Preceding Stage サヤカ 仕込み編
後編 布石
――秋月紗耶香
5月21日、PM4:52 ガルマリーニ社。
昨日の夜は遅くまで彼とセックスをしていて、そのあと少しだけ眠って、今朝早くに自分の部屋に戻って着替えてから出勤した。
だから、今日は一日少し眠たかったけど、あんなに気持ちのいいセックスをしたのは初めてだったから気分はすっきりしていた。
ちょっと遊んであげるだけのつもりだったけど、ああいうのも悪くはないわね……。
そんなことを考えていたとき、スマホが鳴った。
『あ、もしもし、津雲ですけど』
出てみると、彼からだった。
「あ、どうも……」
『どうですか、秋月さん、今夜も一緒に食事でも?』
「えっ?あの……それは……」
電話の向こうで食事を誘ってくる彼の言葉に、さすがに口ごもってしまう。
それは、昨日はたしかに悪くはなかったけど、だからといって彼に心を許しているわけでも、そういう関係になったつもりでもない。
だいいち、彼は私に……。
『ね、いいでしょう?”ミーア・マリオネッタ”』
……またこれね!
彼は、催眠術をかけて私のことを思うままにできると思っている。
その合い言葉がミーア・マリオネッタ……イタリア語で私の操り人形だなんて、癪じゃないの。
でも、彼とのセックスが良かったのは事実なのよね……。
だから、もう少しぐらい遊んであげてもいいかしら?
私が彼の操り人形だなんて思うと少し癇に障るけど、それは事実じゃない。
そうよ……彼は私のことを弄んでいるつもりなんでしょうけど、私はあくまでも催眠術にかかったふりをしているだけ……。
遊んであげているのは私の方なんだから。
「わかりました」
だから、 彼の誘いに私はそう答えていた。
そして、夜……。
食事の後でホテルの彼の部屋に行き、抱き合って口づけを交わしながら彼が私の服を脱がせた。
そのまま、通りに面した窓際まで私を連れて行く。
「ぁんっ!……つ、津雲さん……こ、これはちょっと……」
窓に押しつけられて、ガラスの冷たい感触が胸に当たる。
「こんなところ……誰かに見られでもしたら……あんっ!はんんんうっ!?」
彼の手が股間に伸びてきて、クリトリスを軽くつまんだ。
熱い痺れが体を駆け抜けていって、思わず喘ぎ声が洩れる。
「見られそうなのが感じるんでしょう?」
「そんなっ……あうっ!んんんんっ!」
「でも、秋月さんのここ、こんなに濡れてますよ?」
「そっ、それはっ……あぁんっ!」
彼の指先が、アソコに潜り込んでくる。
やだ……私、こんなに感じてしまってる……。
入り口の敏感な部分をかき回されて、ゾクゾクッと快感が走る。
それに、クチュッと湿った音が聞こえるほどに濡れてしまってるのが自分でもわかるから、なにも言い訳できない。
「ね?感じてるんでしょう?」
「はんんっ……かっ、感じてますけど……っ!」
「気持ちいいんですよね?もし、本当に嫌だったら止めますよ」
「嫌というか……ちょっと恥ずかしいだけでっ……」
たしかに、感じてるのは事実だし、恥ずかしいけど嫌というほどでもない。
それにこの、窓際でこんなことをしてるところを誰かに見られたらと思うと妙に胸がドキドキする感覚……。
こんな不思議な感覚は初めてだけど、 少なくとも、すぐに止めてくれと言うほどではない。
「ああ、でも、少し恥ずかしいくらいの方が感じやすいって言いますからね」
「そっ、そうなんですかっ?……はんっ!……あっ、つ、津雲さんっ!」
今度は、窓ガラスと胸の間に彼の手が入り込んできて、乳房をぎゅっと掴む。
「きっと秋月さんは、誰かに見られるかもしれない、そんなシチュエーションが感じるんですよ」
「そんなことはっ……はうっ!あぁあああああんっ!」
股間に、彼のペニスが当たるのを感じる。
次の瞬間、私のアソコは固くて熱いそれをいとも簡単に呑み込んでいた。
こみ上げてくる快感に、全身がたちまち熱くなっていく。
「あんっ!ああっ!はうぅっ、津雲さぁんっ!」
「すごい感じようですね。やっぱり、こういう状況でするのがいんですね?」
「そっ、それはぁあああっ!んっ、あぁんっ!」
……もしかしたら、彼の言うとおりなのかもしれない。
昨夜も、今までで初めてなくらいに感じていたけど、今夜の方がもっと感じてる。
本当に私は、こういう人に見られるかもしれない状況で感じるタイプなんだろうか?
