第零章 はじまりの季節
裸電球が天井で左右に揺れている。
さっきあいつが私を脅かそうと大きく動いたときに体でも触れたんだろう。
しばらく天井を見ている間に、電球の動きはゆっくりと止まった。
しばらくすると、あいつが私の顔を覗き込むようにして現れた。服は着ていない。先ほどまで聞こえていた声から察するに、十分に母と妹の身体を楽しんだんだろう。ところどころに見える球の汗に、私は嫌悪感を覚えた。
「さぁ、待たせたね。今度は夏帆姉ぇ番だよ」
目の前でニタニタとしたほほえみを浮かべながら、私の肢体をねっとりとした視線で上から下へと見やる。
さっきからこの繰り返しだ。
目の前に現れては視界から消え、そして遠くで母と妹の嬌声を響かせては私のところに戻ってくる。
もういい加減にしてほしい。
遠くから、再びなまめかしい水音と嬌声が聞こえてくる。
このBGMもいい加減に嫌になってきた。
本当にいい加減にしてほしい。どうして私がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
私は思い切って体をよじってみた。
動かない。
両手足をベッドに括り付けられているせいか、指先が冷たく感じる。そんな私の姿を見て、こいつはまたニタニタと微笑む。
本当に最低な奴。
こいつは私が音を上げるのをずっと待っているのだ。
何か私にするわけでもなく、ずっとこの部屋であの声を聞かされ続けて、私が滅入ってこいつに助けを求めるのを、すがりつくのを待っているのだ。
本当に最低な奴だ。
こんな奴が、義理とはいえ私の弟だったなんて考えただけでも嫌になる。
私が軽蔑の視線を向けていることに気づいたんだろう、
「いい目だねぇ、夏帆姉ぇ。その目、本当にそそられるよ、ひひっ」
そう言いながら私の顔をにぐっと自分の顔を近づけてきた。
ぽたりと私の顔に汗が垂れる。
「いい加減疲れたろう? もう降参しちゃいなよ、夏帆姉ぇ。ほら、あの二人は夏帆姉ぇと違ってすぐに降参したよ?」
そう言いながら私の髪を触り始めたその手を、頭を強くふってふりほどき、
「ふんっ、誰がそんなことするもんですか。あんたなんかに降参するくらいなら、死んだほうがましだわ」
私は強い口調でそう述べた。
すると先ほどまでの下卑た笑みが消え少しだけ低い声色で、
「おいおい、夏帆姉ぇ。何か勘違いしてない? 死んだほうがまし? ふんっ! 夏帆姉ぇがそんなにも強気でいられるのも、俺がそう望んでいるからだってことがわからないの? 夏帆姉ぇの生殺与奪の権利は俺にあるんだ。俺がそう望まないから夏帆姉ぇは今みたいに強気の自由意志のままでいられるんだ。俺はいつだって夏帆姉ぇを好きにできる。その気になれば、ほら、あんな風に!」
そう言うと、こいつは私の頭をぐっとつかみそのまま無理やり横を向かせた。
私の視線が向いたその先に二匹の獣がいた。
「あああっ! あっ! あひぃぃっ! 気持ちいいぃ! 気持ちいいのぉ、春香ぁぁ! もっと、もっと突いて! 私のいやらしいオマンコを、あなたの太いのでついてほしいのぉぉ!」
「母さん! 母さんっ! 私も、私も気持ちいいのぉぉ! これぇぇ、私の中にも入ってきて、すっごくいいぉお!」
私の母である冬美が、自分の実の娘、私の実の妹である春香に犯されている。
双頭ディルドウを自らの股間に突き刺し、その片側を母親の股間に突き刺して喜ぶ春香の姿と、その快楽にむせび泣く母の姿。
春香は快楽に身を任せ激しくその腰を振り続け、腰が動くたびに母は悲鳴にも近い嬌声を上げている。
「いいいっ! いいのぉ! 娘ちんぽ、最高ぉぉぉ」
「母さん! 母さんのおマンコもぉぉ、最高だよぉぉぉ!」
普段なら絶対に言わないであろう卑猥な言葉を連呼しながら、快楽におぼれている二人の様子を見せ、聞かせ、私の表情の変化をこいつは楽しんでいる。
「おほぉぉっ! お、ひおおっ!」
「いひぃっ! ひっ、ひうううぃ!」
