うごけ 第2話

第2話

 東新宿駅から徒歩5分の場所にあるアパートに御堂聖が住むようになって、2か月が過ぎようとしていた。やっと周辺を散策していても、道に迷う心配をしなくても良くなってきた頃だ。それでも、少し足を伸ばすと、ヒジリは簡単に迷ってしまう。歌舞伎町。そして新宿は、広大、かつ全てにおいて、密度の高い街だった。

 ヒジリが静岡県の片田舎から逃げ出して、最初に東京を目指したのは、昔、読み漁った、刑事モノの小説の影響によるものだ。隠し事のある人間が潜伏するなら、人口が少なくて人間関係が緊密な田舎よりも、隣が何をしているのかもいちいち気にしていられないような、大都会が適している。ヒジリが少年時代に自分を投影していた刑事や探偵は、いつも大都会に潜伏する犯人を追っていた。警察官に憧れて読んでいたはずの小説から、逆に犯人側の隠遁の知識を学んでしまっていたのは、皮肉としか言いようがなかった。

 全身不随、麻痺状態にはずの自分の体を、特殊な力で補うようにして操り、感覚を得てきた御堂聖。自分の体の異常に気がついた病院で、その特殊な力をきちんと認識した時、ヒジリは自分の体だけでなく、他人の体までも操作出来るということに気がついた。これまで打ち込んできた柔道の稽古をなぞるように鍛錬を続けた結果、今のヒジリは半径5メートルから7メートル程の距離までにいる他人の体を、自分の体を操るのとほぼ同様に、自然に操作できるようになっていた。柔道の試合場が縦10メートル、横10メートルだということを考えると、不思議と一致する距離である。

 ヒジリは他人の体を、自在に動かすことが出来る。例えば目の前にいる人間を金縛りのように動けなくすることも出来るし、ガラの悪いチンピラに、自分自身の頬をビンタさせることも出来る。どれだけ力に自信のある男でも、ヒジリが強く念じれば、その通りの動きをした。

 ヒジリは他人の感覚を選択的に遮断することも出来る。自分の体と脳が一気に遮断された時の感覚を思い出してなぞっていくうちに、他人にもそれを当てはめることが出来るようになっていた。満員電車の中で、予期せず久しぶりに自分と同年代の女子と接近してしまった時、こっそり体に触れさせてもらった。触覚を遮断されていたその子は、何も気にならない様子で、吊革につかまったまま、スマホを弄っていた。

 ヒジリは自分の体や他人の体の働きを物理的に支配することも出来る。出血のあった腕は血管と筋肉を収縮させて簡単に止血することが出来たし、他人の頸動脈を一瞬塞いで、失神させることも出来た。この技術は修練するうちに、もっと他人の身体に危害のないよう、マイルドな使い方が出来るようになった。「血がうまく運ばれていない」という信号を頸動脈付近の神経から脳に伝えるだけで、相手の体は酸欠状態と誤解して失神するということがわかったのだ。これで脳細胞への悪影響を心配することなく、他人を一時的に失神させて、その体を自由に使わせてもらうことが出来るようになった。

 ヒジリは当初、静岡県を東に進む間、瞬間的に失神させた裕福そうな通行人の体を操り、財布から数千円ずつヒジリに渡させることで交通費と食費を捻出していた。そんな方法にリスクを感じたヒジリは、やがてもう少し効率の良い、生活費の入手方法を編み出す。公営ギャンブルだった。

 思案の末に、ヒジリは競輪場を訪れる。選手の体を操作して、一番安全にお金を稼ぐに競輪が良いと思われたのだ。ギャンブルの知識が少なかったヒジリは、当初、ギャンブルと言えば競馬だと思った。しかし、何人もの騎手を落馬させるのは危険なことだと思い当たる。競艇も同じだ。その点、競輪ならば、自分の賭けた選手を勝たせるために、先行するライバルの足の力を少し弱めるだけでいい。何より、ヒジリ自身、ボートや馬を乗りこなした経験がないが、自転車なら経験豊富だ。そう考えて、ヒジリは競輪を生活費の源泉とすることにした。

 公営ギャンブルは入り口で、明らかに18歳未満に見える客には身分証明書を求めるということがわかった。ヒジリは自分の顔の皮膚と筋肉を操作して、シワを何重にも作る。背は低いがガッシリとした体つきのヒジリが、顔にシワを作ると、入り口で止められることはなかった。この経験はヒジリに潜伏生活への自信を与えた。年長者のような顔を作れれば、行動範囲は増える。ヒジリの自由が拡大する。

 初めてのギャンブルで、ヒジリは大勝した。3レースを終えて、5千円が120万円になる。しかし、競輪場の雰囲気は殺気立っていた。格闘技に打ち込んできたヒジリの産毛が逆立つような、ビリビリとした空気。大穴の出るような番狂わせは、何度も連続させてはいけない。自分の身を守るために、ヒジリは競輪選手の操作方法を学んだ。本命かその次あたりが勝つ、順当なレース結果でも、自分が儲かるように賭ければ良い。そのための元手は確保することが出来た。そして身分証明書も持たない自分が持ち歩くのは、100万円以下に留めておくように、自分の中でのルールとした。

 食費や生活費の不安が減ると、ヒジリは自信を深めて神奈川県から東京都へと進んだ。懐が温まると、最近になって再発見したばかりの性欲が、またヒジリを急き立てる。満員電車や映画館で、感覚が遮断されて気がつかない女性の体に触れた。やがて人目が気になり始める。ヒジリはより安全で、より長時間女性と接触できる場所を探して、深夜バスを選んだ。一人旅、または二人旅の女性が眠っていても不自然ではない環境だ。周囲の目を安心させるために、ヒジリは失神させた女性の声を操って、親しげな会話をヒジリとさせたりした。やがて女性は体を寄せて、ヒジリを誘惑するように自らの手でヒジリの手を取って自分の体を触らせる。はたから見ると、ただ場所をわきまえない、馬鹿カップル。しかし実態は、失神させられた女性が声や動きを操られて、ヒジリの思うがままに体を触られているというものだった。

 ヒジリが深夜バスに乗り込む。女子大生らしき2人組と通路を隔てて隣の席に座る。こちらの様子を伺う素振りも見せずに、小声で話し込んでいる2人。周りの様子など全く気にならないような、自分たちだけの世界を作っている。おそらく2人は地方からこのバスで出てきて、横浜か、東京で、朝から遊ぶのだろう。11時過ぎに厚木で停まったバスには、ヒジリが乗り込んだ時点で10人弱の人が乗っている。平日だからか、車内は閑散としていた。

「それでね、私、タモツに言ったの。そんなこと言ってるのってアンタだけだよって」

「うそー。チトセ、直球~。……で、タモツ君、なんて?」

「それがさ、けっこう、ぶち切れてて……おま……………………」

 ロングヘアーの女子大生と、ショートの茶髪をちょっとカールさせた女子大生。仲良し2人組の会話が突然ブツ切れになる。まるで一気に電源コードを引き抜かれた家電製品のように、2人は力を失って、背もたれに沈み込んだ。

 2人に首元から血液が上っていっていないという、偽の信号を送ると、脳が機能を守るために、自動的にシャットダウンする。あとは大きなショックを与えなければ、15分くらいは気絶したままだ。そして、体から触覚の感触が脳に届かないように遮断すれば。2人は気がつくこともなく、意識を失ったまま、ヒジリの操り人形になる。

「……あれ? ……久しぶりじゃん。隣にいたの、気がつかなかったよ」

「……ほんとう。元気してた?」

 瞼を上げると虚ろな目のままで、2人の女子大生がヒジリに話しかける。その口調は少し単調だ。喜怒哀楽、表情豊かに女性を喋らせるのは、まだヒジリにとっては慣れない操作だった。

「うちら、2人だけでずっと喋ってて、ちょっと退屈してたの……。ちょっと、そっちに行ってもいい?」

 わざわざことわってから、黒髪ロングヘアーの女子大生が通路を跨いでヒジリの隣の席に移動する。ここまでのアリバイ作りの演技があって、やっとヒジリは車内の目を気にすることなく、見も知らぬ女子大生と接近することが出来る。

「本当に久しぶりだよねー。懐かしいなー」

 ニッコリと笑ったロングヘアーのお姉さんが、コクッと頭を左に倒して、ヒジリに身を任せる。あとは、胸を触らせて貰っても、服の中に手を入れさせてもらっても、周りから急な非難を受けることはない。ちょっとだけ行き過ぎた、若者同士の久しぶりのスキンシップなのだ。そう自分を勇気づけながら、ヒジリがセーターの上から、女子大生の胸に触る。セーターとブラジャーの上からも、中のふくらみの柔らかさとボリューム感が手応えとなって帰ってくる。女子大生には、虚ろな目のまま、笑顔を保ってもらっている。隣の友人が席を空けている、もう一人の女子大生は、まっすぐ前を向いた状態のまま、時々瞬きをする以外は動かなくなっている。本来の彼女は、気絶しているのだ。

