さよならウィザード 12話

「魔法使いに会いたい」とエリは言った。

 夕焼けが塗りつぶすあの日の空を僕は忘れたことがない。

 それは彼女の怒りと無念の色だ。雲は毛氈のように真っ直ぐな道を作り、一番星が瞬いて宇宙の真理を垣間見せていた。

 魔法使いはあの空から召喚された。

 千年の古木の杖と漆黒のローブを羽織り、子どもの僕が学校も大人も支配する。物語は全てエリのもので、後悔と復讐が僕の魔法のステッキだった。

 僕の人生は転校していったエリに舞台を明け渡すためにあり、大好きな女の子の名誉と笑顔を取り戻すためあった。

 僕の最後の大魔法は、彼女にこれまでのことを語り終えたときに現れる。後悔と復讐の世界はそのとき終わり、魔法使いはエリのヒーローになる。

 エリに会わせてくれると、天使のノートは言ったんだ。

 

“久しぶりに会うんですから、だらしなくしていてはダメです”

 しかし天使は、まるでお母さんだった。

“髪はきちんと整えて、ご飯は好き嫌いをしないで全部食べること。ただし食べ過ぎもよくないです。適度な運動も必要。これからは1時間早起きしてジョギングをしましょう”

 いやむしろ鬼コーチだ。勝手にアラームも設定されるしジョギングにも付き合ってくれて、腹筋運動をするときは足も押さえてくれた。

“エリにかっこよくなったって思われたいですよね? だったら真剣に腹筋を割ってください。手を抜いてやらないでください”

 僕、かっこよくなりたいなんて言ったか?

 目に見えない天使は、強制的なトレーニングで僕を健康な高校生にしようとしている。生活の全てを把握して改善しにかかってきている。

 僕は天使の指示には逆らえない。スケッチブックや授業中のノートに『天使ノート』と記載されて書かれたことには体が従ってしまう。

 僕の守護天使。僕の希望。彼女はずっと前からそばにいて見守ってきてくれた。だから僕の全てを知っていて、全てを支配する。

 高校に入学して数ヶ月。

『魔女』とかいう滑稽な不思議伝説の残る空き教室で、なぜか透明な天使と邂逅して一週間。

 僕の生活は一変していた。

“リノさんたちの記憶はあの日の事件の前後だけ消えています。トーマくんは、まず彼女とケイタくんとの関係をきちんと整理しなければなりません。大切なお友達なんですから”

 いつものようにリノとケイタと登校途中で合流する。

 ケイタはぶっきらぼうに「オッス」と僕の背中を叩き、リノも真似して「おっすー」とカバンをぶつけてくる。

 そうして、スマホの画面を近づけてくる。

「トーマ、見て見て。四階の魔女の教室。昨日カーテンが閉まってたんだよね! 友だちと行ってみたんだー」

「……なんかあったの?」

「聞く必要ないぞトーマ。そんなのリノしか信じてないただの噂だ。壊れた机と椅子があっただけ」

 リノの代わりにケイタが答え、「先に言うな」とリノに叩かれる。

 あいかわらず仲が良いカップル。と、周りからは見えるだろう。僕にもそうとしか見えない。

 だけどリノの手はさりげなく僕の指に触れていた。

「でもほら、見てトーマ。ロッカーの下にタロットカードが落ちてたの。不気味だから拾ってこなかったけど。これはね、タロットの『魔術師』のカードだよ。やっぱり魔女はいたんだよ!」

 肩を押しつけて見せてくる画面の中央に、おそらくロッカーの下から引きずり出したと思わしきカードが写っていた。

 見覚えがあった。天使と出会ったその部屋には、僕が壊した机とタロットが一式置いてあった。めちゃくちゃにしたのは僕だ。

 持ち主は知らない。おそらくそのときは一セット揃ってたと思う。放課後誰かが回収して隠れていた一枚を残してしまったんだろう。

魔術師。

 ボロボロのカードに思い出はないのに、切ない感情だけが呼び起こされる。このカードにまつわる記憶を消したのはおそらく天使で、僕に何かを思い出させるために何を奪ったのだと思う。

 たぶん、魔法使いはエリのためにいることを思い出させるために。

「怖いよね。後で見に行ってみる?」

「リノ、しつこい。そんなの誰かのイタズラに決まってんだろ」

 ケイタが、僕にくっつきすぎているリノを引き剥がす。

 彼らの記憶はどこからないんだろう。

 リノとセックスをして怒りに狂ったケイタに僕はリンチをされた。そのあと天使が彼らの記憶を消した。

 授業中にリノに魔法でイタズラをしていたことや、放課後にキスをしたことは残っているんだろうか。ケイタはどこまで彼女の浮気を知っているんだろうか。

 僕は――「“魔法使いのトーマ”」と彼らに呼びかける。

「……トーマくんにはいつも優しくしてもらってるから、ほっぺたにキスをした。ケイタには絶対ナイショ……」

「……なんか最近、リノはトーマにベタベタしすぎだと思う……」

 あのあたりか。できればキス以前まで記憶を消した方がいいけど、いくら天使とはいえ他人の魔法にかかっているなら、慎重に対処した方がいい。

 そうだ。“他人の魔法には重ねないほうがいい”――魔法使いの常識だろ。

 僕はそれを学んだはずだ。いつ、どこかは思い出せないけど決して忘れないようにしようと思ったはずだ。

“それでいいです。友だちは大事にしましょう”

 天使もそう言っている。僕は友だちを大事にする。

「行かないよ。魔女の教室なんて気味悪いし」

 魔法を解いて普通に答える。ケイタは「だよなー」と笑い、リノは「男子なさけねー」とバカにする。

「ねえ、行こうよ」

 それでもしつこくリノは僕を誘い、胸を押しつけるようにしてきた。

 ケイタは「やめろ」と引き剥がしつつ、僕にきつい視線を向けてくる。「手を出すな」と前に僕に凄んだときと同じ顔で。

 わかってるよ。僕は苦笑で返した。

 モエミはしばらく学校を休ませることにしている。

 僕の魔法を抜くために、いつものルーチン(パンツの順番とか)を禁止して安静にしている。とりあえず一週間は休んで頭を冷やしてもらい、それから普通の生活に戻していく。

 学校で見せつけてきた性奴隷の行動も完全に忘れるには時間がかかるだろうし、しばらくは引きずると思うけど、セックスありの友だち関係までは僕もやめるつもりはないから、そのうち丁度いい関係に落ち着くと思う。

 リノやケイタともそうだ。僕は友だちを大切にする。

 ――放課後、僕はリノのお尻を剥き出しにして窓に手をつかせていた。

「トーマのバカ……ケイタにバレたら殺されるよ、絶対」

 四階の魔女の教室。

 リノに引っ張られた空き教室で、彼女は思わせぶりに窓際へ僕を連れてくると、いつものようにケイタへの不満を語りながら僕の袖を引いた。指を絡ませ、ポニーテールを傾け、甘えてくるうちに2人して欲情した。

 すまないケイタ。僕たちはスケベなんだ。

 僕の見せる【コマキカード】の指示どおりに丸いお尻を突き出して、彼女は自分で下着を下ろした。

 そこは、処女の女性にはない濃いセックスの匂いをさせていた。

「ケイタにもこんな格好見せたことないのに……」

 僕と寝たことを脳は思い出せなくても、一度受け入れた肉体はしっかり記憶している。僕のに馴染みたがっているかのようにアソコは口を開き、お尻の穴まで誘うようにパクパクしている。

「きっと魔女のせいだよね?」

 発情した顔でリノはいい加減なことを言う。

 魔女なんていない。ここで死んだ生徒なんているはずがない。現にタロットカードもなくなっていた。たぶん、清掃の人か誰かが見つけて回収したんだろう。

 僕はリノのお尻を握って開く。リノは「あん」と恥ずかしそうに腰を震わせる。

「エッチ」

 お互い様だ。じっくりと観察して、指で触れる。お尻の穴。アソコ。以前なら絶対に許すはずのない場所を触られているのに、リノは観念したようにじっとして、時折甘ったるい声を出すだけだった。

