<蒼依1>
――蒼依は僕たちの母であり、姉であり、全てを委ねられる存在だった。
ハイハイが出来るようになる以前より顔を合わせていた僕らだったけど、勿論最初から仲が良かったわけじゃない。
あの頃、僕達6人――いや、まだ藍佳ちゃんがいたから7人か――のうち、一番横暴だったのは、実は紅介だった。
単純に力が強ければ王者、それが子供の世界だ。
知恵だの性格だの容姿だの、そんなものは評価されない、本能に従った弱肉強食の理。
身体の成長が一番早かった紅介は、母親たちから何度も咎められはしたけど、監視の目がないときを見計らって僕達を支配した。
食べていたお菓子は奪われたし、意味もなく突き飛ばされもした。
でも、そんなときはいつも、蒼依が僕らを助けてくれた。
紅介が何か無法を働いた時、真っ先に紅介に飛び掛かり、その頬を引っ叩いた。
当然、紅介は反撃し、その度に蒼依はふっ飛ばされた。
泣きじゃくり、呻き声を上げながらも、蒼依は再び紅介に突進する。
いじめられていた僕や碧よりもボロボロになって。
何のために?
――決まっている、僕たちを守るためだ。
やがて紅介も、蒼依からの報復が止まないことを悟り、次第に大人しくなっていった。
というより、蒼依に恐れをなしたのかもしれない。
僕達のリーダーは紅介から蒼依に切り替わり、それは仕切りたがりの彼女にぴったりで、そして蒼依は厳しくも優しかった。
僕達に良くしてくれる蒼依だからこそ、嫌だなあと思うようなことでも、ぐっと不満を飲み込み、我慢して追従した。
紅介も、自分が命令するより蒼依が頼んだほうが僕達の能率がいいことに気付き、蒼依の統率能力を真似するようになった。
――いや、まあ、そこで素直に真似の出来る紅介も、今考えたら子供とは思えないんだけど。
そうやって元いじめっ子だった紅介が今では弁護士を目指しているんだから、世の中は不思議だ。
蒼依は正義のために戦う騎士であり、どんなピンチのときでも駆けつけてくれるヒーローであり、憧れの的たる白馬の王子様だった。
今でも、僕達はみんな、蒼依に頭が上がらない。
6人で何か大きなことをするとき、計画の発案は大体橙真かきいろで、実際の計画を考えるのは参謀の紅介の役目。
でも、最終的な決定権を持つのはリーダーの蒼依だ。
勿論、滅多なことで拒否したりなんかしないけど、それでも蒼依が一言「嫌」と口にすれば、僕達は必ずその意思に従った。
これが例えば橙真相手ならば、「我儘を言うな」って無理矢理決行することもあるんだけど。
僕達の間に表向きの格差はない。
だけど、みんな心のなかでは理解している。
6人が今でも一緒にやっていけてるのは、蒼依の尽力によるものが大きいと。
僕は、そんな蒼依が好きだ。
1人の人間として、そして勿論――異性としても。
幼いころから、ずっと僕を助け、支え、見守ってきてくれた。
感謝の念と憧れの気持ちは、いつしかほのかな恋心へと姿を変えた。
告白しても断られる、それが分かっていたから、僕はその想いを告げることは無かったけど。
僕達は6人ずっと一緒で、つまり蒼依とも一緒ってことで、それだけで僕は幸せだった。
――幸せだと、思おうとした。
僕に、何の能力も無かったから。
女の子に好きになってもらえる要素なんて、これっぽっちも持ってなかったから。
その自覚があったから。
――でも、今は違う。
催眠術。
この力が、僕にはある。
催眠術は万能の力ではない。
蒼依に『恋人になれ』と催眠をかけたところで、すぐに解けてしまうだろう。
人間の中には無意識の防衛反応があって、例えば自分を鳥だと思う催眠術をかけてビルの屋上から飛ばそうとしても、本能が『飛んだら死ぬからそれは駄目だ』と命令し、強制的に催眠を解除する。
催眠術とはあくまで『演技』を表面に露出させているだけであり、人間の魂の根っこまで変貌させるわけではないのだ。
……だけど、人間は快楽には逆らえない。
得られる快楽が大きければ大きいほど、抜け出せなくなる。
――――催眠術も、使い方次第。
――――僕は必ず、蒼依を手に入れる。
……それでいいんだと。
……虹色に輝く宝石の煌きが、一瞬増したような気がした。
――女子剣道部の活動日は週に4回、月・火・金・土となっている。
土曜は完全な自由参加だが、生真面目な蒼依は必ず参加していた。
元々が弱小な剣道部なため、熱心に部活に励む生徒は少なく、サボタージュする人間も多いと聞く。
だが最近は蒼依に触発され、彼女から剣を学ぼうとする部員もちらほらいるらしい。
水曜と日曜はみんなで遊ぶ日。
だから蒼依に催眠術をかけるとするなら、木曜日だけしかないことになる。
……6人全員で行動していることが、こういうときに仇になるな。
一夜明けた翌日、僕は下校までの暇を潰すため、女子剣道部の練習風景を見学しに行くことにした。
催眠術をかけられなくても、今は出来るだけ、蒼依のことを観察しておきたい。
ああ、でもその前に化学室に寄って、先生に催眠を掛け直さないといけないな。
今日は教室を使うことはないだろうけど。
「…………」
気持ちは、何故か落ち着いていた。
6人の絆を守るという使命感のためだろうか。
――本当に、これが絆を守ることに繋がるのか?
ふと油断すれば湧いて出てきてしまう疑問を、心の奥底に閉じ込める。
僕は決断したんだ。
橙真は野球、蒼依は剣道、紅介は生徒会、碧はライトノベル、きいろはモデル。
皆、己の才能を活かしている。
だから僕も、自分の才能を最大限に活用しようとしている、ただそれだけのことだ。
――僕は、幼馴染全員が好きで、大切に想っている。
それは、僕の本心だ。
胸を張って堂々と宣言出来る、僕の嘘偽りの無い気持ちなんだ。
でも――
だからって、みんなを優先して、僕が自分を犠牲にするのは、違うと思い始めている。
僕は、今まで『下』だったから、それが当たり前だと思っていた。
今は違う。
『対等』だ。
対等なら、それ相応の付き合い方というものがある。
僕は、もう少し欲張りになろう。
今までの僕のように、自分を卑下しすぎることはない。
自信を持て。
恋愛相談を受けたのは、僕だけ。
6人の絆を守れるのは、僕だけなんだ――
「姫本ぉ、よくも私の前に姿を現せたもんだなぁ……」
「あら部長、腰は大丈夫なんですか?」
「おかげさまで、真っ二つにされたかと思ったよ……防具を付けていない人間に竹刀を打ち込むなんざ、傷害罪で訴えられても仕方がないよなぁ……?」
「訴えてみますか? あたしがいなくなったら、去年の倍以上貰えてる予算、どうなるんですかねえ」
「ぐっ……!」
剣道部がいつも活動している格技場は、男子と女子がそれぞれに分かれて使用している。
外から下窓越しにこっそりと中の様子を覗きこむと、その女子たちの中央で蒼依と部長さんが対峙していた。
本気で訴えるつもりなんてないだろう、部長さんの挑発に対し、蒼依は余裕で受け返している。
……土曜日にかけた催眠は、うまく機能しているようだ。
「ぶ、部長、ほら、練習始めましょうよ」
「そうですよ、姫本先輩はこの前の関東剣道大会で個人戦ベスト4入りしてますし、全国大会の県予選も勝ち抜いてますけど、ウチら誰も勝ててないんですよ?」
「団体戦も、姫本先輩以外はみんな黒星で初戦敗退でしたし、もっと頑張らないと!」
「お、お前ら……っ!」
周囲にいた後輩らしき女の子たちが、部長さんの背を押して蒼依から引き剥がした。
どうやら、後輩たちは蒼依の味方らしい。
まぁ、恨みがましいモノグサな部長よりも、実力があって面倒見のいい(おまけに美人の)蒼依のほうが人気も出るか。
「さあ、準備体操始めるわよ!」
「はい!」
「こ、こら、お前が仕切るな、部長は私だ!」
そして、練習が始まった。
面を付けて顔が見えなくても、蒼依の動きは他の部員たちよりも鋭く激しいので、すぐに特定出来る。
逆に言えば、部員の誰も蒼依レベルではないということだ。
以前、練習相手がいないと蒼依が嘆いていたことを思い出す。
部員たちは蒼依を相手にすることで力を付けることが出来るだろうが、蒼依がこの部活で得られるものは、少ないかもしれない。
……何とか、してあげられないかな。
でも、僕に一体何が出来るというんだろう。
僕が出来ることなんて、ちょっと催眠術をかけることくらいなものだ。
「……催眠術で、イメージトレーニングとか」
幻覚を用いて、強敵と戦わせてみる――
なんとなく浮かんだ案だけど、既に全国レベルの実力者である蒼依にとって、今の状態よりはかなり有益な気がしなくもない。
浅はかな素人考えかもしれないけど。
「キェェェェェェェェェッ!!!」
甲高い雄叫びを上げ、瞬時に肉薄した蒼依の竹刀が部長さんの胴に炸裂する。
……あ、部長さん、ビビって腰が引けてる。
そんなに痛かったのかな、蒼依の胴打ち……
その後も見学を続けたけど、やはりこの場所にいては蒼依の腕は錆び付くだけで鍛えられはしない、と感じられた。
交流試合などをやるにしても、その後が続かないんじゃ意味は薄い。
……うん、やっぱり蒼依に相談してみよう。
蒼依は『楽しくやれればいい』というお気楽な気持ちじゃなく、勝利するために真剣に剣道を学んでいる。
彼女のためになることなら(まだためになるかどうか分からないけど)、僕も協力してあげたい。
――――蒼依に催眠術をかける機会も増えるしね。
蒼依の部活終了と共に、僕は校門へと向かった。
紅介と碧、きいろが既に集まっている。
……遠くからちょっと観察してみると、一見和やかに歓談しているようで、碧ときいろが互いに遠慮しあっているのが見て取れた。
紅介と碧が会話しているときはきいろが割り込まず、逆に紅介ときいろが別の話題で話し始めると碧が黙りこんでしまう。