 ヒジリにもたれかかって、体を預けている女子大生が、少し腰を浮かして、スカートを捲りあげていく。今まで外から見えていなかった太腿が1センチずつはだけられていく瞬間に、いつもヒジリは生唾を飲んでしまう。紺と紫の、派手目の柄のパンツが見える。都会に遊びに来るにあたって、大胆なデザインの下着を身に着けて来たのだろうか。

 お姉さんがクルクルとパンストを捲り下ろしていく。この一連の動作は、事細かに指示をしているのではない。『スカートを捲って、ストッキングを下ろそう』と指示を与えて、細かな動作は彼女の体が記憶している通りの動きに任せている。こうすることで、ヒジリは自分の動きに集中することが出来る。自分の動きとは、お姉さんの胸を服の上から揉むことと、曝け出されたパンツのあたりを何にも邪魔されずにジックリと見ることだ。

 セーターの首元を引っ張るようにして手を突っ込んで、服の下からブラジャーに触れる。カップと柔らかい肌の間に指を滑り込ませるようにして、お姉さんのオッパイに触れる。ブラのカップの内側も柔らかい素材で出来たパッドが入っていることを手の甲で感じた。感覚を遮断しているお姉さんは、胸をまさぐられても無反応だ。しかし、ヒジリが『首から上にはこの感触は伝わらないけれど、体はキチンと反応して』と念じると、少しずつ、彼女の胸の先端の突起が、ヒジリの手の動きに合わせるようにツンと固く立ち上がってくる。顔は平和そうな笑顔。目は虚ろに遠くを見据えている。そんな女子大生の綺麗なお姉さんが、胸だけはヒジリのまさぐる手に反応を返してきている。

 周囲の視線を気にしながら、お姉さんにショーツを膝まで下ろしてもらう。そして無防備になった両足の付け根に、ヒジリが指を伸ばす。アンダーヘアーをかきわけて、割れ目を指で探り当てると、そこに沿って人差し指と中指を上下させる。少しずつ緩んでいく女子大生の秘密の裂け目に、ゆっくりと指を入れて上下させる。そしてクリトリスの周辺を捏ねるようにして刺激する。首から上にはその快感を繋がない。しかし下半身は素直に反応させる。時々彼女の股間の内側が、キュッ、キュッと筋を収縮させているのがわかる。お姉さんは、友達を放ったらかしにして、バスの車内で股間を弄られて感じているのだ。本人の意識には全くそのことは届いていないのだが、彼女は今、乳首を立てて愛液を溢れさせて、他の乗客も近くで寝息を立てている車内で、見ず知らずの男子学生にオンナの反応を見せてしまっている。

 クチュクチュと音が立ち始めたところで、ヒジリは自分の手を止める。周囲に感づかれないように、彼女に服装を整えさせて、ショートカットの女の子と交代するように促す。無表情の女子大生が交代でやって来た。彼女はコートを自分の頭にかぶせて、ヒジリの股間に、まるで膝枕を求めるように体を預ける。ヒジリがモゾモゾとズボンを下ろすと、ショートカットの女の子はトランクスからヒジリのモノを引っ張り出して、口で奉仕を始める。コートの中で口を閉じているが、時折、ジュルジュルと音は漏れる。ヒジリが気持ちがイイと感じる部分を、ショートカットの女の子に、念入りに舌で愛撫させる。するとそれはまるで、男のツボを知り尽くしたプロのような、的確なフェラになる。すぐにイキそうになったヒジリが、慌ててそのお姉さんの舌遣いを大人しくさせる。もう少し長く、味わっていたい。ヒジリはさっきの黒髪ストレートのお姉さんの方を見る。さっき体を弄らせてくれたお姉さんは、ボンヤリと窓側の椅子に腰かけて遠くを見ている。意識はまだ無い。ヒジリは悪戯がしたくなって、お姉さんに、ついさっき繕わせたばかりの服装をまた乱れさせる。セーターを捲り上げてブラジャーをズリ下ろしたお姉さん。バスの後方でオッパイを露出しているので、他の乗客には見えていなくても、高速を並走する車からは見えているかもしれない。笑顔のままでオッパイをはだけているお姉さん。その親友は今、通路を隔てた隣の席で、ヒジリのモノを咥えてフェラチオをしてくれている。

 女子大生2人がかりでヒジリを楽しませてくれた深夜バス。ヒジリは感謝しながら、ショートカットのお姉さんの口の中に、熱くて濃い、男子学生の精液を、思う存分に放出した。口も喉も、感覚は脳から遮断している。反射的にえづいたりすることもなく、お姉さんは何回かに分けて、ヒジリの精液を飲み込んでくれた。ロングヘアーのお姉さんは、まだオッパイを出したままでいる。風邪を引かせてもいけないので、そろそろ服を元通りにさせた。

 川崎駅で停まったところで、ヒジリはバスを降りる。お姉さんたちはそろそろ目を覚ます頃だ。しかしヒジリの顔すら覚えていないだろう。急に寝落ちしていた自分たちに気がついて、笑いあうかもしれない。もしかしたら体の火照るような記憶と意識が繋がって、自分たちがエッチな夢を見ていたと思うかもしれない。あるいは口や喉に違和感が残っているかもしれない。いずれにしても、ヒジリや、ヒジリの特殊な能力について疑うようなことにはならないだろう。

 このようにして、ヒジリは東京への逃避行の合間に、突き上げるように沸き起こる、自分の性欲、性衝動と折り合いをつけてきた。幸いなことに、一度も誰かに呼び止められたり詰問されたりすることはなかった。もし、誰かに気づかれ、見咎められたら、その場でその相手を失神させて逃げきるという自信はあった。それでも、気づかれずに行動出来るのに越したことはない。ヒジリは東京に辿り着いた時、ホッと胸を撫で下ろしていた。静岡から東京。地図で見ると大したことのない距離だが、地方の全寮制スポーツ校に缶詰になっていた高校生の身からすると、ちょっとした冒険だったのだ。

 目的地だった東京に着いたヒジリは、歌舞伎町にほど近い、東新宿のアパートを借りることにした。以前読んでいた刑事モノの小説では、犯人は歌舞伎町か池袋に潜伏していることが多かったからだ。JR新大久保駅と、大江戸線東新宿駅の中間あたりにある、安いアパートの1KDが空いていることを見つけた。新大久保に近づくと、外国語を喋る人が多くなるが、家賃は一段安くなる。ヒジリは入居手続きの準備を始めた。

 新宿駅には毎日、何万人もの人が行き来する。その中でヒジリは、自分と背丈や顔の骨格が似ている大人の男を探す。見つけた相手に15分ほど失神してもらい、財布から免許証を取り出して手渡してもらった。免許証の顔写真と同じサイズの、自分の写真を撮る。そして免許証の上に、コンビニのスティック糊で貼り付けて、シンプルな偽造身分証明書を作る。その偽免許証を持って、不動産屋に契約手続きに行った。安い携帯を借りて連絡先にする。不動産屋のオジサンが免許証を確かめている間、指先の感覚を麻痺させて、免許の顔写真が2枚重ねになっていることには、気づかせなかった。全ては計画通り、あっけなく事が運んだ。もしかしたら、証明書も保証人の書類も、始めから手の込んだ偽造など、必要ない物件だったのかもしれない。

 用済みになった免許証は、ヒジリの顔写真を剥がして糊を拭き取ると、新宿駅の駅員さんに落し物として届けておいた。うまくいけば、さっきのオジサンも明日には新宿駅で「うっかり落とした」免許証と再会することが出来るだろう。その人の名前を借りてアパートに住まわせてもらう以上、名前の本来の持ち主が酷く困るような事態にはなって欲しくなかった。ヒジリは出来るだけ、静かに東京生活を始めたかったのだ。

 歌舞伎町は、結果的に潜伏先として良い選択だったと、ヒジリは感じていた。繁華街を歩くときは常に顔を「オジサン化」させる必要があるかと思ったが、意外とこの、東京最大とされる繁華街には、高校生くらいの若者もつるんで遊びに来ている。女子高生が連れ立ってカラオケに来ているところも何回も見た。なぜか観光客らしき白人の家族が、子供連れで歩いていたりもする。日本人かと思っていた前を歩く人たちが、突然日本語以外のアジアの言葉で語りだしたりする。客引きにしつこく絡まれたら、背負い投げをかまそうと心に決めていたが、近年、取締りが厳しくなったのか、街角に立っているオジサン、オニイサンたちも、それほどしつこく話しかけてくることはなかった。

 憧れを持ちながらも怖がっていた、歌舞伎町という町は、実際に歩いてみると、それほど危険なばかりの街ではないと感じられた。ヒジリは警察関連や街角犯罪もののドキュメントバラエティーを見すぎてきたのだろうか。

 そんな気分でフラフラと路地裏を探索していたころ、ヒジリはやっとチンピラに絡まれるということを経験した。チンピラといっても、酔って気が大きくなった大学生かフリーターだったかもしれない。

「ボク、こんな時間に一人で歩いてたら危ないぞ、早くオウチに帰りなさい」

 挑発的な口調でチョッカイを出してきた、赤い髪のニイチャン。それをヘラヘラ笑いながら見ている、金髪のツレ。組み合うまでもなく、黒帯のヒジリの方が強いと分かった。無言で通り過ぎようとするヒジリ。赤髪が掴みかかってきた。