獣の慟哭のような声を上げる二人の姿に、私は思わず顔をそむけたくなるが、私の頭はがっちりと抑えられており、二人のあられもない姿をこれでもかと見せつけられていた。
「ほら、あんなふうに夏帆姉ぇを快楽のとりこにすることくらい俺には造作もないことなんだ。それをあえてしない。その理由が夏帆姉ぇにはわかるかい?」
「……わかりたくもないわ」
頭を動かせないならと私は目をつむる。だが視覚が遮られた分、聴覚が敏感に反応し、先ほど以上に母と妹の淫靡な声が大きく聞こえきてしまう。そんな敏感になった私の耳元で、そいつは囁く。
「なら、わからせてあげるよ。俺が手に入れたこの力のすごさと夏帆姉ぇの無力さを」
「うっ!」
私の顔を今度は無理やり自分の方に向け直し、閉じていた瞼も指で無理やり開かせた。
目の前に邪悪な顔をした義理の弟、志貴の顔があった。
「さぁ、こっちを見るんだ、夏帆姉ぇ。すぐに夏帆姉ぇも冬美や春香と同じ快楽の世界に連れて行ってあげる! この俺の奴隷として生きる世界へね!」
志貴は近くの机の上に置かれていた黒い鏡を手に取り、私の目の前にかざした。
『さぁ、夏帆姉ぇ。夏帆姉ぇの罪を、俺に見せてみろ!』
その瞬間目の前が真っ暗になり、私の意識は徐々に薄れていった。
-1-
『屋根裏の散歩者 江戸川乱歩著』
僕は本のタイトルを指でなぞりながら、作品のタイトルを読み上げた。
父さんの書斎に来るたびに何度も手に取る本だ。
江戸川乱歩に小栗虫太郎、横溝正史。壁の本棚にはぎっしりとそういった類の本が並んでいた。
「大学受験の時にさ、もしも俺が医科系の大学じゃなくて文系の大学を選んでいたら、もしかしたら俺は推理作家になってかもしれんな」
夕食のたび、父さんは笑いながらそんな話をしてくれていた。
手に取ったページを一枚めくる。
手垢で汚れたページ。
父さんも何度もこの本を読み返したのだろう。
二ページ目、三ページ目。
第二章を読み終えたところで、背後から声をかけられた。
「あら、志貴さん。まだいたの」
僕はぴくんと肩を震わせたが、そのままページをめくり続けた。
「さっさと出かけてくれる? 今日は来客があるから家にいられると困るのよね。夜九時くらいまで時間をつぶしてきて頂戴」
小説の内容が全く入ってこないので、僕は静かに本を閉じると振り返らずに答える。
「わかった……夜11時までは帰らないから、ゆっくり楽しんで……義母さん」
そのまま僕は逃げるようにして書斎を後にした。
すれ違いざまに、義母である冬美さんが僕に何か声をかけたそうにしていたが、無視して階段を降りる。
ゆっくり楽しんで、か。我ながらバカみたいなことを言ってしまった。
一階へと続く螺旋階段を降りきったところで、
「あら、まだいたんだ?」
無地のノースリーブにデニム生地のハーフパンツというラフな格好をした一つ歳上の義理の姉、夏帆に遭遇した。タンクトップから透けて見える黒い下着と首から下げている金のネックレス。
その姿に僕は思わず顔をしかめる。
「……夏帆姉ぇもまたいつもの場所にお出かけ?」
「なによ、その言い方。いやみのつもり?」
「別に……そういうわけじゃないよ」
嘘だ。
夏帆は大学卒業後も定職に就かず、ここ2年間はクラブとホスト三昧している。今日もこの格好から察するにいつもの男友達連中のところにでも行くんだろう。
「ふうん。ま、どうでもいいわ。アタシ、今日は家に帰らないから」
「また泊り?」
「そ。どうせ帰ってきたって母さんの邪魔になるだけだろうし。家にいたくないのよね。あんたにもわかるでしょ。義父さんのいなくなった家なんかに、いたくもないわ」
夏帆はそう捨て台詞のように言い残すと、そのまま玄関の方へ向かって歩いて行った。
バタンとドアが勢いよく閉まる音がする。
僕は小さくため息をつくと、夏帆の後を追うように玄関へと向かった。
すると、キッチンから声をかけられた。
「あ、ぼっちゃん」
「……秋さん」
キッチンから現れたのは黒いワンピースに白いエプロンを付けた、我が家のハウスキーパーの秋だった。
「今日もまた遅いご帰宅ですか?」
「あぁ。うん。まぁね」