橙真や蒼依、僕がいるときは、そんなことないのに。
……いや、そういうときは余っている僕らの誰かに話しかけるから、気付かなかっただけか。
蒼依だけじゃなく、彼らへの催眠も進めなければいけない。
蒼依と恋人関係になるのを目指すのはあくまで『過程』であって、僕の最終目標は『6人の絆を保ち続ける』ことにある。
その最終目標のために僕が取らなくてはならない『行動』は、大まかに分けて2通りあった。
1つは『6人の恋愛感情を全て消す』。
1つは『6人の恋愛感情を全て成就させる』。
僕は後者を選んだ。
抑えこむよりも昇華させたほうが催眠術が解けにくいにし、なにより――僕が蒼依と男女の関係になりたかったから。
とはいえ、簡単な道ではない。
だから僕は考えた。
失恋させてしまったら、絆が壊れる。
なので失恋させる前に、その恋の方向を別方向に置き換えてしまおう。
僕はみんなの素晴らしさを知っている。
みんなだって知っている。
例え元々恋愛感情を抱いていたわけじゃない相手と恋人になっても、不幸になることなんて決して無い。
だから――問題なんて、何もない。
何もないんだ。
「お待たせー! もう来てたんだ!」
会話が途切れた瞬間を見計らって、3人の前に姿を現した。
きいろ、碧。
今は蒼依に注力するから、もう少し我慢してほしい。
紅介も……蒼依が好きなのに、君を裏切ることになって、すまない。
でも、仕方ないよね。
僕達は『対等』なんだから。
恋愛だって、対等な勝負なんだ。
だから、僕はいつもみたいに負けないよう、頑張るよ、紅介…………
「イメージトレーニング?」
みんなが揃った下校時、僕は早速、自分の考えを蒼依に切り出してみた。
相変わらず体臭を気にしてちょっと離れたところを歩いている蒼依は、ううむ、と顎に手を添えて思い巡らせ始める。
「確かに、達人の技をビデオで見て、その技法を学んだりするのも剣道では大事とされてるけど」
「蒼依のことだから、理想の動き、みたいなのは頭のなかに入ってるんだよね?」
「そりゃあね。まあ、実際にその動きが出来るかどうかはまた別問題なんだけど」
しゅしゅ、っと空手で素振りの真似事をしてみせる蒼依。
僕はスポーツを極めようとしているわけではないからあまり実感はないけど、どんな競技も自分の理想の動きにどれだけ近づけるかが勝負の決め手となる――とか。
まあ、当然といえば当然の話だ。
そして、その理想の動きをするために、人は筋力や反射神経を鍛えている。
葵の場合、筋力は自主トレでどうにでもなるだろうが、反射神経の訓練は難しいだろう。
なにせ、部活には蒼依を脅かせるほどの実力者がいない。
蒼依は全力を出さずとも勝ててしまい、それではレベルアップに繋がらないのだ。
「ふーむ。ものは試しと言うしねえ」
「まあ、蒼依が幻覚催眠にかかってくれるかどうかっていう問題もあるんだけどさ」
「そこはあんたの実力次第でしょ。自信は?」
「ある」
「……へえ?」
ちょっと意外そうな顔で、蒼依は僕の瞳をまじまじと覗き込んだ。
「言い切ったわねえ。紫郎、なんか変わった?」
「将来のことも考えだしたしね。ちょっと本腰据えて、頑張ってみようかなって」
「偉いわ紫郎。そういうことなら、あたしも気合入れて催眠にかかってあげないと」
「いや、気合入れられると催眠術はかかりにくいんだけど……」
僕のツッコミに、蒼依はくすくす笑った。
……僕の企てている計画に、ちっとも気付いていない。
好都合だ。
僕はあくまでいつも通りを装いながら、明日の放課後、部活を途中で切り上げて化学室で落ち合う約束を蒼依とする。
さあ。
いよいよ始まる。
みんなを裏切って行う、裏切り者のみんなのための、正しい『形』を取り戻す戦いが。
――火曜日。
授業が終わり、クラスの皆がばらばらに動き出す。
僕は席に座ったまま、大きく息を吐き出し、逸る心を鎮めようとしていた。
――落ち着け。
ドクン、ドクン、心臓が鳴っている。
僕は緊張していた。
別に催眠術をかけるのは、これが初めてではないというのに。
やはり、明確な目的意識を持ったのが原因か。
朝から、どうにも落ち着きがなく。
授業中も気を抜けば、怖気と不安に苛まれた。
深層心理からの警告。
僕の魂が、失敗するんじゃないかと怯えている。
――落ち着け。
いきなり、大それたことをする気はない。
少しずつだ。
例えるなら、蝋燭。
瞬時に燃やし尽くしたりせず、時間をかけてゆっくりと、溶かしていく。
急ぐな。
時間はたっぷりとある。
今日はまず、幻覚催眠をかけられるかどうかのテストだ。
蒼依に催眠術をかけるのは3回目。
既に知覚催眠まで成功しているのだから、きっといけるはず。
(力を貸してくれよ)
胸元のペンダントを握りしめる。
応えるように、ペンダントが僕の手の中で温かみを増したような気がした……
「あなたは、このヘッドホンをつけて作業する。化学室の様子は何も気にならない。何も聞こえない。作業に集中する…………」
化学の担当教師を準備室に追い払う。
火事が発生したとか、そういう一大事が起これば催眠が解除されるだろうけど、ちょっとした物音くらいなら全く気にならなくなったはずだ。
化学室を見渡す。
床に固定された大きく黒い机が並んでおり、全てに実験器具を洗浄するための洗面台が付属している。
教室の後ろのほうは、なかなか広いスペースが開いていた。
動き回るときは、ここを使わせてもらおう。
「ふぅ……」
鞄を机に置き、そっとため息。
蒼依がいつやってくるかは分からない。
それまでは、持ってきた催眠術の本でも読んで、暇を潰そうか。
………………
…………
……
1時間弱はかかると思っていたのだが、蒼依が化学室にやってきたのは、30分経つか経たないかくらいかの時だった。
「お待たせー!」
ジャージを着た蒼依が、そう言って片手を上げる。
「……早くない?」
「あれ、早かったらマズい?」
「いや、そんなことはないけど……もうちょっと部活やってから来ると思ったから」
「準備体操と筋トレだけで済ましてきたからね。防具着けちゃうと、ほら……」
「ああ……」
成程、臭いが付いてしまうか。
僕は別に気にしない……って言えれば格好良いんだろうけど、ちょっと本気で遠慮したいからな、アレは。
「なんかごめんね」
「いいのよ、ちょっとくらい休んでも……って言うと色んな人に怒られそうだけど」
でも、蒼依の場合、それが事実なんだ。
だからこそ、僕に手伝えることがあれば、役に立ってあげたい。
「まあ、とりあえず座ってよ」
「あら……何よ、この一つだけ異彩を放つパイプ椅子は?」
「準備室からちょっと拝借してきた。背もたれがないと危ないからね」
「へえ、しっかりしてるわねえ」
丸椅子たちの中に予め用意しておいたパイプ椅子に腰掛け、蒼依は真向かいに座った僕と向かい合った。
「紅介に聞いてたけど、まさか化学室を使用してるなんて思いも寄らなかったわ」
「別の部活が立ち上がって、ここを活動場所にするまでの話だけどね」
「いっそのこと、紫郎が部活を作って占拠しちゃったら? 催眠部とかって」
「うわー、それは怪しすぎて絶対認定許可が出ないなぁ」
まずは日常会話で蒼依の息を整え、リラックスさせる。
化学室とは本来談笑のための場所ではなく、あまり寄り付かない特殊な空間だ。
『普段と違う』環境は、無意識に心を警戒・防御形態にさせてしまう。
それを解きほぐすのだ。
「――ああ、そうだ、これ見てよ」
頃合いを見計らい、胸元からペンダントを取り出し、蒼依の前に掲げた。
「あ、それ……」
「5円玉の代わりに使っちゃってるけど、割といい感じだと思わない?」
「確かに。なんか不思議な輝きするのよね、それ」
「だよね? 思わず注目してしまう……目が離せない……きらり、きらり、光だけしか目に入らない……」
2回、自分にかけられ、しかも他の4人もこれで催眠状態になってしまうことを、蒼依は知っている。
だから、ペンダントを見て、それが振り子軌道を描けば、それだけで蒼依の中では『自分は催眠術にかかってしまうぞ』という準備が整ってしまうのだ。
条件反射、パブロフの犬。
蒼依は犬か猫に例えるなら絶対に犬だな、などとどうでもいい思考が思い浮かび、僕は口元を緩ませた。
「瞼が落ちるよ……身体から力が抜ける……とても眠くなる……全身が軽い……ふわふわした気持ち……でも、僕の声はちゃんと届いてる……」
蒼依はもう見慣れた感じに、全身から力が抜けてしまった。
……まぁ、3回目にしては、ちょっと効き目が強い気がしなくもないけど。
前回の『催眠術にかかりたくなる』催眠が、時間を空けても未だ効果が薄れず残っていたのか。
元々蒼依自身が、催眠術にかかりやすい体質なのか。
それとも、この不思議なペンダントのおかげ……なのかな?
「手が動くよ……浮き上がる……」
まずは簡単な運動支配、そして知覚支配の暗示で、ちゃんと催眠がかかっているかどうかを確認。
催眠は『今どのくらいの深さまでかかっているか』を数値で測ることが出来ないから、こうして少しずつ確かめないといけない。
幸い、蒼依は以前と同じく、簡単に知覚支配までかかってくれた。
そして次、ここからが本番だ。
幻覚催眠――記憶支配、あるいは夢遊支配と呼ばれるところまで入ってないと不可能なそれを、果たして僕は行使することが出来るのか。
「よく聞いて、蒼依……ここは蒼依の部屋だよ……」
「勉強机がある……いつも寝起きしてるベッドがある……本棚も、扉の位置も、蒼依が把握している部屋のままだよ……」
「僕が指を鳴らすと、目を開く……意識を取り戻すよ……でも、ここは蒼依の部屋……蒼依の部屋に、君と僕がいる……」
さあ、どうなる……?
