ、ミリちゃんはすごい。とっても可愛くて、賢くて、かっこいいよ」
「かっこいい!? 私かっこいいですか!?」
可愛いのはわかります。賢いのも当然。でもかっこいいんだ。私かっこいいんだ……! かっこいい魔術師様になれるんだ。私かっこいいんだなあ……。
「かっこいいよ、ミリちゃんはすごい。それにがんばってる。えらい、えらい……えらいねえ……」
「えへ、えへへへ……えへへ」
褒められると嬉しい。そもそも私はみんなに認めて欲しくて今の仕事をしているんだから、それを褒めてくれないのはおかしいのだ。ちゃんと褒めを供給しろ。不当な待遇には断固抵抗する。
「しんどかったね……がんばったねぇ……うう、ごめんね、ごめん……」
「うう、うえぇえ……本当に、そうですよ……」
めそめそ泣いているけどしょうがない。こんなの泣くので。でも――。
「いい子、いい子……ミリちゃんは、とってもすごいんだよ……よしよし……」
「うううう、好き? ミリちゃんのこと好きですか?」
「好きだよ……好き、賢くて可愛くて、かっこいいミリちゃん、好きだよ……」
「ううー! ぐす、うっ、うー……どれくらい? どれくらい好きなんですか」
ずるいことを聞いている。こんなに優しいのなら、絶対好きって言ってくれるのに。分かってるのにわざわざ聞く。聞いたって、言ってもらえたって、本当のところは分からないのに……それでも聞きたくなっている。
「大好きだよ。世界一すき。いや違うな、世界2つ分より好きだよ。ほら、なでなでしようね……」
「うあー! うー、うー!! しゅき……」
あまり賢くもかっこよくもなくなっている気がする。駄目なのに。
「一番好き……ミリちゃんのこと、一番好きだよ」
「だったら、だったらあ……どうして? どうして、行かせたんですか? どうして、止めてくれなかったんですか――!」
――あーあ、言ってしまった。だめなのに。だめなのに、だめになっているから。
「ごめんね……」
ぎゅ。あったかい。
「……まだ、許さないもん。もう一回……ん、ええと……」
――もう一回キスしてくださいよ。とは、言えなかった、けど。
「ミリちゃん、ごめんね……」
ちゅう。
言う必要は別に無かったみたいなので、助かったと思う。
「うう……ごめんなさい。ごめんなさい……」
なんだか急に恥ずかしさが押し寄せてきて、肩を押して離脱を試みる。こういうときつい謝ってしまうのは良くない癖であるように思う。
「よしよし……ミリちゃんはなーんにも悪くないよー……」
それですよ。いくらなんでもおかしい。なんでいきなりキスされて、私はこんな風になっているんだ。しゅき……♥ じゃないのよ。どう考えても何か怪しげな催眠が作用しているはずだった。ミリセンティア・ディッシェはこの程度の甘やかしで絆されるような小娘ではない。断じて!
――そうしてしばらく、ちゅっちゅなでなでの猛攻をやり過ごすと。
「……あれ」
レシヒトさんが突然、固まった。
「どうしたんですか」
「いや、思い出した……」
思い出した? 忘れてたということなのか、私に何をやったのか。私も当然覚えてないのでぜひ聞かせて欲しいのですが。
「何を?」
「いや……うわあ、どうしよう……ミリちゃん、ごめん……」
「いえ別に……そう悪いものではなかったので……むしろ、いや違う。違うぞ。私こそ、変なこと言ってごめんなさい」
むしろ最高だったとかそういうのはいい。調子に乗らせてはいけない。
「いや、なんか……リルさんに催眠を掛けられてさ」
「はあ。ついにリルちゃんのせいにし始めた……?」
てか、リルちゃんはそんなことができるようになったんですか? 危険では? 掛けられてって誰に? 私のさっきの気持ちはリルちゃんのせい?
頭の中が『?』でいっぱいになり始めた。
「うん……結論から言うと、さっきミリちゃんにしてしまったことは、リルさんの後催眠暗示のせい」
「はあ? え?」
は? ねえ待って。さっきの甘やかし? 全部? レシヒトさんじゃないってことですか。おいこら。喜んでしまった私を返してくれませんか。
「そういう事情があったとはいえ、いきなり酷いことしちゃったな……びっくりしたよね、ごめん」
「え、いや、その、嫌じゃな……い、いいー!! うがー! やだー!!」
ばたばた。暴れる。恥ずかしすぎる!
「うう、ごめんね……傷つけて困らせてしまったことには変わりないし」
「いや今まさしく傷ついているんですが」
「やっぱりリルさんに技術を与えたのは失敗だった……!」
教えたのか。それでできるようになるものなんでしょうか。私はできる気がしないんだけど。確かにリルちゃんいろいろやってたもんな……。
「えーとつまり、キスしてく……きたのも、撫でてくれたのも、レシヒトさんじゃなくてリルちゃんがやらせたことだったんですよね」
「まあ……そうなる。暗示の内容がようやく思い出せたけど、『ミリちゃんを見ると、ものすごく可愛がりたくなる。普段我慢して遠慮していたことをしてあげたくなる』ってやつで……」
「ん?」
あれ? そうするとちょっと話が違ってくるのでは。つまりそういうこと?