「トーマ、んんっ、ダメ、あん」

 悶えるリノのお尻を舐める。ますます高い声を上げてリノの体が痙攣する。

 アソコにも舌を這わせた。放課後の空き教室。誰も近づかない呪われた部屋。僕たちはセックスのための愛撫を続ける。

「あっ、あっ、トーマ、あん、あっ」

 口を離すとリノのアソコから透明の糸が引く。

 立ち上がって体をこちらに向ける。スカートを脱がせる。

 カバンからコマキカードを取り出した。リノのおっぱいを出させるのに必要なカードは【ブラ見せ】2枚。というか、いちいちそんなことをしないで普通にお願いした。

「おっぱい見せて」と。

「ほんと、エッチだよねトーマ。ケイタとは全然違うよ」

 すでに下半身裸のリノは、そう言いつつも自分で制服をはだけてブラを持ち上げた。

 きれいに丸いおっぱいと桃色の乳首。近づいて隣に立ち、舌から持ち上げる。「くん」と鼻を鳴らして、僕の腕にすがるようにしてリノは目を閉じた。

「はぁ、はぁ、えっち……トーマのえっち……」

 僕を責めるふりをして、近づいてくる唇。確か、リノのほうからほっぺにキスをしたあたりで記憶は止まっているはず。

 だから、これがリノとは2回目の――キスになるわけだ。

「ん……ん、んっ」

 リノは拒まなかった。ケイタとはしたことないはずの舌を絡ませるキスを、リノは馴れてるみたいに受け入れて真似をしてきた。

「ちゅ、れろ、トーマ、んんっ、やりすぎ……んっ、こんなエッチなキス、ケイタはしないってば」

 リノも面白がるように舌を入れてくる。彼氏じゃない男との冒険に興奮している。胸を揉みしだく僕の手に自分のを重ね、もっともっと求めるように体を近づけてくる。

 爽やかな女子高生の香りの中に、汗と性の匂いを漂わせ。

「セックスする?」

 耳元でささやくと、リノは真っ赤になって笑った。

「絶対ダメだってば」

 モエミの家ではケイタと別れる決意までして僕に抱かれたリノが、記憶を失って再び僕とのギリギリのせめぎ合いを始める。

「しようよ」ともう一度ささやけば「ダメだってば」ますます赤くなって力ない抵抗をして身をよじる。

 少し楽しみたくなっている自分を抑え、僕は「そうだよね」とリノから手を離した。

 リノも、あっけない幕引きにちょっとだけ残念そうに唇を舐めて「ケイタは裏切れないから」と、今さらな言い訳をした。

「わかってるよ。そろそろこのへんにしないとね。リノのこと好きだけど、ケイタのことも友だちだと思ってるし」

「うん……そうだよ」

 もぞもぞと制服を直して、パンツを穿き終えるのを待って一緒に出ようとしたら、リノはまだ赤い顔をして僕の腕を掴んだ。

「で、でも悪いから、特別にアレしたげる!」

 初めてだから上手くできないかもだけど、とリノはますます赤くなり、何のことかと思っている僕を窓際に立たせる。

「本当に、ただのお詫びだから。いつでもしてもらえるとか思わないでね?」

 ファスナーを下げられた。硬くなっているのを僕を見て、躊躇しながらリノは口を丸く開いた。

 そして生温かい感触に包まれる。この行為を「初めて」だと思い込んでいる彼女はペニスのきつい匂いも難なく飲み込み、二度目のフェラチオをじっくりと口内で味わいながらスケベな音を響かせる。

 桃色の舌が亀頭の周りを踊る。突き出した唇が尿道口にキスをする。両手で祈るように握った指に柔らかな唇がスライドして口づけする。

 リズムを掴んだ水音で、彼氏でもない男への奉仕を二人きりの教室で奏でる。

 処女の誓いのように固く結んだポニーテールを揺らしながら。

「ん、すごい変な匂い、ちゅぷ、ちょっとしょっぱいし……ん、ふ、トーマ、気持ちいい?」

「うん。上手。本当に初めて?」

「ちゅぷ、本当だってば。失礼なこと言わないの。ん、ちゅ、ちゅぷ、ふぅん、ん。もう、ケイタより先にトーマにしちゃった。ん、ちゅ……ね、トーマ。セックスは絶対ダメだけど、これぐらいだったら許したげる。だから、ケイタには相談できないこと、これからも聞いてね?」

「……うん」

 やっぱりやめたほうがいいと思ったんだけど、ついつい気持ちよさに負けてうなずいてしまう。あと、たぶん僕とリノはまたセックスしちゃうと思う。ケイタより先か後かはわからないけど。

 頬を撫でるとくすぐったそうにリノは僕を見上げて瞳で微笑んだ。「口の中で出していい?」と尋ねると「え~?」とイタズラっぽい顔をして、「いいけど」と続行する。

 ていうか、やりたいでしょリノも。なんならこの場でもう一度迫ったら「いいけど」と言っちゃうでしょ。

 フェラに夢中になったリノがぢゅぶぢゅぶと音をたてる後ろで、黒板に『天使のノート』と書かれる。

“友だちは大切に!”

 はい。

 リノと次にセックスするのは、なるべくケイタの後にしよう。

 聖慎女子学園。

 中学の同級生で双子のマナホとチナホが通う近くの女子校だ。魔法で僕の支配下に置かれていて、ハーレムを楽しみたいときによく出入りしていた。

 そこで行われた壮絶なバトルについては割愛する。

 バトルというか、支配とハーレムを解除しようとしたらやはり魔法が集団の奥深くまで根付いていて、一度の魔法では解除不可能な状態だった。

 中学時代もそうだったんだけど、集団支配の恐ろしいところは、主のコントロールから離れて暴走しがちなところだ。被支配者が主に勝る状況もある。

 競争意識や互助意識といった社会の良い面悪い面が作用した結果、魔法も良い意味悪い意味で強化される。集団のための狂信に成長してしまうんだ。

 解散を目指すなら、彼女たちの間で勝手に育った強大な被支配欲求をまず魔法でねじ伏せないとならない。僕はそれに失敗したどころか、敗北しそうになった。

 捨てられると勘違いした桔梗組の第46代総委員長にして聖慎女子学園生徒会長、天河タマキを筆頭とした生徒会役員を中心に、僕を監禁して学園で囲わんとする過激派が結成された。それにあっさりと捕らわれてしまったんだ。

 天使によって僕のスマホから連絡を受けたマナホたち椿組が救出に来てくれなかったら、あのまま搾り取られてミイラになっていたに違いない。

 魔法使いは肉弾戦に弱い。わかっていたはずなのに油断した。天使に感謝だ。

“あの学園にはしばらく近づかないほうがいいです”

 天使も疲れたのか、いつもの達筆に力が感じられなかった。

 これも全部、僕の魔法が人々を歪めてしまった結果だ。

 助けてくれたマナホやチナホからも『考え直してください』とメールが届いている。『トーマくんに捨てられたら死にます』なんて過激なことまで。

 捨てるのではなく、支配のレベルを下げると言っただけだ。君たちに現代に相応しい人権を返すと言っているつもりだ。

 タマキさんなんてまだ僕に天下を獲らせると本気で言っているんだぞ。内乱陰謀罪だろ。もっと早くに異常事態に気づけばよかった。

 大きな規模で支配をすれば、歪みは僕の制御を超える。自分で自分の敵を育ててしまうことになる。

 魔法を使い続けるリスクをよく考える必要があった。

『今日も会ってくれないんですか?』

 モエミから電話が来る。毎日だった。

 彼女は僕の性奴隷。全校生徒の見ている前で犯され、全員に周知された魔法使いの所有物。

 その心理的負担は尋常ではなく、僕への盲目的な忠信以外は考えられなくなり、犠牲になることすら悦びに感じるようになってしまった。

 人格を破滅させる魔法の一番恐ろしい淵に彼女を立たせた。そこを踏み出すことにも躊躇しなくなるまで追い詰めた。

 全部僕の思い上がりのせいだ。

『会えないよ』

 無言になってしまうモエミを相手に、静かに話を続ける。

『そういえば覚えてる? モエミは小学生のとき、僕が落とした消しゴムをハンカチか何かで拭いてからくれたんだ。昔からモエミは優しかった。ちゃんとそういうとこに気づいていればよかった。それから――』

 まだ僕が魔法を覚える前。無邪気な子ども同士として、淡い気持ちを僕に抱いてくれていたモエミを思い出させる。

 そこから少しずつ浮上して、もう一度僕と会おう。

 僕らはきっと良い友人になる。モエミの恋心も性欲も友だちとしてちゃんと受け止める。少しずつ柔らかく関係を解して、いつか普通の友だちになろう。

“モエミちゃんのことはトーマくんに任せます”

 天使は僕を信頼してくれている。

 正しく導いてくれる。

 何者なのかわからないけど頼れる存在だ。もう1人の母親のように。

“土曜日にはいよいよエリに会いに行きます。せいぜいかっこいい服を着てください”

 ……どの服?