僕は右手の親指と中指をくっつけ……弾いた。
パチンッ!
「ん……んんっ……?」
眠そうな顔をした蒼依が瞼を開き、周囲をぼんやりと見渡して……
「…………えええっ!?」
急に椅子から立ち上がり、驚きの声を上げた。
「ちょっ、え、何……なんで!?」
「おはよう、蒼依」
「紫郎!? あ、あたし、化学室にいたんじゃ……!?」
やった、成功だ!
ここは化学室で間違いないのに、蒼依の目には今、彼女の部屋が映っている!
「落ち着いて。これは催眠術だよ」
「催眠……!? 凄い…………これ、本当に幻覚なの!?」
「本当だよ。じゃあ、次の場所に行こうか」
「次? 次って……」
「催眠状態に戻る」
蒼依の眼前でペンダントの虹の煌きを見せると、蒼依はまたもやうつろな目で静かになった。
「目を開くと、今度は公園にいるよ……僕達が子供のころ、いつも遊んでいた公園……」
そして、また指を鳴らす。
「って、きゃあ!? こ、ここ、近所の公園じゃないの!?」
「そうだよ、僕が連れてきたんだ」
「信じられない……どう見ても、いつもの公園にしか……」
「目を閉じて、催眠状態に戻る」
今度は蒼依の前でシャッターを下ろすように掌を下げるだけで、蒼依は瞼を閉じ、そして催眠状態へと落ちていった。
……楽しい。
更に一段階深い催眠を使いこなしている事実に、高揚感が沸き上がってくる。
もっと、彼女に幻覚を見せてあげたい。
「聞こえてる? 次の場所へ飛ぶよ。次は……」
学園のグラウンド。いつも待ち合わせしている信号前。よくお世話になっている本屋の中。ゴールデンウィークにティーパーティをした碧の家の庭……
彼女の行くところは基本的に僕の行くところ。
だからどこへでも連れていける。
細部を忘れていても、そのときは僕が教えてあげればいい。
そして、幻覚はあくまで幻、脳の中の世界。
イメージさえしっかりと固めることが出来るのなら、例え現実の世界ではなくても。
「……綺麗な花畑が広がってる…………青空には太陽…………暖かな日差しが降り注ぐ…………気持ちのいい風…………」
「ん…………はぁぁ……♪」
ここではないどこか遠くに視線をやったまま、くつろいだ表情を見せる蒼依。
今、蒼依は完全に空想の世界の中にいる。
花畑が広がっているとは言ったが、一体どんな種類の花なのか?
それは彼女に聞いてみないと分からない。
『赤色で何を連想する?』という質問に、トマトと答える人がいればイチゴと答える人、果てはスポーツカーや血飛沫なんて回答をする人だっているだろう。
僕が与えたのはあくまで抽象的な設計図で、実際の完成品は蒼依本人の作。
花畑という言葉で、僕が思い浮かべるのはツツジだけど、例えば橙真ならヒマワリ、紅介ならシロツメクサが咲き乱れる景色になるかもしれない。
そんな風に、蒼依もまた、何かしらの花を――あるいは実際に存在しないかもしれないような花の可能性もある――敷き詰めた彼女だけの世界を見ているはずなのだ。
一体、彼女の目にはどんな風景が広がっているのだろうか――
彼女の見ているものを共有出来ないのは、少々残念ではある。
「どこまでも、花畑が広がっている……少し散歩しようか……僕の手を取って、ゆっくりと歩こう……」
「…………わかったわ…………」
蒼依の手をそっと持ち上げ、障害物にぶつからないように気を付けながらあちこち歩き回らせる。
その間も、彼女の耳に小鳥の声が聞こえるだの、風で葉っぱがこすれ合う音がするだの、更に深いイメージの世界へ沈み込ませる暗示をかけていく。
蒼依の顔は、ここが化学室であることを完全に忘却しているかのように、表情筋のあちこちが弛緩していた。
完全にリラックスしている。
「ここは本当の花畑……大自然に囲まれて、とても心が穏やか……」
「さあ、少し寝っ転がってみよう……太陽の暖かさを感じて、とても気持ちいいよ…………」
「安心出来る…………必ず僕の言うとおりになる…………ほら、この場所に身体を横たえよう……」
化学室後方の、広いスペースに蒼依を導く。
僕は自分の鞄からあらかじめ用意していたレジャーシートを素早く引っ張りだし、床に敷いてその上に彼女を誘った。
6月も後期とはいえ、床にそのまま寝るのは冷たいし、服や髪が汚れてしまう。
「ん…………」
蒼依は素直に従い、レジャーシートの上にゆっくりとした動作で仰向けになった。
両手を伸ばし、頭上からの陽気を感じているかのように、心地よさそうな笑みを浮かべている。
「…………!!!」
僕の胸の内で、様々な感情が綯い交ぜになったまま爆発を起こした。
歓喜、興奮、達成感、そういったものが僕の身を震わせ、強い多幸感を僕にもたらす。
これで3度目。
蒼依を僕の言葉通りに動かしている、その事実が僕の中の衝動を加速させる。
一昨日の、きいろのパンツを見たときの記憶がフラッシュバックした。
今、この無防備な蒼依相手なら、同じことが出来るのではないか?
だけど、蒼依は制服ではなく、ジャージを着ていた。
流石にスカートをめくるのはともかく、ズボンを脱がすのは催眠が解除されてしまうのではないか、という不安が残る。
焦る必要はない……それは分かっている。
分かってはいるが、ここでお預けを食らうのも、なんというか、実に惜しい。
蒼依の下着姿――見たい。
とても、見てみたい。
けど……
……失敗は破滅。
引き際は弁えているつもりだ。
だからここはあまり無茶はせず、次回のための布石を打とうと思う。
「…………心が安らぐ…………幸福感に包まれる…………身体が暖かくて、ぽかぽかしてくる…………」
「催眠術のおかげだよ…………催眠術にかかれば、こんなにも幸せになれる…………もっとかかりたいよね?…………だって、こんなに気持ちがいいんだから…………」
まずは前回と同じく、蒼依の心の中に催眠術をかけられたいという欲求を刷り込む。
時間の経過と共に薄れてしまうだろうけど、何度も何度も刻み付けることで、それはいつしか拭い去れないほどに固着される。
人間は暗示に弱い生物だ。
醜い、醜いと言われ続ければ、最初は信じていなくても、段々と自分が醜いと疑うようになる。
美しい、美しいと言われ続ければ、どんなに自信のない者でも、徐々に自分の容貌が優れていると思い込み始める。
僕がやっている行為はそれと同じ。
僕の催眠術にかかれば幸せ。
だって、実際に幸せな気持ちになっているのだから。
だから、幸せを求めて、もっともっと僕の催眠術にかかりたくなる……そういう話だ。
「じゃあ、幸せな気持ちのまま、目を覚まそう…………僕が手を鳴らすと、君はいつもの君に戻る」
「でも、その時、君は僕の姿が見えなくなる。繰り返すよ? 僕、影浦紫郎の姿が、認識出来なくなる……」
「君は化学室に1人だけ。他には誰も居ない。僕の姿はない……」
幻覚催眠の一種、透明化。
彼女の視界の中から、僕を消す。
勿論、催眠にかかった上での行動は演技だから、実際は『見えないフリをしている』だけであり、彼女本来の深層意識はちゃんと僕を認識している。
でも、蒼依の表層意識は本当に僕がいなくなったものだと信じ、錯覚する。
――もっとも、僕が目指すのは、その深層心理の侵食だ。
この不思議なペンダントの力があれば、可能な――そんな、気がする。
「目を覚まそう……ワン、ツー、スリー!」
パンッ!!!
両手を打ち鳴らすと、蒼依は眉間に皺を寄せながら、だるそうに瞼を開いた。
「うぅん……?」
体を起こし、不審そうに顔をめぐらせる蒼依。
化学室には静寂が満ちており、遠くのほうから運動部員の掛け声が微かに響く程度だ。
「あれ、紫郎……?」
――蒼依の瞳が、僕の前を素通りした。
「ちょっと、どこ行ったのよ、紫郎?」
不安そうな声を上げ、蒼依は立ち上がる。
――僕の姿は見えていない。
僕は、彼女の隣に立っているのに!
「きゃあ!?」
彼女の後ろ髪にそっと触れてみた。
ビクンッ、と身を竦めて、蒼依は後ろを振り向く。
「い、今のは何よ!?」
驚いた顔をしている蒼依の背に回りこみ、今度は脇腹をちょんと突いてみる。
「ひゃあんっ!?」
普段出さないような甲高い声を上げ、蒼依が飛び上がった。
……お、面白い!
「何よ、これ!? ちょっと……紫郎!? どういうこと!?」
怯えた風に、自分の身体をぎゅっと抱きしめて、蒼依は周囲に忙しなく視線を巡らせる。
それなのに、すぐ側にいるはずの僕は、完全にスルーだ。
弱々しい蒼依の姿はとても新鮮で、見ているとちょっとだけドキドキした。
――おっぱいとか、お尻とか、触り放題なんじゃないか?