自分にこんなところがあるなんで、今まで知らなかった……。
「……おや?向かいのビルに人影が見えますね?」
「……ひぃっ!?」
通りを挟んだこのホテルの向かい側のビルの、正面の窓に彼が言ったとおり人影が見えて、心臓が縮み上がりそうになる。
「ははは、向こうがカーテンを開けさえしなければ大丈夫ですよ。それにしても今、ものすごく締めつけてきましたね」
「やだっ、そんなこと……っ!あふぅううううっ!」
たぶん、人に見つかるかもしれない恐怖で体の筋肉が収縮したのだと思う。
アソコのあたりが痙攣しているのが自分でもわかる。
そんなところに、彼のペニスが抉るように入ってくる。
さっきまでよりも、ずっと固く大きくなっているのも、私の締めつけがきつくなっているからなのだろうか?
「あううううっ!はうっ……あっ、あああっ!」
向かいのビルの人影はたしかにカーテンの向こう側にいるし、窓からは少し離れた位置にいるみたいだった。
……だけど、もし窓際に来てカーテンを開けたら?
「ううっ……はぁあんっ、んっ、んくぅううっ!」
もし向かいのビルの人がこっちに気づいたらと思うと胸がドキッとなって膣が震えるのを感じる。
それは、どこか興奮に似ているような気がする。
そこに追い討ちをかけるように、彼のペニスが私の中を蹂躙していく。
もしかしたら、私は本当は誰かに見られることを期待してるのかもしれない。
だからこんなに感じてしまっているのかもしれない。
全身を包みこむ狂おしいほどの快感に、もう冷静に考えることなどできなくなっていた。
「ああっ、気持ちいいっ!気持ちいいですぅうううっ!」
半ば意識が飛んだような状態になりながら、いつしか私は彼の動きに合わせて自分から腰をくねらせていた。
* * *
――津雲雄司
5月27日、PM20:28 リストランテ アントネッリ。
あれから1週間、俺は毎晩紗耶香を呼び出してはその体を貪った。
もちろん、あの合い言葉で誘い出して。
彼女は自分の意志で催眠術にかかったふりをしていると思っているだろうが、全ては俺の筋書き通りだ。
紗耶香は本当に嫌なことをされそうになったらいつでも断れると思っていても、そもそも彼女の深いところには俺にされることを不快に感じないという暗示を植え付けてある。
それも同時に、俺にされることは気持ちよく感じるという暗示によって快感を感じさせながらだ。
だから、俺がさせようとすることを、彼女が断れるはずがなかった。
そうやって、俺はこの1週間の間、彼女の痴態をさんざん楽しんだ。
そして、明日はいよいよ日本に戻らなければならないというこのタイミングで、俺は最後の仕込みをしようとしていた。
紗耶香が、自分の方から俺のものになりに来るための布石を。
「”靄に霞む森で美女は眠る”」
「……うっ」
食後、エスプレッソを飲みながら寛いでいる頃合いを見計らって合い言葉を言うと、紗耶香は虚ろな表情になって小さく呻き、そのまま背もたれに体を沈ませる。
その姿は、糸の切れた操り人形そのもののようだ。
「津雲雄司という男のことを、きみはどう思う?」
ぐったりとしている紗耶香に訊ねると、抑揚のない口調で返事が返ってくる。
「……少し癪に障るところもあるけど……悪くはないわね」
「癪に障るというのは?」
「彼……私に催眠術をかけて、自分のいいようにしているつもりなのよ。……私はわかっててかかったふりをして遊んであげてるけど……やっぱり癪に障るわ」
紗耶香の言葉に、思わずにやついてしまう。
俺が暗示をかけたそのままに、自分が遊んでやっているのだと、自分の方が優位なのだと彼女が思い込んでいることがおかしかった。