“タンスの中にはないです。もういい年なんだから、いつまでもお母さんに買ってもらってないで自分で選んでください”

 時々、辛辣すぎてつらいけど。

 新幹線の乗り方まで天使に習った。

 どうして地上のことにこんなに通じているんだろう。大阪までのチケットを握りしめて、落ち着かない気持ちで窓の外を眺める。

 近いようで遠い場所にエリはいた。

 16才になった彼女はどんな子なのか。すぐに人にパンチする悪いクセは直ったんだろうか。僕の話にまた「つまんない」なんて拗ねたりしないだろうか。

 会って何を話すのかわからないけど、心に決めていることはある。

 エリを幸せにする。今度こそ、魔法で彼女を救う。

 僕の魔法は、彼女の世界を作るためにある。彼女が望むなら――復讐が必要なら、僕はもう一度かつての同級生たちを支配して贄に差し出す。その誓いは今も変わらない。

 天使が僕の右手を握る。

 目には見えない温かい感触がとても優しいのに、なぜか励ましているのではなく――僕に詫びているように感じた。

「めっちゃトウマやーん! ウケる! ひと目でわかった!」

 天使の指定する改札を出ると、すぐに知らない女の子に話しかけられた。

 いや、知っている。こんなにすぐ見つかるとは……向こうにみつけられるとは思ってなかったから僕は固まってしまった。

「どないした? エリやで、わからん? え、関西弁が下手くそすぎて何言ってるかわからん? やかましいわ!」

 今年5年目バリバリの大阪人やと、微妙なイントネーションの関西弁でパンチされた。

 エリだ。ノリが前と変わってるけど紛うことなく本人だ。

 あの頃と変わらない髪型にはメッシュが入り、丸いおでこも大きな瞳も、ブラウンがかった肌も面影を残したまま高校生になったエリだった。

 背が伸びた。がりがりだった体はふくよかな曲線を描き、健康的に手足も伸びていた。

 Tシャツにデニム生地のサロペット。定番ブランドのスニーカー。

 元気に暮らしていると、尋ねるまでもなくわかって僕は泣きたい気持ちになった。

 複雑で、上手く表せない感情で胸がつまる。

「……ひさしぶり、エリ」

 少し声まで震えていたと思う。

 エリは、ふっと柔らかく笑って「おう」と偉そうに答える。

「わざわざ会いに来てくれてあんがと、トウマ」

 あのエリが「ありがとう」と言った。

 僕は我慢できずに泣いてしまった。

「うそーん……」

 5年ぶりのエリとの再会だというのに、僕はみっともないところを見せてしまった。

「とりあえずな。東京人が大阪に来たら一番美味いタコ焼き食わせなならんねん。条例で決められてんのや。維新さんは見栄っぱりやから」

 そして、さすがに僕でもカリカチュアされすぎだとわかるステレオタイプな関西ノリと下手くそな関西弁で、タコ焼き屋さんに案内された。

 声を潜めてエリは言う。

「今度の住民投票でそれもひっくり返るけどな。タコ焼きだけに。て、やかましいわ!」

 僕はエリにそんなの期待していなかったのに、さっきから1人でやたらボケるしノリツッコミされる。

 初恋の子があまりにも過剰に大阪に染まりすぎていることに、僕はどういうショックを受ければいいのかもわからなかった。

 まさか天使は、このことを申し訳ないと言っていたのか。

「でもチカは残念だったねー。風邪やって? お大事に言うといてー」

「チカ?」

「え? あ、ごめんごめん。「ちぃちゃん」だっけ? ラブラブなの聞いてんでー。てか、さんざん聞かされてんで。ちぃちゃん、トウくんの仲なんやろ?」

 何の話をしているんだ?

 ふと頭を叩かれた気がして視線を横に向けると、スケッチブックの『天使のノート』が浮かんでいる。

“話を変えて!早く!”

 珍しく焦ったように乱れた字で、指示が出されていた。

 でも変えろと言われても、何の話をしているのかも僕にはわからない。あわあわするしかなかった。

「うち何でも知ってんで~。チカも隙あらばノロケるタイプやもんな? アイツめっちゃトウマ、おっと、トウくんの話ばっかしてるで。告白がTDLなんも知ってる。USJ派のうちの前でよう言うわと思ったから覚えてる。シンデレラ城とかいう女々しいところで膝ついて告白したんやろ。『チカちゃんが好きですー』って。ようやれたなそんなん」

「いや本当に何の話をしているのか……」

“話を変えてってば!できないなら口をふさいで!エリの話に耳を貸しちゃだめ!”

「ファーストキスの話までしてたで。クリスマスのイルミネーションの前やろ。そんとき2人は1本のマフラーで首繋いでたのも聞いてる。てか、なんでそこまでベタな東京ノリできるん? 恥ずかしいとかないの?」

“やめてえ!”

 天使ノートの乱れた字が暴れ出したと思ったら、テーブルの青海苔の缶が倒れた。

「うわあっ。びっくりした!」

「大丈夫、エリ?」

「いや、平気やけど……あ、思い出した。スケート行ってチカが転んだときも、近くの人が手を差し伸べたらトウマがターンしながら割って入って『俺以外の男の手は取るな』って命令したんやて? 自分ら少女漫画の世界の人なん?」

「うわあ!」

「なんやぁ!?」

 起こした青海苔の缶が、今度は目の前でバウンドして飛んでった。

 エリが青い顔をして「チカの生き霊が来とるんか……?」とつぶやき、チカとかいう謎の人物の話はもうしないと手を組んで誓っていた。

「それより、エリは転校してからどうしてたの?」

「あれ、聞いてない?」

「誰からも……エリの話は聞いてないよ」

「そうなん? あ、そっか。そかそか。それこそチカにうちのことは聞けんかあ」

 うち、トウマの初恋の女やもんな?

 エリは冗談めかして言った。不意打ちで僕は真っ赤になった。

「え、何その反応? いやいやマジやめて。そんなんちゃうかったやろ、うちら。ただのガキやったやん」

 エリも急に恥ずかしくなったのか、忙しなく両手を動かして否定する。

 僕は動揺を自己暗示で沈める。エリの反応に落胆と期待を少しずつ抱いて、そのまま冷静に彼女の話を待つ。

「嫌なことも楽しいこともあったで。でもまあ、おおむね大阪に来てよかったわ」

 小学校ではさっそく嫌われてイジメられた。でもすぐに頼もしくてケンカの強い“彼氏”ができたので、大がかりなイジメはなくなった。

「彼氏っつーか、最後の手段を最初に使ったって感じやけどな」

 ぼやかした言い方する意味は、聞かないし考えないことにした。

 エリは「そしたら家ではもっと大変なことになって」と笑いながら言う。

「親父が死んだん。あっけなく」

 あっけにとられたのは僕のほうだ。エリは誤魔化すように笑ったまま話を続ける。

 階段から落ちて意識がないって聞いたときは「ざまぁみろ」と思った。死んだと連絡がきたときも「あっそ」としか思わなかった。

 だけど自分で思っていたよりも精神的なダメージは大きく、いわゆるフラッシュバックというのにも悩まされ、新しい保護者になった祖父母にも気味の悪い子扱いされていたと。

「でも、ちょっとずつわかってきたん。うちの人生、ここから始まるんやって。そう思ったら這い上がっていく余裕も全然あったわ。いつまでも落ち込むのは退屈やし」

 エリは強い子だ。僕だってそれくらい知っていた。周りに敵が強すぎただけで、一つ晴れればそこから抜け出せる足とスタミナは持っている。

 僕がどうしても追いつきたいと思っていた頑固で負けず嫌いの彼女は、大阪の地に1人で成長していた。

「サッカーやったり、新しい彼氏作ったり。うちが楽しめば周りも勝手についてくる。つまんないことしてたらほっとかれる。いろいろツッコんでくれるからわかりやすいわ。今ならなんであんなに東京で嫌われてたかも理解できるし」

 友だちはトウマだけやったな。

 エリはなつかしい顔で笑い、タコ焼きを頬張った。

「チカと仲直りできたのが一番大きかったかな。なんで急に謝る気になったのか知らんけど、たぶんトウマのせいやろな。アイツって中身はめっちゃ乙女やから、好きな男子にいつまでもイジメっ子だと思われたくなかったんやろ。でもええ子やん。可愛いやん。トウマには嫉妬してまうわ」

 大事にせえよー、とエリは爪楊枝で僕を指す。

 チカというのが誰なのか本気でわからない。でも確かにわかるのは一つ――エリは今、幸せで満たされているということ。

 魔法使いはいらなかったという事実を、笑顔で知らされる。

「本当は今日、うちも彼氏連れてこよと思ってたんだけどな。アイツいかついし圧強いねん。チカも来られへんならトウマがきついやろと思ってステイしといたわ。ふはは」

 心のどこかで覚悟はしていた失恋の痛みを、笑顔で誤魔化しながら彼女の回復を心から祝う。

 そして、拭いきれない後悔と空回りを続けた5年間を、一つだけ残ったタコ焼きを見つめながら吐き出す。

「エリ……覚えてる?」

「ん?」

「魔法使いに会いたいって君が言ったこと」

 家に帰れない二人の思い出。マンションの屋上で泣きながらつぶやいた一言。

 僕の人生を変えた君の願い。

「……あー、それ言う? いや、言うわな。うちのせいでえらい事件になって本当にごめん。トウマは悪くないで。催眠術とかいう変なのが悪いねん。山畑にはホンマ気の毒なことしたけど、アイツかて悪の先生やったしな。でもトウマも、あんなこともうしてへんやろ?」 