当然のように湧き上がる欲望。
だけど、その色情は事前に予測した通りの思考で、だから僕は心を鎮め、ぐっと我慢をする。
まだダメだ。
次の催眠にかかってくれるかどうかを、確かめてからだ。
「催眠状態に戻る……」
僕はそう言って、彼女の目の前でペンダントを振った。
「あ……」
蒼依の表層意識には、ペンダントは映っていない。
だけど、ちゃんと外界の様子を認識している深層心理には、このペンダントが見えている。
催眠をもたらす虹色の光を目にして、彼女の表層意識は反射的に『催眠にかかる』状態へと上書きされた。
トランス状態に移行し、彼女の身体が傾く。
それを背中からそっと支え、僕は彼女の耳に再び暗示の言葉を囁きかけた。
「そう、心が深く沈んでいく……力が抜けて、何も考えられなくなる……」
「深く、深く……何も見えない、何も聞こえない…………だけど、僕の声だけはちゃんと届いてる…………」
「さあ、思い出して……花畑の中で、暖かい気持ちになったね? ……とても幸せ……ずっと身を浸していたい幸福……」
「次に目が覚めたとき、君はその状態から目を覚ます……他には何もなかった……さっき、化学室で1人だけで目を覚ました、そんなことは無かった」
「忘れるよ……ほら、薄れていく……掠れていく……白い靄になって消えていく……ほら、無くなっちゃった…………」
「君はずっと、花畑で幸せな気持ちで眠っていた……催眠術のおかげで、凄く幸せな気分……次に催眠術を受けるときも、今の幸せな気分になれるよ……」
忘却催眠。
記憶を封印し、忘れさせる催眠術。
これも勿論、忘れたということは『演技』であり、本当に失わせているのではなく、『抑えつけている』状態なのが正確だ。
催眠が解除されれば、忘れたことも全部思い出せる。
一番最初、みんなの前で初めて催眠術を披露したとき、僕はきいろに対して『自分の名前を忘れる』催眠を成功させていた。
だが、これはそれより更に複雑で、難しい催眠だ。
術者と被験者の間に余程のラポールが存在しない限り、成功は難しいだろう。
でも、そこは心配いらない。
だって、僕と蒼依は深い絆で結ばれた、大切な幼馴染だからね……
「目を覚まそう……浮き上がる……戻ってくる……手を叩いたら、いつもの蒼依に戻るよ…………はいっ!」
パンッ!!!
まるで、先ほどの繰り返し。
僕の手の音と共に、蒼依はだるそうに瞼を開く。
「おはよう、蒼依」
「ん、んんぅ……?」
「大丈夫? ちゃんと立てる?」
「え、ええ、大丈夫よ……」
肩からそっと手を離す。
蒼依は瞼を擦った後、ぱんぱん、と気合を入れるように自分の頬を軽く叩いた。
「ふぅ」
「落ち着いて、気をしっかり持って……さ、椅子に座ろうか」
レジャーシートを片付け、元の場所に戻る。
その頃には、夢見心地だった蒼依の目にも、生気が戻ってきていた。
「何やったか、覚えてる?」
「ええと……まず、あたしの部屋に行ったわ……いえ、正確には、あたしの部屋の幻覚を見た……ってことでいいのかしら?」
「うん。そして?」
「色々なところへ行ったわ……景色が切り替わって、気付いたら見たことある場所に立ってて……」
へえ、そんな風に見えたんだ。
こういう感想を聞くと、自分にもかけてほしくなってくるな。
「そして、綺麗な花畑……あれ、行ったことある場所なの?」
「いいや、あれは蒼依のイメージが生み出した完全オリジナルな世界だよ。どんな感じだった?」
「それが、凄いのよ! なんていうか、天国みたいな感じで、そうね、冬の朝の布団の中みたいな……」
蒼依はうっとりとした表情で、花畑について雄弁に語りだす。
頬は緩み、目尻は下がり、両手にはぎゅっと力が篭もる。
――人間は、快楽には逆らえない。
「じゃあ、また今度、花畑を見せてあげるよ」
「ありがと。凄いリラックス出来るのよ、ホント……身体の芯から溶けちゃうみたい」
「どうだい、僕の催眠術は?」
「わくわくするわね。もっと面白いこと出来るんでしょう?」
――ほら、またかけられたくてしょうがなくなっている。
この気持ちが蒼依の中にある限り、僕の催眠は更に深いところまで、彼女の心を落とし込むことが出来る。
そう――いつかは、深層意識に届くくらいに。
「まだ3回目だからね。4回目、5回目、数をこなしていけば、もっと面白いことが出来ると思うよ」
「楽しみだわ。紫郎、あんた才能あるわよ。だって、ここまで気持ちが楽になったの、初めてなんだから」
「はは、あんまり持ち上げないでよ、照れちゃうな」
これは本心。
蒼依に褒められるのは、嬉しさと恥ずかしさが両方こみ上げてきて、なんというか、困る。
「で。花畑が終わって、そして?」
「え? そしてって……それで終わりでしょ?」
「…………ああ、ごめん、その通りだね」
――忘却催眠も、成功。
蒼依から見えない机の下で、ぐっとガッツポーズ。
「じゃあ、次は約束通り、剣道の幻覚にチャレンジしてみようか?」
「ああ……そういえば、それがメインだったっけ。なんか、すっかり忘れてたわ」
苦笑する蒼依。
「さて、気を引き締めないと……なんだか、さっきまでの幸せな気分を引きずっちゃって、気を引き締めるのが大変だわ」
「ちょっと、やりすぎちゃったかな?」
「いえいえ、感謝してるわよ」
蒼依は鞄と一緒に置いていた袋から竹刀を取り出し、机に立てかけた。
数々の相手の胴を真っ二つにしてきた業物っぽい雰囲気があるようなないような。
……竹刀に関してはあんまり詳しくない。
「じゃあ、ここで催眠術をかけて、そっちの広いスペースで、戦うって段取りで」
「幻覚って何でもありなのよね。後で集団戦とかもちょっとやってみたいわ。無双! って感じの」
「あはは、いいよ。じゃあ、深呼吸して、このペンダントを見て……」
―――幻覚、透明化、忘却催眠。
全て成功した。
まだ3回目だというのに、かなり深いところまで、蒼依の心は沈み込んでいる。
これも、僕の催眠術師としての才能が並外れていたから――
なんて自惚れるほど、僕は短慮な思考をしていない。
そう――僕はいつの間にか『理解』し始めていた。
このペンダントは、普通の装飾品じゃない。
およそ一般常識では説明出来ないような摩訶不思議な効果があって、僕の催眠術を補助してくれている。
不気味だ、と思う気持ちもある。
だけど、それ以上に、僕はこのペンダントに感謝の念を抱いた。
だって、これのおかげで、僕は催眠術をここまで成功させているのだから。
これの出自がどこだって構わない。
有用である、それだけ判明していれば十分だ。
このペンダントがあれば、普通の催眠術では覚めてしまうような暗示も、きっとかけることが出来る。
この先、どうなるのか。
僕は楽しみだよ――蒼依。
大丈夫。
蒼依には『快楽』しか与えない。
君を『不快』にさせるようなことは、ないからね……
その日の下校時は、蒼依が体験した幻覚催眠の話題で持ち切りだった。
安らぎの花畑によるリラックス効果と、幻覚の剣士との死闘。
僕はやるじゃないか、と橙真やきいろに頭を小突かれまくって、ひたすら照れ笑いを浮かべていた。
――本来の催眠術で、こんなことが出来るかどうかは分からない。
でも、魔法のペンダントを使用した僕の催眠術は、今のところ100%成功している。
勿論、いきなり難しい催眠をかけていない、というのもあるのだろうけど。
本質的な『催眠の原理』は、従来の催眠と変わるところはないと思う。
だから僕はあくまでも常識の範囲内の暗示を、蒼依にかける。
常識の範囲内で、深く、奥底まで……
「紫郎、お前、絶対催眠術師になれよな。金取れるだろ、それ」
「催眠術師にはなる予定だけど、見世物にする気はないってば」
――大きく目につくようになると、このペンダントの存在が知れ渡っちゃうかもしれないからね。
今の僕は、あくまでひっそりと、身内だけの幸福を求めるよ――
翌日、水曜。
この日は創立記念日で学園はお休みだった。
じゃあ、みんなで集まって遊びに行こうか――となるかと思えば、そうでもなく。
紅介は父親が弁護する裁判の傍聴に、きいろはモデルのバイトへ向かい。
碧はいつも通りパソコンに文章を打ち込んでいるだろうし、橙真は久しぶりに、僕ら以外の友人と遊ぶ約束をしたという。
蒼依も、ぶらりと目的地もなくどこかへ遊びに出かけると言っていた。
そんなわけで、僕は暇を持て余していた。
催眠術はかける相手がいないと練習出来ない。
今日は平日だから僕の両親もいないし(まぁ、いたとしても親に催眠術をかける気にはなれないけど)、ぶっちゃけ僕は幼馴染以外に親しい間柄の者がいない。
ゲームで遊ぼうと思ったけど、僕の家にあるのは基本的に4人で対戦するタイプのパーティゲームばかりだ。
あまり長々と続けられるような感じではない。
「……古本屋に立ち読みにでもいくかなぁ」
明らかに青春の浪費のような気もするが、それもまた青春の一つか。
特に読みたい漫画があるわけでもないが、僕は古本屋に向かうことにした。
僕の住んでいるこの街は田舎だ。
歩いていれば畑や田んぼがそこかしこに見えるし、高層ビルも適当なホテルくらいしか存在しない。
駅前まで行けばそこそこ賑わっているが、それでも都心部と比較すると大分見劣りするだろう。
古本屋は、そんな駅前のロータリーから少し離れた場所にあった。
平日だけど、客の姿がちらほら見える。
彼らも僕と同じように、今日は仕事がお休みの日なのかもしれない。
(そういえば、『顔黒全眼』の新刊売ってるかな?)