「そうですか……なら、これを」
秋がそっと僕の手をつかみ、1万円を握らせる。
「秋、これは」
「私は立場上、冬美様に意見できないのでぼっちゃんをお救いすることはできなのですが、せめてこれくらいはさせてください。いいですか、夕食はしっかりお食べになってくださいね。もし早めにお帰りになられたら、母屋ではなく、離れの私の部屋へ来てください。あそこは冬美さんもめったに来ませんので。一緒にコーヒーでも飲みましょう」
そういってにこりと微笑む秋に視線を向けないまま僕はつぶやく。
「うん。ありがとう。ごめんね」
そのまま僕はまた逃げるように玄関へと走り出した。背後から秋が心配そうに「ぼっちゃん……」というのが聞こえたが、それも聞こえないふりをして家を出た。
家の外はうだるような暑さだった。
晩夏の真昼。
もうすぐ九月だというのに未だに残る肌にねっとりとまとわりつくような暑さ。コンクリートの道から立ち上る陽炎に、そこら中で騒がしく鳴き続ける蝉の声。
あぁ、いつもの夏だ。
朦朧としてしまいそうな暑さの中をふらふらとあてもなく歩いていると、
「あ、お兄ぃだ! 志貴お兄ぃ!」
と、正面から元気よく僕の声を呼ぶ声が聞こえてきた。
麦わら帽子に白いワンピース、プールバックを振り回しながらこちらにかけてくる義理の妹の春香。春香は僕にがばっと抱き着くと、
「やっほぉ、お兄ぃ! どこかにお出かけ?」
にこにことヒマワリのような笑顔でそう尋ねてきた。そんな春香に鬱屈していた僕の表情も少しだけ緩む。
「あぁ、ちょっとね。夏帆はプールかい?」
「うん! 今日学校のプールが解放される日でね! うちの高校のプールってめっちゃ広いの。あ、そうだ。ねぇねぇお兄ぃ! 聞いて聞いて! 私、25m、ようやく泳げるようになったんだ! しかもクロールでだからね! もう息継ぎもできるんだから! すごいっしょ!」
クロールをする動きを見せながら春香がはしゃぐ。ワンピースからのぞくうなじのあたりから、焼け残った白い水着の跡が見えた。
「今度一緒に行こうよ! お兄ぃもお姉ぇも、家族みんなでさ!」
「……あぁ、そうだな。行こう」
「うん!」
だが僕にはわかっている。春香の願いが叶うことはないと。
ごめんよ、春香。春香のその願いが叶うことは一生ないんだ。
僕が君たち親子とプールに行くことも、旅行することも、一緒に団欒を囲むことも今後一切ない。この胸に残っている、3年前のあの日の疑念が消えるまでは。
「それじゃあ春香、気をつけて帰るんだよ。僕は夜に帰るから。秋を困らせちゃだめだからね」
「うん! じゃあね! お兄ぃも気を付けて!」
春香は再度手を大きくふり、そのまま駆け足で家に向かっていった。
春香のサンダルの音が遠ざかっていく。
今日もまた春香と秋の二人で、離れで夕食をとるんだろう。果たして春香は冬美の素行に気づいているんだろうか。気づいたら、春香はどう思い、どんな行動をとるんだろう。
春香の後姿を見ながら僕はそんな物思いにふける。
そして僕は、いつまであの家で過ごすことになるのだろう。
もうすぐ短大も卒業する。思い切って家を出るべきなんだろうか……いやいっそ、夏帆みたいに好き勝手に来てみようか。お金だけは腐るほどあるんだ。冬美も夏帆も父の残したお金をただ浪費しているだけだし、僕だって。
そこまで考えて、僕は首を横に振った。
いや、だめだ。それじゃ父さんの無念を晴らすことができない。そんなこと僕にはできない。
僕は「復讐」をしたいんだ。あの偽の家族たちに。
そのためにはどうにかしてあの日の「事件」の真相を解明しないといけない。
あの「事件」にかかわっている人間たちから話を聞き出さないといけない。
でも、あの人たちは真実なんか語ってくれるわけがない。あの家には「嘘」が渦巻いているんだ。冬美や夏帆、春香や秋が正直に答えるわけはない。
全員から正直に話を聞き出せたら……。
そう考えながら、下を見ながらふらふらと歩いていたときだった。