「おい、無視してんじゃねえぞっ! ……うぉっ」

 体落としがアッサリ決まる。アスファルトに背中を打ちつけた赤髪のニイチャンが咳き込むように悶絶した。

「おい、何してんだっ」

 突っかかってくるもう一人のチンピラは、大きく振りかぶってパンチを繰り出してきた。そこでヒジリが力を発動させる。チンピラのパンチを3分の1くらいまでスピードを遅くして、悠々かわす。そして首元にチョップをお見舞いするのと同時に、力を使って金髪ニイチャンを失神させた。

「ぉ……・・なんだ、お前」

 背中を道路に打ちつけた赤髪ニイチャンは、かすれ声しか出せなかった。

「武道の達人……。さっさと、こいつを連れて失せろ。お前も落とすぞ」

「ぉぉっ……・、さ、サーセンッ」

 赤髪ニイチャンは意外とアッサリと謝ると、金髪のツレを引っ張り起こして、逃げていく。ヒジリは一人、気分の良さにウットリとしていた。柔道に青春を捧げたつもりだったヒジリが、ずっと思い描いていた、チンピラ成敗のシーン。警察官になる道は諦めたが、夜の街で正義の味方になるという方法は、まだ残されているのかもしれない。街全体が酔っぱらっているような、夜の歌舞伎町の裏路地で、御堂聖は幼稚とも言える妄想に浸ってしまっていた。

。。。

「一日一善」という言葉を聞く。ヒジリは「一日三善」くらいを目指してみることにした。そして「一日一悪」くらいを見逃してもらう。差引しても「二善」は達成出来ているのだから、立派な正義の味方ではないか。そのようにして遣り繰りしなければならないほど、ヒジリを掻き立てる、健康な男子高校生の性欲というものは強烈だった。何より、ヒジリはこの性欲を制する自制心を鍛えてくる機会を得られずに、急に性衝動を再発見してしまっている。この性欲をこっそり満足させることと、そのことへの罪悪感、かつては警察官を目指したヒジリの正義感。双方を満足させようとすると、一日三善程度は必要となる計算だった。

 朝、東新宿のアパートを後にする。新宿駅までは徒歩で16分程度。そこは日本一の量を誇る乗り換え客でごった返している。満員電車の押し合い圧し合いで、無理な体勢を長い時間とってきたサラリーマンやOLさんの体の様子を、ベンチに座りながら伺う。100人も見ると1人は、腰や背中の筋肉が極端なまでにこわばっている人に気がつく。本人が気がつかなくても、歩き方でわかる。この人が無理を続けると、ギックリ腰になる。すると一生、痛めた腰を背負って生きていかなければならない。そんな人に近づいて、その相手の触覚を一瞬寸断しながら、僅かに触れる。意識を集中すれば、触れなくてもその人の体の内部を操作することも出来る。筋肉のコリを奥から解して、血流を良くして、神経に触れそうな軟骨や椎間板のクッションを、しなやかになった筋肉でコーティングするように念じる。これでギックリ腰の危険性は当分の間、遠ざかったはずだ。危機的な状況だった人に会って、しばらくは安心というレベルまで回復させられたら、「一善」と数える。

 夜の新宿歌舞伎町をパトロールする。酔っぱらい同士の小競り合いを見ると、喧嘩になる前に双方とも失神させる。あとはゾンビみたいな歩き方で、花園神社まで歩かせて、酔いが覚めるまで敷地内で寝かせておくか、喧嘩相手同士仲良くネットカフェにでも放り込んで仮眠をとらせておく。これも「一善」。

 ボッタクリに会ったとぼやいているオジサンから話を聞いて、ボッタクリ飲み屋の目星をいくつかつけておく。そこに入りそうな別の酔客は、足が勝手に別の店に向かうように念じてやる。これだって「一善」だ。

 歌舞伎町の北側にはラブホテルが軒を連ねている。ここを歩いているカップルは、みんなやる気のマンマンのはず。だったら「思わず体が勝手にもっと密着してしまう」という状態で歩かせても、本人たちも盛り上がるだろう。これは「半善」くらいか。

 逆にラブホテルから出てくるカップルが駅に向かって歩いていくのを見る。傍を通り過ぎるのは、アダルトDVD屋から1人で出てきた、冴えない雰囲気のお兄さん。この格差を埋めるには、少しくらい幸せのお裾分けを手配したって良いのでは? ヒジリはカップルの女性に「気づかないうちに」自分のスカートを捲らせたり、「うっかり」シャツのボタンを外して胸の谷間を披露させたりして、モテない男子にもサービスショットを演出する。これも「半善」と呼んで良いだろうか?

 夜の繁華街でヒジリの特殊な力を使うのは、他の状況よりも少しだけ気楽な面がある。街行く人の多くが、酔っぱらっているということだ。多少乱暴に他人の体を操作しても、お酒の入った相手なら、それは自分が酔っていて体のコントロールが利かなかった。酔った末の奇行だったのだと、自分で勝手に納得してくれる相手が多い。周囲の目も、すべての人に別方向を向かせていなくても、ヒジリの力で何かさせられている人を見ても、「酔っぱらいか」の一言で、見て見ぬ振りをしてくれる通行人が多いのだ。昼のオフィス街や、周囲の目が厳しい官庁街でこの力を使うには、よほど慎重にならなければならないのだろう。だが、飲み屋街ではかなりの部分、「なんでもあり」だと思えた。

 そこで出てくるのが、「一日一悪」の方の活動だ。「三善」のノルマを達成した後は、気兼ねなく、可愛い女の子や素敵なお姉さんを物色することが出来る。ケバいお姉さんや怖めのお姉さんに悪戯をするのも嫌いではない。

 終電の時間が近づいてくる時間帯に、カラオケボックスから出てきて、次に何をしようか、道を塞いで話し合っているグループなどにも、一人は可愛い子がいたりする。今夜も1人、ウェーブのかかった髪に毛糸の帽子を被った、可愛い子が男女6名くらいのグループの中ではしゃいでいるのを見つけた。この時間までカラオケで楽しんでいたのだから、そこそこ酔っている集団だ。大学のイベントサークルだろうか?

 ビルの大画面広告映像が変わった瞬間に、5人の男女にその大画面を見上げさせる。大きなCM曲も流れ始めているので、その画面を見ている、自分たちの体の動きには、違和感は感じていないだろう。その間に、そのグループで明らかに一番目立って可愛い、アイドル的な存在の女の子を、失神させる。5人の仲間たちは、宣伝動画を見ながら、フラフラと駅へ向かって歩いてもらう。失神した女の子だけは、ユラユラと、ヒジリのいる逆方向へ歩いてくる。2次会、3次会の移動途中、あるいは帰宅の途中で、グループのメンバーが抜けることだってあるだろう。彼女たちは深夜までたくさん飲んで、たくさん遊んだのだ。

 一歩ずつ、体重を右に左に揺らしながら、ヒジリよりも10センチほど背が高い女の子がヒジリのもとへとやってきて、体を任せるように肩に寄りかかってくる。歩く操作に少し手こずったのは、彼女がヒールの高い靴を履いているからだとわかった。

「さて、君だけ、もうちょっと、遊んで行こうか?」

 ヒジリが尋ねると、お人形さんはガラス玉のように表情のない目をしながら、コクリと素直に頷く。

『僕の案内に従って歩いてね。周りに怪しまれないように、仲のいいカップルみたいに歩こうか。』

 ヒジリが念じると、可愛いお姉さんはヒジリと腕を絡めてくる。2人で歩き出すと、ヒジリの二の腕に、柔らかい膨らみの感触。この人は、カップルになって歩くと、こうやって彼氏を挑発することを、体が覚えているんだ。そう思うだけで、ヒジリの股間は少し硬くなっている。東京の女の人たちは、田舎育ちの柔道バカが思ってきたよりも、ずっと積極的で、オープンだ。どうせなら、無意識のお人形さんでいる間、この街の治安維持に陰ながら小さな貢献をしているヒジリにもオープンしてもらおう。

 途中で何回か、彼女のスマホが着信音や着メロを鳴らす。Lineのメッセージが何度も届いていたので、「ごめーん、気がついたらはぐれてたー。もう一杯だけ1人で飲んでから、何とかして帰る。またねー」と返信させる。そのまま2人でラブホに入ろうかと思ったが、ふと思いつきで、ヒジリはアダルトショップに立ち寄った。コンドームの補充以外に、エッチなDVDを2枚と、シースルーのランジェリーを一式買う。しめて1万8千円。ラブホは2時間休憩で7千円だった。

 昔、柔道部の先輩から聞いた噂話とは随分違っていて、ラブホテルは綺麗で新しい内装だった。「赤とかピンクの内装で、ボロくて窓が無くて、丸いベッドが天井の鏡に写っている」という先輩の言っていたラブホテルというのは、時代が違うのだろうか、それとも東京と静岡の山奥という、土地柄の違いでそうなってしまっているのだろうか。