名前だけ知ってたので立ち読みしたら2時間くらい止まらなかった漫画を思い出し、そのコーナーへ向かう。
(お、あったあった。さて、あれからどんな展開になってるのかなー)
何気なく表紙に手を伸ばし――
僕の隣から同じく伸ばされた手にぶつかった。
「っと、すみませ――」
反射的に謝罪の言葉を上げて、顔を上げると――
「あ……………」
見知った顔があった。
向こうも僕の顔を見て、目を見開いて困惑の表情を浮かべている。
「…………紫郎くん」
「こんにちは、藍佳ちゃん。奇遇だね」
そこにいたのは、例の派手な格好をした藍佳ちゃんだった。
相変わらず肌は焦げ茶色に焼け、化粧もテカテカと光る感じで濃い。
それでも蒼依そっくりだと判別出来るんだから、本当に双子というものは顔が瓜二つに出来ているものだ。
「こんに……」
一瞬、返事をしようと片手をあげかけた藍佳ちゃんは、
「……チッ、なんでテメーがここにいんだよ。うざってぇ……」
思い出したかのように不機嫌な表情を浮かべ、乱雑な言葉を言い放つ。
「えーと、藍佳ちゃん、一応言っておくけど」
「……んだよ」
「藍佳ちゃんの目指す方向性がギャルなのかヤンキーなのか知らないけど、本質的に向いてないと思う」
「う、うっせえ! ぶっ殺……とにかく、黙ってろ!」
今、ぶっ殺すぞって言いかけたけど、躊躇して止めたな。
僕に悪いと思ったから。
「ほら、本当に酷い言葉は使えない。優しいんだよ、藍佳ちゃんは」
「い、いちいち指摘すんな、バカ! キザったらしい!」
む、確かに今の台詞はちょっとクサかったか?
でも、藍佳ちゃん、明らかに無理してるっぽいしなぁ……
慌てて言い直すけど、僕のこと普通に『紫郎くん』とか言っちゃってるし、付け焼き刃っぽさが半端ない。
「土曜日会った時は聞きそびれたけど、どうしたのさ藍佳ちゃん、その格好。最初見たとき吃驚したよ」
「……テメーには関係ねーって言っただろ。ほっとけよ」
「放っておけるわけないでしょ。友達なんだから」
「……友達?」
すっ、と藍佳ちゃんの目が苛立たしげに釣り上がった。
あ、あれ、なんか地雷踏んだっぽい?
「テメーの友達は、オレじゃなくて、蒼依たちだろ?」
「え? いや、確かに蒼依たちも友達だけど、でも藍佳ちゃんのことだって、友達だと思ってるよ?」
「そうか。だけど、オレはそうは思ってない」
ぎらり、と睨みつけられる。
こ、怖い。
流石双子、蒼依が説教するときの顔にぴったり一致。
長年刷り込まれてきた本能的な恐怖が……!
「オレは、蒼依とはチゲ―んだよ。テメーらの輪の中に入っちゃいねーんだ。同類みたいに思ってんじゃねえ」
「そんなこと……」
「いいか? オレにだって、オレのグループがあんだよ。今はそいつらとつるんでる。テメーらとは無関係だ」
「……藍佳ちゃんがそんな格好するようになったのって、その人たちの影響?」
「どんなカッコしようが、オレの勝手だろ。おふくろも、蒼依も、テメーも、いちいち口ウルセーんだ」
「うん? 格好は別にいいと思うよ。僕達の間じゃ見ないタイプだし、結構似合ってんじゃないかな」
「へ!?」
あ、素が出た。
「な、なんだよ、文句言うんじゃねーのか!?」
「いやいや、他人に迷惑かけなきゃ自由でしょ。藍佳ちゃん本人に言うのもなんだけど、ちょっとエロくてドキドキするし」
「死ね!」
バシッ!
た、叩かれた!?
ていうか『死ね』って言われた!
ひ、酷い、さっきの『ぶっ殺す』の躊躇はなんだったんだよ!?
「昔っから普通なくせに変人だな、テメーはよ」
呆れた風に言って、唖然としている僕を尻目に、藍佳ちゃんは足早に店を出て行ってしまう。
「あ、ちょ、ちょっと待って……!」
追いかけるが、藍佳ちゃんの姿は人混みの中に紛れ、もう見えなくなってしまっていた。
うーん……
「っと?」
携帯電話が鳴った。
蒼依からだ。
「はい」
「紫郎、今日は出かけた?」
「今、駅近くの古本屋だけど」
「藍佳見なかった? あいつ、学園サボったらしいのよ!」
「え?」
あ、そういえば今日は平日で、休みなのは僕達の学園が創立記念日だからで……
違う学園に通っている藍佳ちゃんは、授業受けてなきゃいけないはずだった!
「なんか最近、チャラチャラしてる連中と一緒にいるとかいう噂もあるし、変なことしてなきゃいいんだけど……」
「えっと……」
藍佳ちゃんのこと、伝えるべきかな……
いいや、言ってしまえ。
「実はさっき、古本屋の中で会ったよ」
「嘘!? 今もいるの!?」
「いや、なんか怒ってどっかへ行っちゃった……」
「ごめん紫郎、ちょっと探してくれない? あたしもすぐそっちに行くから」
「了解」
うーん、藍佳ちゃんにも困ったものだ。
……催眠術で性格矯正とか、出来ないものかなぁ?
いや、藍佳ちゃんが素直に催眠術なんか受けてくれないか……
1時間ほど頑張って捜索してみたけど、結局藍佳ちゃんを見つけ出すことは出来なかった。
「やっぱり、電車に乗ってどこかへ行っちゃったみたいね」
合流した蒼依は、そう言って額の汗を拭う。
僕も走り回ったので、息が荒い。
や、やっぱり、もうちょっと鍛えたほうがいいかな……
「ごめん、古本屋で会った時に気付くべきだったよ」
「紫郎が謝ることじゃないわ。サボった藍佳が全部悪いのよ」
眼尻を釣り上げて、蒼依がぶつくさ文句を呟く。
その顔は、先程の藍佳ちゃんにそっくりだった。
「もうっ、授業サボるとか信じられないわ!」
「ストレスでも溜まってるのかなぁ」
「このまま続くようだと、マズいわ。今のうちに説教してあげないと」
「いや、それは反発を招くだけだと思うよ」
「じゃあ、どうしろっていうのよ。まさか放っておけなんて言わないでしょうね?」
「違う違う。こういうのは、相手の意見を肯定してあげつつ、ちょっとずつこっちの意見を分からせていくんだよ」
催眠術も、同じだ。
相手の反発があるとかからないから、時に相手に同調する必要もある。
「ふぅん……」
「とにかく、頭ごなしに『お前が悪い』って叱りつけるのが一番アウトだよ。それこそ、余計に事態をこじらせるだけだと思う」
「……分かったわ、覚えておく」
ふぅ、と嘆息をもらす蒼依。
彼女は責任感がとても強いけど、それはいいことばかりじゃない。
ある意味、『独善』となってしまうときだってある。
そんなとき、フォローしてあげるのが、僕達の昔からの役割だった。
「仕方ないわねえ。夜になれば帰ってくるでしょうし、あたしたちも戻りましょ」
「そうだね。もうお昼時だ」
「何か食べていきましょうか。ハンバーガーでいい?」
「うん」
おや、期せずして2人でご飯を食べに行く展開に。
これは、藍佳ちゃんのおかげ……なのか?
しかし、蒼依とご飯か。
そうだ、前々からみんなに言ってた『ご飯を最高に美味しく感じる』催眠、試してみよっと。
注文したハンバーガーのセットを載せたトレイを持ち、二階に上がる。
窓際の席に陣取り、ほっと一息。
「改めてごめんね、紫郎。こんなことに付き合わせちゃって」
「何言ってるのさ。6人の誰かが困ってたら手助けするのは、僕らにとって、いつものことでしょ」
「あら、そうだったわね。じゃあ古本屋で捕まえておきなさいよ、使えないわねえ」
「だからってなじる必要ないよね!?」
「おほほ、わたくしが絶対ですわよ」
「はいはい、女王様の仰せのままに」
ポテトを齧る。しょっぱくて美味しい。
「藍佳も、ホント困ったものだわ。母さんが強く出られないからって、いい気になって」
「まぁ……でも、しょうがない部分もあるし」
「ずっとそれに甘えられてちゃ迷惑なのよ。既に成長して大きくなったんだから、ただの言い訳にしかならないわ」
「……僕達も、もう少し何とか出来た気がするんだ。もうちょっとしつこく誘っていればって」
「過ぎたことでしょ。そういえばあんたが最後まで気にかけてたんだっけ」
「でも、僕も結局、7人より6人を選んだから」
「そういう言い方はやめなさい。あたしたちだって子供だったんだから、しょうがないのよ。全て最善の選択肢を選ぶことなんて不可能なんだから」
アイスコーヒーを飲む。もうちょっとミルクが欲しいな。
「そういえば、僕以外にも声かけたの?」
「電話しようと思っただけどね。とりあえず紅介ときいろは除外するとしても、碧はなんか今、筆が乗ってる状態らしくて」
「パソコンなのに筆が乗るって言い方もおかしいよね」
「新しい言葉が生まれたりするのかしら。で、橙真は……その……」
言葉尻がしぼむ。
何か後ろめたいことでもあるのか、目を伏せて身体をすぼめる蒼依。
む、これはひょっとして……
「邪魔しちゃ悪い、って思った?」
「……あたし、最低だわ。藍佳を優先するべき状況だったのに」
「いつも僕達を優先させて、遊ぶ機会が滅多にない友達との数少ない交流の場だから、遠慮しちゃうのは別に変じゃないよ」
「でも、一般的に考えて、重要度が高いのは藍佳のほうでしょ。それなのに……」
「…………」
これ以上、下手に慰めの言葉をかけると、更に自己嫌悪に落ちそうだ。
なので、僕は口をつぐんだ。
言ってしまってはなんだが、藍佳ちゃんが犯罪に巻き込まれただの、交通事故に遭っただの、そういうことならともかく、一度学校をサボったくらいで大袈裟な……という気持ちもある。
勿論、無視していいような些事ではない。
でも、先程の蒼依の言葉じゃないけど、藍佳ちゃんはもう自己の判断で責任を負える年齢なのだ。
蒼依や蒼依の母親が心配したり怒ったりする気持ちもわかるけど、このくらいの規模の事件で他人の用事を中断させてまで捜索に協力させるのは良いことなのか悪いことなのか、その判断に関して僕と蒼依の意見は食い違う気がする。
……違う、そうじゃない。
ここで重要視するべきは僕の意見ではなく、蒼依の悩み。
蒼依の中で、こんなにも、橙真への気持ちが高まっていたとは。
「まぁ……橙真が後で聞いたら怒るだろうね、なんで俺を呼ばなかったんだって」
「……このこと知ってるの、あたし周りじゃ母さんとあんただけなの。こんなこと頼むのは、卑怯だって分かってるけど……」
「蒼依。僕は蒼依から恋愛相談を受けた身だよ。蒼依の気持ち、ちゃんと尊重するさ」
「ごめんなさい……ありがとう、紫郎」
うーん、美味催眠とかかける空気じゃなくなってしまった。
恐ろしく空気が重い。
余計なこと言わなければ良かったな。
「…………」
ずぞぞぞぞ、とオレンジジュースを啜る蒼依の様子をちらりと眺める。
橙真のことを考えているのだろうか。
橙真は昔から完全に自由というか、気が付けばいなくなってたり、紅介の暴君問題など我関せずで、自分大優先な人間だった。
その度に蒼依は橙真を追い掛け、叱りつけたが、効果なんてまったくなく。
天真爛漫で、無邪気で、そして天才肌の橙真は勝負事で蒼依に尽く勝利を重ね、負けず嫌いの蒼依はその度に橙真に食って掛かった。
橙真は紅介のように蒼依のしつこさに根負けすることはなく、むしろスポーツ方面で全力の彼に付いていける人間は僕達の中で蒼依だけだったため、喜んでいる節さえあった。
……手のかかる子ほど可愛い、という言葉がある。
僕も結構手のかかる子だったと思うけど、それはいじめがあったちょっとの間だけの話。
でも橙真は、現在進行形で蒼依の手を焼かせている。
しかも『頼りなさ』と『越えられない壁』、両方の性質を持っているのだからタチが悪い。
結果、蒼依は僕達5人の中で、橙真のことを考えることが多くなった。
もはや『目標』と呼べるほどに蒼依より強く、それなのに私生活は駄目な部分が多くて、助けられて蒼依に感謝する。
自分の『目標』たる橙真は自分を慕ってくれていることに、蒼依はどんな感情を抱いたのか。
様々な感情が複雑に絡み合い、そしていつの間にか――蒼依は、橙真に対しての好意を自覚したのだ、
「…………」
……面白くない。
今まで、僕自身が無自覚であろうとしたから、そうは思わなかったけど。
気持ちを一本に定めた今は、違う。
蒼依が、橙真のことを好きだという事実。
……面白くない。
橙真。
橙真は、碧のことが好きなんだってね。
碧はいい子だよ。
僕も知っている。
でも、どうして?