先ほどまでうるさいくらいに鳴いていた蝉の声が、ふいに一斉に止んだ
「え……」
ふと顔をあげると、僕はいつの間にか見知らぬ路地裏に立っていた。
薄暗い一本道の路地。遥か向こうに路地の入口が見え、燦燦とした太陽の光が降り注いでいる。左右は高いコンクリートのビル。ビルの間から赤く染まった空が僕の上空に広がっている。
え、夕方? そんな馬鹿な。さっきまで昼だったのに。
僕はあたりを見渡す。本当に見覚えがない場所だ。
ここは、どこだ……。
何か得体のしれないものが背筋を上っていくようなゾクッとした感覚を覚えた。
その場から逃げ出そうと身体を反転するが……、
「うそだろ……」
突然、目の前に古びた商店が現れた。
こんな店、さっきまでなかったのに……。
和風な店構えと表現したらよいのだろうか。京都や奈良などの観光名所にあるような店構えではなく、本当に古い木板の壁と屋根瓦の店だった。茶色いシミのついた暖簾。壁の向こうから路地裏に飛び出す竹の笹。横開きの古い障子扉。タイムスリップしたかのような光景に僕は狼狽するしかなかった。
ふと店先に置かれた看板に目が止まる。
『あなたのために、ここにあります。店主』
そう書かれた文章を目で追い終えたときだった。
「え?」
気づいたときには、僕は店内にいた。
埃の匂いと、どこか懐かしさを感じる畳の匂い。そしてかすかに香る線香の匂い。昔遊びに行った祖母の家のあの懐かしい匂いに似ていた。
店内をぐるりと見渡すと、その商品棚には古いがらくたが所狭しと置かれていた。
壊れた望遠鏡。歯の折れたくし。分針のない大時計。
誰がこんなものを欲しがるんだろうと思える物ばかりだ。
「いらっしゃいませ」
突然、がらくたの中から声が聞こえた。
「何かお探しで?」
店の奥から一人の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
黒い鳥打帽をかぶり、ぼろぼろの作務衣をきた人物。
「いや、あの、僕は」
しどろもどろになってこたえる僕をまじまじと見つめながら、
「おやぁ、てっきりいつものように『迷い人』かと思ったが……どうやらあなたさんは『願い人』の方だね」
そう言って僕に近づいてきた。
「ね、願い人?」
「ふうん。願い人は今年に入ってこれで三人目だね。最近多いんだよねぇ、あなたさんみたいな願い人……まぁ、そういう時代なのか知れないね。令和世代、いやいや、ぜっと世代とか言うんだったかな、今は。ま、客層もかなり若返ってこちらとしてはよいのだが、その反面その願いの内容がかなり重くなってきているのはよろしくない傾向だね」
僕に語り掛けたのか独り言なのか、男はぶつぶつとそう呟いた。
男が僕の近くまで歩いてきてわかったが、その男は身なりに不釣り合いな端正な顔立ちの男性で、青白いやせこけた病人のような顔をしていた。
まるで江戸川乱歩の世界から抜け出たような人だなと僕は思った。
「あの……ここって」
「さぁて願い人さん、とりあえずこっちへおいでなさいな」
僕の言葉を無視し、男は僕に向かって手招きをする。
「あの、ここってどんな」
「まぁまぁ、そう慌てなさるなって。時間はたっぷりとあるんだからね……さてと、あなたさんにはどれがよいものなのか……」
僕の言葉を再度無視し、作務衣の男性はおもむろに近くの戸棚から木箱を取り出した。
「これは……」
「まぁまぁ、まずはこちらをご覧あれ」
男はゆっくりとその箱を僕に開いて見せた。
箱の中には小さなくぼみがあった。
そのくぼみの中に置かれた白い小さな手鏡。白地の部分に金色の鬼灯の装飾を施された、女性用の手鏡のようだった。
「きれい……」
そう呟いた僕を見て、男はにたりと笑う。
「そうだろう、そうだろう。ここにあるものはどれも一級品だからね……で、どうかねこれ」
男は探るような目線を僕に向けたままそう問いかけてきた。
「どうって……」
僕は再び箱の中に目を向ける。きれいな白い鏡があるだけだ。
そう僕が答えると作務衣の男は、