 可愛い子ちゃんから、ハンドバッグを受け取る。その中身のチェックに集中していると、その子は直立した姿勢のまま、柔らかいベッドにバサッと倒れこんだ。糸が切れた操り人形のように、とは、まさにこのことを言うのだろう。彼女の意識と体とは感覚を遮断しているから、気絶から目を覚ます心配はあまりない。遠慮なく、お姉さんのバッグの中を漁らせてもらう。財布からは定期と大学の学生証が出てきた。

「北澤悠美果ちゃんか。学生証の写真写りもいいなぁ。……自撮りとか、写真慣れしてる子なんだろうな。……やっぱり大学でも、お姫様扱いされてるんだろうね」

 名前と身分がわかったら、アリバイ動画の撮影タイム。ヒジリはポケットから自分の格安スマホを取り出して、レンズを美人女子大生に向ける。

『悠美果、体を起こして。こちらに向かって、笑顔で自己紹介をしなさい。それから、今から伝える台詞を、はっきり言ってから、可愛い決めポーズで締めるんだ。』

 うつぶせの姿勢でベッドにバッタリ倒れたまま、ピクリとも動かなかった綺麗なお姉さんが、急にムクリと起き上って笑顔になる。目に生気は戻らないまま、録画開始の電子音を聞くと口を開く。

「北澤悠美果、更科文化大・教養学部の1年です。今日は、初めて、その日に会った人に、お持ち帰りしてもらいます。もう酔いは醒めましたけど、エッチな気分になったので、私からお願いして、ラブホに来ました。今から……ウフフ。ヤッちゃいます」

 両手で拳を作って、頑張るぞ、というポーズを決める悠美果さん。この動画さえあれば、何かあとでトラブルになった場合でも、ヒジリの特殊な力を酷使せずにも穏便に収められるのではないかと思う。これで、押さえるべきステップはすべて完了だ。

『服と身に着けているものを全部脱いで、裸の悠美果を見せて』

 念じると、当たり前のような仕草で可愛いお姉さんは服を一枚一枚脱いでいく。酔っぱらって前後不覚になっていても、裸になることくらいは出来る。体がその動作を覚えているからだ。女性の多種多様な衣服を傷めないように上手に脱がすということは、一個ずつの動作を操っていたのではヒジリにとって効率が悪い。こうしたことは大雑把な指示を与えて、彼女の体の記憶に委ねた方が良い。もちろん、時には一枚ずつ悪戦苦闘しながら、女の子の手足を操って脱がせていくことも、達成感があってなかなか良い。しかし今日のところは、ルックスの良いお姉さんを前にして、そんな気長なことをする気にはならなかった。

 プチン、パチンとホックが外れる音。スルスル、サラサラと布地が擦れる音、そして柔らかな生地が若い肌を撫でて落ちていく音。股間の高まりを抑えきれないヒジリ少年の目の前で、悠美果さんはスレンダーで白い肌を晒していった。華奢な体に、コンモリと盛り上がる胸の膨らみ。カスタード色の下着を全て落とすと、股間も土手と言われる部分がグッと前に出ているのが分かった。ほっそりしているが、オンナの魅力を淡く身につけつつある、十代最後のころの体つき。何人もの女性の裸を見ていると、ヒジリも少しずつ目が肥えてきた。

 フワッと舞い降りるように、悠美果さんの体が、ベッドに腰掛けるヒジリの胸元に飛び込んでくる。体勢を入れ替えるようにして、彼女をベッドの上で仰向けにする。圧し掛かるように馬乗りになって、彼女の小ぶりな胸元に顔を埋めて、オッパイに吸いつく。プリンのように柔らかくて弾力もある若いオッパイ。ヒジリが口を離すと、フルフルと揺れた。

 体中を舐めまわすように指と手のひらと舌と目で確認していく。たぶん大学でもサークルでもバイト先でも、お姫様扱いされているであろう、ルックス抜群の悠美果ちゃん。その体を、生まれたままの無防備な裸を、思う存分、探検させてもらう。両足を大きく開いて少し腰を浮かして股間を突き出すようにして、お人形になった悠美果ちゃんは、恥ずかしい場所も全て曝け出す。名前はおろか、顔すらも、存在すらも認識していない、年下の男に、やりたい放題に女性器を弄られて、愛液をトロトロ垂れ流していても、悠美果は気づくことすら出来ない。失神したまま、感覚は遮断されて、平穏な意識の闇の中で眠っているからだ。

「そろそろ、動きをつけてみよっか」

『ここにあるランジェリーを着てみてよ。カバーの写真を見て、着方を真似してみて』

 可愛いお姉さんが、起き上る。股間からまだエッチな蜜を垂らしながら、無表情でランジェリーを手に取った。悠美果がモゾモゾといやらしい下着を身に着けている間、ヒジリは、持ってきた黒いビニール袋をシャリシャリと漁って、DVDを取り出す。ホテル備え付けのプレーヤーにセットして、テレビをつけ、リモコンを手に取る。毎晩、無抵抗のお人形ばかりを弄っていると飽きてくるので、バリエーションを出してもらうのだ。

『悠美果ちゃん、テレビの画面を見て。ここに写るお姉さんの動きをコピーして、動いてみよう。出来るだけ表情や台詞も真似るんだ。まるでテレビの中の女優さんが本物の自分で、ここにいる自分は1秒タイムラグがある鏡みたいに、動いて表情を作って、声を出してみて。』

「ランジェリー痴女の淫乱ご奉仕」というタイトルが消えると、悠美果よりも20歳近く年上らしい、妖艶な熟女が画面に映る。まだ十代半ばのヒジリのストライクゾーンとは少しずれているので、ヒジリはあえてテレビ画面に背を向ける。するとベッドの縁でテレビ画面と向かい合いながら妖艶熟女の表情を真似て、気怠そうに挑発してくる、悠美果さんを真正面に見据えることになる。

「坊や、お姉さんで良かったら、色々教えてあげちゃおうかしら」

 扇情的に唇を舐めながら、迫ってくる悠美果さん。さっき仲良しグループの中心でキラキラとした笑顔を振りまいていたアイドル的な悠美果ちゃんとは、大違いだ。こうしたギャップのある演技をさせるのも、着せ替え人形で遊んでいるようで、新鮮だった。

「大丈夫よ~。お姉さんが、すっごく気持ちよくさせてあげるからね」

 さっきとは逆に、ヒジリの体に馬乗りになった悠美果さんが、両手を揃えてヒジリの胸元を撫でさすり、肩から髪の毛をヒジリの肌に触れるまで垂らす。その淫蕩な表情は、まるで悠美果さんの本性のようにすら見えた。

 舌を伸ばして、ヒジリの乳首をピチャピチャと音を立てて刺激してくる悠美果さん。自分の胸も擦り付ける。薄いシースルーのランジェリーを通して、彼女の固くなった乳首がヒジリの肌を刺激する。間に入っているスケスケの布がまた、新鮮な感触を際立てる。

 チラチラとテレビの画面を見ながら、妖艶な熟女を演じる悠美果さん。彼女のリードに身を委ねていると、彼女が網目の粗いパンティーを横にずらして、ヒジリのモノの上に跨る。ズプッと豪快にペニスを咥えこんで、腰を下ろした悠美果さん。まだコンドームをつけていなかったことに気がついたヒジリは、DVDプレーヤーのリモコンに手を伸ばして、静止ボタンを押す。挑発的な表情と大胆なポーズのまま、悠美果さんはフリーズした。

「よいしょっと」

 悠美果さんの体をどかして、枕元のコンドームを手に取って、装着する。戻ってきて悠美果さんとまた、結合する。DVDの内容とうまくマッチしていない作業は、ヒジリが裏方のようにサポートする。とにかく、学園のマドンナが、熟女のように乱れて、騎乗位で腰を振ってくれる。その瞬間が満喫するためには、多少の苦労はやむを得ない。次に会うことが出来るかどうか、わからない可愛い子ちゃん。その子に対して、ヒジリの能力で出来ることは、今この時間、意識を失っていてもらって、体を自由に使わせてもらうことだけなのだ。

 それでも、通常では味わえない快感を絞り出させてもらっている。ルックスの良い子を自由にして、その可憐な裸を思う存分、貪っている。悠美果さんなどは、本来のキャラとは大きなギャップのある姿と仕草で、淫らなプレイを披露してくれている。これが「一悪」でなくて、なんだろうか?