なぜ、蒼依に好かれているなんて――――羨ましい立場なのに、彼女じゃない人間を好きになっているんだ?
(これが、嫉妬か)
嫉妬なら、今までも抱いてきた。
僕にないものを持っているみんなに、ずっと嫉妬し続けてきた。
でも、それ以上の賞賛と諦観があったから、それに紛れて目立たなかった。
今は違う。
賞賛より、諦観より、嫉妬のほうが僕の中で強まっている。
ぐつぐつと、煮えたぎるマグマのように。
妬み、嫉みが渦を巻き、いつ噴火するのかと力を蓄えて心待ちにしている。
橙真は親友だ。
彼の能力も、性格も、素直に凄くて、面白くて、格好良いと思っている。
だけど。
だけど――
――――蒼依から好意を受けている、その一点で僕は橙真が憎くてしょうがない――――!
「……蒼依、催眠術をかけてあげるよ」
「え?」
唐突な僕の言葉に、蒼依は怪訝そうに眉根を寄せた。
「ちょっと思い詰めすぎだよ。もう少し、リラックスしたほうがいい」
「でも、こんな時に」
「こんな時だからこそ、だよ。大丈夫、蒼依は人生が終わってしまうような失敗をしたわけじゃない。蒼依の判断は間違っていない。でも、蒼依はそれに気付いていない。だから、僕が気持ちの整理を手助けしてあげるよ」
真摯な顔で言う。
蒼依、蒼依は橙真が大切だろう。
でも、橙真ほどじゃなくても、僕だって大切だろう……?
「……そうね、ごめんなさい。余計な気を使わせちゃって」
――だから、君を心配する僕を無碍にすることなんて、出来ないんだよね。
10年以上もの長きにわたって培った信頼があるから。
「そうね、藍佳の捜索に付き合わせたお詫びも兼ねて、ここは紫郎の言うこと聞いてあげるわ」
「ありがとう。じゃあ、深呼吸して。今まで受けてきた催眠術のことを思い出して……」
催眠術というのは、ちゃんと被験者が催眠を受ける姿勢になっていないとかからない。
例えば藍佳ちゃんを心配している最中だったり、橙真のことで思い悩んでいる真っ最中に催眠術をかけようとしても、まず間違いなく失敗してしまうだろう。
だからこうして、まずは気持ちを落ち着かせ、『今から催眠術にかかるぞ』という気持ちを作り上げないといけない。
「手を動かしたね……部長をネズミみたいに小さくもした……剣道で賞賛されていい気分……」
蒼依の記憶から、催眠術にかかっていたときの感情を引っ張りだして再生させる。
既に僕の手によって、蒼依の中には『催眠術を受けたい』という気持ちが根付いている。
そこをどんどん膨らませて、藍佳ちゃんや橙真のことという余計な思考を排除する。
催眠のこと以外、何も考えられない忘我の境地へ、ご案内――
「…………」
そうやって時間をかけて、蒼依をトランス状態に入れた。
見慣れない場所、周囲にちらほらいる無関係な客、彼らのざわめき……
催眠を阻害する要素は多いが、既に何度も催眠状態に陥った感覚と、その時の快楽、そしてペンダントの魔力。
経験とペンダント、どちらが欠けても達成しえなかっただろう。
「沈んでいくよ………とても心が軽い…………僕の声しか聞こえない…………」
さて、無事に催眠術をかけられたとはいえ、ここは人の目も多い。
あまり目立つようなことは出来ないだろう。
だから――
「――『恋愛相談』をしよう。食べ終わったら、僕の家に来るんだ。この命令は忘れちゃうけど、君は必ずそうするよ。そうすれば、あの花畑のような安らいだ気持ちを得られるよ――」
二人きりになれる場所に行こうか、蒼依。
前は、蒼依の部屋に2人きり。
今日は、僕の部屋に蒼依と2人きり。
段々と、彼女と特別な関係になっているようで、嬉しく感じる。
「さあ、恋愛相談だ。君は僕に橙真への好意という秘密を明かした。他の誰にも明かさずに、僕にだけ明かした。僕が誰かにそのことをバラさないって思ったからだよね。だから、僕には素直になれるよ。決して嘘は付かず、僕に対しては本音を言おう。そうすれば、きっと橙真との関係も上手くいくようになるよ」
「……そうね……素直に……」
ベッドに腰掛け、虚ろな表情の蒼依がそう答える。
実は店で催眠術をかけたとき、僕の部屋に入った瞬間にトランス状態に入ってしまうよう暗示をかけていた。
後催眠。
幻覚催眠や忘却催眠を成功させた今、これも出来ると思っていた。
結果は、今の蒼依が答えそのもの。
「同じように、僕の言葉も素直に信じられるよ。だって、僕が嘘をつく必要なんてないからね。僕はいつだって、みんなのことを大切にしている。だから、ちょっと変かもと思うようなことを言われても、全然気にせず、僕の言うことを信じられる。そうでしょ、蒼依?」
「…………確かに、そうね…………」
蒼依自身に肯定させることで、それは蒼依にとっての真実となる。
これにより、蒼依はより深い催眠状態に入り込むことになる。
さて、事前の準備は整った。
――失敗は許されない。
何度、自分にそう言い聞かせてきただろうか。
でも、時間をかけるということは、つまり蒼依が橙真を想う気持ちも長く続くということ――
駄目だ、そんなのは。
だから僕は、危ない橋を渡ってでも、事を進めることにした。
勝算はある。
きっと、いけるはずだ。
「今の催眠は忘れてしまいます。思い出すことは出来ません。でも、消えたわけじゃありません。僕を信じること、嘘をつかず素直に全部しゃべること、その催眠はあなたの中に残ったままとなります……」
「…………」
「さあ、目を覚まそう。いつもの君に戻るけど、催眠術は君の中に残ったままだよ……」
蒼依の意識を浮上させる。
後は、上手くいうように祈るのみ。
「……蒼依、蒼依、ボーッとしてどうしたの?」
「…………え?」
「ほら、恋愛相談するんでしょ。しっかりして」
「あ……っと……うん、そうね……」
まだ状況が掴めていない様子で、蒼依は瞬きを繰り返す。
「じゃあ、早速質問があるんだけど、いいかな?」
彼女が冷静な思考能力を取り戻す前に、僕は畳み掛けるようにそう言った。
「……え? え、ええ……いいわよ」
未だ混乱中の蒼依が『とりあえず』そう答える。
でも、これで彼女の思考は『現在の状況を分析する』から『僕の質問に答える』方に優先順位が変化した。
さて、と。
「蒼依は、僕達全員と仲が良いよね?」
「……何よ、今更?」
「蒼依たちは、僕や橙真、紅介を外して、碧やきいろたちだけで集まったり、話したりすることはあるの?」
「……そういうことも、あるわ」
「うん、そうだね。男子に話しづらいこともあるだろうしね」
予想通りだ。
いや、そう答えてもらわなくちゃ困る。
「同じように、僕達も男子だけで集まることがあるんだ。わかるよね?」
「そうね……まあ、普通よね」
「うん、普通だよ」
実際のとこ、滅多にないんだけどね。
「ところで、これは蒼依と橙真の仲を取り持つために必要な質問だから、絶対に怒らないで素直に答えて欲しいんだけど」
「何よ」
「えーと……」
……流石に、口にするのはちょっと躊躇いがあるな。
でも、動揺していることを悟られるわけにはいかない。
あくまで、普通の態度で、尋ねなくては。
大丈夫。
僕の催眠術は、しっかりとかかっている。
「……蒼依は、碧やきいろと、えっちな話とかしたりするの?」
「…………」
……一瞬、蒼依はぎょっとしたように目を剥いた。
何か言おうと口を開きかけ、だけどすぐに思案顔になる。
言おうか言うまいか、葛藤しているのだろうか。