 小学生のとき、僕が魔法でセックスをした担任の名前を申し訳なさそうに口にして、エリも困ったように眉尻を下げた。

「今なら謝れるわ。山畑すまんて。いくらガキでもしちゃアカンことやったな。うち、あんとき頭が爆発しそうやってから。学校ごとボカンしたろと思ってん。一番悪いのはうちの親父なのにな」

 1人で納得し、否定されていく僕の魔法。

 それが彼女本来の強さだとわかっているのに、僕は秘かにズタズタにされていく。

 絶望の淵に僕は立たされる。杖をへし折られる。

「じゃあ」

 胸につかえる言葉を、なんとか絞り出す。

 顔を上げることもできなかった。

「エリは、もう魔法なんていらないんだね」

「せなやあ」

 この話が終わったら死のうと思った。

 タコ焼きを喉に詰めて死んでやろうと。

「あんときとはちょっと違うわ。さすがにもう大人やし。うちが欲しかった魔法の正体も、もうわかってるしな」

 そう言って、1つだけ残っていたタコ焼きを、エリは爪楊枝で器用に割る。にっこりと微笑んで。

「これでええねん。誰かと何か分け合えたら終いや。うちはこういうこと誰かとしたかった。なのにアホやから、あんときトウマが一生懸命分けてくれてたの気づかんと、怒ってばっかりやった。トウマに、一度もお礼言ってなかった」

 恥ずかしそうに、エリはぺこりと頭を下げる。

「気づくの遅くなってごめん。会えたら絶対にお礼が言いたいと思ってた。本当に。本当に本当に本当に!」

 そして上げた顔は、真っ赤になって笑ってた。

「おおきに、うちの魔法使いさん!」

 そう言ってエリは――分けたタコ焼きの、タコの入っているほうをパクリと食べた。

 僕のエリ。

 いつも勝手に先を行って、怒ったり笑ったりしながら僕を振り返っていたエリ。

 ぐしゃぐしゃに泣いた。声を上げて泣いた。傷ついていることも、嬉しく思っていることも、ごっちゃになって自分でも何の感情で泣いているのかわからないまま、涙は止まらなくなった。

「だから、なんで泣くねーん!」

 エリもなぜか一緒になってわんわん泣き始め、店の迷惑だとわかってるのに僕も彼女も号泣しちゃう。

 いつの間にか、タコのない半分だけが残った皿に4つも新しいタコ焼きが置かれていた。

 店のおじさんが、人なつこい笑顔を浮かべていた。

「なんや知らんけど、若いもんがそないわんわん泣いてたらナンボ食っても足りんやろ。おっちゃんのおごりや。腹一杯にしてせいぜい気張り。あんたらの青春は一度きりやで……って、うちの青海苔に何してくれてんねーん!」

 そしてベコベコにへこんだ青海苔の缶に絶叫ツッコミを決める。大阪。

 その夜のホテルで、僕は天使を抱いた。

 目には見えない柔らかい肌。手を離せばすぐに感触も記憶も消える体を必死に抱きしめ、腰を動かしていた。

 もう何度、中に出したかわからない。泣き声を漏らしながらキスも求めた。

 彼女のことを天使と呼んだりエリと呼んだり、自分勝手な欲望を天使の中に捨てていく。

 それも全部受け入れてくれた。許して、抱いてくれた。

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、何度も何度もセックスをして――そのまま朝まで続けた。

 そして新幹線で寝ながら家に着くと、真っ赤な顔した妹のミチルに出迎えられる。

「お兄ちゃんどこ行ってたの! スマホの電源も切れてるしっ。もうずっと待っててもらってたんだよ。早く早く!」

「なになに? なんでそんなに興奮してんだよ?」

「興奮じゃない! 尊さに酸素を持っていかれて息が苦しくなっただけっ。だって推しは宇宙より高みでしょ!」

「本当になに?」

「いいから早く!」

 僕の手を引く妹の隣に、『天使のノート』が文字を浮かべる。

“失恋を癒やすには次の恋しかありません”

“なのでトーマ君を癒やしてくれる女の子をご招待しました”

“エリ1人にふられたくらいでこの世の終わりみたいな顔してるトーマくんは、自分がどれだけ恵まれた男なのか、きちんと自覚するべきです”

“酸素持っていかれろ”

 何の説教?

 バタバタと廊下を引きずられ、部屋の前でミチルは「失礼します!」と大声で扉を開ける。

 ベッドの上には――ルナがいた。

 真っ白な脇の下を見せて腕を枕に窓にもたれ、短いスカートからすらり伸びる足を組み、貫禄のあるオーラを不機嫌に漂わせ、うちの妹を恐縮させている。

 撮影で切った髪は少し伸びてアッシュカラーになり、いかにも芸能人様といった感じの大きなサングラスをかけ、同級生とは思えない威圧感を発して僕の部屋を占領していた。

「お待たせして申し訳ありません! お兄ちゃんを連れてきました、ルナ先輩!」

 獄卒のように兄を引き渡して敬礼する妹に、ルナは鼻息一つ漏らしただけで、不機嫌な表情を変えなかった。

 ミチルは震え上がるようにして「ごゆっくりどうぞ!」と、90度の礼をして退出していった。

「いや……どうしたの?」

 突然の登場だった。予想だにしていなかった。

 前のファストフード店での告白騒動が少し僕らの間に距離を作って以来、セックスの回数も減り、中学を出てルナが有名になってからは、たまにメールをするくらいの関係に落ち着いていた。

 会うのは本当に久しぶりだし、まさか家に来るなんて考えられなかった。

「はあ?」

 だけどルナは、思いきり顔をしかめた。

「あんたが会いたいっていうから時間作ってやったんですけど。忙しいのにわざわざスケジュールずらしてもらってここまでタクシーまで使って。なにその態度、あんた相変わらずさいてー!」

 僕は視線を泳がせて天使を探す。

 犯人は彼女だ。絶対にそう。天使は必ず僕の不意をつく。勝手に僕の名を騙るぐらいのこともする。

 これまで何度か起きていた不思議な現象は全てそれで説明がついた。

 なぜ、そんなことをするのかがわからないだけで。

 天使はノートを出してくれない。僕はため息をついて、荷物を下ろして彼女の隣に腰掛ける。

「とにかく久しぶりだね。元気だったんだ。よかったよ」

「わざとらしい。私が元気でやってるかどうかなんて、テレビを見ればわかるでしょ?」

「たまには見てたけどさ。でもルナは演技が上手いから、本気で楽しんでるのかよくわかんないし」

 ルナは、ちょっと驚いたような顔をしてサングラスを外した。

「な、なによ。演技のこととかあんたにわかるわけ?」

「そりゃ仕事のことなんて知らないけど。でもテレビに出てるときって、いつもとキャラ違うだろ。僕の知ってるルナじゃないし、なんか演じてるっぽく見えるから。本当に楽しんでるのかわかんないんだよ」

 まあ、今のルナはいつもどおりで、元気そうでよかったと思っただけだよ。

 言い訳っぽく言う僕を、大きな瞳がじっと見つめる。

 あらためて、コイツすごい美人だなと思った。

 小学生のときからずっとそばにてセックスもしょっちゅうしていたし『アダルト女優のルナ』のキーワードでドスケベになったとこばかり見ていたせいで意識してなかったけど、そりゃ十代で若手女優のトップとか言われるくらいには芸能界でも際だった顔立ちだし、演技も引き込まれる。

 考えてもみれば、彼女は人前で裸になって豹変するような演技を、毎日僕の前でしていたんだもんな。全校の女子とも裸を競って勝ち残ってきた女王だし。

 そのへんの女の子とは度胸も貫禄も違って当然か。

 見つめ合っていると、息が詰まるような、なんだか酸素が足りなくなってくるような変な緊張感まで生まれる。

 でも、先に視線を逸らしたのはルナだった。

「そ、そりゃあ素の私を知ってる男なんてあんたぐらいだし。本当の私なんて他に誰も知らないから、あんたから見て元気そうって言うなら私はまあまあ元気ってことなのかな、じゃあ。そうかもね、うん。知らないけど!」