「そうかい……鏡、か。なら、そうだね……あなたさんにはこれが何色に見えるかね?」
そう尋ねてきた。
「色?」
「そう、色。色は大切だよ。あなたさんが世界をどう見ているのか、それに関わってくるものだからね」
僕は再度箱の中の鏡に目を向ける。
僕が世界を、どう見ているか……。
すると、
「……あ!」
僕は思わず声を上げた。
先ほどまで真っ白だった鏡が徐々に黒に染まっていくではないか。まるで黒い墨を落とした半紙のようにじんわりと黒色が鏡全体に広がっていった。金色の鬼灯の装飾がより輝きを増して見えた。
「どうかね?」
三度同じ質問をしてきた男に僕は声を荒げて答える。
「く、黒です! さっきまで白かったのに、だんだん黒く染まっていきます!」
「黒……なるほど『ギ』か。あなたさんに世界はそう見えているんだね」
男は僕を悲しそうな目で見ながらそう言った。
「ギ?」
「ふうん、なかなかあなたさんも大変な人生を送ってきたようだねぇ」
「何を言って……」
男はしーっと、自分の口元に人差し指をあてる。
「それ以上の質問はご法度だね。あとは直接体験するしかないのだよ、願い人さん」
男は箱の中からその鏡を取り出し、僕の眼前に突き出す。
「いいかい、願い人さん。この鏡は『八悪』のうちの一つ『疑』の魂が刻み込まれた魔鏡だ。『疑』とはすなわち偽りの心。他者を誰も信じず、全てを疑い、拒絶する心。そしてそれは同時に、自分自身さえも信じられない悲しい心でもある。身に覚えがあるだろう? この鏡はそんなあなたさんにふさわしい道具さね」
「僕に、ふさわしい鏡」
「そうさ。あなたさん、何がきっかけかはわからんが、今日までずっと周囲の人間を誰一人として信用せずに生きてきたようだね。それに自分自身さえも偽り続けてきたようだ。他人から良い人で見られよう、害をなさないようにしようとね。自分の本性をひたすら偽る人生をここ最近は送ってきたようだね」
「なんで……」
そんなことわかるんだ。
僕はそう言おうとしたが、その前に男の方が早口にまくしたてた。
「この鏡はきっとあなたさんのその「疑念」を払拭する手助けになってくれるはずだね。そして本当の自分を解放する手助けもしてくれることだろう。だけどくれぐれも気をつけて。あなたさんがこの鏡を選んだように、この鏡もあなたさんを選んだ。あなたさんがこの鏡を使うとき、鏡もまたあなたさんを使おうとする。ミステリ好きのあなたさんには、こう言うとわかるかな。深淵を除くとき、深淵もまたこちらを覗いている、とね」
そう告げるや否や、男は僕の顔を片手でぐっと引き寄せ、鏡に僕の顔を映す。
「な、なにを」
「見てみな、これがあなたさんの本性だ」
その瞬間、鏡に映った僕の顔がぐにゃりと歪みだした。
そしてそのままいびつにゆがんだ僕の顔がにやぁと微笑むと、ゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。僕は恐怖のあまり思わず鏡から顔を逸らそうとするが、男の手がそれを許さなかった。
男は尋常ではない力で僕の頭を固定し、鏡の中から迫ってくる僕に僕を向き合わせる。。
「逃げてはいけないよ。ここに映るあなたさんは本当のあなたさんだ。この鏡を使って、偽り続けた本当の自分をしっかり開放なさいな。いいかい、この鏡をどう使うかはあなたさんの『意志』にかかっているよ。さ、うまく使いなさいな。願い人さんよ」
鏡の中の僕は伸ばした手が鏡から飛び出す。そしてそのまま僕の顔をぐっとつかんだ。
鏡の中の僕は不敵な笑みを浮かべながら、
「やぁ、俺」
と言った。
僕は悲鳴を上げ、意識を失った。
「……え。あ」
気がづくと、僕は自分の部屋のベッドにパジャマ姿で寝転んでいた。
「え、あ、え?」
壁にかけた日めくりカレンダーに目をやる。
翌日の日付になっていた。
「まじかよ」
昨日あの後、僕は一体どう帰宅したんだ。全く覚えていない。
ゆっくりと窓の外に目を向ける。カンカン照りの太陽、うるさいくらいの蝉の声。どうやら真昼のようだ。
さっきのは……一体?