「それで、彼とのセックスは?」
「……いいわ……すごくいい。……今までした……どんなセックスよりも気持ちいいわ……もう、クセになりそうなくらいに……」
そう答えたとき、虚ろだった紗耶香の表情が心なしか緩んだように見えた。
なにより、その返事が、そして、この1週間の俺に見せてきたいやらしい姿が、彼女が俺とのセックスに溺れていることの証だった。
「ところで、彼は明日日本に戻る。それで、その前に自分のところで働かないかときみを誘ってくるけど、それに対してきみはどう思う?」
「……それは……彼とのセックスはいいけど……私は今の仕事が好きだし……その誘いは受けるわけにはいかないわ……」
ボソボソと返って来る紗耶香の言葉。
それも、想定の範囲内だった。
いくら彼女が俺とのセックスを楽しめたとしても、所詮はそういう関係だということだ。
だから、今はそれを否定したりはしない。
「そうだね。今の仕事を捨ててまで彼について行く義理はないしね」
「……そうよ」
「だから、きみは彼の誘いを断ることにするよ」
「……当たり前だわ」
俺の方をぼんやりと見たまま、紗耶香は首を縦に振る。
「でもね、それはそれとして、もしかしたら今の仕事はきみが本当にしたいことじゃないかもしれない」
「……私が、本当に……したいこと?」
はじめに打ち込むのは、ほんの小さな楔。
その言葉に、紗耶香が昏く虚ろな視線をこちらに向ける。
「そう。これから言うことをよく聞くんだ。きっと、きみが本当にしたいことは他にあるんだよ」
「……他に?」
「ああ。それがなにかはまだわからない。だけど、どこかに自分が本当にしたいことがあるような気がしないかい?」
「……そうかもしれない」
反応は鈍いものの、俺の言葉に紗耶香が表情を曇らせた。
いくつもの可能性に含みを持たせた、はっきりと否定しにくい言葉が、彼女の心にさざ波を立てさせる。
そうやって、楔を打ち込んだ割れ目を少しずつ大きくするように、その心に立った波紋を大きくしていく。
「だから、ここじゃないどこかにそれがあるように思えて、きみは今の仕事を楽しめなくなるよ」
「……本当にしたいことがあるように思えて……今の仕事を楽しめない」
「それだけじゃない。きみは仕事だけじゃなくて、他のどんなことも楽しいと感じなくなる。それに、どんな快感もだ」
「……私は、どんなことも楽しいと感じないし……どんな快感も感じない」
「彼とのセックスで感じたような快感は、他では得ることができない。きみはもう、彼、津雲相手でしか快感を得ることができないんだ」
「……私は、彼相手でしか……快感を得ることは……できない」
「そうだ。きみはこれから、彼なしではなにをしても楽しめないし、気持ちよくもなれない」
「……はい」
人形のように表情のない紗耶香が頷く。
それを見届けると、俺は彼女を起こすことにする。
「とりあえず、今のことは心の奥にしまっておくんだ。きみはただ、彼と食事に来て、普通におしゃべりをしていた」
「……はい」
「じゃあ、僕が肩を叩くときみは目を覚ますよ」
そう言うと、俺は彼女の肩を軽く叩いた。
* * *
――秋月紗耶香
5月27日、PM20:45 リストランテ アントネッリ。
「秋月さん?秋月さん!?どうしたんです?」
肩を叩かれて、ハッと我に返る。
「えっ?……私?」
彼が、私の肩を掴んで心配そうにしていた。
私は……今夜も彼と食事に来てたはずだけど……。
「なんか、ぼんやりしてたみたいですけど、大丈夫ですか?」
……たしか、食後のコーヒーを飲みながらおしゃべりしてたはずよね?