 そして、なぜか深呼吸していきなりストレッチとかを始めた。ぐいっと背中を伸ばした耳の後ろが赤くなってて、なんで照れてんだろと思った。

「ていうか、どっか行ってたの?」

 くりんとまだ赤い頬をこっちに向ける。

 目、本当でっか。鼻すじもすごい真っ直ぐだな。

「大阪」

「なんで?」

 ルナが覚えてるかどうかわからないけど。と、前置きをしてから言う。

「栗原エリに会ってきた」

 ルナは、口の中で小さくその名を反復してから、きょろりと目を動かして僕から視線を外した。

「……へえ。まだ繋がってたんだ。あの子、大阪にいるんだね」

「思い出した?」

「うん。トーマは仲良かったよね」

 ルナはエリをイジメていた。

 彼女を『空気』と呼んで無視をして、気が向けば暴力もふるっていた。その首謀者だった。

 深いため息をつき「そっか」とルナは自分の太ももを叩く。

「何してんの、あの子?」

「普通に高校生だよ。バイトして、彼氏もいて、音楽やってる。路上でギター弾いて歌ってたよ。友だちと」

 タコ焼きを食べたあと、その友だちを紹介してくれて、路上ライブにも連れてかれた。

 友だちには「よくこんなのに会いにわざわざ来たね」と淡々と驚かれた。普通のテンションだったし、東京の人とは標準語で話せる大阪人もいると確認できてよかった。

 2人の歌はとても明るく爽やかで、僕は――途中で帰った。

 知らない土地の人になったエリの姿にまた泣きそうになったから。さすがに泣きすぎだと思ってエリにバレる前にホテルに戻ったんだ。

「……私もいつか会えるかな」

 こくりと喉を動かして、少し顔色を青くしてルナはつぶやく。

 会ってどうする、などと意地悪を言ってやりたい気持ちがないわけじゃないけど、それは全部自分に返ってくる意地の悪さだとわかっているので言わない。

 エリは、ルナの話も普通にしていた。

「ライブの時はルナのリップ使ってるって。CMかっこいいって言ってたよ」

 ルナはまた目を大きくして「えー」と赤くなると、「そっかぁ」と気が抜けたように息を吐く。

「大阪行ったら絶対エリのライブ観に行く! 場所教えて」

「……その前に連絡してからにしよう。いきなりは多分迷惑になるから」

 繁華街近くの路上だぞ。彼女たちの若さと元気が目当ての酔っ払い数人しか足を止めない現場だ。ルナがそこに行くなら大人も必ず同伴させてほしい。

「そっかぁ。エリ。そっかぁ」

 ぼすんとベッドに倒れ込み、ルナは足を僕の太ももの上に投げ出す。

「みんな生きてる。最高だ」

 などと、みつをみたいなことを言って手で目のあたりを隠した。

 もしかして泣いてるのかと思った。でもそんなことはもちろんなくて、ルナは「にへ」っと笑っている。

「最高だね」

 少しだけ竹田のことを思い出してから、僕も「そうだね」と答えた。

 ネガティブなことをどうしても考えてしまうのはきっと僕の悪い癖なんだろう。エリに会ってから、自分のそういうとこばかり気にかかる。

 いつまでもエリには追いつけない気がする。

「トーマ」

 ルナは右手を僕に差し伸べる。

 濡れた瞳が細く微笑んでいた。

「しよ?」

 久しぶりに会う彼女はますますきれいになっていた。

 アダルトじゃない女優になって、日本中の男子がファンになって、写真集がめちゃくちゃ売れたとかそんなことまでニュースになって。

 そして、唇を舐める表情が前よりもエロかった。誘われるまま彼女の横に手をついてかがむ。

「君は――」

 アダルト女優のルナ、という魔法の言葉を僕は途中で飲み込んだ。

 ただ単に、なんとなくそんなことを今さら言うのが恥ずかしくなった。

「もう本物の女優だろ。簡単に「しよ」とか言うなよ」

 逃げる僕の頭を優しく抱え込み、ルナは笑った。

「いいからちゃんと言って。私はトーマは何?」

 今の彼女にそんな魔法を使うのは少し悪い気がして僕は言いよどむけど、ルナはしつこく求めてくる。

「ねえ言って。私は誰? 誰の何?」

 前とは違う香水の匂いと、変わらない発情の匂い。

 魔法は麻薬だ。依存は僕らの共有する病だ。

 だから少しずつ、分け合って薄めていかないとならない。

 言い訳をしながら僕は魔法を使う。

「君は“アダルト女優のルナ”だ」

「んんんっ!」

 ビクンビクンと腰を痙攣させ、ルナは豹変して僕にしがみついてきた。

 キスをして、長い舌を僕の口の中で回して、自分の服も僕の服も器用に脱がせていく。

 脱げば脱ぐほど、彼女の肌は熱くなる。

「んんんっ、トーマぁ! 来て、んんっ、すぐ来て。ずっと欲しかったの。おちんちん、ずっと待ってたのぉ!」

 そのまま僕を押し倒して、ペニスを掴んで自分のソコに押し当てる。

 犯すみたいに、一気に腰を落としていた。

「あっ!? あぁぁぁぁ!」

 形のいいおっぱいが、先を硬くして弾む。

 仰け反って、アソコから大量の潮を吹いて。

 早すぎるエクスタシーを見せつけながら、何度も何度も体を痙攣させる。

 それでもルナはすぐに腰を上下に揺らしてきた。

「いいっ、いいっ! トーマいいのっ。これ、これ、ずっとしたかった。欲しくて頭おかしくなりそうだった……もう、私、トーマのことばっかり考えさせられてたぁ!」

 目から涙を、アソコからは愛液を。

 どれだけ彼女が僕とのセックスを待ち望んでいたのかわかる。

 そして、きゅうきゅうと締めつけてくるこの感触に、僕のもすごく喜んでいた。ルナとどれだけ体を重ねてきたか、思い出した途端に快楽も感情も爆発していた。

 気がつけば下から突き上げていた。形のいいおっぱいが弾む光景に我慢できず、貪りついていた。

「ルナっ。いいっ。僕もいいよっ。ルナ最高だ!」

 思わず叫ぶ僕に、ルナはじわっと泣き顔になり「私も」と抱きついてきた。体を重ねて必死になって腰を揺すり、ルナの感触に夢中になった。

 すべすべの肌は手に心地よく、可愛い唇は僕のキスにぴったりとはまり、図抜けて美しい顔が快楽に歪む様は優越感を満たす。

 そして何より、彼女の必死さと本気に僕も燃えてしまう。僕らのセックスはいつも最高を求め、実際に最高に気持ちいいことしかしない。

 相性も最高だった。

「私たち、やっぱ最高じゃん…ッ! こんなに気持ちいいこと他にないよっ。ねえ、私、まだトーマだけだからね? めっちゃナンパみたいなことされたし、変な圧かけてくるヤツもいたけど、ずっとトーマだけだからねっ。キスもセックスもトーマとしかしてないからっ。私の体、まだあなた専用のままなんだから…ッ!」

 ルナのきれいな顔がスケベな色に染まっている。

 僕の手をしっかり握りしめ、ハァハァと熱い息を唇に吹きかけてくる。

「好きぃ…っ」

 セックスに理性は吹き飛び、ハートの形に潤む瞳の輝き。

 情熱的なキスみたいに僕に打ち付けられる腰の重厚な動き。

 ルナのこんな顔を知っているのは僕だけ。ルナのセックスの激しさを知る男は他に誰にもいない。

 スターになった佐藤ルナのスケベさを、この僕だけが独占できる。

「ルナ……もっと僕を抱いて」

 そんな彼女に僕はすがった。

 情けない顔をして甘えて抱きついた。

「僕と、もっと気持ちいいこと分け合おう…ッ!」

 女の子が大好きだ。

 セックスに溺れて、女の子の甘い匂いに包まれて、ずぶずぶに浸っていたかったのは僕の欲望なんだ。エリのためじゃなかった。

 心のフタが開いていくのがわかる。エリに鍵を外されて、ルナにバラバラにされるのを実感する。

 それがとてつもなく気持ちいいことだっていうのも理解した。セックスが大好きだ。ルナが好きだ。

 ルナは嬉しそうに、きゅうと瞳を絞って微笑んだ。

「いいよ。抱いちゃる。私がトーマをめちゃくちゃにしてあげる!」

 2人して声を上げて気持ちいいセックスをした。

 僕は初めてルナの中に出した。妊娠も怖くなかった。ルナもたくさん出してって自分でアソコを広げた。

 バックで抱いた。側臥でした。シックスナインをして、対面座位して、全部中出しをした。

「“僕は魔法使いのトーマ”」

 ルナの小さな頭を両手で挟んで、次々に魔法を注ぎ込む。

「君は舌は僕のもの。僕の舌と触れあうとクリトリスにも同じ感触が流れる。僕だけが知っている秘密のルートを通じて舌とクリトリスが直結する。君は今後、僕にキスされただけで、イッちゃう」

 ルナは嬉しそうに舌を出す。僕がそこに舌で触れると、「あっ」と声を上げて小さく痙攣し、ゲラゲラ笑って「もう一回して」と舌を突き出す。

「おっぱいも僕のもの。僕の手は常にここに触れている。どこにいても、僕のことを考えただけでこの揉みしだく感触は蘇り、君に快感を与える。ルナのおっぱいはずっと僕に揉まれている。守られている。僕以外の誰もこの胸には触れない」