 平仮名の「の」という字を書くように腰をクネらせて、咥えこんだヒジリのモノをグリグリと刺激する悠美果さんの、下半身の使い方は、淫乱熟女そのものといったところ。修行に耐えるように我慢していたヒジリもついに、悠美果さんのナカで熱い精液を暴発させる。ゴムをつけることを覚えていて、本当に良かったと思った。毎日のセックスのなかで少しずつ持続力はつきつつあるが、まだヒジリは早漏気味だった。毎晩、とっかえひっかえ、美女とばかりセックスしているのだから、早いのは仕方がないことなのかもしれないが、ヒジリはせっかくの快感を、もう少し長く噛みしめていられるようになりたいと思っていた。これも特殊な力を使えば、自分の性器の感度を落とすことくらい簡単かもしれない。それでも、自分の性感を操作するというのは、なぜか少し躊躇われた。別に男のプライドなんていうつもりはないが、もう少し自分の自然な成長で、持続力をつけたいと思っていた。

。。。

 新宿駅東口をお喋りしながら歩く女子高生の集団。歌舞伎町方面にどんな用事があるのかわからないが、楽しそうに階段を上がっていく。逆方向に降りていくヒジリは、すれ違う瞬間、人ごみに紛れつつ、ズボンのチャックから自分のモノを出して歩く。5人、10人と、すれ違う人の視線をヒジリから外させる。そして女子高生のグループに割って入るように通り過ぎる間に、彼女たちの無自覚な手を操作する。細い指とマニキュアの塗られた爪。同年代の女子たちの手が、すれ違いざまにヒジリのイチモツを撫でさすっていく。彼女たち誰一人として、自分が瞬間的に愛撫した異物の感触に違和感を覚えることはない。みんな楽しそうにこの後でスマホを弄り、化粧品を使いこなし、マイクを持ったり、ナイフとフォークを持ったりするのだろう。食事前に手を洗う習慣のある子たちであれば、衛生上も問題ないだろう。

 通行人同士の肩が擦れ合うほど、いつも混雑しているこの階段周辺で、ヒジリは多くの制服姿の女子学生たちに、それと気づかせずに股間を触らせてみた。身体操作の大まかな指示だけ与えると、同じ女子高生のグループであっても、手つきに意外なほど個性が出る。遊んでいそうな濃い化粧の子が予想に反して、たどたどしく指を伸ばしてきて、2、3度、指先でさする程度だったりする。そうかと思えば、真面目そうな外見の黒髪の女子高生が、驚くほど艶めかしい手つきで裏筋に指を這わせてきたりする。どうやら、この街を歩く若者たちは、多くが、ヒジリの想像の先を行くような経験を秘めていたり、逆に虚勢を張っていたりするようだった。

 ちなみにこれは息抜きというか、社会勉強。ヒジリの独断で善悪どちらにもカウントしない。

。。。

「一日三善」マイナス「一日一悪」で差引き「二善」。独りよがりな計算かもしれないが、ヒジリの今日のノルマは達成出来た。悠美果さんはシャワールームで体を念入りに洗ってもらう。ハードなセックスの痕跡をあらかた洗い流してもらったあとで、1人でネットカフェに行ってもらうことにした。タクシーで家に帰らせるということも考えたが、距離を考えると、ネカフェで朝方に目覚めた方が安上がりだ。今夜の記憶はカラオケボックスの前でお喋りしていたところからブラックアウトしているはずだし、きっと自分で酔って仲間とはぐれて、なぜかネカフェで寝落ちしていたと解釈してくれるだろう。仮にそう解釈しなかったとしても、ヒジリにリスクが及ぶことはないはずだ。

 そんなことを考えながら、すっきりして軽くなった体で夜の歌舞伎町をプラプラ歩く。ラブホ街を抜けたあたりで、男女の人影に目を止めた。

「もう、ちょっとシツコイからっ。本当やめてくれない?」

「おい、そんな冷たいこと言うなよ。お前にいくら、つぎこんできたと思ってるんだ」

 男女の揉め事は、どちらがどれだけ悪いのか、若いヒジリには判断がつきにくい。苦手なタイプのトラブルだ。それでも、男が手をあげようとしていたら、とっさに女の方を助けるしかない。逆のパターンの対応をする正義の味方は聞いたことがないからだ。

「うがっ……。イタイイタイッ。……肩、外れたっ」

「ちょっと、……大丈夫?」

 少し声に心配そうなトーンが混じる、女の反応。それほど深刻ではない、痴話喧嘩だったのかもしれない。

「あ……、ちょっとお邪魔します。お兄さん、急に力入れて腕あげたから、関節痛めたのかな? ……はい、どうですか?」

 骨接ぎの真似事のような仕草をして、ヒジリが貧弱なお兄さんの肩を治してあげる。もちろん、全てヒジリの能力による、自作自演だ。

「あ……、どうも……ありがとうございます……。・・と、とにかく、レイコ。また来るから、今度は指名拒否とか、やめてくれよっ」

 バツが悪そうに、貧弱なお兄さんは捨て台詞を残して、走り去って行った。

「全くもう、叩かれるかと思ったら、肩外れたって……。バッカじゃないの? ……ボク、ありがとうね」

 ため息をつきながら髪を掻き上げるお姉さん。ハスキーで、少し鼻にかかるような声。年齢はさっきの悠美果さんとそれほど変わらなさそうだけれど、オトナっぽい仕草が板についた、いわゆる「夜のお姉さん」だった。化粧は濃いめだけど、顔は相当な美形だ。

「お姉さん、お客さんから結構搾り取ったり、塩対応したりしてるの? ……今のは笑い話で済んだけど、そのうちバチが当たるかもしれないよ」

 夜の街で稼いでるお姉さんには「ボク」呼ばわりされても仕方のない年齢だが、ヒジリにもこの街を秘密裏にパトロールしているという自負がある。生意気かもしれないが、少し年寄りくさい説教を口にしてみた。

「あーら、ボク、純真なのね。お姉さんは、そんな甘いこと言ってたら、生きていけない業界で働いてるの。……でも、困ったときには、またボクが助けに来てくれると、お姉さん、嬉しいわ。ちなみに私はレイコって言うの。そこのビルの6階にあるクラブで働いてるから、ボクも大人になりたくなったら、お店に遊びに来てね。最初の指名料は、ただにしてあげるから」

 この状況で、高校生のヒジリに対しても積極的な営業……。確かに、レイコさんは美形に似合わず、逞しいメンタルのようだった。少しはバチでも当たらないと、またさっきのお兄さんみたいな人が出てくるかもしれない。

「お姉さん。バチって、本当に当たるものだよ。この手だって……」

 なぜかこのレイコさんには、普段ほどの警戒や注意をしなくても、力を使ってしまって良さそうな気がした。ヒジリは不用意にも、彼女の意識を残したままで、自分の特殊能力を使うことにした。さきほど悠美果さんの体を自在に楽しむことが出来て、気が大きくなっていたのだろうか。

 チョンッとレイコさんの右腕に触れる。その手はそのまま、引っ張りあげられるように高々と空へ向かって伸びた。

「へ? ……何これ……。下ろせないよ? ……どうして?」

 黒いパーティードレスを着こなした、オトナの女性が、困った顔で狼狽える。その素直な反応は、ヒジリの悪戯心をツンツンと刺激してくるものだった。

「なんだろうね? ……やっぱり、バチでも当たったんじゃない? ほら、ボクが触ると、レイコさんの本当の良心が、自分に罰を与えるよ」

 ピンと挙手したレイコさんの肘に優しく触れる。綺麗な腕とスベスベした肌。お金がかかっている、オトナの夜の女性の体だ。ヒジリが触れただけで、レイコの右手は後ろに回る。いつの間にか、レイコさんは上半身をお辞儀するように折り曲げていた。

 バシッ。

「イッ・・ターぁぁぁ……。何すんのよ! ……・て、今の、私の手?」

 お辞儀をするような姿勢のレイコさんは突き出したお尻を、自分の右手でフルスイングでひっぱたいた。結構、強めの一発だったと思う。

「そうだよ。……ボクはなんにも、してないよ。レイコさんが、自分で、自分にお仕置きをしてるんでしょ」

 顔をあげて、ヒジリを見上げるレイコさん。ハの字に垂れ下がった、整えられた眉毛。その表情は、勝ち気で美形な夜の蝶とは程遠い、狼狽するお姉さんのものだった。グッと親近感が出る。レイコさんは、お高く留まっているよりも、こういう表情を見せた方が、実はもっと人気が出るのではないだろうか?