なんか、一瞬意識が飛んだような気がしたけど、きっと気のせいだわ……。
「あ、いえ……大丈夫です……」
そう言って笑顔を作ると、彼も安心したような表情を浮かべる。
「なんか、ボーッとしてしまって……寝不足かしら?」
「すみませんね、お忙しいのに僕が毎日誘うから」
「いえ、そんなつもりで言ったんじゃないんです……」
慌ててごまかしながら、思わず顔が赤くなってしまう。
実際、このところ少し睡眠不足気味だった。
それというのも、彼と毎晩遅くまでセックスしてるからだし……。
「ところで、秋月さん」
「……はい、なんでしょうか?」
彼が急に真顔になったものだから、こちらも真面目に聞き返す。
「明日、僕は日本に帰る予定です」
「……そう……ですか」
その言葉を聞いたとき、少し残念に思う気持ちがあったのは否定しない。
ただ、彼はあくまでもビジネスでこちらに来ているだけだし、もうすぐ向こうに戻るはずだというのは自分でもわかっていた。
でも、その後に続いた彼の言葉は、全く予想していないことだった。
「あの……こんなことを言うのは不躾かもしれませんが、僕と一緒に日本に来てくれませんか?」
「……えっ!?」
だから、私が驚いて聞き返したのも無理からぬ話だった。
「今回、秋月さんの仕事ぶりを拝見さていただいて、貴方みたいな人に僕の店で働いてもらえたらと思ったんです。だから……」
そう言った彼の顔は、真剣そのものだった。
私としても、そう言われて悪い気がしないはずはない。
しかし、私の答えは決まっていた。
「そう言っていただけるの嬉しいですけど……申し訳ありませんがその提案にはお応えすることができません。私は、今の仕事が好きでここにいるんですから」
「そうですか……」
「すみません。別に、津雲さんのことが嫌だとか、そんなのではないんです。ただ……」
「いえ、いいんです。秋月さんの仕事に対する情熱をわかっていてこんなことを頼んだ僕がいけないんです。こちらこそ、無理なお願いをしてしまって」
心なしか肩を落としている彼の姿を見ると、悪いと思わないではない。
しかし、私は今の仕事に就きたくてわざわざ単身イタリアまで来たのだから。
それを、こんなことで捨てる気はない。
彼とも、そんな関係ではないし。
あれは、あくまでも私が遊んであげただけ。
それはたしかに彼とのセックスは悪くなかったけど、ただのお遊び。
それ以上のことではない。
……まあ、またこっちに来ることがあったら遊んであげてもいいけど。
結局、彼とはそれっきりになった。
でも、別に後悔はしていない。
あれは、行きずりの男とのお遊びが、予想以上に楽しめただけのことなんだから。
彼とはその程度の関係だと、自分でもその時はそう思っていた。
そのはずだったのに……。
*
*
*
彼が日本に戻ってから、なにかが変だった。
今の仕事はすごく楽しくて、全てが充実していたはずなのに。
毎日やる気に溢れていて、やりがいを感じていたというのに……。
このところ、仕事をしていて充実感を感じることがない。
与えられた仕事をルーティーンとしてこなすだけのように思えて、かつてのようなやりがいも面白さも感じない。
感じるのは、胸にぽっかりと穴が空いたような、熱が冷めたような、そんな思い。
砂を噛むように味気ない日々だけが過ぎていく。
毎日の退屈な生活を紛らわせようと、仕事終わりにエノテーカ(酒場)に行ってワインを呷る。
そんなことも、以前にはなかったことだ。
しかし、そうやってひとりでお酒を飲んでいても、ちっとも楽しく感じない。
そんな時に、ふと彼のことを思い出すこともあった。
だから、せめてセックスの快感を得ようと、酒場で声をかけてきた男と一夜をともにしたこともあった。
だけど、全然満足できなった。
いや、満足できないどころか、まったく気持ちよく感じなかったし、楽しめなかった。
それで私は、自分のこの喪失感がどこから来ているのかを悟った。
自分で思っていた以上に、私は彼とのセックスを気に入ってしまっていたらしい。
少し倒錯的だけど、彼の催眠術にかかったふりをして、普段の自分なら絶対にしないような行為に没頭することで得られる快感を体が覚えてしまっているのに違いなかった。
だから、彼でないとあの快感は得られない。
1週間という短い間だったけど、彼と過ごした日々は、それだけ私の中で大きなものになってしまっていたのだ。
それでも、だからといってすぐに仕事を辞めることは躊躇われた。
しかし、日を追うごとに喪失感は増していき、なんの面白みもない、味気ない日々が私の上にのしかかってくる。
そうやって、鬱々として楽しめない生活をなんとか我慢していたけど、それも限界に来たとき、私は決心した。
* * *
――秋月紗耶香
9月2日、AM11:05 成田国際空港。
入国手続きを終えてターミナルを出た私は、駅の方向に歩き始める。
彼が日本に戻ってから3ヶ月。
私は、会社を辞めて日本に戻ってきた。
もちろん、彼にはまだ連絡はしていない。
いきなり訪ねて行った方が驚かせることができるだろうし、彼のことを追って日本に戻ったと思われるのはやはり癪だった。
「”ラ・プッペ”……ここに……ここに行けば彼がいるのね……」
9月とはいえ、まだまだ夏のきつい日射しの射す中、帽子を目深にかぶった私の手には、彼から手渡された名刺が握られていたのだった。
< 続く >