僕達の間では禁忌とされている性の話題に対する拒否感と、僕のかけた質問に素直に答えるという催眠の間で。
僕は、表情は変えないまま。
だけど、緊張で心臓がバクバク。
一応、もし失敗したとしても謝れば許してもらえそうなレベルの質問に抑えたつもりだけど――
時間にしておよそ5秒、だけど体感時間では10秒にも20秒にも感じられた沈黙の後、蒼依は小さな声で呟いた。
「……たまに」
「!!!!!」
カッ、と胃の中に熱が広がった。
しているんだ……蒼依も、碧も、きいろも、そういう話を。
反射的に、どんな話を、と聞きたくなる。
だけど口に出す寸前、僕は自分を押し留めた。
その質問に意味は無い。
今はただ、事の進行だけを考えろ。
(それに多分、生理とかそっち方面の話が主だろうし)
冷静になることを意識し、会話を続ける。
「そうですか。実は、僕たち男子組も、そういう話するんだ。わかるよね?」
「……え、ええ……ま、まあ、予想はしてたわ」
予想されてたんだ。
でも、そうだよな、話題を避けてただけで、そういうことはないと信じてたわけじゃないか。
「それで、その、一緒にえっちな本とかビデオを見たりもして」
「そ、そんなことしてるんだ?」
蒼依たちはそんなことはしてないんだ。
まぁ、僕達もそんなことしたことないんだけど。
つまり、嘘。
でも、蒼依には確かめる術はないし、今は僕の言うことを素直に信じてしまう。
「うん、まぁ、男子だし」
「や、やっぱり、男子ってそうなのね……」
「でさ。ここからが重要なんだけど……それで、橙真や紅介と、好きな女性のタイプみたいな話になることもあってさ」
「っ!!」
蒼依がはっとした表情を見せる。
橙真がどんな異性が好きなのか、彼女にとって無視出来ない話題だ。
「落ち着いて、よく聞いてね。慌てず、僕の言うことを信じて。いいね?」
「ええ……分かったわ」
蒼依は真剣な顔で頷く。
こんな念押し、普通は不自然だと疑問に思ってもいいだろうに。
でも、蒼依は僕の言うことは『素直』に聞いて、信じてくれる。
「橙真はね」
だから、僕は彼女に向かって言う。
「――誰とでも寝るような、淫らな女の子が好きなんだって」
彼女を手に入れるための、嘘を。
「――――へ!?」
案の定。
蒼依は驚愕し、素っ頓狂な声を上げた。
「なっ――嘘、そんな――っ!?」
「蒼依。『僕は嘘を付かない』よね?」
「っ――!」
混乱する蒼依に、真顔で尋ねる。
蒼依への催眠はまだ継続中だ。
だから、ちょっとくらいパニックに陥ったとしても、
「……そう、ね……」
僕の言葉がするりと入り込み、それが彼女にとっての真実となる。
「……えっと…………も、もう少し詳しく…………」
「うん。でも、みんなには内緒にしてね」
「言えるわけないでしょ!」
そりゃそうだ。
でも、万が一にも嘘だとバレるわけにはいかない。
念には念を押さないとね。
……僕だって必死だ。
本来ならもう少し時間をかけて催眠を進めていく予定だったから、これからの台詞や行動は完全なアドリブ。
漠然と考えていたものはあるけど、細部まで煮詰めていたわけじゃない。
本当は、今すぐに蒼依に忘却催眠をかけ、全てを無かったことにして気持ちを落ち着かせたいくらいだ。
「……橙真は、いわゆる綺麗なお姉さんタイプが、いたいけな少年を誘惑するようなタイプが好きでさ」
でも、やる。
無理はしないけど、そのギリギリまで突き進む。
足が震える。
呼吸が乱れる。
それでも、自分の催眠術を信じて、必ずやり遂げてみせる。
「よく言うんだ……『自分は童貞だから、何をどうすればいいのか分からない。だから、初めはセックスに慣れた女に全部リードされたい』……って」
「~~~~~!!!」
蒼依は真っ赤になって、肩をふるふると震わせていた。
照れているのか、怒っているのか。
まぁ、『セックス』とか単語を口にしている僕も、冷静を装ってはいるけどとんでもなく気恥ずかしい。
日頃から5人に対して仮面を被り、偽りの自分を演じてきた経験がこんなところで役に立つとは。
「え、っと…………その…………そ、そっち方面以外の、こう、普通の男女交際については、何か言ってなかった!?」
「蒼依。女の人はそういう……ええと、普通のデートとかで心が満たされるかもしれないけど、僕らくらいの男は基本的に、デートよりもデートの後のセックスのことを重視しちゃうもんだよ」
「っ……そ、そう、なんだ……」
「幻滅した?」
「……べ、別に、そういう話も、雑誌とかに書いてあったり……するし……」
「そうなんだ」
「うん……」
「…………」
「…………」
「…………あ、あーっと……」
「…………」
なんだこれ。
やばい、会話途切れた。
何が仮面だ、僕の馬鹿。
蒼依と猥談してるとか、あまりにも『無い』特殊すぎるシチュエーションのせいで、理知的な思考が維持出来ない。
綱渡りの途中で立ち往生してしまった気分。
「と、とりあえず、一旦深呼吸しよう」
「そ、そうね、落ち着いて……」
二人して深呼吸。
僕は意識して、彼女の息を吸うタイミングと吐くタイミングに、自分のタイミングを合わせる。
ミラーリングというもので、相手の心と同調し、共感を得るという催眠の技法だ。
僕は蒼依の鏡になり、そして彼女も無意識に僕の鏡となる。
僕がリラックスした表情を見せることで、蒼依もまた、気持ちが落ち着いてくるというわけだ。
「…………えーと。蒼依は、橙真のことが好きなんだよね?」
「……そうよ」
「じゃあ、今までの僕の話を聞いて、どう思った?」
「……それは……その…………」
もじもじ。
まるで碧みたいに落ち着きなく身体を揺する蒼依。
でも、それほど間を空けることなく、蒼依は自分の考えを『素直』に吐露してくれる。
「……橙真と付き合うなら…………その、あたしから…………し、しなくちゃ、駄目なのかな………って…………」
言い切る前に両手で顔を覆い、身体を丸めて身悶えし始める。
……蒼依は特に耐性無さそうだからなぁ。
いやまぁ、僕もいっぱいいっぱいなんだけど。
「……そ、そうだね……そうだ、ところで蒼依」
「な、何よ」
「その、これも橙真と蒼依をくっつけるにあたって知っておかなければならないことだから、ちゃんと答えてほしいんだけど」
「……分かったわ」
「ありがとう。それなら、まず…………蒼依は、誰かと付き合ったりしたことは、ないんだよね?」
「ええ、ないわ」
答えにくいことでもないので、とくに躊躇することもなく答えが返ってくる。
まあ、僕達6人はいつも一緒に行動してるから、こっそり誰かと付き合うなんて、出来るはずがないからな。
その辺りは共通認識だ。
「じゃあ、デートとかしたことも」
「無いわね」
「キスをしたり」
「……それも無いわ」
「じゃあ……」
落ち着いて、事務的な感じで、
「……セックスしたことある?」
「っ……」
ぴくり、と蒼依の表情が歪む。
それを見て、僕の心臓も跳ね上がったけど、絶対に顔には出さない。
意識していることを悟られてはならない。
「……………………無いわよ」
っ!!!
処女、蒼依は処女!!
いや、デートもキスもしたことないんだから、当たり前といえば当たり前なんだけども!
でも、なんだか、嬉しい!
「そ、そうなんだ」
「……と、橙真も、経験ない……のよね?」
「あ、う、うん。僕達はみんな童貞だよ」
……だよな?