僕は昔読んだ江戸川乱歩の白昼夢という作品を思い出した。
あの主人公同様、僕もついに狂ってしまったのだろうか。それとも暑さが見せた幻覚、だったのだろうか。
手を額に当てと、ぐっしょりと寝汗をかいていた。エアコンはいつの間にか消えていた。吸い込むたびにやけどするかと思えるくらいに熱された空気を吸い、息を整えながら部屋を見渡す。
すると、
「あ」
僕の机の上に、あの鏡が置いてあった。
黒い金の鬼灯の装飾のされた鏡だ。
「嘘だろ、おい」
ベッドから沖ゆっくりと鏡に近づいた僕はそれを手に取ってみる。
鏡に映る僕。鏡に映る青白い顔の僕。
すると突然、
(ん? んんーっ? おうおう、おーう。こりゃ人間だな。いや-、こりゃまた久しぶりに人間と話すぞ。何百年ぶりだろうなぁ)
僕の頭の中に突然声が響いてきた。
男性とも女性ともとれるその声に驚いた僕は、思わず手に持った鏡を床に投げ捨てようとしたが、
(おっとっと、そう焦んなよ人間)
と、再び声。
投げ捨てようとした鏡の中をもう一度覗き込む。鏡の中の僕は不敵な笑みを浮かべこっちを見ていた。見ているどころか、手を振りながら、
(よお、人間。顔色悪いぞ、病気か?)
そう声をかけてきた。
「だ、だれだ、お前?」
僕がそう尋ねると、鏡の中の僕は意外そうな顔をして、
(おぉ、俺に話しかけられるだけの余裕があるのか。いいぞ、人間。なかなか見込みのあるやつだ。こういうときはたいてい、まぁ、俺の経験上だが、だいたいの人間はこういう状況になったとき三つのパターンをとるんだ。
一、パニくって自殺しようとする。まぁこれはお勧めしないし、俺も望まない。俺も消えちまうし。
二、慌ててほかの人間に助けを求める。これもやめとけ。お前のその様子を見てみーんなお前の頭が狂ったとしか思わないぞ。それに、鏡の中の俺はお前にしか見えない。事情を誰かに話したとしても、すぐさま病院送りになる。実際に何人かそうだった。
三、こいつが一番のおすすめだが……とりあえず俺の聞いてみるだな。お、どうやらお前さんの頭の中を見る限り、なかなかいろいろと小説の知識があるみたいだし、こういう状況を妄想したこともあるみたいだし、三つ目の選択肢をとると俺は踏んでるが? どうするよ?)