 後ろから両手で胸を揉む僕の頭に手を回し、ルナは蕩けた表情でキスをしてきた。

「うん。これトーマのおっぱい。たくさん指の跡つけて、んんっ。トーマの手ブラ欲しい。一生外さないって約束するから。あんっ、もっと、きつく、おっぱいに跡つけてぇ!」

 自分から手を重ねて、僕の魔法に力ずくで強度を加える。僕の印を欲しがって胸に指を食い込ませてお尻まで振る。

 彼女をよつん這いにさせて、高く持ち上げさせてお尻の穴にも僕は独占の楔を打ち込む。

「このアナルも僕のもの。もっとお尻を上げて自分の手で広げて。そう。今から僕の指が入る。ほら、ずぶずぶ潜っていく。この指がペニスになって、アナルはヴァギナになる。この状態で本物のペニスをアソコに入れたらどうなるか。ほら、入れるよ。僕と2ヶ所でセックスしているのわかる? ほら、わかってるだろ? どっちの穴も一度に抱いてる。こんなセックスをしてくれる男は誰? ルナとこんなセックスをしてあげられるのは誰だ?」

 ルナは、息が詰まったように苦しげに悲鳴を上げてから叫ぶ。

「あぁぁぁ!? はい、知ってます! 魔法使いのトーマですっ。私に、こんなセックスしてくれる男はトーマだけっ。本当の私を抱いてくれるのトーマだけですっ。だから、だから、私のアナルも、オマンコも、あなたのものぉッ! 世界で、ただ一人の、私の男……トーマのセックスでしか、私は満足できません! あぁ、あぁぁん!」

 バックで抱きながらアナルの中で指を折り曲げる。快楽に仰け反って自ら腰を振り始めるルナの姿に、思わず表情が歪んだ。

 ルナを抱くことで僕のちっぽけで惨めなプライドが満たされる。メディアの向こう側へ行った彼女を後ろから犯している自分に、失恋の痛手が慰撫され自信が回復する。

 所詮は僕もただのケチな男で、女の子には甘えたいし征服したいし愛されたい。

 ルナはいつも僕の欲望を受け止めてくれる。甘えさせて征服させて愛してくれる。

 本当の僕のことを知っているのは、ルナのほうだった。

「トーマ! トーマ、イクっ。私イク! 中に来てっ。何でもするから中に出してっ。もう、もう、他のとこじゃ嫌なのっ。中に来てぇ!」

 僕はスマホを手にして、バックで犯されているルナの動画撮影を始めた。

 女優生命を絶つような行為だ。男とのセックスで十代の身体を弾ませるあられない若手トップ女優を主観で録画している。

 そしてささやく。「撮ってるぞ」と。

 ルナは「は?」と前髪の隙間から僕を振り返るとカメラを見上げ、にへらと妖艷に、イタズラされて喜ぶ女児みたいに、蕩けた顔で笑った。

 そしてぐいぐいと、ますます激しくお尻を振って、僕のスマホに目線を合わせて大きな声で言うんだ。

「ルナ、イク! イク、イク! ルナ、イッちゃう! トーマに犯されてイッちゃうの。好き、好きなの、トーマのセックス大好きっ。あなたのアダルト女優のルナなの! トーマといっぱいセックスして中出しされて孕ませてもらうために女優やってますっ。セックス専用のお尻を丸出しにして、たくさんイジメてもらってますっ。出して、出してっ、ルナのオマンコふにゃふにゃになるくらい精液まみれにして! オチンポでルナをイジメてえ!」

 アドリブ強すぎ。女優すごい。

 カメラがぶれるくらい僕らは腰を激しくぶつけ合い、大声で気持ちよさを確認しあって、息を揃えて性器の中で快楽を吐き出しあった。

「そこ、わかるよね? 僕の精液を流すルナの大好きなセックスの穴だ。自分でアソコを広げて、そこが誰のものか教えて。僕は魔法使いのトーマ。僕の撮影した映像は即座に全世界に生配信され、全ての受信機に強制的に放映されている。想像して。今の君の姿を見ている全人類の顔を想像して誓って。それは誰の穴? 君は誰のもの? 誰のドスケベアダルト女優か言って」

 僕の精液を垂らすアソコを自分の指で広げ、アナルも見えるくらい足も腰も上げて、ルナは上気した顔で微笑む。

「こんばんはっ。トーマのドスケベアダルト女優ルナのオマンコです。トーマのおチンポぴったりの精液吐き捨てタレントの使用後ですっ。私のここ、見てください。たった今トーマにスパチャもらえてすっごく喜んでます。でもごめんなさい。私のここにザーメン投げられる人は世界で1人だけなんです。他の人は応援だけよろしくお願いしまーす!」

 僕はゲラゲラ笑ってルナに魔法をどんどんかけて、ルナもそれを喜んで受け入れドスケベな誓約をしていく。

 彼女は僕のエロス。

 セックスの恋人。情熱と性の理解者。

 ルナに溺れていくのがわかる。掛け替えのないパートナーが僕にはいるんだと確信する。

 スマホの画面の中で、僕のお腹の上で、陶酔しきった顔でルナが叫ぶ。

「イク! またイッちゃう! ドスケベな顔撮られながらイッちゃうの! あぁ、ダメなのに、本当は絶対ダメなのに、またイキ顔をトーマに撮られちゃうっ。女優生命終わっちゃう動画、男に握られちゃうっ。一生逆らえない映像で、妊娠するまで犯されちゃうぅぅ!」

 そして、さんざん楽しんだ後で「その動画を流出させたらマジで殺すから」と言われた。

 もちろんそんなことをするわけないし、なんなら今すぐ消すよと提案したんだけど、逆に「消す必要はないじゃん」とルナは言った。

「そこに映ってる私、ウソついてないし演技もしてないし。本当の私を知ってる男が持ってる分には全然いいよ。他のヤツに観られるのは死んでも嫌ってだけ」

 汗をボディシートで拭いてから、ブラをしてパンツを穿いて、芸能人のルナに戻っていく。

 そんな背中とスマホの中の乱れた彼女の映像を見比べて、女優はすごいなって思う。

 どっちもきれいだと思う。

「今度はいつ会えそう?」

 忙しいだろう彼女に尋ねる。

 ルナは、本当に意外なことを言われたって顔で、丸くなった目をこっちに向ける。

「あのさ……あんたに会いたいなんて言われたの初めてなんだけど」

「そうだっけ?」

「そうだよ。どうしたの。もしかして不治の病?」

「いや単純にそう思っただけ。でも忙しいなら遠慮はするよ。会えそうなとき教えてくれる?」

 ルナはびっくりした顔のまま真っ赤になり、慌ててバッグの中を漁り、カギと一緒に自分のネックレスから外したチャームの一部をストラップで繋いでよこす。住所とマンションのセキュリティ番号も書き添えて。

「いつでも余裕! でも仕事のときもあるし、外では会いづらいから、とりあえず勝手にうちで待ってて。マネージャーにも一応男いるって言ってあるし絶対大丈夫。こういうこと芸能人ってみんな普通にしてるから気にしないで。毎晩でも全然平気だから寝泊まりしてって! じゃあね!」

 バタバタと慌ただしく出て行きながら、早速スマホで誰かと連絡を取っている。本当に忙しそうだな。

 でも、部屋に遊びに行ってもいいというなら遠慮しないで行かせてもらおう。

 カチャリと金属の音がした。ルナが机に置いていったキーに付けられたチャーム。それが勝手に浮いて動いていた。

 きっと天使が触れているんだろう。

 天使の形をしていたルナのチャームを。

 それから月日がちょっとだけ流れる。

 僕も最近はあまり魔法を使わないようになり、だんだんと下手くそになっていくのを実感していた。

 それでも別にかまわない。こんなのはもうセックスくらいしか使い道はないんんだから。

 モエミは学校に来るようになった。前みたいにおとなしくて恥ずかしがり屋で、真面目で可愛い彼女に戻ってきている。今でもパンツのローテーションは守っているみたいだけど確認なんてしていない。体をモジモジと求められたときは、誰にも見つからないようにこっそりとしているだけ。

「ご主人様、大好き」

「いやモエミ。僕のことはトーマでいいから」

「ご主人様はご主人様ですう」

 まだ少し時間はかかりそうだけど、卒業するまでには友だちに戻ることを目標にしている。

 僕は焦らない。そのくらいモエミとは長い時間を過ごしてきたし、これからも過ごすと思うから。

「あいかわらず仲良いなー、おまえらは」

 ケイタは、そんな僕とモエミにいつものように冷やかす。

 隣にリノの姿はない。というか、別れたそうだ。

 あれからなんとなく平行線だった2人の距離は自然と離れていって、ケイタのほうから「だらしなく付き合うのはやめよう」とリノと告げたらしい。まだ少しぎこちないけど、元の幼なじみに戻ろうとしているとか。