「なんでこんな……。これ、アンタが何かしてるんでしょ。……今すぐやめなさいよっ。どうなってるの?」

「ボク? ……知らない。レイコさんが身に覚えのある、やましいことを全部謝るまで、レイコさんの良心が自分にお仕置きを加えつづけるんじゃない? 夜の街にだって、神様はいて、悪事を全部見てるって言うよ」

「そんなことあるわけ……・、わわわっ。なんでー? やめてよーっ」

 慌てるレイコさんの声が上擦る。左手が勝手にパーティードレスの後ろの裾を掴むと、腰まで捲り上げちゃったからだ。パンツは意外なデザイン。白地に小く赤いハートマークが沢山散りばめてあった。

「あれっ? レイコさんって、思ったより可愛いパンツが好きなんだね。……実は意外と乙女チックな趣味?」

「ひーっ。見ないでよーっ。お金取るわよっ。エロガキッ……。あ、やだっ。ごめんなさいっ」

 レイコさんは何かに対して謝り始める。体が折り曲げられたまま、左手はドレスを捲り上げた状態で動いてくれない。そして右手が降りてきて、なんとヒジリの目に晒されたショーツの生地を掴むと、ズルッとショーツを無遠慮に下ろしたのだ。プルッと音がしたような気がするほど、丸くてはりのあるお尻が顔を出した。

「手が……言うこときかないの……。こんなの……。イタイッ……。酷いよー」

 強気だったはずのレイコさんが、あっさり泣きベソをかくような声になる。素肌を露出したお尻のお肉に、べチンッ、ベチンッと自分の右手が平手打ちをかます。夜の街角で、自分の体にスパンキングをしているのだ。どうしてこんなことになっているのかを考える余裕も無く、レイコさんはどうすればこの状況から助かるのか、必死に考えている。

「レイコさん。今月、自分がやった、悪事を全部、声に出して謝って。そうしたら、このセルフお仕置きも終わると思うよ」

「わっ……わかりましたっ。私は、さっき、同伴を求めてきたお客さんに、最近たくさんお金を落としてくれないからって、断りました。でも本当は、ちょっと見た目がキモい系だったから、一緒に街を歩きたくなかったのに、嘘をつきました。ゴメンなさい」

 パシッ。心なしか、スパンキングの力が弱められる。レイコさんがホッとしたように一息つく。そこに、さっきまでと同様の、力のこもった平手打ちがもう一発、丸いお尻の山を跨いで赤いモミジを作る。

「痛いってばーっ。もう、なんでよっ」

 涙目で抗議するレイコさん。ヒジリはそのリアクションの良さに、思わず吹き出してしまう。

「まだ、懺悔が足りないってことじゃないの?」

 ヒジリはレイコの心までは操れないし、記憶を探ったりすることも出来ない。今のはヒジリの勘だ。当たっているかどうかは……。

「わっ、わかりましたっ。言いますっ。この前は酔って寝ちゃったお客さんの注文を増やして私の得点にしましたっ。ごめんなさいっ。他の子もやってることだけど、ごめんなさいっ」

 パスッ。

 お尻を叩く手が、少し弱まる。しかし、すぐにまた、天高く振りかぶる。

「あとっ、あとっ。後片付けを全部、ヘルプの女の子に任せてました。指名が続いてて忙しいからって……。ほんとはトイレで携帯弄ってました。メグちゃん、カレンちゃん、ごめんなさいっ」

 手が止まって、やがてゆっくり降りてくる。まるで良い子の頭を撫でるように、レイコさんは自分のお尻をナデナデした。ホッと溜息をつく。しかしまた、無慈悲な自分の右手が振りかぶる。

「えー、えーっ。他に何があったっけ? ……私、何したのよぉ~。……あっ。そうですっ。ゴミ、捨てました。街にリアルゴールドの空き缶とか、タバコの吸い殻とかっ。ごめんなさい」

「もう無いかな?」

「まだまだ、ありますっ。お客さんからのLineとかメールとか、面倒くさいときは無視してますっ。出勤してたとか、寝てたとか、嘘ついてましたっ。ごめんなさいっ。あと……あと……」

「ははっ……いっぱい、あるじゃん……ははは。アハハッ」

 ヒジリは思わず、脇腹を押さえながら笑ってしまった。自白を強要すると、次から次へと出てくる。レイコさんの悪事。それがどれも、他愛ないといえば他愛ないものなので、レイコさんの本当の性格、ズボラさと、根は悪い人ではなさそうなところが? き出しになる。その様子が、可愛らしいというかなんというか、おかしかった。大人っぽい外見と濃い目のメイクに反して、本性はいい人というか、何というか、田舎の人っぽい感じなのかもしれない。

「今日も遅いし、色々力を使ったから、疲れたよ。……僕、レイコさんちに泊まっていこうかな?」

「は? ……私んちは狭いし、汚いんだけど」

 真顔で即答するレイコさん。広くて綺麗だったら、初対面の男子を泊めるのも問題ないのだろうか? 年上のお姉さんなのに、受け答えがいちいち、ヒジリのツボにハマった。

「決めた。泊まるよ。ほら、レイコさんちまで行進しよう。それ、1、2、1、2……」

「わわっ……。なんだよ……。私も疲れてんのかなぁ?」

 手足をピンッと伸ばして、高校球児の行進のようにテキパキと歩き始めるレイコさん。その後ろをヒジリがついていく。体をきっちり操作させてもらっているのに、レイコさんがあまり深刻にそのことを気にしすぎないでいてくれるのは、疲労困憊のヒジリにとってはとても楽で、ありがたかった。

。。。

 レイコさんの自宅は思ったよりも庶民的な1Kのアパートだった。服と靴、バッグだけは押し入れとタンスから溢れて積みあがっているが、それ以外は派手な装いもない、学生が済んでいそうな西向きの古アパート。部屋に上がり込ませてもらうなり、レイコさんにはナイトドレスもランジェリーも全て脱いでもらって、裸を見せてもらった。

「今日はなんか、体が言うこと聞かないよ~。歳かな? まだ酔ってんのかな?」

 この人の鈍さというか大らかさは、少し特別なものがあるのかもしれない。ヒジリは、いつもと違って、彼女を失神させることなく、そのまま抱きしめた。電気をほとんどつけずに、窓の外からの街明かりだけを頼りにレイコさんの裸を見ると、スレンダーな体に薄っすらと陰影が写っている。まるでこの街を背負っているような様子だった。

「ふぅ……、もう……」

 オッパイを揉みしだいて乳首に舌を伸ばすと、レイコさんは何かを諦めるように体の力を抜く。やがて彼女の方から唇を重ねてきた。ヒジリにとっては意外なリアクションばかり見せてくる人だ。その反応が新鮮で、少しヒジリを戸惑わせながらもいきり立たせる。2人で雪崩れこむようにして華奢なシングルベッドに体を重ねて寝ころんだ。レイコさんの吐息は、アルコールとタバコの煙、そしてミントの匂いが混ざった匂いがした。体からは嗅いだことのない香水がたちのぼる。こうした成り行きの行為が初めてではない様子で、予想外にレイコさんが積極的にヒジリの服を脱がしてくる。相手の体を操ることに集中しないでよいセックスというのは、自分の快感に集中することが出来て、とても楽で、楽しいものだった。

。。。

 ヒジリが住んでいるアパートよりも狭いくらいのレイコさんの部屋に、ヒジリは半同棲のようなかたちで転がり込むことになった。日中のレイコさんは、ほとんど寝ているか、パチンコをしている。昼過ぎには新大久保まで自転車をこいで、韓国食材のスーパーまで買い出しに行く。その他の買い物は、たいていのものをドンキホーテで済ませる。ヒジリはレイコさんよりも綺麗好きな自分に初めて気づき、部屋の片づけや水回りの掃除をするようになっていた。家事が終わると、『一日三善』のパトロール活動に励んだ。日が暮れるとレイコさんがお店に出勤する。ヒジリは街をプラプラして人間観察をしたり、刹那的な触覚的快楽を、体を操っている通行人から受け取る。夜も更ける頃にレイコさんのお店に迎えに行って、2人で帰る。仕事帰りにラーメンを食べるのがルーティーンとなった。

 たまに店に早い時間帯に迎えに行くと、レイコさんはヒジリを店にあげて、レイコさんのツケでカクテルやフルーツを出してくれる。

「あの子、影で嫌がらせしてくんの。ちょっと恥かかせてよ」

 レイコさんが耳打ちしてくると、ヒジリは、他のテーブルでお客さん相手にキャピキャピと振舞っている派手なお姉さんの体を、ちょっとだけ操ることにする。即座に、お客さんのグラスをひったくって一気飲みするお姉さん。そのままガラステーブルに乗り上げて、ドレスの首紐を一気に解くと、スルスルとドレスを脱いで、上半身を剥きだしてお客さんに抱きつく。ヘルプに入っていた他のお姉さんが口を手で押さえて声を上げる。黒服のお兄さんがバスタオルを持って駆け寄ってくる。

「最近、みんな、酒癖がわるいわよ。お店の品をちゃんと保ってくれないと。。」

 カウンターでママがぶつくさと文句を言う。それでも店内はそれなりに盛り上がる。黒服兄さんに守られながら、居心地悪そうに退席するお姉さん。けれどその夜、彼女への指名はさらに増えたらしい。レイコさんはさっきよりも、もっとむくれていた。

。。。

 2週間ほどもそんな生活が続くと、このルーティーンが体にじわじわと馴染んでくる。狭いアパートに2人で住んでいることも、若いヒモのように見られながら水商売の店にレイコさんを迎えに行くことも、韓国食材スーパーに自転車2人乗りで行くことも、夜明け前の中華料理屋で油の濃い醤油ラーメンをすすってチャーハンを分け合って食べることも、ヒジリの生活の一部となって、一体化してくる。それは、気だるいけれど妙に心地よい、二度寝の繰り返しのような日々だった。レイコさんの、おおらかだけれどいい加減な性格にも、影響されているのかもしれない。

 昼前に目を覚ますと、ヒジリはいつもレイコさんの寝息を感じながら、恐る恐る足の親指を祈る気持ちで前後させる。今日も動く。安堵しながら左右全部の足の指を、グー・パーさせる。そして手を動かし、レイコさんのオッパイをムニュっと触った後で、ベッドの下へ片手を伸ばしてペットボトルを掴み、ミネラルウォーターを喉に流し込む。毎日、目が覚めて最初に確認することは、自分の体が今日もなんとか動いてくれるということだ。