「いやごめん、本当に全然我慢できなくなってた……可愛くて、可愛くて、頭の中それだけになっちゃって……」
「待ってください。つまり、リルちゃんが、レシヒトさんを、我慢できなくさせた」
「うん。めちゃくちゃ催眠の才能があるんだよあの子。怖い」
それはなんとなくわかる。というか今後を考えると私だって怖い。私に催眠でイタズラする人が増えるんですよね?
「ええと、すると……してくれていたのは、レシヒトさんが、普段したかったこと?」
「うぐ……ま、まあ……そうだよ」
なんだ。それなら……それなら、いい。喜んで損したなんてことはなかった。むしろリルちゃんにちょっと感謝してもいい……ことはないな。それはないわ。
「催眠暗示って、解釈の幅や行動への現れ方は、受け手に依るところがあるからね。リルさんはちゃんと催眠するの初めてだから、そこらへんにあまり気を遣わなかったんだと思う」
「同じ暗示を入れても、どういう結果になるかは解釈次第ってことですよね」
「そう。だから当然、術者の意図と違う現れ方をする場合もある。本来、催眠術師はそういうのに気をつけたり、責任を持たなきゃいけないんだけど……リルさんにはまだ、そこまで教えてはいなくて」
教えたとて、リルちゃんがそういうモラルをきちんと持ち合わせているかどうかはかなり怪しいのではないかと思う。
さて。整理すると、リルちゃんはどうやら、レシヒトさんに『ミリちゃんを可愛がりたくなって、普段やりたかったことをやってしまう』という暗示を入れていた。その結果レシヒトさんは私にちゅっちゅなでなでの暴虐を浴びせ、甘やかしの洪水に巻き込むに至ったと。
でも、リルちゃんがどこまで想定していたかは分からないというわけね。納得。
「……つまり、リルちゃんはレシヒトさんがそこまでするとは思ってなかったんじゃないか、と?」
「じゃ、ないかなあ。うぐぐ、だって仕方ないじゃん……」
ふんふん。なるほどなるほど。つまりレシヒトさんは、あんなことしたいほど私のことが好きで、心配で、可愛いと思ってて、甘やかしたかったということですね。ほーん。
ふむふむ。これは悪い気はしませんね。褒めの供給源は豊かであるほどよいので。
「まあ、そういうことだから……本当に、ごめん。リルさんにもちゃんとそのへん伝えていなかったし、結局自分が悪い」
「いやそれはいいですよ。別にどうしても嫌なことをされたわけじゃないし」
「嫌じゃないんだ」
「……嫌がった方が良かったですか?」
相手が自分のことをそんな風に思ってくれていると思うと、気持ちにもちょっと余裕が出てきた。なんか汚いと自分でも思うけど、とりあえず落ち着いてきたのは良いことだ。
「それよりも、レシヒトさんは嫌じゃなかったんですか。私に、あんなことさせられるの」
「全然。普段から可愛くてしょうがないし。そもそも、したいことをしちゃう暗示だったわけで」
「よくもまあ言えるなそんなこと」
この人ときどき羞恥心壊れてるんじゃないかと思うんですよね。リルちゃんはそもそも無いっぽいけど。
「あと、催眠に掛かってる間ってすごく、気持ちいいんだよね。特に行動や思考を操られているときは、暗示に従っているとすごく楽しいし、幸せになってる。後で思い返さないとわからないんだけど」
「あ、分かる。服従の快感……危ないやつですねこれは」
特に、恥ずかしいことや嫌なことをさせられているときのことは、思い出すとヤバい。何だかとても気持ちいいものに、知らない間に意思を曲げられている感覚。あれは本当に気持ちいいし、無限に嫌なことを強制されたくなる。破滅ですよ。
嫌なことをさせられた結果、嫌なことが起きるのはすごく嫌なんだけど……やらされている間は、間違いなくめちゃくちゃ気持ちいいんですよね。困る。
「とても危ないから、掛ける側には責任が伴うわけ」
どうしてよりにもよってリルちゃんにそんなものを教えてしまったんですか? こればかりは後で話し合いが必要な気がする。
「そういえば、レシヒトさんもそんな風に催眠に掛かるんですね」
「……まあね」
ちょっとだけ親近感が湧かないこともなかった。リルちゃんがそこまでできるんだったら、今度掛かってるところを見てみたいと思う。
「レシヒトさんの方はわかりました。で、私にはいつ何をされてたんでしょうか」
「え? ミリちゃんには特に今は何もしてないと思うけど。気持ちよくなる『練習』だけで」
「あれ?」
じゃあさっきのでまんまとデレデレになっていた私は?
「リルさんも多分、何かする暇は無かったんじゃないかな。ここに来る途中で催眠掛けられてなければ……」
「……えーと? 多分、挨拶しただけ、かな……?」
記憶では、1階でリルちゃんに会って、レシヒトさんのことを聞いただけ。『上でまだお休みなので起こしてあげてください』って言ってたか。それだけ。
催眠で記憶を変えられている可能性はある。あるよね?
だってそうじゃなかったらあれは?
キスしてもらって腰砕けてたのは?
なでなでされてデレデレになってたのは?
めそめそ泣いて愚痴ってたのは?
褒められてへらへら笑ってたのは?
あまつさえ、もう一回キスして欲しくなっていたのは???
「じゃあ多分ミリちゃんは素だったんじゃないかなあ」
「うわあああああああああああ!!」
――間違いなく、今日一番傷ついた。
<続く>