混乱し続ける僕をよそに、頭の中の声はさらに続ける。
(なるほど。まだまだお前さんも状況が読み込めずにいるみたいだな。まぁ、そりゃそうだよな。だいぶパニくってるみたいだし、ま、説明しとくかな。俺はお前があの店で選んだ鏡だ。通称『疑の鏡』。大昔に俺に名前を付けた人間がいてな。「ギィ」とか言ってたんだが、そいつを俺はなかなか気に入ってる。だからそう呼んでくれや)
「ぎ、ギィ?」
(おうよ。お、ちょっと冷静に考えられるようになってきたみたいだな。心拍も落ち着いてきたぞ。いい傾向だ)
「なんで」
(なんで? それは自分が一番よくわかってるだろ? お前自身が俺を欲したからだよ)
「僕が欲した?」
(そうだ。お前、なんか望みがあるだろ。俺はお前の願いを叶えるだけの力を持ってる。だから俺を欲した。んで、俺がこうして現れた。ってわけだ)
「……さっきから」
どうして僕の考えていることがわかるんだと言おうとすると、
(そりゃわかるさ、お前の感情や考えてることは全てお見通しだ。お前の心の中がこの鏡を通して映っているんだもの。お前の本心、俺はそれが具現化した存在、とでも思ってくれや)
見透かしたようにギィはそう言ってきた。
「……」
(……さて、だいぶ落ち着いたようだし、話を続けていいかな?)
ギィと名乗るその鏡の話を大まかにまとめると、次のようなことだった。
ギィは『魔具』と呼ばれる類のものであり、特定の人間の欲望に感応してとりつく存在であるとのことだった。
ようするに悪霊みないたもんかと僕が言うと、鏡の中のギィはふてくされた様子で「ちげぇし」と答えた。
(悪魔なんかよりももっと根源的な存在だ。付喪神的なものに近いかもしれないな)
ギィはさらに続けた。
ギィは『疑の鏡』。そしてその特性は『支配』
(簡単に言うと、任意の相手を催眠状態にすることができんだよ。んで、その催眠状態にした相手から嘘偽りない様々な情報を聞き出すことができる、ただし……)
「相手の心に罪悪感を持たせなくてはいけない、と?」
(そうだ。さすが俺を選んだ人間だ。いいぞいいぞ)
鏡の中で満足そうに笑みを浮かべた。
(心の支配ってのはな、要するに相手の隙間に入り込んで、そこから心を徐々に侵食してやることでできるんだ。相手に罪の意識があることで、そこにちょっとした隙が生まれる。そこからじっくりと心をむしばんでいくことで、支配することができる。おわかり?)
「なんとなく……僕はそれを、相手を支配したいって望んでるってこと?」
(いや、厳密に言うとお前は誰かを支配したがっているというより、真実を聞き出したいと思ってるみたいだな。でも真実を言ってくれないだろうとも思っている。聞き出すためには相手の心を完全に掌握して、聞き出すしかないなと思った。だから俺が出てきた)
「……」
(まぁ、あんま難しく考えんなや。すごい催眠術師になったと思えばいいさ)
「催眠術師」
「そう。俺の使い方は千差万別、欲望次第だからよ。難しく考えず、好きなように使ってくれや)
「というと?」
(おいおい、催眠だぞ、催眠。相手を自分の意のままにできるんだぞ。そりゃ男ならやることは一つだろうよ……女よ、女、女を弄べるんだぜ?)
ゲハハハとギィは下品な声を上げる。
(で、お前さんはどうするんだ。俺をどう使う?)
「……いくつか確認したい」
(ん-? おう、なるほど。どうすりゃ催眠をかけられるのかっていう具体的な方法が知りたいってか)
こっちの心を読んでくれるから、すっごく楽でいいな。
(やる気十分じゃねえか。なかなか前途有望だな。が、まぁ、やり方を説明してやってもいいんだけどよ。これに関しては実践で覚えた方がいいんでな。なんか手近にいねぇのか? 催眠の実験台になりそうな手ごろ輩がよ)
「実験台か……」
(できればお前さんとの関係が良好な方がいいな。関係が良好でないと無意識で抵抗してくるからよ。催眠がかかりにくいんだよ)
僕はあっと、声を上げ、
「……それなら、ちょうどよい人がいる」
おもむろに窓に近づき、中庭に目を向けた。
そこには、庭の雑草を抜く秋の姿があった。
ごめんよ、秋。ちょっと実験台になってもらうよ。
秋の方に視線を向けていたため、このときギィが鏡の向こうでニタニタと笑っていることに僕は気づかなかった。
<続く>