 自堕落だが心地よい、この生活に馴染んでいきながらも、ヒジリは時折、自分を掻き立てる、焦燥感のようなものを感じることがある。歌舞伎町という街はヒジリにとって、賑やかで煌びやかなターミナル駅のように感じられる。ほとんどの人はここで遊んで、どこかへ帰っていく。あるいは通り過ぎていく。ここにヒジリ1人だけ、あるいはレイコさんと2人だけ、終着駅のように立ち止まっていることが、不安に思えてくるのだ。そんな不安感、焦燥感にかられると、ヒジリはいつもよりも『一日三善』のルールを少し大胆に曲げて、過激な悪戯をして、発散する。通りすがりの女の子やお姉さんへの悪戯は、注意深い後始末を欠くものになっていた。

 派手なメイクのお姉さんたち、安居酒屋からカラオケボックスへ流れていく女子大生たち、写真を撮りまくっている観光客、密着して歩いているカップル。彼女たちはみんな、気がつかないうちにシャツのボタンを外し、スカートの裾を下着のゴムに引っかけ、ズボンのベルトもホックもチャックも解放して、服を着崩し素肌を晒しながら、繁華街を歩いていく。ルックスに秀でた女の子は、急に意識を失って、路地裏でヒジリに体を乱暴に弄ばれる。そしてそのまま何事もなかったようにユラユラと、無表情で次の目的地へと向かっていく。唇や太腿からヒジリの精液を垂らしながら、何食わぬ顔で駅へ向かう。補導されても、何も覚えていないはず。また会うこともないだろう。そう思うと、ヒジリは様々なタイプの女性の体を、その瞬間だけ楽しむことで、時折襲ってくる、説明しづらい焦燥感を打ち消していた。

 昼過ぎになって、ヒジリはスロットを終えたレイコを迎えに行く。そのあと2人でビールを飲みながら、もんじゃを食べる予定だった。狭い路地を歩いているところで、グレーのスーツのオジサン2人組に声をかけられる。

「ちょっとゴメンね。貴方たち、学生さんかしら。この近くに住んでるの?」

 妙に丁寧な呼びかけ方。道やお店を訊きたいようなトーンではない。もっと落ち着いて、確信を持った声の出し方。東京には時々、女言葉と思えるような言葉遣いの男性がいるが、これはおネエではない。ある種、生粋の東京人らしい。ヒジリは2人の男性を見て、瞬間的に両足を肩幅まで開いて、しっかりと立った。首が太い、腰が安定している。物腰が柔らかいが、この2人は強い。ヤクザではない。「きちんと柔道が強い」2人だ。組み合わなくてもわかった。

「ちょっと、お兄さんの方に、聞きたい話があるんだけど、いいかしら? ゴメンね」

 丁重に聞いているようで、拒絶を許さないような響きがある。そのオジサンがスーツの内ポケットに手を入れた瞬間に、ヒジリは力を使った。

『落ちろっ』

 反射的に、オジサン2人は両手を首の周りに滑り込ませてガードしようとする。やはり絞め技対策など、充分に経験のある2人だ。斜め前にいたオジサンの手から黒くて四角いものが落ちる。アスファルトを打った音で、それが手帳であることがわかった。オジサンたちは首の動脈と気道を確保しようとしながらも姿勢を低くして飛びかかってくる。それでも2人ともヒジリとレイコに触れることは出来ずに、前のめりに崩れ落ちた。ヒジリの力は外部から首を絞めているのではない。彼らの体を直接支配して、血を止めたのだから、有段者であっても防ぎようはない。

「えっ。ヒジリ……。何これ?」

「逃げるぞ、レイコッ」

「え? ……お、おうっ」

 こういう時に、詳しいことを聞かずに一緒に逃げてくれるレイコの性格は、ありがたかった。それでも、パチスロに「つっかけ」のようなサンダルで行っていたレイコと一緒に走るのは著しく効率が悪い。50メートルも走らないうちに、ヒジリは2人で逃げることが無理だと認識した。

「ゴメン。俺、しばらく、いなくなるわ。……俺、駅の方、行くから。レイコはあっちに行って」

「あ? ……うん。……じゃ、今夜は迎えに来れないわけね」

「しばらく無理だ。……じゃ」

 まだ面食らっているレイコを置き去りにして、ヒジリが路地をジグザグに逃げる。あからさまに警官の制服を着た人が数人、こちらを追ってくるのが視界の端に入り込む。近づいた警官から、順に「力」を使って落とした。逃げながら歌舞伎町の隅々に隠れ場所を探す。よりによってこんな時に、辻々の街頭などに仕掛けられた防犯カメラが目についた。これまで、街を観察していたつもりの自分には目に入ってこなかった存在。観察者のつもりの自分をも見つめてきた目が、自分の想像以上に数多くついていた。

 歩行者天国になっている道路を跨ぐと、新宿東口前の広場には仮設ステージが組み立てられて、知らないアイドルが歌を歌っていた。周りには人だかり。逃走中のヒジリにとって人だかりは邪魔なようでいて、ありがたい存在だ。走りながらヒジリが意識を集中する。いつもよりも距離があるが、ステージ上のアイドルには何とか届いたようだ。4人組で色分けされたステージ衣装に、可愛らしいアイドルたちが、歌いながら手をかける。華奢な腕にも火事場の馬鹿力というものがある。ヒジリの操作に従って、彼女たちは自分たちの可憐な衣装を引き裂いた。悲鳴を上げながら、自分で自分の衣装もアンダーウェアもビリビリに破って半裸になる、アイドルたち。歌の途中で金切り声を上げながら、ファンの男たちの中にダイブをかました。ヒジリが求める混乱。パニックを背にしながら、地下へと伸びる階段を駆け下りた。

 東口、中央東口、中央西口はJR。地下鉄はどれだけ掲示板を見ても良くわからない。ここに小田急線と京王線が入り混じる。人がいなければRPGのダンジョンのような様相となる新宿駅を、ヒジリが駆ける。物心ついてから、ずっと警察官になることを夢見て努力してきたはずだった。そのヒジリが、今は新宿警察署と鉄道警察、そして恐らくは警視庁から逃げまどっている。生存本能か。持てる力を全て使えと、ヒジリの体が脳に訴えかけていてる。体のメッセージを受けとる。このこと自体が、ヒジリの求めていた、生きている感覚だった。

 改札口をSuicaを使って通ってくるお姉さんたちに念じる。

『服を脱げ。裸になって走り回れ。警察っぽい人をみたら、タックルをかけろ。』

 失神させている暇もない。お姉さんたちは自分の体の反乱に困惑しながら、綺麗にコーディネートされた衣服を剥ぎ取って、悲鳴を上げながら駆け出す。自分がしていることを,
 はっきりと自覚しているだけ可哀想な部分もあるが、ヒジリは,申し訳ないがこれにかまっていられない。彼女たちは体が勝手に破廉恥な行動を起こしている事態に困っているだろう。しかしヒジリにとっては、体がどれほど勝手な動きだろうと『動いてくれている』だけマシではないかと思えてしまう。自分勝手な言い訳であることはわかっているが、それでも彼の心に素直に湧き出た思いだった。

(ゴメンね。数人の奇行だと目立つし余計恥かしいだろうから、せめて大量の人たちの集団奇行にするからね。)

 ヒジリが、地下鉄なのか位置づけが違うのかよくわからない「大江戸線」の改札を脇目に、なおも走る。走り抜けざまに目についた人の体に行動の指示を与えていく。

『下半身、裸になって周りの人を威嚇しろ。誰かに押さえつけられたら、オシッコひっかけてやれ。』

『駅員さんを見かけたら抱きついてディープキスしろ。邪魔してくる人がいたらその人にもディープキスだ。』

『裸になってインディアンの真似をしろ。収穫祭だ。邪魔してくる奴がいたら、そいつも全力で裸にしろ。』

『人の流れに逆らって逆立ち歩きしろ。』

『自分の服をビリビリに破いて、誰彼ともなく誘惑しろ。ちょっとでも脈がありそうな男とその場でハメまくれ。』

『誰か、裸で問題起こしてる人を止めようとしている人をみたら、ハイヒールのまま、後ろから踵落としをかましてやれ。』

 全身が危機感で毛羽立っている状態だと、他人の体の支配力も強まるのだろうか。いつもであればもっと細かく精緻に一挙動ずつの操作が必要そうな行動も、走り去りざまに念じるだけで、相手は行動に移してくれる。見る間に新宿駅のコンコースは悲鳴とドヨメキ、そして色めきだった通行人たちの、低い歓声で埋め尽くされた。