 リノと僕は、あれから四階の空き教室で何度かキスやペッティングをして、結局はセックスだってした。

 罪悪感と背徳の快感は高校生には刺激が強すぎて、やりすぎていることを遅れて後悔する。

 それを最後に絶対に秘密と約束して、つまらない遊びは封印したんだ。

 リノも自罰的にケイタとの別れを受け入れ、僕とも距離を置いている。

 そうして女子が絡まなくなると、なぜか僕とケイタは普通に仲良くなった。

 僕たちはどっちも口数が少なく、無言でいることが多いけどそれは苦にならず、意外とマンガや映画の好みも似ていた。

 もしかして、初めて男友だちというが僕に出来たのかもしれない。

「週末部活ねえし、トーマんち泊まりに行っていい? こないだの漫画の続き読みたい」

「いいけど、ミチルに気をつけろよ」

「おう。てか気をつけるって何よ」

「ケイタを狙っている」

「はっ。ないって。中学生なんて、高校生とか兄貴の友だちとか、身近な年上がなんとなく気になるもんだろ。いちいちマジにすんな」

 ミチルが今度こそ本当に初恋に落ちた。よりによってケイタに。

 のんきなこと言っているけど、妹が本気かどうかくらい兄には当たり前にわかる。だから気をつけてくれとお願いしているんだ。

 あんな妹でも、失恋するところは見たくないし。

 ケイタはリノのことがまだ好きで、リノもおそらくケイタとよりを戻したいと思っている。そんぐらい僕でもわかるぞ、この不器用な2人の様子を見ていれば。

「さっさとリノに頭下げて、もう一度付き合ってくれって言えよ」

「は? 意味わかんね。向こうだってそんなつもりないし」

「もどかしいな……なんだこの2人」

「うっせ」

 人間関係って本当に複雑で先が読めない。

 魔法のない人生って予測不能だ。

『それじゃあ聞いてください。うちらの新曲です!』

 エリは本格的に音楽配信を始め、動画SNSでちょっとバズったりもして、順調に活動を続けている。

 というかバズったのはルナのせいなんだけど。

 大阪でルナはエリと再会し、ちゃんと謝罪をした上で和解して記念に一緒に歌った。

 その動画をエリがアップして、ルナが自分の公式SNSで「大阪の友だち」ってシェアした。

 まだカメラの前で歌ったこともなかったルナが、キレキレのダンスまで披露してエリと笑っているその動画は、地上波の情報番組でも紹介されるほど広がった。

 おかげでエリはルナのことを「神」と呼ぶくらい登録者が増え、地元のちょっと大きなイベントにも声をかけられたそうだ。「うちの才能が世間にバレてもうた」とか調子に乗っていた。

 でもじつは世間にバレてしまったのはルナのほうで、事務所には勝手なことばかりするなと叱られたけど、当初の計画よりも早く来年アーティストデビューが決定したのをエリは知らない(僕からは言えない)

 まあ、ルナとエリはそれからも仲良く交流しているから、とっくに聞いているのかもしれないけど。

 意外なことに、ルナの方がエリにべったりだった。

「エリめっちゃウケる。こんな面白い子ちょっといないって。なんで小学生のときに気づかなかったんだろ」

 こないだ泊まりに行ったときも、シャワー後のインナーキャミソールと下着だけという格好で、エリといつまでもメールしていた。

 まさかルナはあのノリがツボだったとは思わなかった。新喜劇とか観たら死ぬんじゃないの?

 近頃は僕がルナにべったりで、週の半分は彼女の家で寝泊まりしているので、エリになんとなく嫉妬するような時間も多くなった。そのことが妙におかしくなったりもする。 

 僕も含めて、人ってじつは面白い。どうして今まで気づかなかったんだろうな。

 エリたちの新曲動画をイヤホンで聴きながら下校する。

 次の長い休みにはまた大阪に行こうかな。ルナも一緒に行けるかな。

 なんて、僕も平和なことを言うようになったものだ。

 普通の高校生みたいだ。

 そんなことを考えていたら、前から目の不自由な人が来ていることに気づくのが遅れて、少し慌てて道を譲った。

 派手な服を着たくせっ毛の女性。サングラスをかけて、杖で道を叩いている。

 なぜか少しその人のことが気になって目で追ってしまった。そうすると、僕の後ろで大きな体をしたサラリーマンが、その人にぶつかりに行ってよろけさせた。

 頭に血が上るのを感じた。いつもならそんなことしないのに、怒りに任せてサラリーマンに「ちょっと!」と怒鳴っていた。

「あなた、今わざと彼女にぶつかりましたよね。謝ってください!」

 サラリーマンは「はあ?」と大きな声で答える。

「なんだガキ? ちゃんと見てたのか? ぶつかられたのはこっちだろ。よろけたほうが被害者なんて、勝手な正義感で悪者扱いされたらかなわねえよ。痛かったし謝ってほしいのはこっちだけどな!」

 威圧されて、僕も体が震える。誰も僕たちのことなんて気にしてくれない。いや、視界に留めようとしない。

 でも、僕はコイツがわざわざルートを変えてぶつかるのを見たんだ。ウソじゃない。魔法でコイツぶっ壊してやりたい。なのに怖くて声が出せなかった。

「――いいんだよ」

 女性が、硬く握った僕の拳に触れた。冷たくて骨張った感触が、どうやってか僕の緊張を一瞬で解いた。

「すみません。私の不注意です。おケガはありませんか?」

「はっ! 今度からすみっこ歩けよ。おまえみたいなヤツらの分まで、俺たちが働いて税金払ってやってること忘れるな!」

「はい。そうします。でも、あなたもケガには気をつけてくださいね」

「あ?」

「次は自分より強い人とぶつかりたくなるから。強そうな、威張っている人を選んで、思いきりぶつかってケンカを売ります。私のカードにそう出ています」

「何言ってるんだ、おまえ」

「そうなります。絶対。あなたは世界で一番正しい。優秀で忍耐力もある働き者だ。なのに自分より偉そうな人間がいるなんて許せないでしょ? そういう人にぶつかりなさい。無礼なことを怒鳴り散らしなさい。そうしないとあなたはどこにも帰れない。自分の苛立ちに食い殺される。もっと大きく世の中を殴りなさい。蹴り倒しなさい。存分に」

 カツカツと、杖で道路を叩いている。一定じゃないリズム。不自然で耳に残る音階。

 あ、これはもしかしてまずいかも。

 そう思ったときには、僕の頭の働きが鈍くなり始めている。

「……そうだな。ちょうどむしゃくしゃしてたところだし……」

 サラリーマンが去っていく背中を見送ったあとも、まだ頭の中に靄がかかっている僕に、サングラスの女性はささやいた。

「驚いたよ。ずいぶんと素敵な魔法使わないさんになったじゃないか。また何か素敵な出会いにでも感化されたのかな。お坊ちゃまな君らしいねえ、私のウィザード。私のトーマ」

 若いのにしわがれた声だった。骨ばった手といい、野草のような口臭といい、彼女は意図して演出していた。全身で魔法の空気を発している。

 魔女だ。

 どうして不注意に近づいてしまったんだろう。

「魔法はもう捨てたのかい? 私はあいかわらずだよ。いまだに魔女さ。あんなにきれいごとを言って別れたというのにねえ」

 引き攣るように笑った。

 吐く息が糸のように顔に絡む気がした。

「しかし私を笑うな。君にもいずれわかる。魔法使いは全員、愚者(フール)。フールだ。今はたまたま周りに恵まれ魔法なしでも呼吸できているかもしれないが、クソに飲まれそうになれば君だってすぐにすがるさ」

 魔法のような強制力のない言葉なのにしつこくまとわりつく。肌を撫で、毛を逆立て、そのまま形になる。

 言葉と呼吸だ。

 粘土のように僕の型を取り、魔法使いの像を造っていく。

「やはり学校は良き舞台だったな。感動も絶望も美しき茶番だった。その点、社会は底抜けにクソだぞ。茶番すら破綻する逆位置の沼だ。そして君の、正にも逆にも染まる純真さこそが才能だ。魔法は捨てるな。磨け。その鋭く美しき才能が花開くのはこれからだ。私のウィザード」

 老獪な魔術師トーマ。

 未来の僕が、シワだらけの顔で笑う。

「まあ、だからと言って難しく考える必要はない。感性に従うだけでいい。大丈夫だ、君は1人ではないのだから。天使は元気か?」

 そういえば最近『天使のノート』を見ていなかった。

 あれだけイヤだった朝の運動も健康的な食事も習慣になっている。お小言もアドバイスもない。

 彼女はもしかして、もういないのかもしれない。

「いいや。いるさ。君を愛しているんだから。目隠しを外してやるから見つけてやれ」

 魔女が僕の背中をまさぐる。

 ゾクゾクと寒気がして気持ち悪い。

「あの子も、いつもまでも隠れてないで表舞台に立たないとな。その様子だと、まだ彼女の秘密に気づいてないのだろう? あんなにも聡い子がずっと君を観察していたのに疑ったこともないか? おかげで私までいいように利用されたよ。あの女め」