「でも、そうか……経験が無いとなると、橙真と付き合うのは難しいかも……」
「えっ……!?」
「橙真が、セックス好きな……ビッチ? って言っていいのかな……そういう女の人が好きなのは言った通りだけど、それに合わせて、処女の女の子も凄い嫌ってるんだよ……」
「は、はぁ!? 何それ!?」
「前に3人で、処女が初体験するってビデオ見てさ……で、まぁ、その処女の女の子は、むちゃくちゃ痛がってたんだよ」
「……初体験は激痛ものだって、あたしもそう聞いてるわ」
想像より何十倍も痛いらしい。
僕は男だから、そんな痛みを味わうことは一生ないんだけど。
「そしたら、橙真が超面倒臭そうな顔してさ……『処女とか絶対嫌だ』って……トラウマ、とはちょっと違うかもだけど、それ以来、事あるごとにそう言い出すようになって。紅介がたしなめるんだけど、全然聞かなくて」
「…………」
勿論、そんな事実はない。
ないけど、まるであったように臨場感たっぷりに蒼依に話して聞かせる。
蒼依は青ざめた顔で、僕の話に聞き入っていた。
「……橙真は、蒼依のこと大切に想ってる。でも、それは恋人じゃなく、友人として見ているからだ。橙真が恋人として選びたいのは、やっぱり、いかにも男と遊んでそうなタイプだと思う。少なくとも、最初は」
「う……」
「……それでも、橙真のこと好き?」
「……………と、橙真にも…………橙真の趣味があって、然るべきだと思うわ………」
「……そう」
そこまで、なんだ。
ふぅん……
「一旦、眠って」
「あ……」
蒼依の目の前でペンダントを揺らし、蒼依の意識を沈めた。
がくんと首が落ちた蒼依を見下ろし、顎に手を当てて思案する。
……現在、蒼依の橙真への好意はちょっとした揺らぎを見せている。
このまま橙真への『幻滅度』を増やし、恋愛感情を薄めさせる道もあるけど……
でも、橙真との付き合いはこれからも続く。
その中で蒼依が橙真に対して「いいな」と思うようなことがあれば、催眠が解除されてしまう恐れがあった。
何より、『恋愛相談を受けている』という僕の立場と、矛盾が生じてしまう。
それでは、ふとした拍子に『僕が蒼依を好きなようにするためにわざと橙真を嫌わせるよう仕向けた』ことに気付いてしまう恐れがある。
ここはやはり、橙真への好意を残しつつ、蒼依の中にある『僕への好意』を増加させる方向に持っていかないといけない。
橙真に対して「いいな」と思うことがあっても、それ以上に僕に対する好意があれば、そこに矛盾は生まれない。
今の僕の立場を、最大限に利用しなくては。
「……僕の声が聞こえる……」
「橙真は処女が嫌い……でも、君は処女だ…………このままでは、橙真と付き合うことは出来ない…………」
「とても辛い…………困る…………嫌だ…………怖い…………苦しい…………身体が寒い…………凍えそう…………」
僕の暗示で、蒼依は泣きそうな顔をしながら、自分の身体を抱きしめてぶるぶると震え始めた。
まるで自分の全てが否定されたような、絶望の世界にしばし蒼依を閉じ込める。
耳元に、蒼依を不安がらせる言葉を囁き続け……
しばらくしてから、声の調子を変えて、僕は言った。
「……でも、大丈夫! 僕が必ず橙真と蒼依を恋人にしてあげるよ」
「蒼依は、僕に恋愛相談を頼んだ……そうだよね? だから、僕が橙真と蒼依の仲を取り持つために腐心するのは当然……変じゃないよね?」
「蒼依は、橙真と付き合いたいんだよね? だったら、僕に任せて…………大丈夫、必ず蒼依と橙真をくっつけてみせるから…………だから、『素直』に信じて……ね?」
「……僕が手を叩くと、目が覚めるよ……その時、君は僕と握手がしたくてしょうがなくなる……絶対に我慢出来ない……そして手を握ったら、今君が感じているその寒さが消えてなくなって、あの花畑のような暖かさを感じるよ……」
「必ずそうなる…………僕と握手すれば、心が安らいで、更に僕を信じられるようになる…………」
しつこいくらい『質問』を使い、蒼依に論理的な納得を強制していく。
僕の言葉に矛盾点はない。
そして僕と触れ合うことで心がリラックスするという条件付けも平行して行う。
……難しい。
僕は普段から、予め『ここでこう言おう』という台詞を用意しておき、その場面になったら言えるようにしている。
だから、こういった心の準備がまったく整っていない状態は、台詞を考えることとしゃべること、それによってどう展開が変化するかも予測しなくちゃならなくて、同時にこなすのは非常に複雑で大変だ。
でも、だからって『やっぱりやめよう』なんて放り出せない。
蒼依を、恋人に出来るかもしれないから。
今までの、負けることを当然だと考えていた僕とは違う。
絶対に譲れない意志の力が、僕を後押ししてくれる。
「さあ、意識が浮上してきた……すぐに目が覚めるよ…………ワン、ツー、スリー」
手を打ち鳴らし、蒼依を覚醒させる。
蒼依は相変わらずこの世の終わりみたいな顔をしながら、ふるふると首を巡らせ、僕の姿を認識すると――
「――――」
何も言わず、とても自然な動作で僕の右手に腕を伸ばし、ぎゅっと握りしめた。
途端、
「……~~~~~~ッ!!!」
声にならない声を上げ、パッと表情が晴れやかなものに変化した。
上目遣いに僕を見上げて……目をきらきら輝かせて……顔を上気させて…………
「っ……!」
あ、蒼依が。
蒼依が、至近距離で、僕に、こんな顔を……!
「あ、蒼依……」
「あ……ご、ごめんなさい、いきなりこんなこと!」
繋いだ右手を離し、慌てた風にその場から飛び退いて、蒼依は照れた風に頬をかく。
さっきまで重なっていた掌から体温が失われ、僕は一抹の寂しさを感じた。
「ええと、その、なんか、急に握手がしたくなって……」
「いや、えっと、うん、そういうこともあるんじゃないかな……」
「あ、あるよね?」
「あ、あると思う」
……ドキドキする。
別にちょっとしたスキンシップくらい、僕らは今までも普通にやってきたのに。
直前までえっちな話をしてたせいか、どうしても、意識してしまう。
「それで、ええと、話を戻すけど」
「え、ええ」
「橙真は、処女が……いや、処女と、えっちが下手な女子が嫌いなんだ」
「そう……らしいわね」
蒼依は完全に、僕の話を疑ってない。
深層心理ではちょっとくらい疑っている部分があるかもしれないが、僕が支配している表層心理では、作り話を信じこんでしまっている。
そう仕向けたのは僕だけど。
でも、今のところ彼女にとって『致命的な肉体的・精神的な危機』は訪れていない。
だから、催眠は解除されない。
そして表層心理の思考が固定されれば……それは、深層心理にも影響を与えていく。
「まぁ、ひとまず処女は置いておいて。とりあえず処女のままでも、えっちが上手になることは出来ると思う」
「ほ、本当に!?」
「うん」
自信満々に、頷く。
「といっても、大したことじゃない。蒼依の剣道と一緒でさ、やっぱり練習あるのみ……ってことだよ」
「練習……」
「……ちょっと、やってみようか?」
「えっ!?」
「あ、と言ってもいきなり変なことはしないよ。蒼依が嫌だと思ったら、いつでもストップをかけてくれて構わないし」
あくまで、なんてことはないというポーズで。
「どうする? 練習してみる?」
「ま、待って! …………えっと…………」
「蒼依の好きにしたらいいさ。僕は、蒼依と橙真が恋人になるための手助けが出来れば……と思ってるだけだし」
蒼依のためだ、というアピールを添える。
真面目な蒼依の中には僕に対する、感謝と罪悪感が存在しているはずだ。
自分の恋路という、影浦紫郎にとって直接的に関係のないことに付き合わせている、ありがたさと申し訳無さ。
そこをくすぐる。
そうすれば、蒼依はきっと答えてくれる。
だって……今までずっと側にいて、彼女のことは知っているから。
「そ、そうね…………じゃあ、試しに、ちょっとだけ…………」
ほら、ね。
「で、でも、練習といったって、何をする気なのよ……?」
「じゃあ……そうだね、蒼依はそもそも、性に対する……上手く言えないけど、空気とか雰囲気とか、そういうのに慣れてないよね?」
「あ、当たり前でしょ! あたしはそういうの、本当に経験ないんだから!」
「うん。僕達6人、全員そういう話題を避けてきたからね。異性は勿論、同性相手でも、軽い感じでそっち方面の話は出来ない……そうだよね?」
「……その通りよ」
「だから、まずはその空気に慣れよう。こう、なんて言うのかな……ピンク色なムードになっても極端に焦ったり困ったりしないようにする、それが最初の練習……ってことで」
「…………言いたいことは感覚的にわかるけど…………具体的に、どうするつもりなのよ?」
「……よく聞いてよ、蒼依」
すぅ、と息を吸い込む。
……これ、僕の方にも多大な勇気が必要だ。
でも、大丈夫。
直接的な行動にさえ移らなければ、大丈夫。
まだ、謝れば許してもらえる範囲。
そう、後ろ向きな自信を持って、僕はその単語を口にした。
「…………………………………………………オマンコ」
……………………
「…………」
「…………」
「…………………………う、えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!?」
一瞬の静寂の後、蒼依は悲鳴にも似た叫び声を上げた。
「紫郎、あ、あ、あ、あんたぁ!?」
「蒼依。橙真はこういう単語を事も無げに……いや、むしろ蠱惑的に言うような女が好きなんだよ」
「そ、そうかもしれないけど!」
これ以上ないくらい、顔が真っ赤な蒼依。
僕も内心の動揺を抑えるのに必死だ。
何度か目にしたりする機会はあったけど、実際に口に出してみたのは初めての経験。
でも、こんなことでいちいち恥ずがしがってたら、この先やっていけないだろう。
だから僕は、余裕のポーズを崩すわけにはいかない。
「レッスン1。淫語を耳にしても変に狼狽せず、自然体でいること」
「無理無理無理、絶対無理!」
「じゃあ、橙真と恋人になるのは諦める?」
「ぐっ……」
「レッスン2になると、今度は自分の口で淫語を言ってみる、にパワーアップするけど」
「もっと無理! 間違いなく無理!!!」
「何事も練習だよ、蒼依。いきなり出来るようになれとは言わない。ちょっとずつ、マスターしていけばいいんだ」
優しい口調で、諭すように言う。
ここで、蒼依を逃がすわけにはいかない。
「………………」
蒼依は顔を伏せて、じっと悩んでいる。
……橙真に愛想を尽かすのなら、それでもよし。
僕が直接的な言葉で『橙真を嫌いになる』という言葉を使っていないからだ。
それなら、後々何かの拍子に催眠が解除されても、僕が橙真を嫌うよう誘導したのだと、蒼依が考える心配はない。
だけど、『恋愛相談』という対面は使いたいから、出来れば断ってほしくないかも。
あ、いや、でもそれだと、より橙真に対する蒼依の慕情を見せつけられる結果になるんだな。
……微妙。
「……………………分かったわ、協力してくれる紫郎に悪いし…………ちょっとだけ、頑張ってみる」
結果として蒼依が選んだのは、橙真のために自らを変えることだった。
……まぁ、いいけど。
それなら望み通り、どんどんと君を変えてあげるよ。
橙真のために、どんどん淫靡になっていってくれ。
でも、絶対に橙真には渡さない。
蒼依は、僕のものだ。
蒼依は飛騨橙真ではなく、影浦紫郎の恋人になるんだ。
――――始めよう、僕のものになるためのレッスンを。
< 続く >