「いやーぁあああっ。勝手にっ!」

「ゴメンなさいっ。……違うんですっ。こんなこと、したくないのっ」

「誰か止めてぇえええっ」

「見ないでよっ。やだ~っ」

 駅構内に黄色い叫び声が反響する。平日の昼間から、この駅は大量の人、それも多様な人々が行きかう。その人の流れを堰き止め、逆流、あるいは滞留させるようなスキャンダラスな痴態、狂態がそこらじゅうで巻き起こる。半裸になって警官や駅員に襲い掛かるOLさんたち。改札口に両足を置いて、大股開きで自分の秘部を弄る女子大生。半裸で跳ねまわっては、止めようとしてくれる善意の第三者に唾を吐きかける清純そうな女子高生。服を持って追いかけてくる彼氏を尻目に、インディアンごっこに興じる全裸の美少女。人の流れに逆らって次から次へと唇を奪うリクルートスーツ姿の学生さん。みんな自分のしていることをはっきりと意識しながら、それでも自分の体の動きを止められず、パニック状態で破廉恥な行動を止められずにいる。

 悲鳴を上げて頭を左右に激しく振りながら、剥き出しの胸を赤の他人に押しつけている女性。放心したように自分の腰の大胆なグラインドを見守るしかない高校生。隣の彼氏に息継ぎをするように言い訳をしながら誰彼構わず陰部を露出させてむしゃぶりつく女の子。サルか何かの真似をして、裸で通行人を威嚇している美人OL。困った顔をしながらコンコースに全裸で立ちはだかり、通せんぼする妙齢の人妻たちの壁。口では謝りながら、パンツ一枚で警官や駅員めがけて、一斉に特攻していく女子大生たちのスクラム。日本屈指の巨大ターミナル駅はいま、混乱を極めていた。

 ヒジリを追っていたはずの男たちのプレッシャーは一気にやわらいだ。ゲリラ的に巻き起こる一般人の狂態の対応に追われて、ヒジリの追跡どころではなくなったのだろう。少し安堵したヒジリが、中央西口から京王線に入ってプラットホームまで降りていく。その間も終始、目のあった異性の体に、思いつく限りの、好き勝手な指示を与えていく。ヒジリがプラットホームまで降りるとパニックも一緒にホームで拡大した。

「おい、お前ら。そんな破廉恥なことしてる場合かっ。やめろっ。こっちは危ないぞっ」

 サラリーマンの悲鳴があがる。どうやら特急専用のホームで、人の列が長くなっている場所らしい。

「誰かっ。こっちで人が落ちたぞ」

 銀髪のサラリーマンが声を上げる。ヒジリは思わず振り返る。線路を見に行くと同時に、女の子が倒れているのを発見して、そのまま飛び降りていく自分を認識した。

(お……。俺の体も……。勝手に動いてる……みたいだな……。)

 ホームから線路まで2メートルほどしかないはずの距離。ヒジリは飛び込みながら、妙に長い滞空時間を感じていた。

 線路に倒れていたのは中学生くらいの少女だった。頭を打ったのか、こめかみから一筋、血を流している。ヒジリは頭を動かさないように膝で固定しながら抱きかかえた。

『血が外部に流出している血管は収縮して、出血を防げ。外傷は……・あまりないな。後頭部をレールにぶつけて失神したのか? 脳に血が回っていないと障害が残るぞ。血を回せ。舌が引っ込んで気道を塞いでる? 気道を確保しろ。……おい。……動け……。動け。……うごけっ』

 ヒジリが念じると、女子中学生は咳き込むようにして息を吐きだして背を丸める。意識も戻ったようで、なお咳き込みながら涙目を開ける。ヒジリがホッと一息つく。

「おいっ。電車がくるぞっ!」

 ホームから50代くらいのサラリーマンの声がかけられる。新宿を終点とする、京王八王子駅からやってきたらしい銀色の車体が近づいてくる。何の気休めなのか、何度も警笛が鳴らされている。

 ヒジリは巴投げのような要領で女の子を線路沿いからホーム下。電車の張り込めない隙間に寄せて自分の体もその隙間に入れる。そのあとでやっと非常ボタンが押されたらしく、ベルがなり、長い時間、人の行き来があった。車両が数十メートル、笹塚駅側に動かされる。非常事態なのだが、対応する駅員が明らかに少ない。それはヒジリが起こした数々のパニック対応のせいらしかった。

 電車が移動する。やっとヒジリの前の視界が開けた。女の子を抱えて、再び線路に出る。

「おいっ。間一髪、人身事故だったそうじゃん。やっぱりヒジリかよっ」

 聞き慣れた、少しハスキーな鼻にかかった声。ホームを見上げると、やはりレイコさんだった。意識を回復した女子中学生をホームに上げる。彼女は華奢な脚で、ヒジリの肩を踏み台にホームに上がっていった。

「ほい……。次、あんた……」

 レイコさんが腕を伸ばす。その手を掴もうとヒジリも手を挙げたその瞬間。視界が真っ白になったような気がした。この、レイコさんのポーズには、見覚えがあった。輪郭がぼやけるようにして、白い光がヒジリの脳裏を突き刺した。

 。。。

「ヒジリ……。こっちよ。ママの手をとって」

「ヒジリ。頑張れ。急いで。……うごけっ」

 変形した車内に、外からこちらに向けて手を伸ばす30代くらいの女性。これは母だ。変形した車の窓に肩を入れて、腕から血を流しながらなお、ドアを開けようとしている、細身の男性。……これはヒジリの父だ。……ヒジリは5歳。交通事故直後の高速道路で、身動き取れずにボンヤリと両親の姿を見ていた。

「ヒジリ。こっちよ。早く。……車。燃えちゃうかもしれないの。火が出るの。アツイ、アツイなの」

「ヒジリ。頑張れ。うごけっ」

 父と母。ヒジリの記憶する限り、意見が一致することが一度もなかったはずの2人は、ヒジリを車外に出すために、ぴったりと息を合わせて呼びかけて来ていた。

 ヒジリを父と一緒に、あっさりと捨てたはずだった母は、火がつきそうな危険な車体にしがみついて、ヒジリを助け出すために手を伸ばしていた。頼りなくて、飲酒運転のせいで腕に障害を負ったはずのダラシナイ父は、腕からのおびただしい出血も気にせずに、子供を生かすために変形した窓から体を入れて、力強く息子に呼びかけていた。

「うごけっ。……うごけっ。……・・こっちだーっ」

 その声に勇気づけられるように、5歳のヒジリは、破損しかけた体に力を満たして、ゆっくりと手を伸ばそうとしていた。

 。。。。

「……おい、ヒジリ。早く。手を取れってば……。なに、アンタ。泣いてんの?」

 母の姿がレイコさんに変わる。ヒジリは今、17歳。まだ線路に立っているのだから、泣いている場合ではないのだが、まだ助かる前から、ボロボロと涙を零していた。

「……・くそったれ……」

「ああ? ……なんなんだよ。わざわざ助けてやりにきたのに」

 ヒジリが泣きじゃくりながら声を出すと、レイコさんが不機嫌そうな声を出した。溜息まじりのその声は、昨夜のアルコールと、キャメルのタバコと、オロナミンCの匂いが混ざった香りを、線路のヒジリに送ってきた。

「ね、登るの? 登らないの?」

「……登るよ。……・ありがとう」

 ヒジリが声を絞り出すと、レイコさんは華奢な腕を頑張ってもう少し伸ばす。ヒジリの体を引っ張り上げる程の力はなかったが、手が握られた瞬間に、ヒジリの体に力が満ちた。

 。。。

 歌舞伎町と新宿駅の騒動があったその日に、ヒジリは西へ行く電車を使って、再び逃避行を始めた。『力』を使って顔の印象はかなり変えているのだが、いざという時には元の顔に戻せる範囲に留めている。母と、そして父と会った時のためだ。

 父は岡山で働いているという話を耳にして以来、数年たつ。母は名古屋に実家があった。その程度しか手がかりがないのだが、意志を持って探せば、いつか会える気がする。会ったからといって何をするか、何を話すかは決めていない。だが、会った後で自分がどうなるか、何を思うか、確かめてみたいと思っている。

 新宿での一件は、ニュースでも取り上げられる程の騒ぎになったようだ。そのことは申し訳ないと思っている。だが不幸中の幸いと言うか、観光客の何人かが事態を撮影して「クレイジージャパン」と称してネット上にアップしたところ、海外からはストリーキングブームの再来として騒がれたらしい。この国は海外からの注目や賞賛にはとことん弱いのか、騒動の渦中にあった一般の女性たちは、ブームの先駆けとして、それなりに評価されているそうだ。彼女たちの中からYoutuberやアイドルの卵などが出てきつつあると、キオスクで買ったスポーツ新聞で読んだ。

 両親に会ったあと、出来れば小宮山先生と真弓さんのところに詫びに行きたい。何年後になるのかわからないが、それが済んだら、いつか道場に顔を出したり、レイコさんに会いに新宿に戻って来るといったことも出来るようになる気がする。それがいつのことになるのか、想像すると気が遠くなるようだ。

 それでも幸い、ヒジリはまだ若い。そして手足は今日も、力強く動いてくれる。足の指に意識を向けると、きちんと意図したように曲がる、伸びる。両手を見ると手のひらがこちらを向いて、グー、チョキ、パーと、思った通りに指が動く。それだけで、途方もないような計画も、何とかなるような気がしていた。

< 完 >

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