 魔法使いはもう1人いる。

 そう魔女は笑う。

 僕の影から生まれたアルカナだと。

 耳元で、不快な笑い声が呪いのように響き続ける。

「なんて愉快で可愛い子たちだろう。最高の茶番だった。君たちが愛おしくて仕方ないよ。あぁ、本当だとも。だから、そのときがくれば私ごとでかまわん。どうかぶち壊しておくれ。世界を」

 魔女は「約束したぞ」とささやいた。

 僕の知らないスイッチを彼女は知っているみたいだった。

 背中を押された瞬間、バチンと視界の光が消えた。

 気分が平坦になり、天地も曖昧になり、遠くから聞こえる声が何者なのかも、ぼんやりと忘れていく。

「今度こそ本当にさよならだ。私のウィザード。私のトーマ。良き旅の始まりを祈る」

 あたりは急に夜になり、僕は糸の切れた人形になった。

 深い海の底、もしくは星の見えない空。捨てられた玩具のようだった。

 体は勝手に動き出す。右手左足左手右足。動く手足の向かう先にキラキラ光る道が見える。

 両手に魔法の杖と道具を担ぎ、子犬のような誰かを従え、目的があるのかないのかわからない僕の旅。

 だけど自由だった。僕は何者にも縛られない人間なんだと知った。

 自由も支配も破壊も再生もこの手にある。もうすぐ全てを手に入れる。

 心が浮きたち、早くこの先を知りたいと足取りが弾む。出会いの予感にも似た高揚に自然と頬が緩んでしまう。

 スキップだってしたくなる。全てが魔法の道のりだ。

 宇宙。地球。日本。東京。見慣れた玄関。帰宅を迎える母の声。妹の靴。

 ここに目当てのものなかった。探しているのは、もっと実体のない、空気のようなものだ。すぐそばにあって存在を知られないもの。匂いすらしないもの。

 だけど例えば“空気”であっても、魔法で作られたものは魔法で捕まえることができるはず。

 僕の感性は言っている。見えないものこそ真実だと。見たい世界を描くのが魔法だと。

 自分の部屋に行く。見渡す。ここにはいない。次を探す。

「もー、お兄ちゃんてばぁ。えっちぃ♡」

 妹の部屋を覗いても着替え中の妹しかいなかった。舌打ちをして違うところを探す。

 リビング。キッチン。キラキラは増えていく。そして脱衣場。

 ――天使がいた。

 バチンとスイッチが逆に入ったように視界が明るく晴れ、僕の記憶も呼び起こされる。

 見えなかったその姿が、毎日すぐそばにいたことも思い出す。

 彼女はシャワーでも浴びていたのか、肩にタオルをかけて全裸で歯磨きを始めようとしていた。もしかして今日は学校サボっていたのか、こんな時間までダラダラしていたのか。そういうところも変わってないなと思い出す。

 こっちをチラリと見て、無表情に鏡に向き直って歯ブラシを咥え直す。僕はその動作で胸が揺れるのをじっと見ていた。

 整った懐かしい横顔と、あれから少し成長した体を。真ん丸なお尻を。

 天使と間違えてしまうのも仕方ないお尻だった。

 やがて彼女は、怪訝そうにこちらを二度見して――バッチリ目が合っていることにようやく気づいて、ゆっくり両手で胸を隠す。

「……チカだ」

 ぽろりと歯ブラシを口から落とすチカに、僕は解除の魔法を告げる。

 “空気”みたいな女の子なんて、もういない。

「“君は鏑木チカだ”」

 魔法の時間も動き出す。

<さよならウィザード/おわり>

20件のコメント

  1. 新作だああああああああああ!そして、完結したあああああああああ!
    ありがてえ…1話から数えたら10年ですか…ホントにありがたいことです。

    完結ありがとうございました。そして、お疲れ様でした

    1. ありがとうございます!
      長らく放置していた自覚はあるんですが、10年はマジですか?よく続き書けたな…。
      また何か書きましたらよろしくお願いします!

  2. 更新タイトル5度見しました(マジ
    あれだけ手広く広げてた風呂敷をキレイに畳む技量と、相変わらずキレキレのテンポとワードチョイスに脱帽です。特に着ていく服への辛辣な評価とたこ焼きの下りに思わず吹き出しました。

    …うえええぇんチカちゃんが報われて良かったよおぉぉぉ!なんで魔法解けて動揺してるチカのエロイシーンがないのおおぉっ!?
    (これ以上キリのいいポイントはないと分かっていても求めてしまうこのジレンマ…)
    とにかく、完結お疲れ様でした。これでようやく僕の時間も動き出しそうです。アッシゴトイカナキャ…

    1. ありがとうございます!
      なかなかキレイにはたたみきれませんでしたが、これも1つの終わりということで、この後のチカのハプニングエロは心の中で補充していただけると。
      お仕事お疲れ様です!

  3. さ、さよならウィザードだとおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?

    まさかの更新に超びっくりでぅ。
    読ませていただきましたでよ~。
    何年ぶりかな? もうすっかり内容忘れてたけど、読みすすめる度にそう言えばと思いだして楽しめましたでよ。
    エリへの失恋、ルナの支え、そしてチカの復活。
    もう相変わらずのイイハナシダナー。
    こういう話は大好きだけど、自分ではあまりかけないジレンマ。だって、女の子が泣き叫ぶのも好きなんだもん(おい)

    完結したからには最初から読み返したいなぁ。読み返すか。
    テキストで保存してあるからいつでも読み返せるぜ(こっそり追記とか無いでぅよね?)

    であ、次回作も楽しみにしていますでよ~(コウモリ男とか、新作でも)

    1. ありがとうございます!
      みゃふさんもがんばってらっしゃるので僕もなんとか…というか性浮霊の続きよろしくお願いします!

  4. 完結おめでとうございます
    まさかの更新に1話から読み返してしまいました
    魔法が解けて動き出す時間、後日談があるなら読んでみたくなります
    長期間お疲れさまでした

    1. ありがとうございます!
      後日談、このペースなら20年はかかりますね…。
      また何か書きましたらよろしくお願いします!

  5. まさかの更新と完結で驚くと同時に嬉しいです!
    きっちり話は締めているので良い催眠エロ作品でしたと言い切れる喜び
    素晴らしい作品をありがとうございます。お疲れさまでした!

    1. ありがとうございます!
      完結できてよかった…。
      また何か書きましたらよろしくお願いします!

  6. ありがとうございます!
    なかなかキレイにはたたみきれませんでしたが、これも1つの終わりということで、この後のチカのハプニングエロは心の中で補充していただけると。
    お仕事お疲れ様です!

  7. 前話からももう5年経っていたんですね…
    それでも読み進めていくうちに、色んなキャラクターのことを思い出していくにつれ、自分の心の中にしっかりと刻まれた話だったんだなと改めて思いました。
    完結お疲れさまでした。そして、素敵な読み物をありがとうございました。

    1. ありがとうございます!
      冒頭にこれまでのあらすじとキャラ紹介入れるか本当に悩みましたからね…。
      また何か書きましたらよろしくお願いします。

  8. 更新ありがとうございます、
    完結おつかれさまでした!

    きれいにまとまりつつ、
    余韻のある終わりかた…

    本当に、本当に、
    お疲れさまでした!!
    ありがとうございました!!

    1. ありがとうございます!
      最初は大学生編まで書くつもりだったんですよ…狂気すごかったな昔。
      また何か書きましたらよろしくお願いします。

  9. あー改めて過去話読んでもめちゃくちゃおもしろい
    愛を含めたこの拗れた感情の描き方が本当に最高でした

    1. ありがとうございます!
      自分でもこの頃は拗れてたな…て思いました。楽しく拗れてた。
      また何か書きましたらよろしくお願いします。

  10. とても大きな作品が完結したという思いです。
    あ、プッシーアイランドさん、ご無沙汰してます(笑)。
    催眠術から始まって、最後までフィクションとしての催眠術ではありましたが、
    魔法の余韻を充分に堪能できる、飛距離の長い作品でした。
    僕とエリの話として始まって、僕とエリの話は終わって、僕とチカの話が始めるのだと思いましたが、
    エリちゃんはトーマの力とは別で自分の問題を解決したというのが、印象的です。
    全部含めて、イジメかっこ悪い、MCかっこいい。ということで。

    悲しいシーンも馬鹿ふざけのシーンも、とてもリリカルで心に深く残る作品でした。
    ありがとうございました!

    1. ありがとうございます!
      先日はどうもです(笑)
      MCかっこいい。MCサイトもかっこいいのでこれからも続いてほしいものです。
      コロナから逃げ切って共にMC小説を続けましょう。
      また何か書きましたらよろしくお願いします。

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